I am NOBODY! Who are YOU? ~ ぽーぽー的ACIMブログ『エセー』 ~

“ひとのフリ見て我が(ego)フリ直せ” ナマケモノ系acimerの
『NO』奇跡のコース×奇跡講座×奇跡の道なエセー

せんせいが 肚黒い空相を 見世なければいけない理由

2024-08-23 | homeworks
突風に 生卵なまたまご 割れ、
かつてかく擊ちぬかれたる 兵士のまなこ



Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden...





夜のまち裏に ひっそり 隠れている そこは


Laŭdu belecon de l' maro,
    sed ĉe rando de arbaro.



   みぎひだりに 入り組んだ路地を
        うねうねと 進んで やっと 辿りつく はらいそ

          “ ラ・メール ”


    

生きるのが 不器用なひと、にがにがしい日常 
先のない無聊を 抱えたひとが ひとり ふらり たちより

  ひとときの ささやかな休息と
     たがいの 感傷センチメント に むげんの繋がりを もてる


  ラ・メールは この街でいきていかなければならない 
         迷いびとの 安全な 方 舟ark でしたから

きき狎れた 雑音ノイズ は そこには なにひとつ ありません。
    ゆらら ゆらゆら ゆらと 火宅のじあいが とけていきます

       
   

私事に倦んだひとの やさしいため息を 許し
つめたい心の闇も まどかな陰翳に 変えてくれるところ


   Röslein, Röslein, Röslein rot,
   Röslein auf der Heiden.


  けれど わたしの 知る「あのひと」は 
    ここのむげんを のぞんでいなかった

  Mi preskaŭ perdis esperon.

彼は はじめから ラ・メールの 迷いびとでは なかったのです。 



エセー:『 Me ♯』どれみの詩③
    ~ The fish storyⅡ「光る風景」(2019.8.10 公開: 現在クローズ)

   : ら メール to クロノ風琴 / リブート版:The fish storyⅡ「光る風景」
     (2023-02-17 公開: 現在クローズ)を 再編集



Dhafer Youssef - Whirling Birds Ceremony


  
昔、男ありけり 風の中の
  たで ひとよりも かなしみと契りつ


当ブログは
 「画像」「動画」「文章」 

        この三つの コトなる形態様式をもって 構成されている。


これから 3回にわたり、いままで あえて説明してこなかった・・・・・・・・・・・・

ここの形態様式による 「じぶん」「 たつ 」
            「 いち 」 に ついて 述べてみたいと思う。



     


Ⅰ「画像」その多様性への挑戦


「私」のブログは 多彩 な 画像が 特徴 だ。
  
  写真、イラスト、絵画、デジタルアート
  最近では AI生成画像も 積極的に 取り入れている。

画像を そのまま 使うことは まず ない。

  大抵は ブログ仕様に サイズを調整したり、
  ときには トリミング、色調補正 文字入れ、作画もする。


      ネットで 画像を使用する 目的

          見 映 え。

     要は 集客アクセス数を 増やすためのものだ。
     うちで 扱う画像も 「よく」 みせる点では 同じだ。

だが 私は ヒジョウに 徹底して・・・・・ ・・・・ 「ヨク」 みせて 此処にいる。




  
聖母像ばかりならべてある
美術󠄁館の出口につづく火藥庫


美々しく 可愛らしい 画像はもちろん
汚ならしい、 ひとを 不快にさせる画像も 等しく載せる。

 他のネット民は どうだか知らないが
 私は 独自 の ルールに 基づき

  「有る」制約のもと
  「ある」背景的なものとして 画像 を 使用している。


例えば ブログの顔とも言える 記事トップ画像。

  一度 使ったトップ画像を 私は
  次回以降の トップ画像に 使い回さない。

      これは 当ブログの 鉄則 だ。

また 写真、イラストを つとめて 交互に 使う。
   
表現できる 範囲 が 異なる媒体であるだけでなく
画像に 頼り過ぎない為の 矯正装置 にも なっているのだ。




同じ テイストの 画像ばかり 使っていると
感覚が 麻痺してしまい、惰性 に 流れる。 カルマの影響 も 否めない。


私は 絵を そこそこ やってきた人間だ。

 対象物の選定、
 構図や デッサン、配色、彩度、陰翳の濃淡 

 筆致の妙 が どれほど 重要 か、 経験上 よく理解している。


それ故 画像の持つ印象や 主義主張、
その影響、インパクトも 当然、十分 考慮 して 選んでいる。



Anamnese (Surrealism short film)


桐に藤いづれむらさきふかければ
きみに逢ふ日の狩衣は白


スピリチュアル、精神世界を 「いい」現わす画像 なのだろう?

幽玄、奥深い 霊妙な次元を 
十把ひとからげ的 風景、動物画像
判で押したような 抽象、デジタル画像で お茶を 濁せる ヨイ感性の者には
 
「正見」審 察サニワ が その「エ」に ただしく 反映されて「イ」ない。


   看板 に 偽りあり。  典型的な「似非」の 仕業だ。 


   ヨイ自分 や  
   同じく イけてる 兄弟縁者お仲間 を 
   大ウリする リア充 スナップショット等々 大いに 結構。

だが、万人ウケ狙い、他人に媚びる
画像ばかり 使用するのは 一体 どういう 了見コト あっての「イイ」





あれだ、あれを破れと武器をかざして襲いかかり、音
たてて板を破りはがした。するとはがれた板のあとにぽ
っかり穴があき、穴の窓からのぞくと、外は見る限り生
えつづいている稲の海なのだ。黄色く波うっている稲の
海には(あの辺りはお袋が嫁入前に開田した沖之田とい
うところではないか。)人びとがうしろ向きに並んでおれ
の目から遠ざかり、しだいに小さくなってゆくのが見え
た。遠ざかってゆく人びとの前に、夢のように、巨大な
収穫コンバインの形の物が浮かび、黄色い沖の線へむか
ってゆっくり動いて行くのが見えたのだ。

