「はぁっ、はぁっ・・・」
「おぉ、ミューズ、ミューズ、私の愛しい娘・・・どこに行くのだ」
「もう止めて、何で、ここにいるの?」
「愛しい娘、さぁ、よく顔を見せておくれ」
「や、止めて、お父様、苦しい・・・」
「・・・さま、ミューズ様! 大丈夫ですか?」
「はっ、はっ、シャール・・・?」
早朝。
窓から差し込む柔らかな光が室内を照らす。
目を覚ますと、よく見知った自分の従者が心配そうに顔を覗き込んでいた。
流れた汗により顔がべとつく。銀色の髪を優しく整えられ、あたたかな湿ったタオルでそっと拭われた。
「何か気に障る夢でも見たのですか? さぞ怖かったでしょうね、もう大丈夫ですよ」
「・・・シャール、さっき見た夢は本当に怖かったの。でも、現実には起こらない事なのよ? お父様はもうこの世には居ないし、何より私の首を絞めるなんて事は絶対にしない人だったもの!」
「承知致しております。かつてのミューズ様のお父上様なら、例えるなら貴方を目の中に入れても痛くないような可愛がりようの・・・」
「シャール、それを親バカと言うのではなくて?」
「世間ではそうも言いますね。さぁ、顔を洗って来て下さい。髪を梳かしましょう」
「・・・シャールったら!」
体を従者に寄せて、震えが止まるまで抱きしめてもらっていた。
深呼吸をし、やっと呼吸が安定するとベッドから降りる。
質素な軽めの靴を履き、一室を出て井戸のある場所へと出る。
あらかじめ溜めてあった石造りの水槽から一定量の水を樽から掬い上げると、それを両手で掬って顔を洗った。
旧市街にある水道事情は、新市街よりも設備が整っていない。
しかしシャールや旧市街に住む住民の手によって、かつてのお嬢様であったミューズに住みにくさなど感じさせる事なく過ごせる様にはなっていた。
「・・・あれは幻なのよ、お父様は、もう居ないんだから」
顔を洗い、瞼を閉じる。
すると浮かび上がるのは父の姿。
自分の首を絞め、殺そうとした悪意ある幻影(まぼろし)。そう自分に言い聞かせて、シャールの元へと戻った。
「シャール、お待たせしました」
「どうぞこちらへ。さぁ、髪を梳きましょう」
大きな鏡がある鏡台の前の椅子に座り、柔らかなブラシで梳かれる。
腰まである長い銀髪は、毎日手入れをされているので艶やかで滑らかな状態を保っていた。
「フンフンッ♪」
「おや、先程の時とは一転して、やけに嬉しそうですね。リオが来るからですか?」
「うふふっ、そうなの、サラちゃんやエレンさん、リオちゃんが来るのが楽しみなのよ」
「リオ・・・人間の言葉を喋れる猫のリオですね。彼女が来てくれると、暗い部屋が一気に明るくなる」
「あんなに可愛い猫ちゃんを抱っこするのは久しぶりなのよ。今まで動物なんて触らせてくれなかったから・・・っと、リオちゃんを動物なんて言っちゃダメよね?」
「それは・・・彼女、リオは人間くさい猫ですからね。もしかしたら憤るかもしれません」
二人して純白の猫を思い出す。
部屋の中で胡坐をかいて欠伸をし、難なく繰り出す二足歩行は、猫に人間を足したような寛ぎ様だった。
***
「ニャオー、ご機嫌麗しくておこんにちは、ミューズさんにシャールさん!」
「こんにちは~!」
「こんにちは、お邪魔するよ」
「いらっしゃい、どうぞ入って。ね、シャール」
「ああ、よく来てくれた。好きな所で寛いでくれ。ん・・・リオ、トーマスは?」
「今日は用事があるって! だから3人で来ちゃったんだよ」
姉のエレンに妹のサラ、サラに抱き寄せられた純白の猫リオ。女の子三人がミューズ邸を訪れていた。
近所に住む少年ミッチを魔王殿から共に救出した一件以降、一時であるがパーティに加わり戦闘するなどしてから親しくなった。
