新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

大久保彦左衛門の実像 新田男爵によってばらされた徳川綱吉の実像

2019-05-26 09:51:29 | 古代から現代史まで
 
 
<日本歴史資史料集大成>に星野恒は、江戸時代から伝わったものとしてドイツ式の実証主義的歴史学で三河物語をのせていますが、 その内容は三河譜代といった在りもしなかった神話の著書でしかない。
講談で有名になったせいか、大久保彦左衛門が書き残した物として有名ですが、その内容は「この一書は吾が子孫の他は絶対にみせるべからず、もし見つかりそうになった時は燃やすべし」と、 前書がしてある割には、現在活字本で復刻版となっているものは、「神君家康公物語」であって「われ老人の事なればしかとは書けぬが、当今は御主君さまや旗本どもとて筋目も知らずに、 三河者ならばみな御譜代の衆のごとく、誤って思いこんでしまっているが、そうではない事を明白にしておくために書き残すのである。もちろん他へ見せる為のものではなく門外不出のものゆえ、 他人の事は書かぬ」と書きだしているくせに、後に書き直されたのか、唯神君家康公より代々の将軍家の仁慈をのべて、わが子孫はおおいに忠節を尽さればならぬという教訓めいたことで終始しています。
 
 
 恐らく大久保彦左の名で、その孫あたりが書いたものだろうと想えますのは、彦左は幼名は兵助といつたが、しかし、その出身は三河者ではありません。 伊良湖岬灯台が観光名所となっている愛知県渥美半島のバス路線には、若い頃の彦左が村娘をよく曳っぱりこんだと伝わる「兵助畑」のバス停留所さえもあります。  始めは兄の大久保忠世に従って二千石でしたが、兄の死後は自分が大久保本家の跡目になるものと思っていたのに、忠世の跡目はまだ幼少の甥にあたる忠隣がなって面白かろう筈はありません。 その頃の小田原十万石は天下の権によって箱根に関所を置いて、東下りする者からは銀を格安に召しあげ、逆に西へ行く者には割高に金を銀に交換し、 東西で貨幣本位が箱根を境に金と銀に分かれていたのが実態で、 現在の通関税ともいうべき、莫大な利得が得られる領地でした。それゆえ春日局が前夫の子の稲葉正則を、「なんとか小田原の領主にしたいものよ」と家康に求めたからして、すかさず彦左はよばれました。   てっきり自分が小田原十万石の大名にして貰えるものと勘違いした彦左は、大久保の家名を貸し与え、一族にした大久保長安の産出金横領事件に、大久保忠隣も関わりあったように証言し、 よって大久保家は左遷となった。しかし、その後は彦左ではなく稲葉正則になってしまったので「話が違う」と憤懣やる方なく「大御所さま、あんまりでござりまする」と訴えにいった処、 三河大久保の家名が絶えていたので、前は陪臣で小田原で二千石だったのが、今度は直参にして貰えてやっと同格の扶持を貰うことができた。
 
この時、大久保彦左が血相を変えて江戸から駿府へ駈けていったので、すわっ、天下の一大事かと、まさか彼がこのとき自分のことでのりこんだとは知らず、皆を驚かしたものだと広く伝わっています。 「天下の御意見番」といったような講釈種になったのも、この誤伝からの伝承だったようです。 「細川家記」とか「毛利家記」と同じように「三河物語」も後世に真実を伝えようとするものではなく、何かを隠さんが為に、その子や孫が、儒臣どもに命令して拵えさせ作らせたものであります。 「三河物語」にしても、恐らく当初は、大久保本家を裏切った形になっだので憎まれるのを恐れて、惡いのは春日局であり、はめたのは家康であると、大名になりそこねた怨み節だったのでしょう。 がそれでは大久保の家が危ないと、死後すぐ処分してしまい、純粋な三河者で旗本になっているのは、ほんの数名しかないのですが、旗本たちを統率してゆくため、 「三河譜代」といった綜合名詞をうみだしてまで、徳川体制を守ってゆくために、これは書かれ広められたものとみるべきです。が、これだけでも不足だったのか〈三河風土記〉なる本さえも出廻りました。 しかし、維新になると明治新政府は、徳川に対し「祖宗の地に戻らるべし」と駿府七十万石にしました。「生まれは、遠州浜松在……」といえば、旧幕時代はみな「はあッ」とかしこまったように、家康の生 まれ育った処は当時は三河ではないのは知れ渡っていても、それでは親衛隊の旗本が纏まらぬ為めの本である。
三河譜代の臣は二名しかいなかった
 明治四十二年には二百部の限定非売刊行とはいえ、「史籍雑纂」が出されて、その第三巻には、沢田源内が大量に系図や その裏書にと数多くの本を刊行したのだということは、 その「緒言」にも書かれてあるが、この第三巻には、他に「諸由緒」や「家伝史料」とよぶ、太田南畝の集めたものも入っている。
が、三河普代が二名きりというのでは、通俗歴史の信奉者で、テレビ、映画や山岡荘八の小説の読みすぎの方には疑義をはさむ人も いるだろうから、建部賢明の「大系図評判庶中抄」を、 ここに原文を引用してみることにする。   勿論、この書は建部が源内の嘘に怒って、それに対する反論、やっつけの目的で本文は江戸中期後に書かれたものである。
 「家名に禄を賜る」「家門の誉れ」といって、建部の先祖である六角佐々木の家の名誉を、源内に作り変えられ、盗まれたと、 これは建部賢明の憤怒の書なのである。 系図屋とは警察用語では、ケイズ屋といって盗品故物売買業者を指す隠語で、現在も使われているのは、ここからきているのである。
『 沢田源内なる者は近江国の生まれにて、種姓も知られざる凡下の土民なり。父は沢田喜右衛門とて、坂本雄琴村に手ずから鋤鍬を とって、僅かな地に耕作して世を渡りし農夫なり。 小林氏が述作せる「重編応仁記」には其名を仁左衛門と云いて、江州堅田村に小分けの百姓也と書す。武州忍の城主阿部豊後の守忠秋に、正保四年の頃、加恩の地を江州に賜りし時、喜右衛門その家の吏官某の 下司となりて名を澤田武兵衛と改め、租税のことを司りしに、よろず才覚有りければ、後に忠秋より忍の代官手代となされる。
これより先本国にありし時、同の百姓和田村勘兵衛の娘にイヌといえる女を娶りて子を生む。その名を喜太郎という。  下種の子たりといえども容貌生まれつき優なりしかば、稚児として是を青蓮院尊純法親王に奉りて、かむろ小姓となす。  門主是を愛して常に御傍を離さず召使われしに、天性強記にして書籍を誦し、また筆法に敏にして能書、大唐の詩文をも広く学び得たり。しかれどもその性質奸佞。   親王の家にある銀の書盞を盗みて、ひそかに市場にて売る。よってすぐ追い出され、旧里に帰りて深く此事を秘し、山伏の姿となって偽りに諱の字を賜れりと云いて、名を尊覚と号す。
 父は速にその名を改めしむ。よって還俗して澤田源内と号し東福門院御家司、天野豊前守長信に仕え、また飛鳥井一位雅章にも仕えしか、みな主家に悪事を成し追放され牢浪の身となりてよんどころなきままに、 己が才智を以って、卑賤を隠し、貴族と号して身を立てんと欲し、竊に六角佐々木氏の正当と称し、名を近江右衛門義綱と改め、偽って定頼朝臣の長子に大膳太夫義実という名を作り、 其子修理太夫義秀、其子右兵衛督義郷三世を新たに佐々木の家系中に書き加えて己が父祖とし、義賢朝臣承禎をして義秀が後見なりとす。 父武兵衛此事を聞きおおいに驚き、後難を恐れて硬く源内を戒め、是を叔父和田が家に捕らえおき、其身は忍の地に下りぬ。是に依って密かにここを逃れ出て、彼が従弟に畑源左衛門と云える遊民の許に隠れ居て、 彼義弟等が事跡を作り、或は旧記に都合よく増補し、或は新たに偽書を編作して、その虚伝を世に広めしむ父も是を憎み恐るといえども、遥かに遠く忍の地ゆえ国郡を隔てて如何ともすることを得ず。  遂に父子の関係を絶ち、やがてその後に忍において病死す。
  二男澤田権之丞が父の跡を継ぎ安部氏に仕えり。承応二年に源内江戸に来たり佐々木正統近江右衛門義綱と名乗り中山市正正信に属し、水戸侯頼房卿に奉公せんことを請ひ、 その偽譜を献上す。水戸頼房卿即ち東叡山宿坊の吉祥院の沙門某を以って、
 其系図を真の六角の正嫡佐々木源兵衛尉義忠に渡し虚実を御尋ね有りけるに、悉く偽作姦操なしたる由を申したるによって、 その奸曲現わるるのみならず義忠もまた正統を乱す事を怒って目付の本多美作守忠相をへて、つぶさに訴える。なお彼が士分を賜ることへの禁遏を加うべき由を久世大和守広之に訴えたり。   この由を聞き、大いに驚き狼狽して、夜中に江州へ逃戻り、名を六角兵部氏郷と改め、暫くは世の変を窺い居けるが、遠国にしてさのみ咎める人も無かりければ、 猶も奸謀未だ止まず、義実、義秀、義郷と己が偽名の三世を事実とせんが為、其の仲間数輩を集め、寺僧神人等を語らいて、天文六年より元和七年まで、八十余年が間の、佐々木家の日記を偽作して廿巻となす。 これを江源武鑑と名づけて刊行す。記す所は半は詭偽、半は他家の出来事にして、実に何の用なし。
 
