新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

真説 明智光秀 【奇怪・斉藤玄蕃允】

2019-09-22 09:29:22 | 新日本意外史 古代から現代まで
       真説 明智光秀
     光秀と斉藤玄蕃允の関係
                 【奇怪・斉藤玄蕃允】

 「全く素性の判らない男で、おそらく斉藤の姓からすれば、玄蕃允は前美濃国主斉藤道三入道か、その孫ともなる同竜興の一族であろうか。
が彼が本能寺の変のすぐ直後、織田信長の嫡男・中将信忠の居城である美濃稲葉山を占領し、美濃一国へ号令する地位を獲得している。どうも光秀に味方していたらしい。
なのに秀吉が美濃へ進出してくるや、彼はさっさと自分から降参しにゆき、後に信長の三男の信孝が美濃国主として現れると、今までの城主の地位を譲り、その家老となってしまった。奇怪すぎる進退である」
と『戦国戦記』にはあり、同じ故高柳博士の『戦国人名辞典』では、「織田信孝の老臣、稲葉一鉄の聟。信孝が秀吉と争ったとき秀吉方に加担。のち浪人して主取りせず」という彼の説明をしている。
さてこれだけでも疑問が多いのだが、
突如、稲葉山の岐阜城主になったが、秀吉が美濃へ攻め込むや一戦を交えるどころかさっさと自発的に降参しに行き、光秀の一味として普通なら殺されるところを、何故か助命されて戻ってくる。
そして、また城主の位置に座っていて改めて信長の三男が新任の美濃国主として現れてくると、その時少しも騒がず、「どうぞどうぞ」と席を譲り「私は家老で結構でございます」と、
自分から格下げして彼に仕えたというのであるから、何だか白々しいというか、その精神状態が可笑しかったのではあるまいかとも思いたくなる。
またこれを裏返しにすると、「よく降参に来たな。まあ当座は岐阜城主をやっているがよい」と、岐阜県不破郡長松の本陣で、にこにこいった秀吉も、これまでの俗説のように、
山崎円明寺川で主君織田信長の、弔い合戦をしてきたばかりの引き上げ途次にしては、まこと変である。通俗歴史小説の類ならば、
「おのれ逆賊め、どの面さげてこの秀吉の本陣へ来おったか......うぬは明智光秀の同類、その素首叩き落として曝してくれんず」とここで殺してしまわないことには、話の辻褄が合わない。
『美濃旧記』によれば、本能寺の変から二十五日目、山崎の合戦からなら十四日めの清洲会議の決定で七月三日に信孝は美濃稲葉山城へ入ったとされているから、
「おのれ斉藤玄蕃允め。父信長兄信忠の敵の片割れ覚悟致せ」と六月十日の事件から一月と経っていないゆえ、信孝も彼を成敗するべきだったろうと思われるのに、全く反対なのである。
「よおこそお越しなされました。お待ちして居りましたぞ」、「そうか大儀であった」、と、まるで留守居番が戻ってきた主人を迎えるような有様で、「礼をしたい、なんなり申せ」
「はい、では此処を出ていく当てとて有りませぬ。一つ又お召抱えを願いとうござりまするが......」「そうか、では家老になれ」「これは有難き仕合わせ.....」と、主従契約を結んでしまうのでは、
主客転倒どころの騒ぎではないのである。もし信長殺しが光秀であったなら、織田信孝は、親や兄の仇敵の一味をば喜んでその家老にしたことになる。まこと可笑しい。
が、『武家事記』『浅野侯爵家文書』の類にも、この時即座に彼が採用され、その後老臣として仕えたことは誌されている。だから、世にも不思議な物語だがこれは事実なのである。
さて、旧参謀本部発行の「日本戦史」にも、仰々しい山崎戦役の一冊が入っているし、これを底本にした戦記物も出ている。