「ニャ、これはもしや猫じゃらし!」
「うふふ、サラちゃんから聞いて、シャールに用意してもらったの。い、良いかしら、リオちゃん・・・」
「ふぬぬ、良いも悪いも、これを見た後で猫の本能が止まらニャ・・・ぬがぁっ!」
決して広くはないし煌びやかでもないが、それでも室内の空気は穏やかで温かみに満ちていた。
主でもあるミューズは、普段の病床にも負けない気概で、一心不乱に猫じゃらしを振り続ける。旧市街に来てからの、今まで一番楽しそうな表情を見せていた。
この穏やかな時が一生続き、主の体が健康であれと、シャールは願わずにはいられなかった。
「ふー、ふー、ミューズさん、なかなかやりますニャ・・・」
「はぁ、はぁ、リオちゃんこそ、可愛い顔して俊敏な動きをするわね・・・」
「ミューズ様、リオちゃんは私達と一緒に冒険してきたんです。だから普通の猫よりもっと素早く動けるんですよ?」
妹のサラが身を乗り出し、リオの顎をゴロゴロと擦り出す。
白い猫は気持ち良さげに身を委ねていた。
「まぁ、そうなの?」
「私達よりも早く動くよ。ねぇ、リオ?」
「エレン姉さまに褒められると、照れますニャ~」
サラの姉・エレンに褒められ猫の体をもじもじ、右手で頭をかいて照れ隠しをする白い猫リオ。人間くさい彼女こそがトーマスら含めたパーティの要だと、シャールは瞬時に悟った。
「リオちゃんは良いなぁ、私も一緒に冒険してみたい」
ミューズはうっとりした表情で外への想いを馳せる。
リオを見ると木漏れ日の中から覗く太陽を思い出す。きっと激しく運動しても体に支障はないと思えるくらいに。
「ニャ、ミューズさんもいつか外へ行けるようになるよ!」
「もしそうなったら連れて行ってくれる?」
「そうだね、シャールさんの許可を得てからかなぁ」
「シャール・・・」
「はい、そこまでです。ミューズ様はまだ外へはお連れ出来ません」
ミューズのおねだり眼力を跳ね除けた従者のシャールは、薬の時間だと言ってミューズに薬湯を用意した。無臭なのか、緑色でドロりとしている。
「シャール、今日のところは引き下がるわ。でもいつかは・・・ね?」
「ミューズ様、分かって下さい。お願いします」
普段はあまり感情を露わにしないシャールの困り様に、リオを含めた三人は一様に目を丸くした。結局のところ、シャールはミューズに弱いのだと決定付ける事にしたのである。
***
「ニャオッ、それでね、ガウラッていうカイナがお馬鹿でどうしようもないKY(空気読めない)なんだよ」
「プククっ、リオちゃんの話って面白い! でも動物って、普通は空気を読むものなのかしら?」
「はて、読むのではないでしょうか」
小首をこてりと傾けて疑問していると、リオの後ろからサラが力強く抱きしめて頬ずりしていた。サラ曰く、今の動作は究極の萌えに入るらしい。
「リオ、野生の勘の事を言っているのか? それとも場の空気を読めない、そっちの意味で言いたかったのか」
「そうそれ、場の空気が読めないオスの獣だったの!」
「リオちゃんは、そのガウラが大好きなのね」
「ニャ――?」
楽しいお喋りの時間は過ぎ、時は夕刻を迎える。
緋色の温かな光が窓から暗い部屋を照らしている。
そろそろミューズ邸からお暇しようかと、女三人は身支度していた。
「楽しかったよ、ミューズさん! また明日来ても良いですか」
リオを抱き締めてまた来てほしいと、三人に言う。
こんなに大勢のお客は本当に久しぶりだった。
さよならと手を振り返すリオ達と、入れ替わりに入って来たのはミッチの遊び仲間の少年だった。
少年を中に招き入れ、いつもの楽しい夜は過ぎる――しかしそれは、安寧とは間逆の始まりを告げる序章に過ぎなかった。