新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

太閤秀吉と女達の物語

2019-09-24 18:46:27 | 新日本意外史 古代から現代まで
太閤秀吉と女達の物語

「この世の中に女ごはごまんと居る。しかしわしには、なんしたのだけが女ごで、そうでないのは女ごでも何でもない無縁の衆生だ」
と、秀吉が口にしていたという話しが、江戸時代に刊行された『雨窓閑話』に出ている。
つまり一度でもセックスしたのは女と認めても、そうでないのは女扱いはしないというのだ。
成程言われてみれば男としては至極当選な話しだが、えてして一般の男はそこまで実存的というかこうも割り切れる者は少ないだろう。
世間では、まま、どうしても、女が川や海で溺れていると聞けば「若い娘か、婆さんか」と尋ねたり、若い娘が死んだと知ると惜しがったりしてしまう。
つまり道を尋ねられても若い娘なら、親切に教えてしまいたくなる心境をもっている。
つまり男は誰でも何かの係わり合いか、きっかけがありさえすれば、未知の女性とも親しくなりうると、その可能性の限界をはてしなく広げて考えたがるものである。
なのに秀吉は、はっきりとそこに一線を引いてしまい、
「何でもない女等は、自分としては女とは認めぬ」
きわめて明快に男として区別しているのである。
だから誠に毅然たる態度で(男の中の男)といった感じ方さえもされる。
しかし実際はそんな恰好の良さではなく、もっと現実的なことだったらしい。
つまり若い頃の秀吉は、稗が食えるようになると喜んで「ひえよし」と名乗り、織田信長に仕え小者の頃は藤蔓織りの御仕着せが嬉しくて「藤よし」を名乗っていた。
そして木下家に養子に入り寧々と結婚して士分となると「藤吉郎」を名乗るようにもなるのだが、貧乏で、全く女にはもてず、いくら他の男が若い女を見てやに下がっていても、
「無駄なことをしてもあかん」と、いつも虚しい結果に自分は終わるのだという苦い目にあい、そこで
諦めの境地になっていたのが、その原因でもあろうか。
なにしろその『雨窓閑話』では、秀吉が寧々と一緒になる前に肉体関係の有った阿伊、きく、まんの三人の女の話が出てくる。
     藤吉郎と三人の女達
どれも藤吉郎と呼ばれた頃の彼の風采の上がらなさや、先行き出世も見込めぬ心細さにか、見切りをつけて、さっさと去っていった女達でる。
だから普通ならば、太閤秀吉となり大出世したのだから、「ざまあみろ」と放って置くのが人情なのに、昔、何度かセックスをした女だということで、松下加兵衛の弟の源太郎に命じて探させている。
処がこの内、河野治右衛門の娘のきくは、
「今更なんで、お目もじ出来ましょうや」と、女の意地であくまで拒み通した。
まんの場合は、祝言をあげたが、秀吉に抱かれるのが嫌で、そのまま蒸発して行方不明になっている。
しかし百姓娘の阿伊の方は、すっかり喜び勇んで、
「やっとかめだなも」と尾張弁で、又よりを戻しても良いような顔で、当時秀吉が住んでいた聚楽第へきている。
それに対して秀吉も懐かしそうに、「おみゃあさんも婆様になりやあたな」やはり尾張弁で労わりの言葉をかけ、彼女を母の大政所の許へ預けておおいに歓待している。
普通の男には出来ないような真似を、秀吉は平気で気さくにしている。
まんの場合は、祝言をあげたが、秀吉に抱かれるのが嫌で、そのまま蒸発して行方不明になっているから、これはさすがに放りっぱなしにしている。しかし
 その時の仲人の伊藤右近の老夫婦にだけ当時の礼をしている。
この子孫は、大阪落城後は本田美濃守忠政へ二百五十石で仕え、その家系は今も続き、
太閤より拝領の品を家宝となすと《雨窓閑話》にある。
さて、なにしろ
「・・・・・・女にもてるヤツは出世しない」というけれど、そのせいか秀吉は、小谷攻めの時はまだ
横山砦にいたが、やがて立身して近江長浜へ五万貫の城主として移ると、「わしは若い頃には女には散々ふられた。だから貸しがあるんだ」と、城内の腰元や領内の娘を、
「・・・・・わが女ごになれ」と相当派手に片っ端から乱行をしたらしい。しかし一世の色豪と謂われた故菊地寛が「男が女に報いてやれるのは金だけだ・・・・」
と名言を吐いたごとく、それぞれの女には過分な手当てや褒美を出している。だから女達は別に恨むどころか、結果的には大喜びをしたらしい。
藤吉郎の妻寧々の立場
 

しかし、後に正妻になった寧々としては立場上これは面白くなく、
「拝啓信長様へ」と至急親展で、秀吉に説教してくれるように手紙を出して訴えている。
