11月3日(火)コロナ禍で中断していた社会見学会を開催。18名が参加しました。
今回は、横須賀沖の猿島散策と記念艦「戦艦三笠」の見学に行ってきました。
心配された雨も前夜のうちに上り、爽やかな秋の一日を楽しみました。
先ず、最初に猿島散策。
猿島について、(文献より)猿島は東京湾ののど元に位置するため、海の守りの要として、幕末・明治初期・昭和と3度に渡り砲台が築かれました。
黒船がたびたび姿を見せはじめた幕末の頃、江戸幕府は海上防備のため、全国初のお台場と呼ばれる砲台を、猿島に3ヶ所建設し、黒船に対する守りを固めました。
以来、猿島は「要塞の島」としての歴史を歩み始めました。
明治時代中期、明治政府は東京湾の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました。
砲台には敵国の戦艦を迎え撃てるよう、フランスから輸入したカノン砲が配備されましたが、実戦で使われることはありませんでした。
その後、第二次世界大戦の激化とともに戦雲が本土へと迫り、再び防衛施設として重視されることになります。
昭和16年頃より鉄筋コンクリート制の円形の砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備されました。
高射砲は終戦とともに進駐軍に解体され、砲台だけが残されました。猿島に現存する砲台跡は、この時期のものです。島の面積は約55,500平方メートル(横浜スタジアムグラウンド約4個分)。南北450m、東西200mの距離。周囲は約1.7km。
横須賀中央駅から歩いて、15分ほどでMIKASA Terminalに到着。ここでチケットを購入。
この日は祭日と云うこともあって乗船場にはたくさんの人が並んでいました。
若いカップルが多いのが目立ちます。
予約は受け付けておりません。多いときは臨時便が出ています。
10分足らずで猿島に到着。桟橋には帰りの人が並んでいます。
右の方に管理棟と砂浜が見えます。砂浜は夏はバーベキューで賑わうとか。
散策前にボートデッキで腹ごしらえ。
ボートデッキから横須賀方面を望む。手前右は猿島桟橋。
腹ごしらえもほどほどに散策開始。
猿島map(ここをクリック)
電気灯機関舎
明治28(1895)年、要塞の各施設へ電力を供給するために建てられた「電気灯機関舎」で、ドイツ製の蒸気タービンで発電を行っていました。
凝灰岩の岩盤が削られて切通(きりどおし)が通され、露天の掘割になっている。
切通しを上って行くと、東側に兵舎と弾薬庫が交互に並んでいるのが見えてきます。小窓があるのが兵舎跡で、窓がないのが弾薬庫跡になります。
切通し(きりどおし)とは、山や丘などを切り開いて通した道のこと。猿島要塞は外からその姿を隠すため岸壁を彫り込んで造られており、島の外からは要塞が見えないつくりになっている。
切通しの壁面はプラフ積みという石積み。右側の壁の上には砲台4門築かれていた。
この切通しはかつて軍隊が使用していたものだそうで、高さ5~6mの壁ができるよう山を切り開き、空から軍が発見されないよう道を作ったのだそう。
切通し沿いには実際に使われていた兵舎や弾薬庫などがこのようにそのまま残っています。
弾薬庫入口
この弾薬庫が使われていた頃の大砲の弾は電信柱くらいの太さがあり、
それを真上にある台場まで揚弾井を造り滑車を使って持ち上げていたそうです。
普段は中には入れないところですが、この日はガイドの特権?で中に入ることが
出来ましたが、真っ暗で懐中電灯がないと何も見えませんでした。
揚弾井(ネットから)
兵舎入口 兵士の住居施設。ここも中に入りました。総レンガ造りで内側は漆喰で仕上げてある。
一段にレンガの長手と小口を交互に積むのがフランス式のレンガ積み。
幕末から明治初期にかけては、フランス式のレンガ造りやレンガ積み技術が使用されていましたが、明治20年代以降、イギリス式のレンガ積み(レンガを長手だけの段と小口だけの段で一段おきに積む方式)が圧倒的に数を増し、フランス式の建造物は徐々に減っていった。フランス式で造られた猿島要塞は今では大変貴重なものだそうです。
トイレ跡