が、講談で名高い竹中半兵衛の子の重門の書いたという『豊鑑』と幕末の講談本の『太閤記』によってそれは出来ている。では天正十年六月十四、十五日に、桂川の支流、
円明寺川を挟んで戦われた明智軍と羽柴軍との合戦について、信頼に足る物はなかったのか?となる。勿論『真書太閤記』『絵本太閤記』の類ではさも本当らしく、
「天王山の占領が、この合戦の死命を制するもので、秀吉が機知をもって先に奪ったから勝てたのである」など説明しているし、『黒田家記』に入っている『永源師壇記年録』などでは、
この時居もしない細川忠興を持ち出して、彼が天王山の西の尾崎を占領したのが勝運の基だったなどと書いている。が、これは細川家にとって事実はどうあれ名誉な話だから、
その家記にも加えられているにすぎない。だから明治、大正にかけ、細川侯爵家御抱えだった歴史学の泰斗も、金を貰っていた立場上この説を押している。
しかし、天王山の争奪しあった戦など事実無根で、良質の史料には無いと、高柳学説は戦後真っ向からこれを否定している。
では今日、何によって山崎で合戦の有ったことが知られているのかと言えば、それは浅野侯爵家に伝わっている天正十年十月十八日付の、
「岡本次郎左衛門、斉藤玄蕃允宛の秀吉書状」によるものである。岡本は信孝の初めからの家老で、後、伊勢亀山城主になった男で、斉藤は前述のごとく、信孝が美濃入りの時家老になった者である。
つまり、いくら奇怪であっても彼は歴とした実在人物なのである。
   【長良川合戦】
弘治二年(1556)四月。かって美濃一国の太守として威をふるっていた斉藤道三入道も、すっかり落目になっていた。
何故そうなったかと言えば、『江濃記』によれば、前年十一月二十三日に鷹狩りに出かけた後、岐阜城の前身である井ノ口城に叛乱が起き、急を聞いて戻ってきた道三はその時から城を閉め出された。
やむなく近くの大桑城によったが、鷹狩りの装束の姿である。もちろん味方に駆けつけた者も居るが、始めから劣勢である。
それでも道三入道は戦った。しかし年が明けてからはもう補給もつかなくなった。これまでの数度の抗戦で側近の殆どを失ってしまった道三入道は、
「やむをえん、かくなる上は娘婿の信長に頼るしかあるまい」すぐさま尾張へ使いを出した。道三にすれば、かって天文十六年に信長の父織田信秀が美濃へ攻め込んできた時、
十四歳だった信長諸共捕らえはしたが、直ぐ父子共に解き放して戻させた。そしてその際の約定通りに二年後には、一人娘の奇蝶を嫁がせていた。そして天文二十年三月に信秀がぽっくり亡なった後、
「四郎信行殿をこそ、お跡目に」と尾張の重臣達が騒ぎだしたのを、道三入道は娘可愛さに隣国尾張へ兵を入れ、金を運び信長に相続させた。
だからして、「あの義理からしても此方から頭を下げれば、信長めは恩返しに直ぐさま助成に参ろう」当てにして道三は待ちわびた。
 が、尾張からは梨の礫。ついに待ちきれぬ事になって四月には長良川で決戦せねばならぬ羽目となった。が、道三は諦めきれず「美濃一国の譲条」なるものを信長に届け、加勢の催促をした。
この時、人質として清洲城へ送ったのが、生き残っていた当時十歳の末子新五郎である。道三が幼いときに出家していたと伝わる日蓮宗の妙覚寺には、新五郎にその際持たせたと伝わる書状の写しがあって、
頼めばコピーを送ってくれるが、それには(美濃のことは織田上総介に委せ譲り状を送ってある。
よって其の方は京の妙覚寺に入って出家し、わが供養の回向をせい)といったような内容がもられている。
つまり道三入道は、「譲り状を出しても、自分の実子が居ては、信長が兵を出して来ぬやもしれぬが、出家させいといっておけば、