 それに対して信長からは折り返し、
「藤吉郎には、かねて其方ごときよき女はいぬと申し付けてあるのに、あの禿げ鼠めは其方をないがしろにして、他に勝手なことをしくさるとは、けしからんことである。よく当人にも言って聞かせるが
 其方も辛抱せよ」という信長の手紙が今も残っている。
 藤吉郎が出世して、近江長浜五万貫の城主になったら、浮気をしだしたというのである。
だが口頭ではなく、こういう手紙を出すということは明らかに長浜の寧々から、当時はまだ岐阜城に居た信長のもとへ訴えの手紙を出してからの、これは返事なのである。
しかし今日のようにポストへ投函したら、郵便局で配達してくれるような時代ではない。
寧々の方は文箱に入れたものを侍女に持たせて、恐れながら届け出たのだろう。
が、信長の返信は、いかめしい御用当番の武者が今の岐阜から滋賀県まで馬を走らせ、「ご上意でごさるぞ」と届けただろう。
さて、現代の解釈では、
「信長は藤吉郎に目をかけていたから、それを庇うため悋気する寧々に手紙まで送ってこれを慰撫したものである」と、藤吉郎の人間評価を信長が早くからしていた。
だからこそ、秀吉になっても藤吉郎はその恩を忘れず、信長が殺されるや電光石火にとって返して、
その仇討ちをしたのだという、報恩美談の資料にさえ、この手紙は利用されている。
しかし、一家臣の妻である寧々が、今で言えば社長に当たる信長に対して直接に、「うちの夫は浮気をして困ります」と手紙を出すということは、いくら家族主義を標榜する会社でもまあ無いことだろう。なのに、
「君は素晴らしい女性である、といって結婚させたのに、もう浮気とはまことにけしからん」と、
 それに返事をする社長がはたしているだろうか。 
もしそういうケースがあるならば、おねね婦人というのは、以前は社長秘書であって親しかったか、もっと信長社長とは密接で、肉体関係まで在ったと考えざるをえない。
 『高台院実録』によると、お寧々が藤吉郎と杯をあげたのは二十三歳である。
この時代の女性の結婚適齢期は現代と違って早く、十五、六歳である。
すると寧々は七、八年も何をしていたかということになるが、この当時の寧々の実家は、父は武者奉行で、兄の勘平は、鉄砲奉行で「青ひいらぎ五枚葉」の旗を許され、弟の小市は「放れ駒」、下の雅楽助も「天狗面」の旗を背にさせる程の者達であった。
俗説では、「御弓奉行浅野又右の養女として藤吉郎に縁づき、入れ代わりに、寧々の妹のいねが
又右の跡目の長吉(後の浅野弾正)の嫁にくる」とはなってはいるものの、「上の寧々が養女ならば、代わりに来た妹も、やはり養女であるのが妥当なのに、なんでそれは長吉の嫁なのか」と常識で考えるとおかしい。これは当時の足入れ婚なのである。長吉の嫁であった寧々が、子供が生まれぬからと離縁されて、妹が下取り交換で来たと見るのが確かなのである。
寧々は長吉の前には丹羽五郎左とも仲がよかったらしい。他にも多いようである。
そうでなければ藤吉郎も、そう早々と浮気はしなかったであろう。
なにしろ、処女尊重思想などは、元禄時代の儒教が入ってきてからのもので、今日の一夫一婦制度もきわめて最近のものなので、戦国時代の女達などは、一妻多夫も案外平気だったらしく、現代より遥かにのびのびしていたのらしい。
            英雄色を好む
  
こうして見ると秀吉は、一度でも関係した女に対しては、何でもない女に対するのと違い、親切に思いやりのある態度をとった男のことゆえ、
「そなたは良き身体をしている」とか、
「わしは生涯そもじのような佳き女の事は、忘れぬだろう」等と口にしていたらしい。
だが天正十年に信長が爆殺され、秀吉が天下を取ると今度は晴れて美女狩りを始めたようだが、実際には自分から目をつけて指名したのは、
蒲生氏郷の妹のきね十六歳。
京極高次の妹のまつ十七歳。の二人だけだったといわれる。といって蒲生の妹の方は美女というほどでもなかった。
布施藤九朗という名で、妹には許婚がまさに居て、非常に信長の気に入りで、小者時代の藤吉郎を見下し馬鹿にしていて、藤吉郎に対して不快を与えるような態度をよく取っていたので、これが癪に障っていた、秀吉は仕返しのようにきねを召し上げたのだという。
 初めは蒲生氏郷に対して、藤九郎を始末するように命じていたが、きねが閨中で、秀吉に懇願したので死一等を減じられ追放処分にしたという事が『信長公記』につぐ『当代記』にも詳しく出ている。
京極の妹のまつはそれに比べ、後には「松丸殿」と呼ばれていた美女だった。
というのは、たいていの女は一度だけで後は召しだされていないのに、彼女だけは相当長期間にわたって寵愛を受けている。美しいだけでなく何かがあったのだろう。