 その後源内京都に至りて、また名を中務と改め虚系を以って諸人を誑かして、家嫡也と自称しあまつさえ吾生まれながら五品の官兵部丞たり、昔年後鳥羽帝代々補任の勅許あるによって也。 此度朝廷より四品中務大輔に任叙せりと、荒唐の妄言を吐き、蒙昧の輩を惑わせり。  嘘を覆い隠さんが為、昔将軍義満公の世、応永年中に、特進亜三台藤原公定卿の撰せられし尊卑文脈系図の中要をぬきて、
 諸家大系図十四巻と号して、世に行わるるを底本とし、佐々木の譜中に新たに多くを偽作し、己が本姓澤田氏、外祖和田氏、従弟の畑氏及び姦謀にくみする者は皆その一流となし、 又織田朝倉武田豊臣の系中にも、虚名に妄説を書添えその余諸氏の家伝を拾ひ集めて、  真偽を確かめず記入させて、全部を卅巻となし、更に大系図と名づけたり。
外にわの倭論語、足利治乱記、浅井日記、異本関原軍記、異本勢洲軍記等、皆彼が虚説を註する所なり。読む者は惑わされて、種々の誤説出て来たれり。 よって、これらを本当と想う徒輩多く、読書の篇注に引用され、故に近年は彼の偽名が漸く諸書ににて広まれり。所謂中古国家治乱記、異本難波戦記、 「三河風土記」「三河後風土記」、武家高名記、倭州諸将軍伝、浅井始末記、浅井三代記、東国太平記、日本将軍伝、諸家興亡記、武家盛衰記、東海道駅路鈴等此外にも多し』
ここに出てくる「三河風土記」や「三河後風土記」の二冊が沢田源内の贋作だったという処に、三河譜代そのものは、本当の処二名のみといえる裏付けが明白にとれるのである。   私が「三河風土記」や「三河後風土記」の二冊を入手したのは神田小川町源喜堂古書店である。昭和四十六年の頃だった。
 
 近頃は「史料」と贋作なのを知らずか知ってか活字本で覆刻版が出されているが、江戸時代に出された細長い版型の「武鑑」や旗本諸家の名前が全部記されている「寛政重修諸家譜」と対照して比べると、 百石以上の旗本で、漏れている者で、沢田源内贋作の方に入っていないのは、松平太郎左と中島与五郎の両名だけとなる。
「群書類従」的な見地に立てば、双方に同じ名があるのが裏書が取れるから正しいことになってしまい、片方にしか名前が出てこない 太郎左と与五郎の方が怪しいことになる。が、片や偽書である。さて、家康の遺骸は世良田の東照宮に今も瞑っているとされている。当時は土葬だったから、家光の代に諸大名の財力疲弊目的で献金させ、 徳川家の権勢を誇示するためのタテマエ作りに、日光東照宮へ祀った。 しかし、鋸で家康の骸の手足を切断したり、また、火葬でもないため分骨なども出来うる話ではない。つまり、日光に祀られているのは、遺品か何かの形見ぐらいの処だろう。 しかし、本物の家康が祀られている所は、上州世良田の徳川庄なのである。
新田男爵によってバラされた「徳川綱吉」の実像
 旧陸軍参謀本部編の五万分の一の群馬県分図の利根川流域の今もある尾島町世良田の徳川なのである。日本全国が結成された世良田事件発祥の地である。 つまり、明治十七年に華族令が制定され、畏れ多くも「華族は皇室の藩屏にして」との御勅語が出て、華族会の会長に徳川公爵が選任され、明治宮内省が文部省丸抱えの東大に命じて、 「松平記」なる蔵本が以前から在ったことにして、「東京帝国大学蔵版」の朱刷で、東京青山堂刊として、明治三十五年五月の発行で出してのけた。
 
この発行年月日に問題があるのである。「上手の手から水が洩る」というが、今でこそ天下の東大でも、明治の東大は抜けていた。 そもそも、この本の刊行は明治三十二年に村岡素一郎が「史擬徳川家康公事蹟」を出版し、家康は松平蔵人が改姓名したのではなく、 全く別人物の上州世良田の徳川の出身で浜松の七変化で育てられた二郎三郎だと、調べ上げて刊行したのに対して、時の明治宮内省が慌てた。
 「皇室の藩屏たる華族会長の公爵家の御先祖が、特殊出身とは何たる不敬か」と、本は警察を使って発禁処分にさせ、当人は執筆発表禁止にされたらしい。
と言うのは村岡はその一冊以後は、何処にも執筆発表はしていないからである。
 
  明治新政府は、楠木正成の銅像と新田義貞のそれを一対にして建てる計画だったのを、銅像は出来上がったが中止した。  楠公よりも立派な出来栄えだったそうだが、陽の目を見ることなく鋳潰されてしまい、代わりに「ネコ満」と呼ばれていた岩佐が他の叙爵にずっと遅れて「新田男爵」として爵位を賜った。 しかし徳川公爵が彼を拒んで宮内省に働きかけた結果。   一時金の名目だったが渡航費を渡され、家族とロンドンへ渡ると、外務省にわたりがついていたか、生活費を支給され永住となった。
さて、バロンとしてよりは猫の画で有名だった新田男爵は、「画伯」扱いされていたネコ満男爵の許へ、英国王立動物愛護協会の公爵夫人が訪ねて来て、  「世界中の王侯貴族で、己が愛犬や愛猫を溺愛したのは数多くいたが、ジャパンのイヌクボウみたいに国中の犬を愛した王は例が無い。
 
 是非当協会の名誉会員として肖像画を飾りたい」と依頼してきた。   是に対して新田男爵は、島流しみたいに異郷に永住させられていた恨みつらみもあったろうが、  「とんでもない、徳川綱吉の生類憐れみの令とは、騎馬民族の後裔で、動物の革剥ぎで儲けていた彼らが、綱吉の命令、即ち仏教に転向しない彼らを憎み、製革業者弾圧の政治目的で、 彼らの限定収容所の四谷や中野に故意に犬小屋を建てて虐めたのが真相である。
だから綱吉は生涯一匹の犬や猫も飼わず、よって元禄地震で餓死者の多かった四谷や中野の限定地とは製革業者の住んでいた場所だった。 『犬も歩けば棒に当たる』と、獣の少ない国ゆえ、辻番所の六尺棒を持った番太郎に野良犬を撲殺させ、縄でくくらせていた者を処罰させ、  これ見よがしに『猫を追うより皿を引け』と、犬が殺されぬよう避難の犬小屋で、一匹あたり米二合と干鰯一合を与え、餓鬼のようになった 限定住民が羨ましがって犬小屋で野良犬の食い残しを奪い合うのを、見張り役人が追っ払って監視した。 と、本当のことをぶちまけてしまったので、綱吉の王立協会の名誉会員は見合わせとなった。
 
  さて、村岡の著より故意に遡った明治三十五年五月の綺麗な木版の「松平記」の刷りであるが、  既に明治二十年の始めより大阪玉林堂よりの刊行物は、当時の講談の速記本ではあるが、全部かもはや活字での組み本である。  新聞にしても明治初年からバレン刷り版木でなく、既に活字版になっていた。   なのに明治三十年のもはや何でも全てが活版の時代に、時代錯誤の木版刷りを何故に東大ともあろうものが、上からのプレッシャー とはいえ、敢えてなしたのかと言うことになる。 「馬脚をあらわす」というが、もし東大蔵版と称されるものが、当時としては普通の活字本で出したものなら、まあ話が合うのだが、古くからの蔵版だと誤魔化したいゆえ、 本当は明治三十五年に配布したものを、五年前と故意に し、バレン刷りと、和紙閉じにした。こういうのを猿知恵というのである。   そして三河普代となっている者は、徳川公爵家を始め片っ端から、三河出の統一民族の旗本だったとすることによって、日本人は単一民族といった学説に繋いでゆけるのである。 「松平記」の原本も桐箱は無くしたが現物は持っている。
 
 
 
 

日本の遊女は職人だった 皇室と遊女の関係 アムステルダムの飾り窓の女

2019-05-25 17:46:55 | 古代から現代史まで
 
 
 
近頃は不倫だとか、主婦売春、少女売春も盛んだという。世の中が不景気になればこうした社会現象が多くなるという分析もなされているが、見方を変えれば、女がその方面で元気になってきた、とも言えるし、社会の倫理や道徳のタガが緩んできたため、日本女性の本性が馬脚を現したとも見られはしまいか。更に女性の犯罪も多くなっているという、統計も出ている。
ここで女性犯罪や売春問題を論じる気はないが、一体日本女性とは歴史上如何なる存在であったのか、ここでは、私の体験も交えての考察をしてみたい。 (以下は1980年代のことであり、最新情報ではない) オランダのアムステルダムには、映画でもお馴染みの「飾り窓」がある。勿論映画はセットだから綺麗に見えたが、実物は古い石造りの家の通路に面した所へ硝子窓をくっつけただけの物が多い。そして、それが一区画ずつ飛び飛びに繋がっている。水路と言っても五米幅の運河並のが、その間にここからアムスの町を流れ、また二町おき位に横に細い水路が水を岸すれすれに満たしている。初めて其処へ行った時、「こりゃあ日本の遊郭だ」と想った。
ただ違うところは、お歯黒溝(どぶ)がいつもすえたように臭かったのに、このアムスは海面より土地が低いせいで水が速く流れるから、まるで澱んだ臭いがしないだけである。昔日本に遊里の在った頃、決まって入り口に交番があって、うろん臭そうな眼で人相の悪いお巡りが立っていたものだが、この飾り窓のある一画の入り口にも、「スコットランド・ヤード」と英国と同名のもののセカンドオフィス、つまり第二分署の建物がある。
 
