新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

琉球哀歌 尊王攘夷は沖縄製

2019-09-19 09:04:38 | 新日本意外史 古代から現代まで

     琉球哀歌
 尊王攘夷は沖縄製

 沖縄の首里博物館が今あるところの前に古びた池がある。あまり見事とか美しいとは、お世辞にもいいかねる。ただ周囲の青々とした熱帯樹の茂みに眼がひかれる。
 しかし、この竜潭池というのは琉球王朝が華やかな頃には、丹青色の船が浮かび、下々の者は近づけない高貴な場所だった。
 さて、〈尊王攘夷〉なる言葉がある。
 今では日本の幕末の勤皇志士あたりが、東山三十六峰を背にして新選組と、
 「いざこい来れ」と斬り合いをしながら、悲壮な叫びをあげたもののように考えられ、そう想われて居る。しかしそういうものの、
 (勤皇……なら判るが、日本では天皇を王様といわないのに変てこではないか?)
 といった疑問を、投げかける者はなかったかどうか……歴史家さんは誰もこれまで書いていない。
 なにしろ日本の歴史は講談や芝居によって、歪められた優で堂々とまかり通っている……
 というけれど、これも故尾上松之助、市川百々之助、阪東妻三郎、沢田正二郎といったスターたちの、チャンバラ幕末ものによって作られた虚像といえるようだ。
 というのは明治八年五月二十九日に、ときの日本の太政大臣三条実美よりの、
 「琉球藩は、もう清国へ朝貢と称して使節を派遣したり、清国より冊封を受けてはならぬ」
 との内示をうけ、渡航してきた内務大丞松田道之が、首里城へ今帰仁王子以下百余名を集めて、きびしく冷酷にいいわたしたとき。
 
ついで翌明治九年五月の太政官令に反したとの理由で、年があけた三月二十日に、
 「処分の都合があるから首里城内から、何物も持ち出すことなく三十一日限りにて明げ渡し、尚泰王は城を出て東京出発まで謹慎のこと」という命令がでたとき。
 病臥中の王を守ろうというので、「尊王攘夷」の旗が、尚王一世の五百二十八年前の時点、石で底をかためて作られた竜潭池の畔に、再度に及んで立てられた。
 かつて中国の重陽の節句の日など美々しく装われた竜形船で埋められた池だが、蘇鉄や芭蕉が茂った木立に、ついで翩翻とひるがえったレジスタンスの旗に対し、
 「かまわぬ、撃ってこませ」と、薩摩出身の川路大警視の命令によって、派遣された園田二等警視補を隊長とする百六十三名の巡査隊と、
旧薩州士族三百名が、神聖視しされ一般の者は近づくことを禁じられていた池畔を襲って旗をひきちぎった。
 そしてこの結果、首里士族、泊村士族、久村士族らは、次々と内務省の出張所へ呼び出されて苛酷な取り調べもうけた。がそのため、かえって反発が強くなった。
 「御病気中の王や、まだ幼年の王子まで、東京へ連れて行くとは何たることか。首里城をあけ渡せとは、五百年つづいた琉球王朝の最後ではないか。
かくなる上は徒手空拳とはいえど、夷であるヤマトンチュを撃ち払わねばなるまい」と固く、一致団結をしたのである。
 
どうも尊王攘夷なる熟語は幕末の日本製ではなくて明治に入ってからの、いわゆる琉球処分の際に、どうやら生まれたものであるらしい。
つまり尊ぶ王とは、尚泰王のことであり、「攘夷」と、それに続くのは、幕末までの日本では、英米仏あたりの異人をやっつけることであったが、
沖縄では、夷は内地人の意味であったのである。さて、いくら哂の宮古上布の旗をたてて皆が必死になって「尊王攘夷」と反抗して騒いでも、また、
 「泣血奉御願候」と王子や旧摂政が、本土から派遣されてきた松田道之や、勅使の富小路敬直に懇願したけれど情け容赦もあらばこそ、
とりあえず王子尚典は明治十年四月二十七日郵便船明治丸にのせてつれてゆかれた。
 そして病臥中の尚泰王も翌月、タンカにのせられたまま、彼らのいう夷の軍隊である日本軍の鉄砲隊に包囲された中を、東京行きの船にのぜられてしまった。
 沖縄の人々は大地にひれ伏し、おんおん泣き伏して見送った。しかし王を奪い返したくとも、いかんせん武装のない彼らはどうしようもなかったのである。
 さて王様や王子でさえ旧薩州出身の士族らの鉄砲隊で、身柄を拘束されて護送されるくらいゆえ、彼らによって住民への、掠奪暴行は目に余るものがあったらしい。
 そこで東京政府は治安維持にやむなく、一部の者は残留させたが、他の者は三月前から風雲急を告げていた九州へ、政府軍の助勢として回されることとなった。
 このとき鹿児島第二大隊長として、池田屋斬り込みで名をはせた奈良原喜八郎が、五十名の薩州健児を率いて沖縄を荒し回った記録が詳しくある。
 が、このとき、奈良原喜八郎は分捕品として、
 
「尊王攘夷」の宮古上布の旗を、十数流も持ち戻った。そして改めて、
 「討賊官軍第六大隊長」を拝命するや、この旗をもって、大隊旗に代用した。
 つまり奈良大隊長の指揮をとる官軍は中隊ごとに、沖縄から持ち帰ってきた、
 「尊王攘夷」の旗をたてて西郷軍に対し、「おのれ……賊軍めッ」とばかり、攻めたてた。
 東京から派遣されてきた兵や鎮台兵は、ろくに戦歴もない連中だが、奈良原の率いる二百余名は非武装地帯とはいえ、沖縄では連戦連勝みたいに勝ち誇って、
気ずい気ままを勝手にしてきた連中である。だから普通なら同じ薩摩人どうしゆえ、そこには手加減や遠慮がありそうなものだが、逆に奈良原隊はすこぶる強かった。
 もちろん旧幕時代に奈良原は島津久光の命令で、有馬新七ら過激派を斬り倒し、そのとき西郷隆盛も追手にせまられ入水自殺まで企てているのだから、昔からの仇敵どうしとはいえる。
しかし、なんといっても琉球処分の荒稼ぎが奈良原隊を意気軒昂にしたことは否定できまい。
これまで歴史家は等閑視しているけれど、琉球王や王子を東京へ護送してしまったの、か、やがては同年九月二十四日の城山での大西郷の悲壮な自決とも結びつく。
いうなればこの結果は、「琉球処分、大西郷を死にはしらす」となるのである。さて十月一日。惜しくも城山で西郷隆盛や桐野利秋か自刃したので、
「西南の役」は終結となったから、奈良原喜八郎らは凱旋ということになった。
 そこで硝煙にまみれた宮古上布の旗を、意気揚々と十数流たてて上洛した。
 彼らが陣営をはっていたうずまさが、その後京都における活動写真のメッカになった。だから故牧野省三も幼時に眺めたことのある、
「尊王攘夷」の旗の記憶がなまなましかったのだろう。そこで時代劇のタイトルに、
「尊王」とか「尊王攘夷」といったのを、まさか沖縄からの輸入とは知らずして、堂々と用い世にひろめてしまったのだろうと思われる。異説めくが、
 「勤皇」というのは、昔からの本物であるが、そうでないのはどうも明治十年に奈良原喜八郎によって、もたらされたものといえるようである。
まあ沖縄の観光に行くひとは、かつて、「尊王攘夷」の旗が初めて立った博物館前の古びた湖畔にたって、往時をしのび、
「ひめゆりの塔」や「健児の塔」の参拝もぜひついでにしてきたいものである。