
11/23付エントリーで書いた「選択を誤らなければ避けられた悲劇」のことですが、実はそれがエピソード3の隠れたメッセージだったのかも知れないと、後で思いました。それはアナキン一人のことではなく、パドメやオーガナ議員たちが苦い思いで見守るしかなかった、「万雷の拍手の中での『自由』の死」を選択してしまった共和国についても言えることです。
現代の現実世界でのアメリカの状況に鑑みると、なおさらその感は強くなりますが、もちろんルーカス自身はそこで言質を取られるような愚は避けて、「最初に思いついたのはニクソンの時代だったし、いつの時代でも起こり得ること」というようなことを言っていますし、『指輪物語』のトールキン教授も、物語世界のあれこれを現実の具体的な事件や事実の寓意であると見なされることを嫌ったように、作り手の側が「寓意」を持ち出すのは、物語を卑小化することにしかならないと思いますが、観客や読者がそこに何らかのメッセージを読み取る自由もまた存在するのです。
「選択を誤らなければ」または「ここで行き違いがなければ」避けられた悲劇、かつまた観客だけがそのことを知っている状況というのは、人形浄瑠璃やそれをベースにした歌舞伎の演目などでもよく見られるものですが、一歩間違えると稚拙な作劇になってしまう怖れもありますし、そういった作劇自体が受け入れられない人も存在します。
『スター・ウォーズ』は無印の頃からあえて古典的なモチーフや作劇を選んで来た訳ですが、上記「受け入れられない人」やコアなハードSFファンは、数十年間にわたって「あれをSFと呼ぶな!」「幼稚な映画」と罵倒し続けています(我が家にも約一名そういう人が…)。
だったら無視すればいいのに、とも思いますが、無視し切れないのは、メカやクリーチャー等、そこに描かれてきたガジェットがマニアックなSFファンの心をも十分にくすぐる魅力を有していたからかも知れません。
でも『スター・ウォーズ』サーガは、SF「でも」あり新たな神話的世界「でも」あり、それ自体が既に一つのジャンルであって、批判するならもはや丸ごと否定するしかないという域にあるものだと思います。
それを思うと、無印『スター・ウォーズ』日本公開時、世界観やコマーシャル展開まで含めてこの作品を全否定してファンに冷水を浴びせ、物議をかもした某評論家氏の方法論は、実に正しかったということになるかも知れませんね。或る意味、このシリーズ(が完結するとは当時は思わず)の本質を看破していた訳ですから。
私自身は、すべてが終わった今、改めて六部作全体を一つの作品として見ることのできる幸福にひたっておりますが、それにしてもダース・ベイダー=アナキンがダークサイドに堕ちた理由がああいうことだったとは、昔は思いもよらないことでした…