爆音がする。 不意に。 おれたちは草むらにもぐる。迫
ってきた爆音が頭上をよぎると、一機のヘリコプターが、
白い防虫剤の煙をひきながら共同水田のうえをとんでい
った。低く。

煙を浴びてSが嘔吐。水田地帯を攻撃せよ。稲への欲望
と執念を解放せよ。

あさぎ色の風呂敷につつまれた手製の銃器よ。おれの
手が、肉が、鉄になりたい。
Sが吐いている。


             黒田喜夫「地中の武器」兵士は帰る(抜粋)


Wicked Game - Single Edit - Official Music Video



ココにある「私」のブログは 人寄せのブログではない。


自分の 固定イメージ
自他の イイ価値感 を ヨク 表出させるため

ブログ記事ごとにも それぞれ 「コト」なる 設定ルールを 設けてあるのだ。


直近のエセー Mythos 人工天国のあがり (以下「Mythosあがり」という)
       いりのトロイメルより λόγος (以下「いりλόγος」という)では 

  モノトーンの写真を 「主」 軸に 「対」 になる カラー写真を 選んでいる。


 「Mythosあがり」で 採用した写真は 
   自然のものと不自然、人工ブツの 対比になるようセレクト。

 「いりλόγος」では 当初 著名画家の絵(カラー)を 使う予定だったが
   記事を かいているうち、
   関係性を重視する 画像が いいように思われたので
   急遽「あのひと」と「私」をイメージする モノクロ/カラー写真に 変更した。






ここは 自分の 「好き」「よい」ことを

    とことん 追求出来る 仮想現実空間バーチャル・リアリティ で ある。


それなのに ACIM関係者 だけ
スピ・精神世界の人間 だけ しかいない よいコミュニティ集団内 だけ

ほんとうだの 神仏だの 覚醒解脱 まことの イイあい は 「何か」が おかしい。


私は 「何」を みて
   「何」か している
   「何」か という その 「何か」の 意味内容の 是 非よしあし より

何 故 そんなことを しなければならない イイ自分が イるのか、 
   ここに イつづける その 必要性ジブン 是 非あるない を ずっと 問題視 してきた。




紫陽花󠄁あぢさゐのかなたなる血の調理臺てうりだい
こよひ 食人しよくじんのたのしみあらむ


イエスだか 釈迦牟尼
仏教の阿羅漢、老荘、 禅だかナニか しらん
OSHO クリシュナムルティ、王仁三郎だの 日月神示だの

異常に もち上げ タテ祀る 
カルト宗教の 教祖信者と 変わらない 
キよい皆様方と 私を 一緒にする 必要はない。

   「自我」 で 結構だ。




よく わかり合い、
よく わかってもらえる
よい人間しかいない ネットの方々と トモに

神人合一、悟り、
覚醒解脱だか 選民思想かぶれの 
召されたる セイ集団的 霊的共同体ブログに するつもりなんぞ

    許 よ り 「 な い 」


 ここにいる「私」は ただの 創造者ヱかき であり
    非創造者けんブツにん で 創造物エゴ  ただの 人間 だからだ。



ꉈꀧ꒒꒒ꁄꍈꍈꀧ꒦ꉈ ꉣꅔꎡꅔꁕꁄ - Veil


トランスパーソナル学者 J. R. バティスタが 指摘する 
「偽りの霊性」のひとつ、霊的防衛 に ついて 

超心理学者で 神職でもある 中村雅彦氏が 非常に 身につまされる事を 述べていた。


1 )権威に 絶対的に 服従することが、
   人を愛し 霊的に謙虚になることだと 合理化してしまうこと。

2 )「 神は、私が必要とするすべてを 与えてくれる 真の源泉である 」という
  言葉で 合理化されてはいるが、実際は 人に自分の世話を頼んだり、
  世話をしてもらうことが できない状態。

3 )禁欲的実践として合理化されているが、実際は対人的、性的な欲求を扱えない状態。

4 )「 霊性が すべてに作用する = 人生は 霊的レッスンである 」と 合理化して、
   生物学的、心理学的、対人的な次元の問題に 向き合わず、それに 対処できないこと。

                     「 呪いの研究 拡張する意識と霊性(トランスビュー社)より



 自分を棚に上げ  皮相的な ヨイごとにかまける 
 上記のような 統合失調症的 霊性なんぞ 私は まっぴら御免 である。
 

モネの僞「睡蓮」のうしろが
ぼくんちの後架です そこをのいてください




この自分に対して 私は 意識的で ありたいと思う。 


前述の 中村氏は「霊的防衛」とは 

われわれの「あるがまま」の
     自己表現を妨げる 霊的な信念
 であると 仰った。


みな一瞬一瞬  
変化する 肉体に 存する 「私」 を 生きて居る。

当たり前に「ある」物事ほど 当たり前では 「ない」のだ。

  私は 自分の好みや 趣味と
  「異なる」「合わない」 画像を 努めて 選ぶ
  自分なりの 負荷制限ルールを課して ここにいる。


 この「私」流スタイルの制限は 「ある」 可能性への 布石


 私のうちにある しらない
    「みち」 の自分に 対する 挑戦状はたしじょう だ。



「次回予告 」キタニタツヤ


イエスはかかり われはうちふす死のきはを
靑金あをがねに桃咲きみてり
              塚本邦󠄂雄



※文中の和歌は すべて 塚本邦󠄂雄さんです♨


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