 
ただ日本と違うのはレストランみたいなガラスばりになっていて、十五、六人のポリスの勤務状態が、彼らに給料を払っている納税者の市民から丸見えになっている。さぼって煙草ばかりくゆらしているのでも居ようものなら、通行人がガラス戸を叩く。すると中からヤアと手を振って、ポリスは何の帳簿か判らないが、真面目くさってそれを拡げたりする。日本みたいに官僚主義を発揮して、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とは脅さない。 さて第二分署の二階はジム・クラブになっている。警官達の武道練習所かと思ったら、ここは別個の民間経営で、西部劇の補助シェリフみたいに第二分署で人手が足らない時などは、日当で応援することもあるという。
 
ここのジムに昔私と知り合いだったキムと呼ぶコリアが居て、マネージャーをしている。だから私はアムスへ行くと決まってここへよく寄る。するとキムも歓んで迎えてくれるが、もっと歓迎してくれるのは階下のポリス達である。 何しろ日本国内にそうした施設が無くなってからというもの、日本男子は台湾の北投へ往復十万円の飛行機代を払って一晩五千円のクーニャンを買いに行くし、和蘭へ彼らが来るのも、観光用に市内に保存されている風車を見るためでもなく、またダイヤを求める為でもない。男性自身をスパークさせるために来るのが多い。随行員を十名あまりも引き連れ、溝川の鉄柵の所に突っ立っていた超一流会社の社長も見たが、一晩に集まってくる日本男児は多く、なにしろ百名ではきかないという。
ところが和蘭の貨幣はギルダーで計算が判りにくい。そこで日本男児は気前がよいわけでもないが、勘定が厄介だから「良きに致せ」と財布ごと出してしまう。当人とすれば、相手が適当にその中から掴みだし、お釣りをくれるものと思っての事だろうが、女はレジスターではない。メルシー・ボウク。フィーレン・ダンケ。モテル・グラツィエ。ムーチャス・グラシアス。どうもありがと。女は財布ごとの頂きである。
チップと認めて何も返してはくれない。諦めてしまうのもいるが、旅費まで盗られたと第二分署へ泣きこんでくるのも多い。ところが日本人がオランダ語が苦手のように、アムスのポリスも日本語にはてんで弱い。だからキムの友達の日本人と判るとバッジなど貸してくれて、仲裁役を頼んでくる。ところがこのバッジさえ持っていると役得で、何処の店へものこのこ入っていける。
さて、アムスの飾り窓の通りに、いつもひしめき合い覗き込んで通るアベックの群を、初めは何の冷やかしかと怪しみ、(未だものにしていない相手を同伴して、もし要求を受け入れなければ、おれはここの女と寝てしまうぞと脅かすための作為ではあるまいか)とも考えたたが、さてバッジを付けて、カーテンを閉めたままの店へでも横から入れるようになると、事の意外に驚かされたものである。
なにしろアベックは男女一組のまま店に入り、そこで店の女から実地教育指導を受けているので、初めは偶然かと思ったがそうでもないらしい。アベックの殆どは若夫婦か婚前交際中らしく、カーテンをこした硝子窓の向こうを通るさんざめく群衆ににも頓着無く、熱心に彼らはノートまで取って教示を仰いでいる。客のアベックを裸体にしてベッドに重ね、店の女が体操教師のように位置を直しているのも見たし、店の女によって夫が満足してゆく過程を、ぐるぐる周囲を廻って覗きこみ、その途中で交替を申し込んだ妻が、自分も観察した通りに振舞い、女からフォームを直して貰っている状況も見た。
 
日本にもセックス・カウンセラーを名乗って物を書く人も居るが、ここでは全てが実技指導である。だから「夫婦生活の知恵」なんていう本は書店には売っていない訳で、もっと判りやすく手をとり腰を引っ張って二人に向くような体勢を伝授しているのである。
但し、そうはいっても飾り窓の女が全部そうではなく、 Klove niers河岸のHoogsir 通りに固まっている三十代のベテラン揃いの所に限定されている。目下修行中の十代ぐらいの若い娘の所では、未だ自分が勉強するのに精一杯らしく、通りかかる男達にウエスタンのカウボーイ・スタイルまでして「ヘエイ・ユウ」と 黄色い声で呼びかける。こうして訓練してやがては人に教えられるような立派なプロフェッショナルになるのだろう。    
                                                    
 【皇室と遊女】
 
「歴史」はヨーロッパでも十九世紀までは「学」ではなく、何の目的もはっきり持たぬ単なるお話でしかなかった。ヴォルテールがギリシャ神話などに現れてくる超人や怪竜や、それらの魔物と戦った英雄談を、歴史として認めない方針を打ち出し、人間社会がその風土寒暖や風習によって左右される因果関係をモンテスキューが見つけだした後、ヘーゲルの歴史哲学である彼の相対性弁証法のもとに、Aという通史とBと呼ばれる裏目の反史をつき合わせ、Cと呼ぶ史観を産むようになり、方法論としてこれがオーギュスタンによって、小説家スコットの歴史小説に啓発され、その書き方を真似た記録的実証的なものが、今日の歴史学の基礎となった。
 
日本では明治二十年代になって、それまで家系を作るための系図用の歴史、古びた茶碗を高値に売れるようにとカタログ代わりにした歴史を追放すべく、田中義成、星野恒、久米邦武、日下寛といった人々が「歴史」と取り組んだ。 しかし「通史」とその裏目の「反史」をつき合わせることが至難と言うより、全く不可能だったらしい。
通史を再検討することが精一杯の儘で明治三十年代に入り、やがて歴史は明治軍部によって参謀本部の「作戦資料」となったり、各華族の「祖先顕彰史料」といった利用方面にのみ追い込まれてしまった。
だから日本史は戦いの歴史となり、英雄の歴史となり、そして今も、茶道具の名称をことさらに列挙する可笑しな形態をとって平然とまかり通っている。みな賢い人ばかりだから、何の益にもならない反史を調べたり、それと通史とつきあわせるような無駄な努力をするよりも、ありふれた通俗史の儘で押し通す方が抵抗もなく楽だからだろう。
そこで日本ではこのため誰が悪いのか知らないが、まるで反対の事でも今も平気でまかり通り、それが歴史と信じられ常識化されている事が多い。例えば「秘境」というのがある。源氏に追われた平家が山中へ逃げ込んだものと、今ではされている。おまけに、
 
「おまや平家の公達ながれヨーホーホイ、おどま追討の那須末ヨー」といった那須の大八と鶴登美の悲恋を扱った「ひえつき節」などが広まって、最早今日では誰も疑おうとする者もない。そこで下関市の赤間神宮の祭礼などでは、「破れし平家の女達哀れ、みな遊女となりました」と仮装遊女の行列さえ催されている。 だが厳島神社に奉納されている遺品を見ても判るように、平家というのは海洋民族である。壇ノ浦でみな舟に乗り鎖で繋ぎ合わせたのも、折柄の貿易風に乗って逃げる筈だったのではあるまいかと想われる。
なにも海戦をする為に連結させたのではない。それなのに風邪より速く源氏が小舟に乗って群がってきて戦になったからとはいえ、いくら負けても海洋民族が山の中へ入って、落人など作れよう筈がない。今日いわれている平家とは、 「源頼朝の死後に代わって政権を執った北条氏に追われた、源氏の残党の逃避行した」でしかない。あれは徳川時代に犬の血統書作成みたいに「系図」が流行した時みな先祖を藤原鎌足や源頼光式にしたので、(山の中に源氏があっては不味い)と適当に名前をすりかえてしまったものらしい。
さて、「遊女論」は昔から在る。最古の物は大江匡房の「遊女記」で、これは『群書類従』にも収録されている。 平安後期の人間だった彼は、「遊女とは、允恭天皇の妃であった布通姫の後身の一族で、東三条院は小観音という遊女、上東門院は中君とよぶ遊女を愛された」と遊女を貴種とし、また『くぐつ記』に、「紅をさし粉をたたき美しく装った女は、一夕の歓のため男から金の刺繍布や錦衣、金かんざしといった膨大な物を献じられた」当時の遊女の権勢ぶりを書いている。
 
勿論、万葉集にも遊女は出ていて、「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖乎忍而有香聞」  オホナラバ カモカモ センヲ カシコミテ フリタキソデヲ シノビテアルカモと天平二年(730)に太宰帥大伴卿が九州へ戻って行くのを遊女が名残を惜しみ、これを俗っぽく判りやすく訳すと、 私は左の毛右の毛をこすりあわせてカモカモしたいのを、おおみことのりを恐れかしこみ、私は袖を振るのさえ忍んで見送る。アモーレアモーレ、アモーレミヨという、そのものずばり遊女の相聞歌になり、これが後年の「チンチンカモカモ」の語源であるとされている。
さて藤原氏全盛の頃までは、歴代の勅撰歌集には数多くの遊女の作品が出てくるし、また、「宇多天皇が川尻で遊女白君と過ごされしこと」 「小野の宮が二条関白と、遊女香炉の奪い合いをして喧嘩をなされ話」 「関白藤原道長が遊女小観音より、奈良七大寺参拝の帰りに薄情と抱きつかれた事」 「京極大臣宗輔の娘で遊女になった和歌の前というのが永久三年(1115)に、時の鳥羽天皇に召され寵愛された」などと、まるで遊女とは皇室専用か、宮内庁御用達の感がある。
 