これを見て安心して加勢に来るであろう」といった思惑で書いた物か真偽の程は判らない。がさて、そこまでされては信長も放ってはおけない。
『信長公記』によれば、「木曽川飛騨川の大川まで出陣」とあるが、ここは後(信長ほどの人が逃げ戻った地)と言う意味から、今は大退の地名になっている。
さて信長は出陣したものの、そこの葦草の茂みに全軍を匿したまま何故か最後まで打って出なかった。つまり舅道三の討死にを見届けて清洲城へ引き上げてきた。
その代わり「新五郎は京の妙覚寺へやらんと、腹違いとはいえ弟じゃ。そもじの手で育ててとらせい」美濃からきているから美濃御前だが、略して濃御前とか、濃の方と呼ばれていた奇蝶にいった。
この新五郎が後の斉藤玄蕃允なのである。さて、清洲城に移っている内に生駒蔵人の後家娘の腹から信長の子の奇妙丸こと、後の信忠。ついで三介こと後の信雄。
そして北畠家の後家女板御前からは、三七信孝が生まれたから、幼い日の新五郎は彼らの餓鬼大将のような遊び相手だった。
 もちろん秀吉もその頃は籐吉郎の名で奉公していた。城といっても、後の岐阜城と比べれば五条川に取り巻かれて天然の要害となっているが、規模は五分の一もない清洲城である。
手狭な城の中で暮らしたのだから、「斉藤玄蕃允と織田信孝」の二人は幼な馴染みであるし、小者から足軽時代の籐吉朗とも、主従として深い馴染みだった訳である。
これで秀吉が美濃へ攻め込んできた時、気軽に一人で出かけて、「俺は止めた」と言い、秀吉もそれに対して、にこにこしながら、「まあ当分は今の儘で.....」といった訳も判ってくる。
信孝にしても彼に迎えられて「さあ今日からお手前が領主になられませ」といわれれば、「そうか済まぬ。なら其方を家老にしてやろう」となるのは、幼な馴染みで、かっての遊び仲間の餓鬼大勝ゆえ、
これまた差程に驚くには当たらぬ。明智光秀も丸っきり誤られているが、玄蕃允もこれまで解明する学究など居らず、歴史辞典の類などは秀吉の馬廻りに間違えている。
しかし『信長公記』天正六年十月四日の条には、はっきりと、「斉藤新五郎は越中の大田保の本郷に陣取り、上杉方の川田豊前守らの大軍と戦う。富山城下の戦いにて新五郎は、
上杉景勝の兵を月岡城に引き込み、ついに川田らを敗退させ討取ったる首数は三百六十。されど勝って奢らず各所を攻め廻り人質をとり降参さす」と、その勇猛な働きぶりが出ている。
新五郎はこの富山攻めの他にも、美濃衆を率いて大将となって各地に転戦している。
だから何処かで一国とはゆかない迄も、一城の主になっていてもよいのだが、奇妙なことに、どさくさで半月だけ岐阜城主になった外はそれまで何処の城も持っていない。
天正五、六年頃に一方の旗頭となって働いた者は、その後、森乱(蘭)丸の二つ違いの兄の鬼武蔵でさえ、信濃四郡二十万石。滝川一益も上野一国の他計五十万石で「関東管領」にまで任命されている。
それゆえ斉藤玄蕃允も五、六十万石になっていてもおかしくない。彼は斉藤道三入道の忘れ形見で、奇蝶の異母弟で信長にも義弟に当たっていたのに冷遇されている。
     【奇蝶と怨念】
だから、当人もくさったろうが、姉の奇蝶もかっかしていたろう。話は戻るが天正四年に、信長が新築した安土城へ移ることになったとき、奇蝶を呼んで「玄蕃允は岐阜へ残せ」と言いつけたことがある。
「えッ、まことにござりまするか」声を震わせ奇蝶は声をのんだ。何故そこまで感激したかといえば、名こそ岐阜と変わっているが、昔の井ノ口城でかっては父道三入道が君臨していた所である。
世が世であれば、新五郎がここの跡目に座って美濃一国を治めていた筈の、奇蝶には実家の城だったからである。そこで歓び、(これまで信長殿を恨み抜いてきた怨念も、この際すっぱり忘れ去ろうぞ)と、