前方のトンネルは「愛のトンネル」。カップル必見なのが「愛のトンネル」と呼ばれる長さ90mのトンネル。中は薄暗くカップルが自然と手をつないで歩くため、いつしか「愛のトンネル」と呼ばれるようになったとか。若いカップルが多かった理由が分かりました。
猿島にはいくつものれんがのトンネルが残されています。
レンガ造りのトンネルとして日本で最 も古い建造物の1つ。フランス式レンガ建造物で現在残されているのは富岡製糸場など全国で数カ所のみ。猿島要塞はその中でも最大規模で、このトンネルの内部には2階建ての地下室が平行に建設されていて、司令部や兵舎など要塞の中心部につながっていました。
愛のトンネルを出ると、三叉路になり、右側のこの画面のトンネルの先は、展望台がある広場へと通じる。
トンネルの手前右手に第一砲台の関連施設があった。レンガ壁には部屋の出入口がある。
三叉路左側のこの画面のトンネルの上部には東北向きに27㎝カノン砲二門が据え付けられていた。
トンネルを抜けると、海軍高角砲の砲台跡・日蓮洞窟の方面へ。
トンネルをくぐり抜けて進むと砲台跡が出現。大きな大砲を360度、回転させられるスペースで、島の北側に位置するこの付近には3台の砲台跡があります。
砲台跡からその先を海の方へ下って進むと、卯ノ崎台場跡(オイモノ鼻広場)に突き当たる。ここからは天気のいい日には横浜ベイエリアや千葉県の房総半島までが一望できます。
今回は寄りませんでしたが、卯の埼台の近くに、日蓮上人がたどり着いたという洞窟も残されています。「かつて日蓮上人が、房総半島から船で出航した際、嵐で漂流していたところ、白いサルに導かれこの島にたどり着いたという伝説から、猿島と呼ばれるようになったそうです」
卯の埼広場のパノラマ
展望台広場にある展望台(現在は立入禁止)
卯ノ崎台場跡から折り返し、猿島一番の難所108段の階段を昇っていくと、島のほぼ中央に位置する標高約40mの展望台広場に到着。この広場は、先ほど下から見上げた弾薬庫の真上に当たります。
展望台広場から横須賀方面を望む。正面は米軍横須賀基地。天気がいいと左の方向に富士山が見える。
頂上広場のパノラマ
これも砲台の跡。こちらは海軍防空砲台の時代に設けられた12.7cm高角砲のコンクリート製砲座。
猿島散策を終え三笠公園に帰る船中。
これから行く戦艦三笠が見えてきました。
戦艦三笠見学
(文献より)戦艦三笠は明治33年(1900)英国の造船所で進水。明治37年2月に始まった日露戦争において東郷元帥が率いる連合艦隊旗艦として始終敵の集中砲火の中で奮戦した。同年8月10日の黄海海戦ではロシア東洋艦隊に大打撃を与えた。そして、明治38年(1905)5月27日の日本海海戦ではバルチック艦隊をほぼ全滅させつ偉功を立てた。その後爆沈着底したり不運にあったが、新型艦が就役するに従って老朽化し、大正15年(1926)に横須賀市の現在と同じ場所に記念艦として多くの収蔵品と共に保管された。第2次大戦終結後、日本海海戦で屈辱を味わったソ連が廃棄処分を主張したが、米国の方針で残された。しかし戦後の混乱下、鉄材として甲板上の殆どの構造物は撤去され、惨めな姿となったが、昭和36年(1961)に大規模に復元され現在に至る。
戦艦三笠
連合艦隊司令長官・東郷平八郎提督の像。三笠の前に立つ東郷平八郎元帥の像。東郷元帥はロシア・バルチック艦体を殲滅勝利したことで、世界に知られる名提督として讃えられた。
15㎝副砲がずらりと並ぶ左舷。
三笠の主砲30㎝砲連装、前部後部にそれぞれ2門。ちなみに第二次大戦中に連合艦隊の旗艦を務めた長門の主砲は41㎝砲連装。史上最強の戦艦大和の主砲は46㎝砲三連装。
15㎝副砲の操砲展示。
操舵室から見た艦首。
操舵室。羅針儀と操舵輪は日露戦争当時の実物、とある。
司令塔(シェルターデッキ)。被弾時の操舵能力を維持するため、分厚い装甲に囲われた内部に羅針盤、舵輪、通信機などが備えられている。
信号探照灯。その先には、猿島が見える。
副砲の砲室に釣られている釣床(ハンモック)。釣床は、それぞれの持ち場に配置された乗員がそれぞれの場所で使用した。
無線電信室。無線は当時、最新の技術であった。
長官室
東郷司令長官が執務された部屋。室内の後方には明治天皇のご真影と昭和天皇皇后両陛下が「三笠」を御訪問された時の写真が掲げられている。
長官公室
艦長公室
参加者の皆さん、お疲れ様でした。
投稿者:やまちゃん