さて、だからといって秀吉が、稀代の色好みというのでもなかったう。
よく、「英雄色を好む」といった例に彼は直ぐ引き合いに出されるが、これは常人の一般的解釈ととは、全く実際は違うのではなかろうか。
 ナポレオンは一日に睡眠三時間で鞍の上で仮眠したというが、何しろ英雄なるものは秀吉もそうだが、きわめて多忙なのである。
 しかし凡人も偉人も一日二十四時間しかないのである。
八時間働いて八時間寝て八時間は自由に、といったことが彼らに出来よう筈がない。
 だから女と何する時間も、そんなに余裕があったとは考えられない。
おそらく睡眠でさえ普通の者に比べれば僅かだったろう人間が、その限られた貴重な横になれる時間を
割愛してまで、夢中になって色事に没頭できよう訳はなかろうと想う。
         秀吉に献上された女達
 さて初めは一本の煙草で目まいがする。が馴れて来ると日に十数本もふかすようになる。
これを効用逓減の法則というのだが、男女のこととて、やはりそうだろう。
といって初めは一人の女で満足できたのが、次第に何十人も欲しくなるというのではない。
女と違い男の性は反対で、詰まらなくとも短時間であればある程きわめて爽快なのである。
だが同じ相手と繰り返していては刺激がなくなるのか、所要時間がどうしても長くなる。
そこで多忙な男は、それにうつつを抜かして居る時間が惜しく、ただ済ませればそれでよいのだから、
ついことを早く処理する為に刺激のある違う相手をと、急がしいゆえに求めたのだろう。
これゆえ、英雄色を好むとまるで逆な見方をされるのだが、これは凡人の嫉みでしかなかろう。

 故信長の忘れ形見のおまる殿、信長の弟信包の娘の伊勢殿。前田犬千代と呼ばれた頃から知り合いの利家の娘のまつ殿から始まって、何十人もの若い娘が秀吉の許へ集まった。
 といって、秀吉がなにも命令して、「娘を献上せよ」と収集したのではない。それぞれ己が身可愛さの為、権力者に取り入って己の身を安泰に保つ為、即ち自己保身の為に娘へ因果を含め、「親の為である」とか「家の為」といって送りつけてきたにすぎない。
 以前作家の故吉行淳之介が、何かのエッセイで、バンコックの娼家の話を、「会話の通ぜぬ間の行為は、排泄でしかない」と書いていたが、五十余歳の秀吉と十四や十五歳の娘との間では、通じ合う会話などあろうはずはなく、唯そこに介在したのは、忙しい秀吉の排泄のみだったろう。しかし、本当のことを言ってしまえば、「身も蓋もない」という格言もある。
それに、十四や十五の小娘だけでは、秀吉の好色話にはならない。
そこで実際は、まだ夫の万代屋宗達が健在だったと『蓬源斎書上げ書』にも明記されている吟女をば後家にしてしまい、これに秀吉が懸想して振られたから、その怨恨で吟の父の千の宗易を殺してしまったのだと
作話する歴史屋も居る。
 だが親達の免罪符として、若い娘達が次々と届けられてきているのに、いくら話し相手になりそうだからとて、
三人もの子持ちの三十四歳のお吟などを追いかける暇が、多忙だった秀吉にあるはずはなかったろう。
         淀君の場合

 さて次に淀君だが、これまでの通説では
     「大阪落城の際、元和元年、三十九歳で死す」
とされ、それに合わせるため、十四歳で側室になり、翌十五歳にて秀頼を産んだとするが、その前に三歳で亡くなった鶴松を生んでいる故、これでは、
「淀君は八歳でまず第一子を受胎した」ことになるのてある。
 さて、彼女より四歳年下の末妹の嵩源院が「寛永三年九月、五十四歳」で死亡したのは、
『徳川台記』や『僧上寺記』に明白である。だからそれから逆算していけば、最初の出産は、
「二十一歳で、秀頼を産んだのは二十五歳」といった勘定が正しい。
 他の姫たちが十四や十五で御床御用を申しつかったのに、二十歳の時まで淀どのが放って置かれ、秀吉に相手にされなかったのは、これまた俗説と違って彼女が美人ではなかったからだろう。
 母の於市が美女だったのは有名な史実だから淀もそう見たがるが、遺伝学的に長女は父に似るといわれていて、大男だった父浅井長政に似て、彼女は骨太の大女だったらしい。
大阪御陣の際、緋縅の大鎧を着け、五十人の武装した女達を引き連れ、馬上から兵達を督戦していた事は、
『当代記』や『大阪御陣記』にも出ている。
細っそりした美人という感じではなく鎧姿の似合う女丈夫なのである。
また、「幼女や少女を相手にしたがるのは性器短小な男の特徴である」と今の医学書にはどれにもある。
