サンカの生態
信長公記は前田家のお陰
サンカ女郎のストライキ(昭和には映画にもなった)
当ブログでは「サンカ」についての記事を載せている。 しかし、どうも私の文章が悪いためか、理解不足の部分も多いようである。 彼らの子孫は現在も多く、日本人の二割は占めていて、その大きな特徴は「子沢山」の家庭である。 少子高齢化の現在の日本では、誠に貴重な人たちで、他の家庭もこうであって欲しいと切に願うものである。 そして彼らは決して不倫だとか浮気はしない、家族を大切にし動物を可愛がる純粋な民族でもある。 昭和三十年代まで日本各地の山や河畔にテント生活(サンカ言葉でセブリという)をしていた。その彼らの生活の実情を、 サンカ物を書いた三角寛が聞いた話を紹介しましょう。
以下は、武蔵一(明治二十七年八月一日、東京石神井生れ)は、武蔵全体のクズシリ(親分)である。 現在は埼玉県南部の豊岡村附近を縄張に瀬降っているサンカであるが、昭和二十七年九月六日、 埼玉県熊谷堤のセブリで、その妻テル(明治四十五年、下谷萬年町の居附セブリの生れ)から三角寛先生がきいた話である。 武蔵サンカの寄居一郎(明治四十年七月十日、寄居赤濱生れ)は、七歳年上の花子と夫婦である。その花子が、サンカには珍しい中風を患って病臥したままであった。 一郎は寄居に居附の瀬降を作って、そこに病妻を寝かせて、十一年間介抱しつづけ、昭和二十六年十一月九日、 花子が死ぬまで、妻一人の貞操を守りつづけたのである。これは普通の男にはとても出来る事ではないが、つまりこれがサンカの掟なのである。
ところが、花子が妻としての役目が果せないのが原因で、一郎は気が荒み、粗暴になるかと思うと、急に泣き出したりするということを聞いて、 武蔵一の妻テルが、寄居の瀬降に見舞に行く途中、輩下にあたる箕作りの小山北吉の越生のセブリを訪ねたとき、待ちかねたように困ったようにその北吉のいうのには、 一郎は、あの通りの男前だし、腕がいいので金も取れるから、熊谷当たりの呑屋に行って、こっそり女を買おうとしたが、夫婦の掟があるので、 呑屋の女は、その気になっていたが、ついに手を出すことができずに、急に泣きだした。驚いた呑屋のおかみが訳を聞くと『家(セブリとは云はない)に十年も中風を患っている家内がいるので、 俺は気が狂いそうだ』といったという。それでおかみまで同情して『女ならいくらでもいるじゃないか、泊ってゆきな』と云われたが、 『それができるくらいなら泣きやしねえ』といって泣く泣く店を出ていった……」
この話を聞いたテルは、「これだけは貸すこともできないから、中風でも、使い方があるんだから、それを教しえてくる」と云って、北吉の妻のハルを連れて、 一郎の瀬降に行って、よもぎ湯で腰湯を使わせ、妻のつとめができるようにしてやった。そのお蔭で一郎は、頭が狂うこともなく、最期まで半身不随の花子を大切に見てやることができたという。 病妻の死後、寄居一郎は、十七歳の純粋のサンカ娘キヨ子を妻にしているということである。
このような自制は、容易なことではないが、サンカの掟として、厳しくそれを守ることが、彼らにとっては、通念であり、信仰にもなっている一例である。 このように女を大切にしたのも七世紀に、大陸からの進駐軍から逃げ、手をとりあって脱走しあってからの掟なのである。 こうしたもろもろの掟に縛られて、この約束から外れないように彼らは生きているのである。 今ではトケコミ(町や都会に住むこと)で完全に普通人とは変らぬようになっているので、見つけだすのは困難だが、 サンカの血脈をひく男を夫に選ぶことができたら、妻が半身不随になっても脊向位や側向位で、あの方の欲望はみたしてくれるし、生涯とても大切にしてくれて浮気などはぜんぜんしない。 よく中年の男性で、これまで浮気をしたことは有りません、と言うのがいるけれど、それがもし本当ならば、その男性は明治から「とけこみサンカ」の血をひく証明ともいえよう。
現代でさえ香港へゆけば、生涯に九人の妻をもつのが男子としての本懐なりといっている。 明治まで「良」と大宝律令でされていた大陸系の血をひく男は、亭主関白で妻妾同居すら平気である。だから、サンカのような純粋なのは、いわゆる一穴主義を押し通しているから、 「月給袋を丸ごと封を切らずに妻にわたす」といった夫も、やはりサンカの血筋をひくとみられる。 という事は三角先生説のごとく弱小部族ではなく、前記のようにサンカは人口の二割近い事になる。
さて、一セブリは夫婦を単位とする子供たちとの家族制だから、男は外で食物を探したり、それを購う賃仕事村や町でして家計を立てている。 一方家庭は、夫婦共稼ぎという概念は一切なく、妻は赤ネルの腰巻で(妻をオカカと呼ぶ)が後願の憂いのないように家事一切を担当していた。 それが明治になって警察国家こそ近代国家なりと岩倉訪欧団が帰朝後、享保時代から八部衆とよばれる古代海人族系の放浪の赤の者らに、朱鞘の公刀と取繩を渡し、 鉄火場開張を黙認して費用に充当させ、逮捕権裁判権の一切を委かせていたのを、明治政府は取りあげて旧士族のポリス制度と変改した。 そして徴税と徴兵のために、戸口調査を全国的にやり、無申告のサンカの狩りこみをした。 ずっと一夫一婦だったサンカ社会も、このため娘を身売りして税金を払わねばならぬような仕儀となった。 (サンカは古来より体制側に一切税金を払わず、地区の親方に稼ぎ相応の金を払えばよく、ない者は蓑(みの)一つだけでも良かった。原始共産主義ともいうべき、 誰からも何処からも統治されず、統治せず、相互扶助の精神を貫いてきたので、貯えなども無く、いきなり過酷な徴税に往生した) この為泣く泣く娘を身売りして金を作り、税金を払わなければならなかった。
