のち
観て参りました『アイム・ノット・ゼア』。場所は立川シネマシティ。シネコン形式ながら、ミニシアター系作品もよく上映している劇場です。
平日の昼間でもお客さんはかなりはいっていました。(そう言えば、先日シャンテで観た『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も、平日昼間なのにほぼ満席でした。)「ディラン世代」とおぼしき人たちがけっこう観に来ていたようです。
私はと言えば、ボブ・ディランについて殆ど知識もなく、曲も「風に吹かれて」「ライク・ア・ローリングストーン」等、代表曲を二三知っているだけです。
ディランのファンであればあるほど楽しめる作品と言われますが、「六人のディラン」をオムニバス形式にせず、時間も空間も視点も目まぐるしく入れ替え、それぞれパラレルなように、またはどこかで接したり交差したりしているように描いて、複雑な入れ子構造を作り上げて行くのが面白かったです。
はっきりボブ・ディランがモデルと言えるのは、ジャック/ジョン牧師(クリスチャン・ベイル)とジュード(ケイト・ブランシェット)の二人で、知る人によれば、彼らはそれぞれの時期のディランに本当にそっくりだとか。
ロビー(ヒース・レジャー)の場合は「ジャックをモデルにした映画の主演俳優」という位置づけですが、しかしその結婚生活は、やはりディラン自身のそれを思わせるものだということです。
一方、アルチュール(ベン・ウィショー)、ウディ(マーカス・カール・フランクリン)、そしてビリー(リチャード・ギア)の三人は、或る意味ファンタジックで夢想的な存在です。
この物語自体が、詩人アルチュールの夢想の中の出来事とも考えられますが、彼の「語り」はディランが実際にインタビューで語った言葉で構成されているそうです。
興味を引かれるのはビリーとウディの関係で、ビリーはウディを、ウディはビリーを、互いに夢想しているように思いました。冒頭でウディが持っていたギターケースが、時代としてはずっと過去に属するビリーの許に埃まみれとなって現れることで、未来が逆接的に過去へと繋がるのですが、そこで円環が閉じる訳ではありません。なぜならビリーもウディも、そしてアルチュールも、この作品の「外」に存在する「ボブ・ディラン」の夢想だからです。
そしてナレーターが、ディランが音楽を担当し、出演もしたサム・ペキンパー監督の『 ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』のビリー役、クリス・クリストファーソンであることを思うと、この作品の構造は入れ子と言うより、もはや騙し絵と言った方がいいかも知れません。
しかしディランは、その函や絵の中ではなく、やはりその「外」にいる──
I'm not there.
この映画で「風に吹かれて」が(エンディングに到っても)まったく用いられなかったことを、一見奇妙に思いましたが、よく考えると納得できました。
「ボブ・ディラン」を知るためにどれほどの時を費やせばいい?
友よ、答えはただ風に吹かれて消えて行く──
I'm not there.
どこにでもいてどこにもいない。
そういう「ボブ・ディラン」を描くために、映画はこの形式や手法を必要としたのです。
さて、自分がこの映画を観に行ったのは、クリスチャン・ベイルが出演しているからでした。
この人も作品や役柄によって、体型から声から佇まいから身体の運びまで変えて来る俳優さんですが、今回もその「声」を聞いて「そう来たか」と嬉しくなりました。
出番自体はさほど多くなく、その殆どがインタビューに答えていたり聴衆の前で話したり歌ったりするシーンですが、それがただの「そっくりショー」にはなっていません(ケイトの場合はそれを求められる役でしたが)。
本当になんて上手い人なんだろうと思います。
『アイム・ノット・ゼア』公式サイト
観て参りました『アイム・ノット・ゼア』。場所は立川シネマシティ。シネコン形式ながら、ミニシアター系作品もよく上映している劇場です。
平日の昼間でもお客さんはかなりはいっていました。(そう言えば、先日シャンテで観た『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も、平日昼間なのにほぼ満席でした。)「ディラン世代」とおぼしき人たちがけっこう観に来ていたようです。