すると秀吉はどうもその傾向だったらしいようにも想える。
なのに何処からも嫁の貰い手が無く、大阪城二の丸に居候していた大女の淀を、己の好みの型でもないのに呼んで、秀吉が忙しいのに無理をして抱いたのは誰かの策謀としか思えない。
これを当時の時代背景から推理すると、秀吉は己が日本国の原住民系の天皇になろうとして、
京の中心に、「古臭くむさ苦しい御所は好かん」と新御所として絢爛豪華な聚楽第を造った。
 この動きに危機感を持って、打倒秀吉を叫んだが、御所の穏健派に京を追われた、権中納言山科言経の仕業だと想われる。
彼は大阪の中ノ島に住み、薬草栽培や薬を作り、医者の真似事や観相や易までしていた。
のち、楠流軍学をひろめた楠長音は、言経の義弟の子供にあたり、その著の、『豊家滅亡由来之次第』には、秀頼は秀吉の種ではないということを高台院(寧々)へ訴え出たという事が出ている。
これは非常に興味深い重大な話だが、未だ歴史屋共はこれを解明していない。
それでは本当の父親は誰かとなるが、大野治長らしい。
日本歴史学会会長だった故高柳光寿博士の「戦国人名事典」によれば、
この大野修理太夫(治長)とは、秀吉の馬廻だった。天正十九年十一月秀吉の三河吉良へ狩猟の際警護として従う。文禄三年春伏見城の工事を分担する。当時一万石。
 慶長四年正月秀頼に伺候。同年十月徳川家康を殺そうとした容疑で、下野結城に追放されたが、
翌年関が原の役が起きる前に釈放され、家康の会津征伐に従軍してる。
 のち秀頼に仕え、大阪の諸事を奉行した。元和元年五月八日大阪城に自殺して秀頼に殉じた。
(関原覚書、関原軍記大成、続本朝通鑑、駿府記)
 これでも解る様に、大阪落城の猛火の中で淀と秀頼、治長の三人はまるで親子心中のように焼け死んでいったのも、血のつながりと見れば理解できる。
だから寧々は、淀君への嫉妬というより、「由なき血脈に夫の後を騙られんよりは」と、
関が原合戦からは家康に加担し、豊臣の血を絶やしている。
『梵瞬日記』や『東武実録』には、
 「寧々が故秀吉の未亡人でありながら裏切って、家康から改めて河内一万六千石を貰ったのは奇怪」と出ている謎もこれなら解ける。
 しかしケチな家康は約束を守らずほおって置いたので「早く約束を果たせ」と催促がうるさかったため、
「うるさきばばあめっ」と持て余したという逸話が残っている。
 つまり英雄秀吉も伝説とは違い女運は良くなかった。
しかし男として性器短小なのが秀吉のような英雄になれる条件だというのは判る気がする。




 

渡辺崋山の門弟メキシコへ渡る その名を佐波多三平という

2019-09-24 09:43:07 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
渡辺崋山の門弟メキシコへ渡る
その名を佐波多三平という

渡辺は号を崋山と言い、本名は登という。
渡辺の家は田原藩三宅家一万二千石の代々の家来で、登も寛政五年九月に江戸藩邸で生まれている。そして文化十一年には納戸役になり、
父の定通の死後は家禄八十石を継いだ。その後文政九年に番頭になり側用人を兼ね、天保三年五月からは家老になり百石の加増をの他に、役扶持二十石がついて二百石となった。
二百石というのは他家ではたいしたことはなくとも、ここでは大身である。だからその頃は奉公人も多く十人ぐらいは居た。
 ところが二年前、江戸町奉行鳥井耀蔵の「蕃社の獄」が起きた。これは、山口屋金次郎という町人だが蘭学好きの者が、今日の小笠原群島が無人島だったのに眼をつけ、
ここへ船をだして開発するという計画だけにすぎなかったのだが、幕府に、
 (怪しい、南蛮人とそこで交易して御禁制の煙硝などを入手し、火薬を製造なして謀叛を企てるのではあるまいか)と勘ぐられた。そして、鳥井耀蔵はこれに、
 (これらと気脈を通じているのは、かねて内偵中の『尚歯会』ではあるまいか)と嫌疑をかけた。
 鳥井耀蔵というのは幕府の儒者林大学頭述斎の次男から、鳥井一学の許へ養子にゆき、天保八年に目付役となって、新しく勃興した和蘭学に対しては、憎悪しかもっていない男である。
 (時こそ来れり。これで和蘭学をやる者をば一網打尽となし、もって儒学万能の世に戻すべき好機ではないか)というので、町奉行になると老中水野忠邦を説きつけ、
「小関三英、高野長英」といった尚歯会の面々を召捕ると、ついで譜代大名田原藩三宅家の家老渡辺登まで逮捕してしまった。
 しかし尚歯会と山口屋金次郎との繋りは、いくら取調べても証拠もでてこない。といって、せっかく召捕っ者を、(見込み違いであった)では牢から出せぬ。