だから『徒然草』の中でさえ、「御鳥羽天皇は亀菊とよぶ遊女に入れあげ、彼女のために長江と倉橋に広大な荘園を二ヶ所も賜った。自分は男に生まれてしまい遊女になれぬが恨めしい」と吉田兼好は書いている。
又その遊女亀菊によって承久三年の鎌倉幕府追討の院宣は出されたのだと『吾妻鏡』にもその名が出ている。 つまり日本の遊女というのは、天皇家の繁栄と共にあって、やがて皇室の御衰微と共に遊女もしぼんで哀れになったらしい。しかし一般の常識でゆくと、今では、「遊女とは横暴な男性の欲望を満たす為、その犠牲として存在したものだ」との既成概念が強い。
しかし今も昔も「女」とは、それ程男に都合の良い存在だろうかと、これは考え直さざるを得ない。なにしろ女性に生まれついてきた特権で、そのもの自身で楽に暮らせたり、生活の安定が得られるということは、これは麻薬中毒のように一度その味を覚えたら止められるものではない。だからして千年以前においても、「女が女を振り回して生きていけるのに、男は男をいくら振り回しても、それによって儲けられることはなく、かえって損するだけではないか」と、ひがんだ男達が皆不平を持ったらしい。
  そこで源頼朝は鎌倉に新政府を樹立するや、「女性自身を利用する権利は、みなもと族に属する女に限る」旨を発令した。 文治二年(1186)の事である。 そして頼朝は、平家退治に手柄のあった、清水冠者義高と里見義成という高名な武者を「遊女別当」に任じている。 頼朝はこの二人を関東関西に分けて受け持たせ、現代で言えば「関東管区売春婦取締り局」とでも呼ぶべき国家機関である。この取締りは源氏の遊女だけをエスコートして、それ以外の権利のない女達のモグリ営業を厳しく監視する為である。この名残は大正昭和までの公認の遊郭では、「うちの妓は、もぐりではありませんのさ」と女達に「源氏名」というものをつけさせていたのでも判る。
 
これに関しては日本歴史学会会長の故高柳光寿博士も、「平家の一門が壇ノ浦で滅亡した時、平家の婦女や官女が遊女になったという説をなす者もいるが、平家の彼女たちが遊女になれる権利がある訳はない。中世までは、女なら誰でも遊女になれると思ったらそれは間違いである」と、明解にその著で説いておられる。
         
【和泉式部も遊女】
 
室町御所の時代に入っても、やはり女なら誰でもが有するものをもって生活してゆけることを野放しにしていては、一人の男だけに縛られて苦労するような妻になど、ばかばかしくてなり手がないと、「傾城局」という官庁を足利幕府も作った。「室町日記」には「専売局」とする。つまり鎌倉時代に「遊女別当」と呼ばれた婦人局長官が「傾城官」となったもので、初代長官武内重信の名も伝わっている。
つまり女の中の女でなくては、やたらと昔は遊女になれなかったのである。さて、話は戻るが相場長昭の「遊女考」に、「白き小袖の上にから綾をひき重ねた装束」で、「しずやしず、しずのおだまき繰返し」と舞った静御前も、吉田兼好の著では「磯の禅師とよぶ高名なる遊女の娘なり」と、純粋遊女血統であった事が証明されている。また、『源氏物語』を書いたとされる紫式部と共に有名な和泉式部あたりでも、古文献の『御伽草子』では、「和泉式部は遊女にして」となっている。 また小野派一刀流の始祖といわれ、秀吉の妻の女祐筆であった「小野於通」と呼ぶ絶世の美女も「八十翁寿物語」という古書では、
「浄瑠璃の初めは、小野於通とよぶ遊女が語りだしたるものなり」とある。つまり近世までは「遊女」は誉め言葉で、ファーストレデイの意味だったらしい。が、儒学が朱子学の型で日本へ入ってからは、金を阿堵物と蔑む風潮が広まって、この為「金を取って身体を任せる女」というのは軽んじられるように変化したものらしい。しかしそれでも江戸期の黄表紙本等は、やはり評価を、 「あんな女はただでもいやだねえ」とか、「いくら金をつけられたってあんな女じゃ」と、やはり女性評価を貨幣でしている。
ところがその江戸時代には、はっきり定価表を付けた吉原という一廓があったが、 「御府内備考」第二十江戸吉原の条に、「吉原の開祖庄司甚右衛門のことを『君がてて』とよぶ」とある。 これは故柳田国男の「テテと称する家筋」によると、古くは「帝々」と書いて「てて」と呼ぶのだとある。 つまり遊女というものの存在は「君が帝々」であって、それからして「遊君」というし、「何々の君」とも謂うので在るらしい。 どうも皇室専用だった名残から尊敬されていたようで、寛永十七年までは江戸城の評定所へも、吉原から遊女が三名ずつおもむき、花を生けたり茶を点てていたりしている。
 
 
「遊女」というものに対して今日のような観念が出来上がってしまったのは「明烏」の芝居で、雪中でやり手婆に遊女が折檻される場面や、故沢正の、「国定忠治山形屋の場」で、「可愛い一人娘を苦界に沈めた五十両。よくも藤蔵、てめえはとりゃがったな」といった処かピテイな存在になってしまったらしいが、正保二年(1645)十一月には、元吉原町並木屋の佐香穂という遊女は、馴染客が死んだからと、堂々と廃業して尼さんになっているし、畠山箕山の『色道大鏡』の内の<扶桑列女伝>に出てくる勝山と呼ぶ遊女は、丹前風呂から召捕られ廻されてきた一生奉公の身分の女だが、明暦二年の春に、「今年中に思うしさいがあって廓を出ます」と宣言すると、その通りにさっさと吉原を出てしまったとある。
今日想像するのと違って吉原というのは、山東京伝の万治二年の「しかた噺」にも、「江戸のうかれ女は葭原という所に集まり、ここの遊君は雨など降ると自分では歩かず、奴いう男を呼び寄せ一名に傘をささせ、一名の肩に己を背負わさせ廓内をゆくのである」と、嫉むような書きぶりを今に残している。
これは銀座のバーの女達が、大の男のボーイを顎で使って灰皿を代えさせるのと同じで、有り体にいうならば「女性優位」を露骨に地でゆける、そういう職場ではなかったのだろうかと想える。 また、かって儒教が道徳であった時代には、「女人が行為によって歓喜の声を迸らせたり失神する事」は、慎みがないとされ、「不道徳」の烙印を押され、行為は女人にとっては苦痛でしかないようにそんな教育をされたものである。 だから女性たる者は、そうした行為は欲せざるところ、好まぬもの、と意志表示をするような処世方を持つことが、これが賢明とされた。その結果が、行為を反覆繰り返す職業は「苦界」と見られ、哀れな存在といった扱いをされたらしい。
 
 
しかし女人にとって、それ程迄にそうした行為が苦々しいものであるならば、「おめでとう」と、何故婚礼の時周囲は祝うのだろうか。相手が一人ならお目出度く、それが不特定多数になると同情する結果になるとは一体何であろうか。欲望というものは「効用延元の法則」によって、一より二、二より三の方が良くなると言う定理と矛盾しないものかと疑いたくなる。さて、なにしろ儒教が普及するまでは、女人も本当のことを口にしたらしく、吉原の開祖六代目庄司勝富の残した「異本洞房語園」に、 「この里に住みてうきことなし、夜毎かわる枕も面白しといいはべる女共多く」などと、はっきり書き残されている。
現在はなくなったらしいが、まだ、「親孝行」というモラルが、かって存在した頃は「お三味線や踊りを習って芸妓さんになって、好い旦那をもって、おとっつぁんやおっかさんを左団扇させるんだ・・・・あたいだって綺麗なおべべが着られて仕合わせだァ」と、将来の希望をそこにおいて憧れる少女が昭和二十年までは、まだかなりいたものである。 しかし時世、時節で、今でも行為を職業とする女性は多いらしいが、親のためというのは殆どない。彼へ貢ぐ為というのが多い。つまり彼との行為の為に、他との行為を致すのであるらしい。
 