頑なになっていた心を和らげさえした。
思い起こせば二十年前。父道三が鷹狩りに出かけた直後、突如として起きた叛乱の真相が、その当時は判らなかったが、やがて歳月が経つにつれ「道三入道は悪党なり」とか、
「まむしのような悪い奴」と美濃中に言いふらさせて人心を離反させ、まんまと謀略にのせてしまった黒幕が、誰あろう夫の信長であることが、いつとはなしに判ってきた。それ故に無念でならず、
(父道三が居ては美濃を併合出来ぬと、調略で内乱を企てさせ、やがて桶狭間合戦で拿捕した鉄砲五百挺で四年越しに進攻をなし、父亡き後の稲葉山城を入手し増築して岐阜城となせし信長は夫とは申せ、
この身にとっては親の敵ぞ)と憤慨。新五郎に対しても、
「故父道三の妄念を晴らし、その成仏を願うには美濃人の美濃を奪い返すしかない」とも、かねて言い聞かせてきた処。だから信長の口より、そういわれれば、
(安土城へ引き移るゆえ、その後を払い下げのような恰好だが、まあそれでも....)歓び、「父道三の供養を晴れて致そう」と玄蕃允にも言いつけた程だ。
ところがその仕度が出来た頃になって、岐阜城へ美濃城主として入るのは、生駒御前の腹から生まれた長子の信忠。玄蕃允はその付け家老として残されることが判った。
「なんたることか。この身を嫁にしたるがゆえ父道三より助けられ、尾張の跡目を継げた恩も忘れ、美濃を押領したいばかりに、まむしの悪党のと言いふらし、父を殺せし....おのれ信長め」と奇蝶は怒った。
女性は一旦こうと思いこんだら、なかなか改めないものだというが、奇蝶は弟新五郎を岐阜城主にし亡父の跡目を継がせようと、
(おのれ信長、信忠め。共に葬ってくれんず)とばかり、この時からはっきりと決意した。これも信長殺しの一因である。
さて、太田蜀山人が大公儀に奉職中、当時の各家へ命じて、系図史料などを提出させて、これを台命で纏めたものが、寛政杏花園集とか『太田南畝・家伝史料』の名で伝わっているが、
その中の『蜷川家古文書』によると、

これが作成された寛政五年は、本能寺の変より二百十年たっているが、紅葉山文庫所蔵のこれは信頼出来るものだろう。さて、この二つの系図をくっつけ合わせると、
(稲葉一鉄の弟の娘を嫁にし、春日局を生ませた斉藤内蔵介は、一鉄の娘婿の斉藤玄蕃允と義理の従兄弟どうしの仲になる)のである。天正十年当時権中納言であった山科言経が、その六月の日記に、
「斉藤内蔵介、今度謀叛の随一なり」と明記されている男と、玄蕃允の妻どうしが肉親だった点が問題なのである。
さて、今でもまだ、『川角太閤記』などの俗悪書によって、内蔵介を明智光秀の家老と歴史辞典も誤っているのもある。
しかし光秀が、信長にまだ仕えていない元亀元年の時点において、「信長公記巻三、元亀元年五月六日」の条には、浅井長政が俄に裏切りの気配を見せ、信長が栃木越えで逃げる殿軍として、
「稲葉伊予父子(一鉄、重通、貞通)をそえ斉藤内蔵之佐(助)を江州守山へ残せし処、町の南口より焼き討ちをかけ突入する輩を追い崩し、あまた切り捨てて働き比類なし」と記載がある。
光秀が信長に奉公するのはこの翌年だから、一軍を指揮していた信長の直属将軍の内蔵助が、陪臣の家老にまで落ちぶれる筈などない。天正十年当時、軍監として、つまり信長の名代として光秀につけられ、
丹波亀山に駐在していたから、その地位を利用し、近江坂本城にあった光秀には無断で、「徳川家康追討」を名目に、信長の命令なりと詐って兵を進め上洛したのは、
フロイス日本史のカンリオン書簡にも明確にのっている。