 その内に渡辺登が「崋山」と号して絵をかいている方の知り合いで松崎慊堂というのが、「あれは、まったくの濡れ衣でござれば」と水野忠邦の許へ訴えでた。
さて渡辺登は三英や長英と違って、小なりといえど御譜代大名の家老職である。なのに、それを強引に伝馬町の牢へ、いつまでも入れておいては、他の大名への気兼ねもできてくる。
そこで天保十年も押し迫った十二月。
七ヵ月ぶりで牢から出された渡辺登は、受取りにきた帝鑑間詰三宅備前守の手勢にかこまれて、小石川下屋敷へ移されると、そこで五日ほど牢内でうけた疹創などの手当をなし、
そこから七十五里九丁の道のりを、三州田原へと送られた。そこでひとまず自分の屋敷へ入れられたが公儀を憚って三宅家では座敷牢の代りに、竹矢来を家の中の登の居間の周囲につけた。
投獄と同時に家老職はとかれていたから、役扶持二十石と加増の百石はなくなり、もとの八十石になっていたが、それとても、
「ご遠慮申し上げ」ということで、渡辺家ではその元扶持さえも辞退していた。
だから、かつては十人の余もいた奉公人が今では女中の芳と、内門弟の佐波多三平の二人きりになっていた。

なにしろ渡辺登が田原へ送られてきてから二年たつ。
 抉禄を辞退し一文の収入もないのをみかね門人の福田半香が崋山の紙幅をもって、書画会をひらき、よって米塩の資に当てようとした。
しかし鳥井耀蔵の許から廻されている下目付が、これを見逃す筈もなかった。
 福田半香は召捕られ、崋山の書画はもとより、門人の椿山や琴谷のものまでが、ことごとく公儀に没取されてしまい、しかも、
 「不届き千万なり」と江戸半蔵門外三宅備前守上屋敷へ、鳥井からの苦情がもたらされ、「お国許の取締方不行届き」をいってきた。しかもその上、鳥井耀蔵の嫌いな伊豆韮山代官江川太郎左衛門のため、
「西洋事情御答書」などのものを、渡辺登が書いて渡しておいた写しまでが入手されてしまい、このため吟味に改めて江戸表へ呼びだしとの噂も伝わっていた。
 だから陰鬱な空気が、まるで澱むように家の中にわだかまりきっていた。
 なのに珍しく渡辺登が、自分から顔を剃るなどといいだしたので、そのじめついたような雰囲気が、まるで切り裂かれでもするように、ほっとした和やかさがかもし出されていた。
この時、登は覚悟を決めていたのか、三平を呼んで、
「ノヴァーイスパアナつまり今のメキシコ国だな、その昔、伊達政宗の使節として訪欧した支倉常長の一行の者が土着して、今でもその子孫が(ハポネというのを作っているそうだ。
高野長英がなんとかして渡航しようと企てたが、策ならず、ついに召捕られてしまったのは知ってもいよう…。しかし誰かが海外へ渡航して、この日本を新しい目で見なければならん。それが若い者の勤めだ」
そして続けて、「メキシコは遠い。万里怒濤の彼方だ。しかしこの田原から赤松の山をこえ本前の浜へでれば、遠江灘、そこの沖合には、いつもメリケンからの船やイスパアナの鯨とりの船がきている。
福禄寿を祀っているつているメノウ社の氏子連は、そっと鰯船をこぎ出しては水や野菜をそれらの夷狄船へ内緒で売りつけているという。三平は田原街道に面した江比間の生れで、
えびすを祀る浄道社の氏子じゃから、同信心ゆえ巧く頼めば物売り船へのりこめ紅毛船へ近づけるし、秘かにメキシコへ渡れもできよう」と話した。
 
この、田原藩のある渥美半島というのは、今は伊良湖岬の灯台で知られているが、ここは現在でも七福神の一柱ずつを祀る拝み堂が、半島を七分しているような特殊な信心地域である。
 つまり伊勢湾につきだし遠江灘をもって太平洋に面した渥美半島は、旧幕時代は三河に入り大久保彦左衛門発祥の地であり、馬伏塚の一帯は、
久世三四郎や加賀爪甚十郎といった旗本白柄組の在所でもあった。
 だから徳川家にとって縁故深い所ということもあるが、課役や年貢のない別所地帯だったので、ここは鎖国時代でも密かに南蛮船に薪水を売ることなどは黙認されていた。
渡辺崋山が三十二歳からオランダ学を志し、家老になった後もそれをやめず、英艦モリソン号来日の報をきいて、それを撃ち払おうとする公儀の暴挙を諌めようと「慎機論」をかいたのも、
実はこうした土地柄が背景にあるのである。
田原藩は家康と深い関係があった
崋山自害す
 ふつうは一万二千石位の大名では城などないのが多いが、ここは昔、徳川家康が幼い頃に今川へ人質にやられるところを、奪い返した戸田党の本城という事になっているから、
板ばり二階だての小城だが昔ながらの建物があった。