             
【遊女は職人】
何といっても日本語の難しさは、この「遊女」の意味が解釈しにくい事である。 これを現在のように「遊ばせる女」と読んだ時、はたして該当する存在が、紅燈の巷やネオン街にも今でも存在するだろうか、と、疑問に思われる。よく、遊ばせてくれるというのは立派な「芸」であるが、これは自動的でなくてはならないのに、そうした女性は今は居ないのではなかろうか。
つまり、酒場の女でも、煙草に火をつける事と、おしぼりを持ってくるしか能のないのが多い現代では、お客の方が高い金を払って女を遊ばせているのだから、全く本末転倒なのである。まして肝心な方においてをやであろう。ところが、「遊ぶ女」と見た場合は、昔のように畏れ多くも主上を手玉に取ったり、搾り奉るような不敬なのは居ないが、これだと各都市の盛り場にはいくらでもいる。しかし、自分の方が遊ぶのだから、男に対してはあべこべにサービスを求めるのである。
室町時代に土佐絵をもって一世をならした光信の作に、「七十一番職人歌合せ」という絵巻物がある。 二十世紀では、職人というのは一日何千円の手間代を取るから立派だというものの、学校での技術屋に比べて、学歴が無いからと冷たく見られる向きがないでもない。しかし四、五世紀前には学校出はいなかったから、職を持っている人間は極めて尊敬された。
つまり土佐光信も絵描きという職人であるし、医師も当時は病気を治す職人だった。そして「遊女職」というのも、立派な職人だった。熟練工といった意味でか、この七十一の職業別絵巻物に、遊女は堂々と入っているのである。 これは幕末安永年刊の「咲花論」にも、「いくら初見世だからといって、丸太棒を二本並べられた丸木橋みてえに寝ていられちゃあ曲もねえ。商売だったら商売らしく、てめえの職に少しは真面目に励みやがれ。それじゃあ堅気の嬶と同じだ。何事もやりさえすれば、それでいいってもんじゃねえ筈」とお説教が出ているのを見ても、やはり、「遊女というのは、並の女性のように唯あるものを使うというのではな く、そこには職人としてのプライドを持ち、芸を切磋琢磨する必要」が要求されていたものらしい。
しかし、かって女性の中の特権階級だけが職人の誇りを持って司り、権利のない女には許されなかった職業も、徳川中期以降の近代資本主義の勃興によって、やがて抱え主と呼ぶ資本家と労働者という立場に変貌したから、そこから全てが違ってきたらしい。
そして政治の貧困から江戸府内でも、岡場所(モグリの売春宿)と呼ぶ権利無き女たちの私娼街が、いくら弾圧されても次々と出現してきた。しかし腐っても鯛で、吉原は職人女の集団プロフェッショナルだったが、私娼というのは未訓練女性で、てんで職人気質を持っていなかったようである。 そこで、家にあり合わせるようなものを外で求めてもつまらんだろうというので、奇篤な男が身を持って現地取材をした。 弘化二年三月二十三日発禁処分となったが、「東辻君花の名寄せ」というのがそれで、その刊行物の内容は、
東両国 はる16優 ふく17優 きく27良  ひろ21可 浅草橋 ふじ25優 たき21良  永代橋 むら17優 そで33優 なみ22良  とく21可
本所通 さだ19優 よね35優 ひさ17良  ひろ17可 芝久保 まき21優 かね34優 たき21可  たみ25可 赤坂通 てふ18優 ふさ16良 つね15可  よし16可       
今から二百数十年近く前の女性の勤務評定をずらりと並べているが、今となっては何の役にも立たないから後は省略するが、優は努力する職人タイプ。良は自然の結構さ。可は止めておけの事だそうである。さて、「他人に不幸ほど喜びを与えられるものはない」というカーライルの言葉を引用して「戦国時代の女性は哀れだった」とか「遊女は惨めだった」とかいって読者に媚びる本も多いが、性病などが輸入されなかった頃は、実際にはそうでもなかったらしく、「遊女職」として、遊女がその権利を行使していた源氏から北条、足利時代にあっては、志望者が殺到して選ばれてなったというから、現代の女達よりは遙かに幸せであったものらしい。
 
 また吉原の太夫に権式があって威張っていられたのも、俗説のごとく、茶の湯や仕舞、琴が弾け遊芸に通じていたからというのではなく、もっと本質的に、その道のテクニシャンで技巧を持つ優秀な職人だったせいなのだろう。  
 
   

日本史から見る「悪女」の系譜

2019-05-25 09:55:12 | 古代から現代史まで
 
日本の悪女とは、誰に対して悪い女かという事がまず命題になる。
男と女はまるで違うのであるから、男にとって思うようにならぬ存在と
して見れば女で悪女でないのは珍しいくらいのものである。
ではその女自身にとって悪いのが、それでは悪女かと云えば、これまたそうでもないらしい。
何しろ女は良い結果は自分の所為にしたがるが、そうでないのは他のせいにするからである(ここは女性には異論の在るところでしょう)
では何だろう?となってしまう。
勿論明快にして簡単な区分法もある。
○消極的に他に気兼ねしながら生きたのが、善女。
○積極的に思いの儘に生きたのが、悪女。
といったのが、有りふれた解釈なら、
○無名で埋もれてゆき、忘れられるのが善女。
○有名で死後も取り沙汰されるのが悪女。
こうした判別の仕方もあるだろう。
とは言え、後世にその名が残るという事は、「その人が本当に偉大だったとか、素晴らしかった、又は人間的に立派だった」等にはあまり関係はないのである。死後にもその名が残るのは、その名前が後世の人間の銭儲けのタネになるか、否かの問題である。
例えば明治時代でも、夫をこよなく愛し自己犠牲の限度を超し命までも捧げたような女は数限りなく居たであろう。
しかしそれが、おたねやおまさでは、良くても生前その村役場から「節婦」として表彰された位の処が関の山である。
そして死んでしまえば、最早その役場の記録にさえ残されていない。処が、節婦の代わりに毒婦と冠句の上の一字が違うと、話しは全く違ってくる。
 
 
   有名な 高橋おでん      阿部定
 
時移り星変わっても、高橋おでんの名は三歳の子供では無理だろうが、70歳ぐらいな男女ならおよそ知っていよう。
かっては邦枝完二の名で長崎謙二郎がそれを書き、今も一枚一万円位の原稿料でやはりお伝を書き飛ばす小説家や、それを掲載して三十万部売り捌く小説雑誌や、また単行本にして儲ける出版社があるからである。
つまり彼女は今だに堂々と飯の種になる素材であり、いいかえれば利用価値が有るせいだろう。
といって、彼女が後藤吉蔵と金をとって寝た位のことが、どうというのでもない。
疲れて寝ている処を殺した位の事なら、男の一物を部分的に切断して逃げた阿部定の方がまだはるかに扇情的であるともいえる。では、何が彼女を毒婦とか悪女といった冠詞の下に有名にしたか、明治大正昭和と時には芝居にまでなって儲けの種になったかと云えば、これは権威の裏づけのせいだろう。
といって、後世のマスコミに寄与した故に、正何位の追贈位を貰ったとか、文化勲章を交付されたのではない。それは何といっても東大の権威によってである。が、何も彼女が名誉卒業生に選ばれたのでもなく、ただ彼女の肉体の一部が余りにも巨大だったから、それでアルコール漬けとされ東大医学部標本室にあるの、在ったとの噂が広まって、それからして、
「そこは伸縮する筋肉だから、巨大だからといって標本にされるのは可笑しい」とか、
「処刑といっても昔は絞首刑だけでなく、河童が尻子玉を抜く如く、女は彼処まで切り取られるものなのか」と、こうした疑問を抱くより、「東大に見本として残されるぐらいなら、さぞかし名器であったろう。虎は死して皮を残すというが、高橋おでんは皮と肉をアルコール漬けで残した、えらいもんである」といった形而下的な浅薄な評価が普及した結果が、
「東京帝国大学責任保証・悪女の鑑」とし、「毒婦高橋おでん」の評判を高め、それゆえ後世の売文業や出版社を潤し、彼らによって流布された小説本によって、ますます人口に膾炙され悪女の見本となったものらしい。
これはおかしな言い方かも知れぬが事実とはつまりそうしたものなのである。
つまり、概念的な悪女は何処にも此処にも居て、男の観察からすれば、女とはどれもこれも悪女でないのは居ないようだが「悪女」としてはっきりそれが公認されるには条件がいるらしい。
つまり、「官許」とでもいうのだろうか、権威による公認か、さもなくば何とはなしに権勢というものが、付き纏っていなくてはならぬようである。
浅茅ケ原で鎌を砥いで旅人を殺し、身ぐるみ剥がして奪ったにしても、何の権力の翳りも無いのではとても悪女の範疇には入れて貰えない。処が、白子屋おくまの場合は、「奉公人の手代と不義密通をなし、婿を殺害に及びし候段は、稀代の悪女といふ他はなく、引廻しの上獄門仰せつけられ候なり」と、いくら自白させられてしまったとはいえ、はたして真実はどうなのか、手代が巻き添えにする為、嘘をついたのかもしれぬが、お上のお裁きでこうなってしまえば彼女は天下晴れての、認められた悪女という事にされてしまう。
勿論、これは官許の悪女とはいえ、権力のお仕着せみたいに作られてしまった方だか゜、クレオパトラにしろサロメしろ楊貴妃にしろ、そこに権勢の存在があったから、彼女らは晴れがましく「悪女の座」を確保することが出来、不死鳥の如くその名を今に伝えて居られるのである。
   ◆◆◆◆◆◆日本悪女考◆◆◆◆◆◆
今でこそ九州女は情があってよいとされている。しかしそれは、「女は三界に家なし」とか「女は幼は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」と徳川後期に入っての儒教で押さえつけられた後の話でる。
戦国期での九州女は実に凄まじかった。竜造寺の妻、ねこも凄まじい猛女だったが、大友宗麟の母や妻は、男を丸裸にして竹筒をある箇所にはめて折らせて愉しんだとも謂われる程である。
 
だから大友宗麟の老臣立花道雪の娘げんのごときも、日本最初の鉄砲隊を編成し、「最初(はな)は立花の娘子軍」といわれるくらい、九州の山野に活躍したものである。が、のち年下の立花宗茂を迎え仲睦まじく暮らした、げんは悪女ではなかったらしいが、大友の姑や嫁はめちゃくちゃで直接に裸にされて吊り殺しにされた男は十余名というが、その為に起きた「耳川合戦」で死傷した男女は一万の余にのぼると、ローマ法王庁のイゼズス派の記録にも残されている。
 
南北朝の頃。九州はあらかた宮側についたのに、豊後の大友親世だけが足利尊氏につき、南朝方の菊池武朝らと戦うこと七十二回。その内七十一回までは負けたが、七十二回目には、世の中が足利氏のものになったので勝つことが出来た。このため「頑張る者こそ最後には勝つ」と、ここで豊前、豊後、筑前、筑後、肥前肥後の六国を領国として貰い受けた大友氏は足利将軍家より「九州探題」の任命さえ受けた。
(注)南朝とは朝鮮高麗系の勢力で河野水軍、土井氏、対馬の宗氏、菊地氏などで、宮方。北朝とは中国明国勢力で足利氏は明の後押しで日本で傀儡政権を作った。従って南北の争いとは、日本における明と高麗の代理戦争だったのがが実態。
 