なにしろ『長宗我部古文書』にも、「長宗我部元親は宮内少輔国親の子、四国全土を征服せんと志をたて、その資金を得んと欲し京すみくら(角倉)に仰ぎ、その一門の斉藤内蔵介の妹を嫁女とす。
よってその間に生まれし弥三郎十六歳の天正八年、内蔵介これを携え信長に目見得、その一字を賜り長宗我部信親となのり元服す」とあるくらいのもで、光秀の家老位の身分では、信長に目通り出来る訳もなく、
また四国全土を征服した元親がそんな低い地位の男の妹など貰うわけもない。
六月二日に斉藤内蔵介が叛乱しなければならなかった原因も、
(天正八年には四国全土の保障を長宗我部に与えておきながら、二年たつと三男信孝へ四国をやりたくなって約束を反古にし、信長は同六月二日、四国向け渡海船団を住吉の浦から出帆させることになっていたから、
何とかそれを阻止するための実力行動だった)のである。
これに加担していたから、つまりクーデターの資金を出した京の蜷川や角倉財閥は、後、豊臣や徳川の世となるや、その功により「角倉了意にのみ御朱印船許可」の特例をだしてやり、海外貿易の独占を許したのである。さて、「明智光秀」の著も出している日本歴史学会長だった故高柳光寿氏は、そういえば、その当時にはこういう例証がある、とあげて、「光秀が主殺しというのは、斉藤内蔵介の娘が徳川の権勢を握った後、その死後も孫の稲葉美濃守あたりが老中として威光を示していたので、春日局やその子孫への遠慮から、初めは斉藤内蔵介は光秀の家来ゆえ、主命でやむなく謀叛したと作り、それがエスカレートして光秀が信長殺しにまで変えられたのだろう。
次々と記入されたり、筆写されて伝わってゆく内に、それが定説化し、幕末頼山陽の『敵は本能寺』の詩吟が普及し、それで常識になったらしい」といった意味のことをあげていたが、
(斉藤内蔵介は四国渡海軍を牽制するため本能寺を爆発させた)ことの裏書きである。が、彼は単なる殺し屋で革命家ではなかった。
当時大阪城にいた四国遠征軍が解散するのを見極めると、これで良しと丹波へ引き揚げてしまった。そこで昼過ぎに上洛してきた光秀に対し、
「洛中が掠奪暴行の巷と化し、難民がこの時とばかり衆を頼んで火付けして廻ってる。今の儘では御所も危ない。事態収拾を計るがよい」と、恐れ多くも、時の正親町帝よりの沙汰が出た。
これが悲劇の発端である。
当時、信長の重臣は北陸、関東、備中に散らばって戦をしていた。今で言う戒厳令をしいて京の暴動騒ぎを鎮め、御所を警備する能力の在る者は他になかった。
利口者の徳川家康はマッチだけ擦ってさっさと領国へ逃げてしまい、兵を集めて愛知県の鳴海から津島間に布陣し、形勢如何と観望していたきりだが、律儀者の光秀はそうはいかなかったのである。
何しろ、これまでの織田信長という仏教嫌いの体制側の大黒柱が、髪毛一本残さず吹っ飛んでしまい、影も形も無くなったというので、「仏都」とさえ呼ばれる京の者達が喜び勇み、
それに便乗した浮浪者や難民の群が各所に放火し、乱暴の限りを働いていたのを眼前にして、光秀としては、
「大御心を安んじ奉るのが、この国土に生を受けし日本人の務め」と、直ちに坂本より従えてきた三千だけの兵で、同日の午後から御所を守護し、洛中へ警備兵の巡廻をさせ、治安維持の任に就いたのであろう。
俗説では光秀は浪々として困っているところを、信長に拾われてひとかどの武将になったごとく説く。
しかし言経の父、山科言継の日記の元亀元年二月の条には、「岐阜より三郎信長上洛、光秀の館を宿所にかり、三月一日には伴われ禁裏へ伺候」とでている。
山科言継は信長の父織田信秀が勝幡城に居た頃、京で食い詰めた蹴毬の家元姉小路卿らと共に頼ってゆき、そこで興行していたことも、その日記にあるから思い出し懐かしがって又日記に書き留めたのだろう。
 
