新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

愛は襤褸(らんる)の如きものか

2019-09-05 09:55:12 | 新日本意外史 古代から現代まで

愛は襤褸の如きものか

 過日、若い娘さんたちと色々話す機会があった。みな18~20歳でそれぞれ個性的で魅力的な女性である。
新人類だ、アホバカOL、イケイケギャルだと、彼女たちの俗称は芳しくない。
実際、欲望と虚栄、損得と感性だけで生きているような手合いも多い昨今である。欺瞞の愛や、陋劣な日常を送る唾棄すべき女も目に付く。
今や21世紀、日本の政治も経済も弱りきり、拝金主義が跋扈し、世界は環境汚染や、独裁的指導者が現れている。
アメリカもヨーロッパも中国、北朝鮮、ロシア、韓国と、自国第一主義を掲げる指導者の振る舞いは危険である。
なにやら人類終末の感がしないでもない。
しかし、こんな時だからこそ、真剣に人生に向き合い、悩んで居る女性もまた多いのである。
〇「将来は余り明るくないので、だから今の内に素晴らしい恋愛がしたい。しかし
日本の男は頼りない。海外へでも行かなければダメなのでしょうか?」
〇「愛があるならとしっっこく彼から求められて困っている。愛とは・・・・する事なのでしょうか?」
〇「孤独でやりきれない日々を過ごしている。どうしたら恋人が出来るの?」
〇「将来を誓った彼に逃げられて殺してやりたい。惚れると愛するとはどう違うの?」

こんな相談を受けると、かなり凄まじい生き方をしてきた筈のオジサンとしては、なにやら感傷的にもなってしまう。
 野村監督の奥さんがやっていた「怪傑熟女」のように快刀乱麻の回答はなかなか難しいものである。
さて、愛が何処にでも手近に転がっていて、直ぐにでも得られるものであるなら、何の問題もなかろう。また今日流行の「性愛」と「愛」とは異質のものであろう。
性欲は食欲と同じで、それは夜中に腹が減れば、冷蔵庫の中を探して冷たい物でも暖めて口に入れるし、普段は喧嘩ばかりしている女房でも、側に居ればやむを得ずそうするかも知れないだけの話である。
しかしそうしたからといって、そんな動機からでもする営みから、何かが芽生えたり永遠のものがあるとは考えられない。
愛などとうになくなったのに世間体や子供の為などと名分を付けて一緒にいる夫婦など、世間にゴマンといる。
どんなにかっこいい名目を付けたとしても、それは止むに止まれぬ行為とかやむを得ざる結果としか言えないだろう。
「人間が一人では侘びしくて寂しくてやりきれないのは孤独のせいなんだ」と思いこみ、「では誰かを見つけたら幸せになれるかも知れない」とするのが、愛の在り方のごとき錯覚をしている向きも多い。
だが、一人でやり切れない者が、二人になって結ばれたからといって、それはどうなるものでもない。
寂しさは消え去るどころか二乗して倍加されてしまう。となると『愛』とは何だろう。
ヨーロッパ的な考えで日本式の愛を掌握しようとすれば、それは「神へ捧げる愛」の一語に尽きる。
ゴルゴダの丘へ、罪深き人々の代わりとなって十字架を背負わされ、殺されていくイエスの行動を、日本の女は理解できず、ただ自分のフィーリングの合った相手との性愛を愛と想っている手合いも多い。
しかし、日本の男共が、日本の女が誤解しているように、神様みたいであればいいのだが、そんな殉教者的男性は先ず居ない。
なのに映画やテレビではまるでバーゲンのごとく愛の押し売りがされている。若い女性の流行かアクセサリーの如く(愛)(愛)(愛)の氾濫である。
しかし、映画などは、何処にでも在るような物語を題材にしては、観客動員が出来ない。従って
「スーパーマン」とか「ET」のように、現実にない虚構をどうしても売り物にする。これは取りも直さず「愛」が売り物になるのは、それ自体が現実に矢鱈とお目にかかれない珍しいものだから、と言う意味にもなる。
さて、日本の能天気なギャルは「パリは恋の都じゃない」と渡仏するので、日本女性が15000人の余も住みつき、その内8割までが同棲している事実がある。
だが、パリ野郎がみんなフランス人だということはない。
フランスは外国人労働者を受け入れているので、中近東やアフリカ人がパリには沢山住んでいる。
そしてフランス人は人種差別をしないことになっているが、「人種の区別」をする大変に誇り高い国で、純粋のパリ野郎は、東洋の文化の低い黄色いネエチャン等、先ず相手にはしない。
だから日本人女性と同棲している相手たるや、アルゼリア訛りやアフリカ、ヨルダン訛りの仏語を話すような連中なのである。
(尤も近年のグアム当たりでも、大挙して押しかけ、男性を買う女達は、白人、黒人の見境が無く、ガイジンなら誰でも良いという感じで乱れまくっているのを、
私は何度も目撃しているので日本女性の外人コンプレックスは相当なものである。グアムに30年も住んでいる ガンショップの中田社長も慨嘆していた。
つまり、よそもの同士が言葉は通じ合わなくとも、何処かはマッチするだろうと、一緒に生活しているだけなのである。
だからここでの、言うなれば愛とは、日本式に考えるマイホーム作りのような明朗快活なものではなくそれは空しく、悲しく陰湿な侘びしいものといえる。
だからそんな愛のために、やがては街角で腰を曲げてテラスの椅子に腰掛けるようになり、アフリカの娼家へ沈められるより、日本人同士が一番無難なのかもしれぬ。
何しろ愛の歓喜とは、単なる自己満足にすぎない場合の方が多いようで、他から見た場合、それがなんとも空々しいのは傍観しておれば良く判るものである。
しかし、本当の愛とはそんなものだろうか?また、愛するとは互いに極めて損得だけのものでありながら、何故に素晴らしそうに思いこまされ、それは謳歌されるのだろうか?

人類の終末に警鐘を鳴らす現象が世界各地で、様々な形で忍び寄って来ているのが感じられるのに、それを跳ね返すごとく盛んなのも、小説や映画やテレビの影響と言ってしまえばそれまでだが、
どうもまるで愛という言葉が愚民を扱う呪文のような感じもする。
今の儘でゆけば、自己愛だけの餓鬼の群の日本国になってしまいそうである。かって豪華客船タイタニック号が氷山に衝突して沈んだ際、夫は妻を、親は子をと、
乗客全員に対して30%の割でしか設備していなかった避難ボートへ乗せて退避させたと伝わっている。
つまり、愛の究極とはそういうもので、人間同士が互いに争ったり、罵りあったりするものではなかろう。
判りきったことだが、愛とは自己犠牲なので、決して相手を利用しよう・・・・等という横着なものではない筈である。
言い換えれば、公徳心、他人に対する思いやり、社会や地域に対する奉仕の精神、社会生活や人間関係を損得ではなく、善悪でとらえるモラル、という事にも繋がるのであろう。
だから男女がベットインする時のキャッチフレーズ等に利用せず、大切にしなければならないのであると思う。