 もちろん実際のところは、松平蔵人元康の子供を今川義元が人質にしようとしたのを戸田党が奪って尾張熱田の加藤図書の許へ伴い、織田信長が己が子同様に可愛がった。
そして実子の奇妙(信忠)茶筅(信雄)三七(信孝)と一つにして遊ばせ、娘が生れるとこれを娶せようと、その女子には五人で仲良くせいやいとの意味合いから、
当時いろりの灰の中へ入れて鉄瓶などをのせるように考案された物から名をとり、これを、「五徳(姫)」とよんだ。
 つまり田原城の戸田党が今川へゆく人質を奪った幼児というのは、松平元康の子供でのち、岡崎三郎信康と名のる方である。
 つまりのちに徳川家康を名のる男というのは、桶狭間合戦の直後に松平元康が家来に殺され、後始末に困った未亡人の築山御前に巧く交渉して替玉となり、
清洲城へゆき信長にあって和平条約を結び、その代りに人質の三郎信康を取り戻してきた人間である。
 徳川時代に作られてできた「神君家康公の伝説」のように、(家康が、築山御前の夫で、三郎信康の父親だった)としたら、これは驚くなかれ、「十五歳のときに生れた伜」となるし、
その前に奥平信昌に嫁ぐ阿亀姫ら二名の娘もいるから、そうなると早熟にも、「十歳のときに阿亀姫を受胎させた」ことになってしまう。
 しかし、これではいくら徳川家康が精力絶倫でも、
「せんだんは双葉よりカンバシ」と考えても十歳で長女、十二歳で次女、そして十五歳で長男を作って、三人の父親というのは若すぎる。
近頃は小学生でも栄養がよくなって初潮をみる子も多いというが、男子が小学校の三年生ぐらいでパパになるのはいないといってよい。
 なにしろ、こんな例は世界史上皆無で、「スフィンクスの謎」など比べようもない。今と違って昔は男に生殖機能が働くのは、早くても十五歳位からゆえ、こじつけである。
日本人というのは知能指数にしろ、全ての点において、地球上では最優秀の民族に属する。それなのに、いまだに、底意地の悪い外国のインテリから、
「ジャツプ」「ヤポン」といわれ、未開扱いなどされる真相は何かというと、「彼らは、まるでアフリカや中南米の土人と同じように、荒唐無稽な伝承を信ずるという愚かさを、
歴史という名でまだ保っている。だからとても尊敬すべき友人とはいえない」と、
 英国の歴史家アガサーが、その答えをはっきりうち出している。つまり、「西暦一九四〇年の時に、日本だけが、皇紀は二千六百年」とお祭りをやったり、
「欧米人の目からみれば、後光もさしていないし羽もはえていない、一人の人間にすぎない方を、神としてまつりあげたり」するのがいけないというのらしい。
 日本人として腹のたつ話だが、なにしろ敗戦後七十三年たってさえ、
「信長さまのお指図で、わが子三郎信康と妻の築山御前を討たねばならぬ、この家康の苦しさを、うぬら家来にはわからぬのか」
 といった山岡荘八のデタラメな本が、(経営者の参考に)などと売られる日本人ゆえ、「……ちいとばかり可笑しいのと違うのか」
 と、歴史方面で低開発国扱いをされているのが、本当のところだが、これは国民が悪いのではない。宇宙へ人類が移住計画の時代に、チョンマゲをつけた江戸時代とすこしも変らぬ歴史観が、
まかり通っているせいらしい。これでは軽視をうけてもまた止むを得ない。なにしろ、
「……徳川家康は後見人の立場で自分は浜松にあって、三河岡崎城の三郎信康の成人を見守っていたが、やがて岡崎を相続させるのが惜しくなり、信長の命令といつわって、
彼とその母を殺した、これは外国ものの推理小説にも多い話である」と、はっきりしていて、これが後に「信長殺しの真相になる」のだが。
 しかし、渡辺崋山の時代の田原藩では、(家康に殺されることになる岡崎三郎信康を助けて尾張へつれていった話)よりも、(家康と松平元康が同一人だった)というこじつけが徳川家の御為にと、
まかり通っていた時代だったから、その方が好都合とばかり、「当城の先代戸田党は、神君家康公を」というのを誇りにしていたのだろう。
崋山は、お家に迷惑のかかることを案じて、頸動脈を見事に切って自害した。「不忠不孝、渡辺登」文机の上に遺言が書かれのせられていた。
だがこれが田原藩では問題となった。というのは、謹慎中の者が勝手に自害するのは、公儀から預かった囚人の監視不行き届きで幕府からの咎めがあると騒ぎになったのである。
城代や目付たちが、己たちに責任が及ぶのを恐れ、側近くに勤めている崋山の母親や佐波多三平を責め、三平に討手がかかることになった。
これに反発した母親は崋山の遺志を継いで、三平を逃がすことにした。
崋山が死んだのは天保十二年十月の十七日。当時女中の芳と好きあっていた三平と芳が、高松浜の鰯船に乗り、沖のスペイン船へ乗れたのがその月末。