さて今と違ってホテルの無かった時代故、信長は光秀の邸に泊めて貰ったらしいが、まさか単身ではない。
足利義昭を擁し上洛しているのだから身の回りの家来だけでも二百近くは側を離れずだったろう。
つまり光秀の京屋敷は収容人員二百も入れる大邸宅だったことになる。なお三月十六日には、三好義継、松永久秀の両名が供揃いを仕立て、二十四日には武田下野と和田維政が、
美々しい行列で取り巻かれた信長へ御機嫌伺いに行っている。
同年七月四日に上洛した際も、七日まで光秀邸に泊まっている。この頃から光秀は足利義昭の代理の恰好で、朝倉攻めの信長の出陣になど加わりだしたが、家来に未だなったわけではない。
翌年元亀二年十月二十九日に、岐阜城へ赴いた光秀に対し信長は銭二百疋を贈っているのも、給与ではなく礼金である。
が、当時の一文は時価で千円に当たるから、それは二百万円に当たる。前の宿泊料であろうか。
さて、御所へ信長を初めて伴い案内して行ったのは光秀だから公家達は、後光秀が彼に仕えるようになってからも、やはり同格位に見ていたらしい。
というのも、信長は本当のところあまり御所の役にはたっていない。逆に弓鉄砲の兵を率いて御所の中へデモさえかけている。ところが光秀は違うのである。
『御湯殿日記』と呼ぶ当時の女官が書き溜めた御所の記録によれば、皇室御料米山国荘を、宇都左近大夫が横領し、恐れ多いが飯米にさえ事欠かれた際、光秀は自分の米を運び込み、
内侍所以下皇太子誠仁さま以下女中衆にまで献じ、兵を率いて宇都を征伐した。
このため御所では、末の者に到る迄やがて山国米の配給を受けられるようになった。よって正親町帝は馬、鎧、香袋などを「その勤皇の志を嘉せられ」下賜された旨が出ている。
これは当然な行為であったかも知れない。が、天皇おん自ら勤皇とお言葉を頂けた彼は数少ない日本人の一人なのである。
だからこそ軍監斉藤内蔵介が、前もって従弟にもあたる玄蕃允と連絡を取り、奇蝶の助けを借りて挙兵。さっさと信長や信忠を吹っ飛ばして逃げてしまった後始末も、帝からの勅命とあればすぐさま、
「大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」と仰せかしこみ、明智光秀は大命に従ったのである。 
     【山崎合戦の嘘】 

正親町帝は先に勅令を下したもうて、その勤皇の志を賞した明智光秀が、粉骨砕身よく京の治安を安泰にし、御所の警備にも身を挺したのを欣びたまい、六月七日には勅使を派遣された。
使いに立った公卿は、神祇大福の位を持つ吉田神道の右衛門督兼和であった。のち彼はその名を兼見と改め、秀吉よりの摘発を恐れて、二重帳簿ならぬ二重日記を作った。
だからその『兼見卿記』には、七日に光秀の許へ行き八日に戻ったことのみ記入し、何の伝達だったか明らかにされていない。
さて、大命降下を受けた光秀は、本城の丹波亀山へは斉藤内蔵介が頑張っていて戻れぬから坂本へ戻った。そして斎戒沐浴してから六月九日朝上洛。
公家百官に迎えられて禁裏に伺候し、御礼として銀五百枚を献納した。余程優渥な勅命だったらしいことはこれでも判る。ついで京五山と大徳寺へ計二百枚の銀を光秀は贈っている。
これが問題である。ヨーロッパで中世の王様が即位するときに、法皇庁からの受洗をうけ、神に誓ってから王位に就き、一定の額を奉納する風習があった。が、足利将軍家も何故か、
五山と大徳寺より「受禅」なる洗礼を受け、征夷大将軍に任ずる慣習があった。そして、その際に贈るのが銀二百枚の定まりだったことは、伏見宮さまの『看門御記』にもはっきりでている。