私はと言えば、ボブ・ディランについて殆ど知識もなく、曲も「風に吹かれて」「ライク・ア・ローリングストーン」等、代表曲を二三知っているだけです。
ディランのファンであればあるほど楽しめる作品と言われますが、「六人のディラン」をオムニバス形式にせず、時間も空間も視点も目まぐるしく入れ替え、それぞれパラレルなように、またはどこかで接したり交差したりしているように描いて、複雑な入れ子構造を作り上げて行くのが面白かったです。
はっきりボブ・ディランがモデルと言えるのは、ジャック/ジョン牧師(クリスチャン・ベイル)とジュード(ケイト・ブランシェット)の二人で、知る人によれば、彼らはそれぞれの時期のディランに本当にそっくりだとか。
ロビー(ヒース・レジャー)の場合は「ジャックをモデルにした映画の主演俳優」という位置づけですが、しかしその結婚生活は、やはりディラン自身のそれを思わせるものだということです。
一方、アルチュール(ベン・ウィショー)、ウディ(マーカス・カール・フランクリン)、そしてビリー(リチャード・ギア)の三人は、或る意味ファンタジックで夢想的な存在です。
この物語自体が、詩人アルチュールの夢想の中の出来事とも考えられますが、彼の「語り」はディランが実際にインタビューで語った言葉で構成されているそうです。
興味を引かれるのはビリーとウディの関係で、ビリーはウディを、ウディはビリーを、互いに夢想しているように思いました。冒頭でウディが持っていたギターケースが、時代としてはずっと過去に属するビリーの許に埃まみれとなって現れることで、未来が逆接的に過去へと繋がるのですが、そこで円環が閉じる訳ではありません。なぜならビリーもウディも、そしてアルチュールも、この作品の「外」に存在する「ボブ・ディラン」の夢想だからです。
そしてナレーターが、ディランが音楽を担当し、出演もしたサム・ペキンパー監督の『 ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』のビリー役、クリス・クリストファーソンであることを思うと、この作品の構造は入れ子と言うより、もはや騙し絵と言った方がいいかも知れません。
しかしディランは、その函や絵の中ではなく、やはりその「外」にいる──
I'm not there.
この映画で「風に吹かれて」が(エンディングに到っても)まったく用いられなかったことを、一見奇妙に思いましたが、よく考えると納得できました。
「ボブ・ディラン」を知るためにどれほどの時を費やせばいい?
友よ、答えはただ風に吹かれて消えて行く──
I'm not there.
どこにでもいてどこにもいない。
そういう「ボブ・ディラン」を描くために、映画はこの形式や手法を必要としたのです。
さて、自分がこの映画を観に行ったのは、クリスチャン・ベイルが出演しているからでした。
この人も作品や役柄によって、体型から声から佇まいから身体の運びまで変えて来る俳優さんですが、今回もその「声」を聞いて「そう来たか」と嬉しくなりました。
出番自体はさほど多くなく、その殆どがインタビューに答えていたり聴衆の前で話したり歌ったりするシーンですが、それがただの「そっくりショー」にはなっていません(ケイトの場合はそれを求められる役でしたが)。
本当になんて上手い人なんだろうと思います。
『アイム・ノット・ゼア』公式サイト
それでも名優の演技で余り知らない人でも楽しめる作品と思います。
べイル氏とケイトさんは改めてその演技力と幅の広さを感じましたです。
もっとじっくり見てかったです。特にベイルのディラン。
いつもながらレスが遅くて申し訳ありません。
ボブ・ディランをあまり知らなくても、或るひとりの人物を描くのにこういうやり方もあるんだ、ということで、自分には面白かったです。
『ベルベット・ゴールドマイン』での手法を更に進化させたと言うか……
「知らない」ことが、映画の構造やエピソードの配置を読み解いて行く上で、さほど支障には感じられませんでした。
本記事に少し修正を加えると、アルチュールはディランの「言葉」そのものの人格化である、と思うようになりました。
それをベースに話が展開する訳ではなく、他のキャラクターと関わることもなく、その画面には背景さえなく語られる「言葉」が、謎めいているようで空疎なのも、意図的な選択なのでしょう。
DVDが出たら、またもっといろいろな部分を「読んで」みたいです。