それから太平洋を渡り現メキシコのマサトランに近いナヴィタの浜へたどり着いた。だが、その頃のメキシコは荒れに荒れ狂っていた。
メキシコ革命児
此処から少し当時のメキシコとアメリカの歴史上の関係を見てみよう。
西暦一五一九年、キューバ総督の命令をうけたエルナン・コルテスのスペイン軍が兵船十一隻を率いて、カンペーシェ湾に上陸すると、ここをば総督の名をとって、
 「ヴェラークルス」と命名。
  すすんでメキシコ全土を占領して、スペイン国王チャールズ一世の新領土としていたところ、日本の文化七年になると内乱が始まった。このため文政四年から国王になっていたイズルビデが倒され、
天保三年にはサンタ・アナが独裁政治をしいた。そこで天保七年には、ついにメキシコのテキサス地帯が、叛旗をひるがえしだして、隣接する新興アメリカへ、「合併したい」というような騒ぎになった。
もちろん自国の一地方が勝手に他国へ身売りをしたがったからとて、それに、「よろしい」と許可を与えるような国はない。
 なにしろ事の起りというのも、「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」のメキシコ政府の方針が、「カトリック教の信仰。そして奴隷解放」の二つで、これがいわば国是のようなものなのに、
アメリカと境を接したテキサスへは、どんどん海外から新教徒移民が流れこんできては、平気でプロテスタントの教会を建て、これまでのカトリックの旧教僧院を迫害した。
 その上、彼らはテキサスへ、東洋人や印度人の奴隷をつれこんできて鎖をつけて働かせていた。そこでサンタ・アナ将軍は、
「わがメキシコは、かつてスペインに何世紀にも渡って征服され、全住民はスペインの奴隷として散々に苛められてきた。だから奴隷の禁止は国家目的として布告してある。
なのにテキサス地帯にのみ、流れ者の外人が入ってきては我物顔に暴れ廻って、国禁の奴隷制度を復活させるとは何事か……あれを見逃しておくと、いつの日にか、あぶれ者達が昔のスペイン人のごとく
メキシコ全土を占領し、今にわれわれを奴隷として鎖につなぐ日が来るだろう」と軍隊に出動を命じた。
 さて、有名なリンカーンが奴隷解放を叫んで南北戦争を起したのは、この二十五年後の文久元年のことで、当時のアメリカは、まだ奴隷制度を国家でも認めおおいに奨励していた時代である。
「奴隷解放の旗を立て、メキシコの軍隊が討伐にくるから、援助を……」とテキサスへ入りこんでいる連中から助けを求められると、
「よしきた。昔は奴隷だったメキシコインデアンの生き残り共のくせして、生意気な奴らめ……」直ちにアメリカから武器弾薬が補給され、テキサスの白人達は、「しっかり頑張れ」と声援された。
 そこで、すっかり元気づけられたテキサス人は、星一つの独立国の旗を作り、「来るならきてみろ、メキシコインデアンめら……」とアメリカからの武器で、サン・アントニオの
アラモを要塞にして、ここにたてこもった。 
アラモの戦いはアメリカの捏造
リメンバー・パールハーバーの原語
「アラモ」とメキシコでよぶのは、カトリックの礼拝堂を中心に修道院や尼僧院の建物を並べ、その周囲を分厚い土壁で囲んでいる一廓のことである。
 ここへ到着したサンタ・アナ将軍は、カトリックの「アラモ」を攻撃することは信仰上できないからして、
「メキシコ領土のテキサスに住もうとする人間は、カトリックの教えを大切にして、アラモヘ土足のままで銃をもって立て籠ってはいけない」と、まず訓した。
 しかし、背後のアメリカが後押ししてくれると信じているテキサスのならず者の白人は、その忠告に対してせせら笑って相手にもしない。
 仕方なく将軍が、しまいには軍使をやると、これをアラモの塀壁から白人達は、まるで野獣狩りのように狙い撃ちして、バンザイと熱狂しあった。
「もはや堪忍袋の緒もきれた」将軍は、天帝のために進軍を命じた。
これが西部劇でおなじみの「アラモの戦い」である。ハリウッド映画では自国の正当性を誇示して、メキシコ軍が野蛮無比で、アラモの砦を占領した後、アメリカが武器を届けに行った生き残りの者まで、
将軍が残忍にも白人を皆殺しにしたことになっている。西部劇でも、白人がアメリカ大陸に勝手に入ってきたのに、インデアンを全て悪逆非道の野蛮人として描いている。
しかし実際には、アラモを取り戻した後、あまりにも荒された礼拝堂や、尼僧院における彼らの神をおそれぬ修道女達への暴行ぷりに、
憤激したカトリックの司祭らが、「神の名において、生き残りの者へも天罰を与えたまえ、アーメン」と将軍に要求したので、それで止むなく、