その72回目には、世の中は足利氏のものになったので、勝つことが出来た。
だから今日の北九州から熊本までの九州半国を従え、大友氏は栄えに栄えた。さて、宗麟は、初めは大友義鎮といい、その生母は「伏見宮貞常親王」の王女であった。現代の感覚でゆくと、皇族の妃殿下が九州の大名へ御降嫁とは変だが、この後の江戸時代になっても、後水尾帝の女御みぐしの局は後西天皇の御生母だが、局の末妹の貝姫は銀子二十貫で陸奥へ身売りして、伊達政宗が購ってその子忠宗の側室の一人にしたところ、生まれたのが己之助。
のち仙台六十二万石の伊達綱宗となった時。従兄の後西様が人皇百十一代で在世中だったので、秘かに共に討幕を謀り、天皇からは伝奏園池中納言が奥州へ下向。伊達家からは原田甲斐が京へ何度も往復している。つまり、
『樅の木は残った』などの伊達騒動というのは、徳川時代に歪曲され、でっち上げされたものの引き写しにすぎなくて事実ではない。本当は朝廷と伊達藩が組んでの討幕運動だったのである。さて話は戻るが、
大友宗麟の生母も綱宗の生母と同じように売られてきた身で早世した。そこで父の大友義鑑は次々と妻を新しく取り替えた。
やがてその内に到明が生まれた。父義鑑は若い妻が気に入りなので、長男の宗麟を廃して到明を跡目にしようとした。しかし、もうその頃は足利末期の天文の世である。重臣達は、「宗麟様は二十余歳なのに到明様はまだ幼児である。とても、戦火風雲急な今の時勢にこれでは御家がもたない。」
と、斉藤播磨守や小佐井大和守らの良識派は反対した。しかし戦国時代の女人は、儒教で押さえつけられた江戸時代後期のおとなしい女とは違う。到明の母は、かっかとしてしまい、「我が子の跡目に邪魔立て致すとは、なんと憎っくき奴ではないか」と、すぐさま腹心の家来を差し向けてまんまと瞞して捕らえさせた。
 
そして二人の老臣を裸にひんむいて、これを松の木に逆さ吊りにした。二人とも首筋を腫らして苦しみ、とうとう血を吐き悶絶した。すると、奥方は、すぐ斉藤と小佐井の上の首と下の首をぶった切らせた後、「この両人に一味して、まだ我が子を跡目に立たたんとするを邪魔をしようとする輩が居よう。片っ端から捕らえて一人残らず首を切ってしまえ」と、判っている人名の中から宿老の、津久見美作守、田口蔵人以下次々と名を呼びあげた。
さて、この名を呼ばれた者の近親や縁者で、奥御殿に仕えていた者もいたから「これは大変だ」と、そこで急ぎ知らせた者が居る。だから津久見や田口らは驚き、「ひとかどの武士を殺すのに、丸裸にむいて吊し殺しとは、いくら女人の浅はかさとはいえあまりに残酷すぎる、座してそのような辱めを受けて殺されるよりは、先んずれば制するというゆえ、反対に片づけてやる」
と、どうせ捕らえられて殺されるのは判っていたから逆襲を計った。そして奥御殿へ斬りこみ、奥方や到明だけでなく、ものはついでと、「えい、毒をくらわば皿までじゃ」と、たまたま泊まっていた大友義鑑までを叩っ斬ってしまった。これが有名な「大友家の二階崩れ」で、天文十九年二月の事とされている。
 
【バスク人来日】
 
さて、フランシスコ・ザビエルといえば、通説では、「有難いキリストの御教えを初めて日本へもたらしてくれた聖者」というように評価されて、西欧心酔主義者からおおいに崇拝されている。しかし純血白人主義を標榜して欧州を席巻したナチスが、ザビエルが創めたも同じのイゼズス派の教会を焼き、その師父やシスターまで目の敵にしたのは何故かとなる。
なにしろ日本では当時のイゼズス派も、サンフランシスコ派もごっちゃなので何も判っていない。が、現在のスキーの名所のアンドロ共和国。つまりスペインとフランスの真ん中のバスク地方というのは、古代インドにアンドラ国の地名が歴然とあったごとく、「ヨーロッパの東洋」とか「古代有色人種が逃げ隠れ住んでいた地帯」といった扱いで、まあ日本で言えば全体が落人か、道のない山地といったような特殊地方なのである。
だからヨーロッパで魔女裁判の始まった頃。
 
 
彼らバスク人は狩り出されて、高慢ちきな女や残忍な女を捕らえては丸裸にむき、車裂きや火炙りにして、教会の御用をうけたまわっていた。
つまりはザビエルにしても、なにも文字や会話も通じぬ東洋へわざわざ乗り込んできたのは、布教という目的ではなかった。
ローマ法王庁にあっては、白人と同じように扱って貰えぬ彼らとしては、箒に跨って東の空へ逃げたとされる魔女達の行方を追って、それを捕らえて功名をたてんとしたのである。それゆえ一五三四年八月十五日にパリのモンマルトの丘で誓いをたてたロヨラら七人のグループが、教皇ポーロ三世によって、僅かな人数なのにイゼズス会戦闘教団として特に許されたのである。
つまり魔女狩り専門の非白人グループ教団だったゆえ、ヒットラーはその弾圧をさせたのである。
 
 
さて、このザビエルが日本へ来たのは、天文十八年八月十五日で、初めは鹿児島へ海賊号とよぶジャンクでインドのゴアから到着した。しかし領主島津貴久と巧く行かず、ザビエルは京へ行こうとして豊後の府内を通りかかり、新城主となった大友宗麟と逢った。そして天文二十年九月にもザビエルは山口からの帰りに又面会している。
どうして二人は意気投合したかと言えば、勿論中国人の通訳を入れての話だが、「女人とは表面では優しそうでも、一皮剥けば恐ろしいもので、愚かしき者の中には美女も居るが、賢いと自認している者の殆どは悪女でしかあり得ない」と、ヨーロッパではその当時魔女狩りの最中ゆえ、ザビエルがしきりと力説すればそれに対して「如何にも、如何にも尤もなことである」と大友宗麟もその継母に散々に不快な目にあっていたから、
 
「女人は外面菩薩で、内面夜叉と申すが、口先だけは優しそうで巧いことをいうてもいざ本性を現すとなると女人ぐらい恐ろしいものはない」と賛成したのだろう。
「だったら国中の女の中で、意地の悪いのや可愛げのないのは、片端から捕らえて裸に剥いて丸焼きにしたらよろしい。我らイゼズス派はその方面ではエキスバートゆえ、おまかせ下さい。」と、巧く行けばその中に探し求めるヨーロッパより脱走した魔女が居るかも知れんと思うから、ザビエルはしきりに力説した。
「が、女はとかくうるさいもの、もし焼き殺されると知って、集団で暴動でも起こしたら如何なされますぞ」と宗麟は、大友家代々の家老を二人まで裸で吊し殺した継母やその手伝いをなした侍女共のことを思い出してぞっと身震いした。すると、「大丈夫、そうした暴動には遠くから撃ち払える鉄砲なるものがある」と答えた。「相手が女人では近寄って毒づかれ、その上かじりつかれる心配もあるが、あの鉄砲なるものさえあれば遠くから始末できるからよろしかろう」
と、天文十二年に種ガ島から伝わった鉄砲の評判は知っていたから合点したところ、「宜しい。今はサンプルとして数丁しか持ち合わせていないが、インドのゴアから小銃だけでなく大砲も寄付し、弾丸を飛ばすに欠かせぬ火薬の原料の硝石もつけてお分けしよう」と話は纏まった。
             
【西国盛衰記】
 
大友宗麟
 
平戸の松浦や鹿児島の島津などでは、何とかして火器の方は似せた模倣品が造れたが、肝心な硝石は日本中何処を掘っても産出しない。だから信仰のためでなく硝石欲しさにイゼズス派へ入信した。
今も昔も日本人は資源入手の為には何でもやる国民だった。しかし大友宗麟だけは、継母のお陰で女の怖さが身にしみていたゆえ、直ぐさま本心から「魔女狩り」に協力を誓った。ザビエルはその後直ぐ豊後の大分湾から印度のゴアへ戻り、マラッカから中国大陸に近い上州島へ行き死んでしまって二度と帰っては来なかった。しかし、
 
 
「ブンゴ王の大友宗麟との密約が出来ている」との遺命によって、東洋を押さえていたイゼズス派はポルトガル船をことごとく豊後へつけさせた。つまり、「豊後の繁栄は以前の十倍にも二十倍にもなった。何故かと言えば博多や鹿児島、平戸に入港していた南蛮船が一隻残らず大分湾に入るようになったからである。
大友の殿は洗礼を受けていないのにまことに不思議な事である」と『西国盛衰記』に出ているのもこの所為によるらしい。
さて宗麟の最初の妻は丹後の一色氏から来ていたのだが、やがて家老の田原家の娘を見染めてしまって、早速これと入れ換えていた。しかし彼女は、紀元前八七五年からイスラエルの王であったアラブの妻のイザベラの如く、血を見ること水を見るごとしと、領内の気に入らぬ者は女子供でも大の大人でも片っ端から逆さ吊りにして咽喉をかき切って殺してしまった。
だから、その当時の宣教師の書いた記録である「西教史」には、「東洋のイザベラ」と彼女のことを渾名している。
そしてイゼズス派の宣教師は、
「彼女こそ東洋へ逃亡してきた魔女の化身であろう」と考え、宗麟に対してその身柄の払い下げを求めた。しかし彼女はそれを耳にすると、「この身を魔女としてローマとやらへ連れていくとは何たる事ぞ」
そして直ぐさま兄で、今は家老になっている田原紹忍へ連絡して兵を集めさせると、「キリスト教徒は今やこの臼杵の城下町を占領しようと不穏な企てをしている」と、イゼズス派の教会を包囲させた。そこで神父らは立て籠もって銃で応戦しようとした。当時日本を管区とするイゼズス司祭は「四つ目のカブラル」と呼ばれる眼鏡をかけた司祭だったが、直ぐさま臼杵を離れていた大友宗麟へ事件発生の連絡を取った。
 