今までこの間の解明は誰もしていないが、光秀が正親町帝に五百銀を献納してから二百銀を奉納しているのは、従来の古例に則したものと見れば、「六月七日の勅使派遣の大命降下」たるや、
征夷大将軍への宣下ではなかったろうか。寿永の昔、後白河上皇へ強要し、征夷大将軍の位を得た旭将軍木曾義仲のことは僅か在位数日でも記録に残っている。なのに帝自らの思召しで、
六月九日に正式にお受けし、旧来の風習通りに手続きもした光秀の記録は何処にも伝わってない。これは取って代わった秀吉体制が極めて厳しく、
大徳寺や京五山の寺院記録も、吉田兼見卿記同様に、やはり二重に書き直したらしい。
有名な斉藤道三入道の忘れ形見なのに、玄蕃允がさっぱり知られて居らず、奇蝶を仇として狙った織田信雄が放火したのさえ、安土の町の人々は今も知らずで、
不勉強で無責任な歴史屋さんの説を教えられ、「光秀に焼かれ、それから町はすっかり寂れたのだ」と、国鉄の駅の所在地なのに旅館もないことの言い訳にしている有様である。
さて、『兼見卿記』や『多聞院日記』によると、光秀が「大御心を安んじ奉ろう」と、御所へばかり詰めている内に、六月二日の本能寺の変を素早くキャッチした秀吉は、
三日の内に対戦中の毛利家と講和を結び、四日の朝に備中高松城を開城させて、直ぐ備前へ引き返し、七日には居城の姫路へ戻っているのである。そして改めて出動準備をし、
九日には兵庫まで兵を進めてきた。『秀吉事記』では、秀吉は亡君の仇討ちをするのだと、髷を切って弔い合戦として長躯尼崎まで出陣したというが、
光秀はこの時、(自分へ加勢に来た)ぐらいに考えていたらしい節がある。
前後の事情からすると、秀吉も九日までは光秀を討つ気ではなかったらしい。が、九日になって、「光秀へ征夷大将軍の宣下」と聞いた時から、秀吉の心境は一変したようである。
何しろ武門の者にとって、その地位は最高のものである。(この儘ではこれまでのライバル光秀へわしは臣従せねばならぬのだ)と狼狽して「何が何でも光秀を倒さねば」と決意をここで決めたものらしい。
家康の光秀贔屓から、「家康側近の天海僧正こそ、あれは助けた光秀の変名で同一人物」などと噂されたのだろう。ところが家康が、
斉藤内蔵介が殺されるまで自分の名を出さなかったのを徳としてその末娘ふくを探し出し春日局にしてしまったから、父内蔵介を庇いだてするため、
前章で説明したように「信長殺しは光秀」と又されてしまったのだろう。そして現代になっても徳川史観そのままで歪められているのだろう。
が、正親町帝の大御心にそい奉って、草莽の武将として散華していった明智光秀が埋もれていた勤皇の士として、やがて再評価される日は遠くあるまい。
坂本城で明智秀満つまり講談で言う明智左馬介が安土城の奇蝶御前の保護をとりやめ坂本へ戻ってきたところ山崎円明寺での事を聞き、己が妻女や光秀の妻しらやその子らと共に爆死した。
丹波横山にいた秀満の父は木村吉清が捕らえたという。だが、秀吉は他の者まで殺しただろうか?信長とは違い秀吉はチャッカリしていたゆえ、
捕らえた明智の生き残りは奴隷として海外へ売り払ったのではあるまいか。アルジェリアの十五世紀の古城への石段が日本式に左右がストレートで、桔梗の紋がマーク化して入っている。
だから明智の残党の男供が奴隷として鞭打たれ造った物と想像できる。
【補記】
「日本の特殊発生史」には写真入りで出ている。リルケ航海王の碑の近くにある修道院の塔にも何故か北畠のカタバミ紋が小さくつけてあり、これらも写真で見られる。
日本から大量の奴隷輸出が存在したという事実は、日本では伏せて隠匿されており、一般の歴史書には出ないのであろう。