「神の思召とあれば……」将軍は銃殺の許可をしただけである。しかしこの報がアメリカへ伝わると、
「リメンバー・アラモ」となった。太平洋戦争のとき、(真珠湾を忘れるな)「リメンバー・パール・ハーバー」という合言葉があったが、これはこの時のやき直しである。
 さて、アメリカはそこで、テキサスに以前いた事のあるサム・ヒューストンというのに、兵と武器弾薬を与えて、ひそかにメキシコへ送りこんだ。
 (まさかアメリカが、他国領であるテキサスをそこまで悪辣に狙っていよう)とは露ほども気づかぬサンタ・アナ将軍は、
「これで、テキサスの謀叛人のかたもついたからよかった」と汗をふきつつサン・ハシントまで戻ってきたところ、そこを突如として、新鋭のアメリカ派遣軍サム・ヒューストンの部隊に包囲されてしまった。
始めは、何処の軍隊か皆目なんの心当りもなく、きょろきょろ眺め廻して、「ありや、なんじや。もう戦はすんだというのに、われらの応援にきた連中なのか」
と、たかをくくっていたので、すっかり取り巻かれパンパン撃ちごまれだしてから、初めてびっくり仰天。将軍は天を仰いで嘆息し、
「身を隠すサボテンさえ、ろくすっぽ生えていない、こんなところで戦闘をしたら、部下がみな殺しになってしまう」
 仕方なく白旗を掲げたところ、相手のヒューストンは使をとばさせてきて、サンタ・アナに、「テキサスの独立を承認せねば、みな殺しである……それでよいか」脅迫してきた。
仕方がない、「プロメテール(約束する)」と返事をして捕虜となってしまった。
 そこで勝ち誇ったヒューストンがテキサスの大統領になった。こうなると喜んだのはアメリカの奴隷所有者たちで、彼らは思いきってテキサスへ移住して綿花を栽培しようと、自国のポーク大統領をして、
テーラー将軍のアメリカ陸軍を、「リオ・グランデ河畔まで確保占領せよ」と進発させた。時に日本年号弘化三年のことである。
 三平と芳が、このメキシコへ渡りついて、丁度五年目の春のことだった。さて、これまでメキシコ政府は、
「サンタ・アナ将軍が認めたという、テキサス独立承認は、強制されて止むなくしたものである。だから無効である」と、英国政府に扱い方を依頼していた。
 しかし英国は、このときカナダとアメリカとの境界線を米国ポーク大統領の要求するところの、「五四度四十分の緯度」から「四九度」に譲歩させる代償として、
カナダの利益のためメキシコを裏切ってこれを見てみぬふりをすることとなった。そこでアメリカ軍が怒濤の進撃をしてきても、頼みの綱だった英国は仲裁に入ってくれるどころか、
あべこべにアメリカに協力的な立場をとった。
そして、大西洋をこえロンドンからアメリカ向けに、銃器弾薬の援助をしていると伝わってきた。「好戦国アメリカを討て」「鬼畜米英から国土を守れ」「なにがなんでも、やりぬくぞ」
 リオーグランデ河まで攻めこんできた侵略軍を防げとばかり、もはや正規軍だけでは心許なくなってきたから、メキシコ全土に、「義勇軍に集まれ」の叫び声が、野に山にひろがった。
この国で、「マーチョ」とよぱれる男伊達の連中は、てんでに銃と毛布を肩に、「国難に殉ずる時はきた」と、リオ・グランデ目がけて殺到した。
すると、アメリカの国会は、この弘化三年に、つまり一八四六年五月十二日に、「忍従の盃にもついに蓋をせざるを得なくなった。野蛮なメキシコはわが領土に向って侵入し、
アメリカの血をアメリカの土地に流そうとしている」とアジ演説をなし、「ついにメキシコ共和国の行為は、吾々を欲せざる戦争状態へ遺憾ながら追いこんだ」と声明。
 ここに宣戦布告。メキシコ・アメリカ戦争の火蓋は、ついに切って落された。
メキシコ大将
この時、三平と妻の芳の間には子供もでき、日系人に住んでいた。
ここのは、なき崋山先生から、
(ノヴァ・イスパアナへ行けば支倉常長の一行が渡った時、同地へ居残って土着した日本人が帰化したらしい所がある)
と教わてきたアルタタ浜には近い場所である。だから藁草履に似た椰子やシュロ葉編みのはき物のことを、日本語と同じように「ワラジ」と今でも呼んでいるし、ニッパ椰子で屋根をふいた笠みたいな恰好からか、
「家」のことを「カーサ」ともよぶ。色が黒くてカラスみたいに黒光りする顔のことは、これまた「カーラス」というし、「酒席ではやたらに物を食するな」というのであろうか、の入口にある酒場のことも、
「食べるな」とよび、看板も、「Taberna」になっている。
この後、三平はメキシコ独立のため戦い、命を落とすのだが、後編は近日中にという事にしましょう。