(わが妻や田原一族の反乱によって教会を敵とし火薬の原料の硝石が入手出来なくなり、逆にそれが他の大名に渡るようになったらわが大友家は危うくなる)と宗麟も仰天してしまい、背に腹は換えられぬとばかりここで決心して、「余は今やすでに他の女を妻にした。其方は離縁である。速やかに城を出て兄の田原紹忍の許へ行け」と、鉄砲隊をつけた使いを直ちに臼杵城へやって脅しすかし説得させた。
 
さて、いくら婦人が獰猛でも銃口に包囲されては仕方がない。やむなく引き上げていった。これで宗麟はひとまず臼杵の教会を救ったが、日本管区長カブラルの機嫌を損なって、もし南蛮船が入津しなくなっては困るからと心配して、ザビエルと初めて逢ってから二十七年だが「フランシスコ」と、ザビエルと同じ名を取って洗礼名として、四十八歳で改宗をした。
が、それでもまだ宗麟は安心できなかった。またしても難問題が出てきた。なにしろイゼズス派では攻め込まれたのを根に持ってか、宗麟の言いつけ通りに兄の家へ退去した前婦人を、魔女として引き渡しを求めてきたからである。
「糟糠の妻は堂より下さず」というが、宗麟は前婦人が異国へ連れ去られて丸裸にされ、蒸し焼きにされるのは忍びず、何とかして許しを乞おうとした。そこで教会の機嫌をとるため、
「彼は日向に兵を出した。そこにキリスト教徒だけの都市を造り、四方に十二の教会を衛星の如く建て、イゼズス派に捧げる目的を持って・・・・・」と、向こうの記録にあるが、三万五千三百の大軍を率いて、神のやさかえを讃え、仏門の異教徒を撃つため出陣した。
日本管区長のカブラル初め、イルマン、ルイ・アルメーダ以下も先頭に立った。「国崩し」と名づけた日本では初めての青銅砲二門も引っ張って、大友宗麟は大進軍したのだ。しかし薩摩から馳せ向かってきた島津義久と、その弟の義弘は強かった。
それに「青い目の南蛮人に国土を荒らされるな」とふれ回ると、何度も外敵の侵入を受けている九州人たちは一致団結して薩摩勢に協力して迎え撃った。そこで後に「耳川合戦」と呼ばれるが、三万五千の大友軍は各所で土民のゲリラに悩まされ敗退した。そしてこの結果島津と大友とは九州での地位が逆転してしまった。このため天正十四年三月、やむなく滅亡しかけの大友宗麟は京の聚楽第へゆき、豊臣秀吉の庇護を求めた。
 
 
これで九州征伐の口実の出来た秀吉は二つ返事で承知した。
翌年、秀吉の九州征伐は敢行された。勇猛な島津兄弟も天下の大軍を向こうに廻しては抗しえず、降参をした。
さて、本来ならば日本国内にキリスト教の別世界を作ろうと兵を動かした大友宗麟なのだから「この売国奴め」と罰せられてもしかるべきなのに、何のお構いもなく、彼は悠々と豊後津久見で、五十八歳まで安楽に暮らし得たのは、
「いくら離縁したとは申せ、長年連れ添った女房を魔女として南蛮人に渡したくなかった気持ちは判る。男として見上げたものよ」と、秀吉が特に許したからだという。しかし大友宗麟の継母といい、その妻といい、男を逆さ吊りにして虐殺する趣味があって、ローマ法王庁にもその名が記録されているのは、日本の悪女としては国際的貫禄であるといえよう。
(注)バチカン図書館は歴史、法律、哲学、科学、そして神学を目的とした研究図書館でもあり、研究に参照が必要である場合や出典の明記に気をつければ誰でも利用できる。だから興味のある方や疑り深い方は、どうぞ是非現地に赴いて確認して頂きたい。「東洋の部」には日本の戦国期関係の報告書が幾らでもあり、難解な華文字のものも在るが、親切な司書が翻訳してもくれる。
 
 
 

十手の由来 居合と抜刀の違い 銭形平次誕生秘話

2019-05-24 11:53:32 | 古代から現代史まで
本篇は長文である。日頃、通説俗説を常識として信じている向きには、奇異に思われるだろう。しかし、信頼できる史料によって「常識」で解明すると真実が見えてくる。どうか、プリントアウトしてじっくり読んで頂くのも結構と思っている。なお、推敲に間違いがあればお許し願いたい。


十手の考案者とその役目について記しておく。
十手は、悪鬼邪気を引き拔くとされる千手観音から出た言葉なのである。
そして、十手そのものを考案したのは、江戸時代の儒学者、高橋至時や間重富の師の麻田剛立である。
〈播磨印南記〉には、各村の番太が十手を大きな樫の枝で作り召捕りをなし、元旦には新しい朱房をつけ、一人が四つ竹一人は三味線をならしながら受持の村の戸ごとから米銭を徴集、これを大黒という。
〈福井昔噺〉には、今坂の者が捕縄、十手棒をもち、坂の者とよばれ城下の非道を取締ったとある。
今も地方の古道具屋でたまにみかける十手は鋳物で、テレビのごときジュラルミン製ではない。江戸中期以降は抜刀させれば起訴できる現行犯ゆえ、召捕りの時に、刀の鯉口こじあけに使われた道具で、武器ではなく木製の物さえあったのである。

銭形平次誕生秘話                
日本警察発祥の捕物論考  
  十手の役目                 
武術を習ったのは捕方だった
十手は道具で武器ではない
 村八分の起こり
武道は誰のために
 居合と抜刀術 の違い 
白は逃がせ黒は捕らえろ
二足草鞋やくざと源氏屋

  力の法則
「捕物」は江戸期のものには「捕者」とある。これを「物」にしてしまったのは泉鏡花の弟の泉斜汀の題名からであるというが、「半七捕物帳」からこの種の読み物は多い。
しかし、可笑しなことにこれは「大岡政談」が中国ものの翻訳であるように、海外ものの焼き直し以外の何物でもなく、本質的なことは何一つ解明されていない。
誰かが不思議に想って、これを正面から取っ組んでいないかと調べてみたが、何処にも見当たらない。
だから、これから述べる事は、捕物の原点みたいなもので、初め多少は奇異に感じられても、「常識」をもって、そうであったかと判って頂ければ、労多く大変だったが私も満足である。
そこで、「捕物の話」のような興味本位なものや、奉行所目録犯科帳のごとき通りいっぺんな空虚なものは、これをとらない。従来の捕物観は白紙に戻し、あくまでも常識をもって、
それがこれまでの概念からいって、可笑しく考えられるとしてもここに論評を進めねばなるまい。
まず、その道具。携帯用捕物用具であるが、反対例として引用するのはどうかと想うが、まず念頭に浮かぶものとしては、学生運動が盛んだった頃、全学共闘会議派連中の、「完全武装」という恰好である。
これは、「ヘルメットにタオルの覆面」であり、武器は、これは今の所赤軍派以外は、「ゲバ棒」とよばれる角材と、火炎瓶や投げる為の石である。
処が、これに対する捕 物陣営のいでたちは、「ヘルメット」は同じようだが材質が堅牢で、タオルのマスクのようなちゃちなものではなく、厚いプラスチック性のマスクをもってしている。
そして角材に対してはジュラルミンの大楯、警棒、ガス銃、放水車、装甲車まで揃えている。
いつの時代でもそうだろうが、国家権力を背景にした捕物側というのは、被捕物者である連中よりも常にその装備において、格段の優秀性をもっているものである。
またこうでないと、「捕縛する」という目的に支障をきたす。つまりこれは一般は拳銃など持っているだけでも不法所持として逮捕されるが、捕物側は未成年でも公然と携行が許される差異でもある。
処がこの明白な区別が、明治以前となると、まったく反対のように今日では見られている。たとえばテレビにしろ小説にしろ「御用」「御用」とかかってゆく捕物側が、
「おのれ参るかッ」とバッタバッタと斬られてゆく。なにしろ被捕物側は抜身の刀をふりまわしているのに、召し捕る方は十手の他には樫の六尺棒。
切羽詰って持ち出すのが梯子。目つぶし用の砂か灰。大捕物となってようやく現れてくる器材は、「さす叉」「からみ棒」の類でしかない。
しかし、これらも棒の尖端にU字型の鉄がはまっているか、いぼいぼが出ている程度で、ゲバ棒の尖端に五寸釘が打ち付けてあるのと大差はない。
すると江戸時代というのは、「国家権力の捕方のほうが、極めて良心的かつ平和愛好型であったのか」ということになる。
そして、今日でこそ「警察官募集」のポスターをよくみかけるけれど、昔は次々とあんなに斬られてしまう捕方の補充をどうしたのだろうか?人手不足ではなかったらしいが、
よくもそれにしても、ばった、ばったと殺される方の側になり手があったものであると、素朴な疑問がどうしても起きてくる。
何しろ、いくら樫の六尺棒が固いからと言っても、これが日本刀と激突した時切断されるのは木質の方であるべきだし、又十手という鉄製捕物道具も、重量は二キロしかない。
鍔と柄の付いた抜き身の重さを平均二キロとして、日本刀が打ち下ろしてくる太刀先を二キロの物体で受け止めた時、切線加速度をa、刀の重量をMとすれば、「a+M」の衝撃つまりFの力が、
二キロの十手にかかってくる計算になる。
さらに刀を構えるのが頭に直立の型なら九十度。大上段にふりかぶってこられたなら、百八十度の加速度の力が、さらに十手に掛かってくる。
すると江戸時代の捕方の平均身長が百六十センチ以下なら、肩の付け根から、十手を握る手までは六十センチ間隔だから、その衝撃波に対し肩までの距離は瞬間的に四分の一に短縮される。
すると力学上、手元で八十センチの刀身を受けたときは、十手を持つ側の肩先へ二十センチの切り込みを生じる。これは一般的な力の法則であって、いわゆる武道や刀法にはなんら関係はない。
だれがやっても同じ結果が出るのである。
仮に十手が固定していても「弾性限界の荷重度位の法則」があるから、刀より十手が重量のある鉄棒でもない限り被害は免れ得ない。
相手が剣豪や名人でなくとも、捕方は、もし十手で受け止めようものなら絶対に殺傷を受ける。ということはどうしても、概念的には国家権力の武器が劣ることになってしまう。
ところが明治九年三月二十八日に佩刀禁止令が発布され、一般が丸腰になった後の邏卒の捕物道具も、不思議な話だが全く江戸期と変わらない。今までこれに疑問を抱いた者は居ないらしいが、
果たして真実はどうであったのか。