そのため明治時代の遊廓は殆んどサンカの娘たちばかりの有様となったのである。 が、たにしろ反体制の血をひく彼女らである。遊郭の経営者は一日何十人もの客を取らせ、おまけに前借金も過酷に取り立てたから、 そこで有名な東雲楼の梅鉢お女郎さんのストライキを皮切りにして、各地で待遇改善のゼネストが次々と起きだして騒ぎが広まった。
「なにをくよくよ 川端柳/焦がるる なんとしよ/水の流れを 見て暮らす/東雲の ストライキ/さりとはつらいね てなこと/おつしやいましたかね 自由廃業で 廓は出たが/それから なんとしよ/行き場がないので 屑拾い/浮うかれ女めの ストライキ/さりとはつらいね てなこと/おつしやいましたかね」
「ウメガイのチョウズバチ叩いてお金がなるならば……」といったシノノメストライキの唄が全国的に広まってしまった。 (この唄の旋律は、昭和まで続いて、学生も労働者も歌詞はそれぞれ変えて、酒席などでは大いに歌われたものである)
サンカの歌詞は、それまで山野また川で自由に用をたしていた娘たちが、一定の狭い便所で放尿をさせられ、かつては革屋がアソモニヤの代用に小水は買ってくれたものを、 たれ流しさせるとは何事かというので、きんかくしと呼ばれる板にみな、おのれらの民族トーテムの梅鉢、つまり焼火箸で五つの穴をあけていたのを叩いて、不平を洩らしていたのが、 もう一つのストライキの実態だったという。 (サンカの発生は唐を滅ぼした契丹<日本史では宋となっている>が日本に流入したが、日本では本国の唐は滅びても藤原氏が君臨していた。契丹の代表格の菅原道真が太宰府に流され 契丹系も一斉に日本各地に追放され、サンカとなった。契丹の国章は五弁の梅花だったので、契丹系サンカは、鋼製の短刀にもウメガエとして、この焼き印を付けていた) しかしサンカの女性は女上位でお客の下になる「正常位」と違い、馬のりになるのが、珍らしく一般うけしていたので女郎へお客の声援があったのである。 この、ウメバチというのは加賀百万石前田家の定紋でもあった。雨が多く雪深い金沢が、現在文化都市であるのも、当時は諸国のサンカのメッカで、様々な技術や芸能をもちこんだせいなのである。 作家の五木寛之も金沢にいたので、土地の古老からでも聞いたかサンカの小説「風の王国」を書いている。 泉鏡花のドロドロした夢幻的な小説は、あれはサンカ伝説によるものが多い。
また徳川幕府が外様大名をしきりと潰したのに、加賀百万石には手を出さなかったのは、サンカが全国に散らばっていて、秀吉の内乱防止の朝鮮外征に先だって強制執行した刀狩りにも、 ウメガエだけは供出されていず、槍ならば別だが片刃三寸しか刃の付いていない日本刀ではウタガイに太刀打ちできぬのは当時よく知られていたから、前田家に弾圧を加えたら、 諸国のサンカの一斉蜂起をも惧れ、ために幕末まで、銭屋五兵衛の事件があっても、国替えも減封もできなかったといわれる。 前田家の先祖ともいえる前田犬千代利家が、信長に小姓時代から仕えても、今でいう、 スパイとして今切浜の今川義元の舶来鉄砲や、ポルトガル硝石輸入に三年も見張人の小者に化けて潜入して探っていても、たいしては取立てはやらず、 柴田勝家の寄騎として僅かに二万石の石川能登城主にしか処置しなかったのも、八の出身の信長にすれば契丹系の異民性といった差別が、そこにはあったのだろう。
利家に勝家を裹切らせ先遣軍とし柴田勝家を自滅させた秀吉にしても、やはり八の出身ゆえ、ねねが若い頃に利家と関係があったとはいえ、その娘の於松を己が側室に召し出している。 さすがの前田利家利長父子も秀吉が死ぬと、家康に寝返って百万石に大立身したのだが、それでも用心して前田利長のごときは、鼻毛を二センチぐらい伸ばし、あえて阿呆面をし、 用心して警戒されぬようにしていたと伝わる。しかしサンカの反骨精神というか反体制の血の流れというのは、徳川二百七十年間にわたって、 「絵本太閤記」とか「秀吉と石川五右衛とは幼な馴染」といった反豊臣ものは、前体制ゆえ許され読み本や芝居になったが、信長ものだけは絶対禁止されていた。 それなのに前田家では、今では活字本になってはいるものの、茶具道具の宣伝パンフレットなみの、「信長公記」の原本を三世紀にわたって門外不出で匿し通してきたのである。 このことが万が一にも幕府に露見したら、いくら諸国のサンカが蜂起しても、当主の切腹ぐらいは覚悟せねばならないのに、よくも三世紀近くに隠しも隠していたものである。 昭和になって、歴史学者の桑田忠親老は「信長公記」に茶器ばかり書き加えているが、それでも前田家に揃いが一組あったればこそ、良質な史料とは言えぬが、 今日の「信長公記」はどうにか読めるのである。