銭形平次誕生秘話
映画やテレビで岡っ引きの銭形平次は有名で、その飛び道具の「投げ銭」は噴飯ものである。
ここで、何故に銭形平次が投げ銭を武器として、捕物をしたかのかという疑問の考察をしてみたい。
かって、月刊となった「オール読物」に1931年4月号から野村胡堂の「銭形平次捕物控」が人気作品として継続的に掲載された。
その際野村は新しい捕物帳を連載するに当たって、十手がはたして刀と戦った場合 どんな具合だったかを調査した。
何故なら当時白黒の映画が隆盛で、チャンバラ物が人気だったし、捕り方は六尺棒や、梯子、刺又を武器として、犯人を捕らえていて、同心や岡っ引きは十手で、大刀と戦っていたのに疑問を抱いたからである。
だから、当時はまだ東京の日暮里や蒲田にあった古物商の店先で売っていた、旧幕時代の十手を何本も買い求めて実験をしてみたのである。
現代のテレビに出てくる十手は、ピカピカ光ったジュラルミン製だが、本来江戸時代の物は砂の上に鋳型を置き、砂鉄や屑鉄を溶かして流し込んだ鋳物なのである。
だからどれも赤錆が酷く、風化しかけていた。
こんな十手に大刀ではなく木刀で打ち込んでくるのを受け止めようとすると、どれもこれも十手が折れ飛んでしまった。
これには野村も驚いて「木刀でさえこんなんじゃ、真剣だったら死んじゃうな」と納得し、 映画は全く信じられないと、それではと新機軸の活劇として、飛び道具を考案したのである。
そして「寛永通宝」のような鉄分の多い良質の貨幣ではなく天保以降のビタの一文銭を平次が投げる飛び道具にしての「投げ銭」として、十手の弱さを補うための「銭形平次」がここに誕生したのである。

 村八分の起こり
頼山陽が門下生になり、教えを受けたこともある備後神辺の儒者にして、詩人でもあった菅茶山は、文政十年八月死去する前に、「福山風俗」「福山志料」を書き残した。
その中に備後福山市東の三吉村に、「三八という者らの住む地域あり。これ水野侯が福山十万石を賜るとき、三河より伴いきたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。
この水野侯というのは「汝も明智光秀にあやかるべし」と家康から光秀遺愛の槍を貰った寵臣で、大阪夏の陣の大和街道の指揮官をつとめ、
のち島原の乱に討死にした板倉重昌に代わって松平伊豆守が指揮をとっても不落ときくや、老躯に鞭打ち福山から駆けつけ島原を落城させた水野勝成で、その三男も旗本に取り立てられていたが、
この倅が旗本白柄組の水野十郎左衛門である。なおそのとき、
(光秀にあやかれ)と家康が言ったのは、その時代には誰も、「光秀が信長殺し」と認めていなかったせいでもあろう。
さて、この福山の三八について、「六郡志」に「三八は常に両刀を腰におび、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、深津村専故寺の前にて斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方のことを誌している。
また「備後御調史料」では、「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、普段は捕縄術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。
また鎮守の祭礼には神輿の先払いをなし、陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八または八部衆ともいう」とでている。
これは(おどま勧進勧進)の五ツ木の子守歌で知られているように、いわば、「乞食」扱いを蔭ではされながら、表向きは刀を二本差し代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召し捕ってしまい、
でっちあげで牢屋へ放りこんで断罪していた三八の風俗である。今でもいわれる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源はこれからだという。
さてなぜ百姓が彼らを乞食視したかといえば、正規の扶持米ではなく、百姓から役得のごとく米をまきあげ、それで寄食していたせいである。
明治維新で薩摩の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、いわゆる今も伝わる「村八分」の起こりなのである。
また、裏日本の「因幡志」にも、
「伯耆や因幡にては、元旦、盆の十三日にはハチヤが唱門師のごとく各戸を廻り米穀を貰いうく。平時は御目付役宅に出入りし、棒や十手をもって警邏をなし、軽罪はハチヤ預けといいて、
彼らに歳月を限ってハチヤの奴僕とされた」とあるし、出雲などでは、「文化四年(1807)松平出羽家書上書」と名づける公儀へ提出の公文書もあり、
それに「当家が雲州を拝領せし後、各郡ごとに『郡廻り鉢屋』をもうけ郡牢を一個所ずつおき、この鉢屋の頭は尼子時代の牢人の素性ゆえ『屋職』とよばれその下に『村受け鉢屋』があって、
これが各村ごとに数戸ずつ配置され、担任区内の村民の非違を司っていた。これは天領の大森町も同じで、他に一定地ごとに鉢屋の聚落居住地があり、
ここでは常時、抜刀、柔術、棒術を修練していた。山陰地方にて名ある武芸者はみな此処の出身なり」堂々と書かれている。
しかし明治七年に警察制度が変革してからは、やはり村八分として追放された者が多く、大正六年調査表の『島根県分布一覧』には僅かに、
「鉢屋一八六戸、一七三戸、番太五六戸、得妙三戸、茶筅三十戸。計四四八戸」とある。
また尼子の残党が、村受け鉢屋や郡代鉢屋になったことの裏付け史料としては、「昨十九日の合戦にて、鉢屋掃部ら鉄砲をもって敵を討取りし段は神妙に候」
「はちや、かもんら永々と籠城のところ、このたびも敵勢取りかかり押し寄せし時もおおいに力戦奮闘、武辺をかざりしは神妙也」といった永禄八年四月二十日、同十月一日付の尼子義久の花押のある感状が、
はちや衆かもん衆頭の、河本左京亮宛で今も現存している。
「掃部頭」というと、今では井伊大老のことをすぐ連想するが、彼が公家を弾圧し安政の大獄を指揮したのは、彼個人のバイタリティーのみでなく、
「公家に対する地家」つまり俘囚の裔が武家であるという民族の血からの、反動的な圧迫だったともみられるのである。
それにもともと公家というのは「よき鉄は釘にならず、よき人は兵にならぬ」というのを金科玉条となし、彼らが征服した原住民の末裔をもって兵役を課し、これが武家の起源であるが、
差別のためか蔑視の理由によるかそこまでは解明できぬが、「掃部頭」とか「内膳」「弾正」といった官名しか武家には与えていない。清掃人夫取締りとか、配膳係のボーイといったのが前者の意味であり、
後者は「糺」という文字もあてられ「ただす」と訓をされていた。これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始まり、大宝令で法文化され延暦十一年に、
「弾正例八十三条」という当時の刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になることを嫌った」ごとく、ただす役割もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千 金の子は盗賊に死せず」の精神なのである。
だから、よく映画や芝居で「おのれ不浄役人め」とか「不浄な縄目にかかるものか」と軽蔑した言葉がでてくるのは、つまり、俘囚の子孫が役人だったことに起因している。
だからして公家が、織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは近江八田別所出身。
昔の捕虜収容所の血統だからである。しかし尾張の織田家を弾正にしたところで京へきて、御用御用と召捕りをやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、
明治二年五月に、新政府はこれを復興。同年七月に弾正台京都出張本台、四年二月に弾正台京摂出張巡察所と捕物機関を設けたが、のち司法省に吸収合併され、なくなってしまつた。
  武道は誰のために
さて、これに対して被捕物側である一般大衆はどうであったかというと、天正十六年(1588)に秀吉の刀狩りが施行されたが「道中差し」の名目で旅行用服装時に限り帯刀は一般にも江戸期は黙認されていた。
そして幕末の天保から慶応にかけて、黒船騒ぎや国内事情の悪化で護身用の目的から泥棒を見て縄をなうごとく武道が流行した。
さてこうなると、きわめて職業化され生計がなりたったからプロが輩出したのである。『徳川実紀』にもこの記載がある。そして、これに便乗して『本朝武芸小伝』『新撰武術流祖録』の類が木版本で後に刊行された。
そして、さも戦国時代から何世紀にもわたって、武道というものが隆盛をきわめたように、そうした本ではこれをうたいあげた。
だからして現代では、相当の有知識人であっても、ほとんどの人に、「江戸時代というのは、侍はもとより町人でさえ、腰に刀をおびていた。だから各地に道場があって、みんな剣の稽古をしていたもの」
といった概念があるらしい。それゆえ、
「道場の門弟が跡目を望んだり、道場主の娘を狙って争う」といった設定のものや「殿様の前で刀と刀の御前試合があった」「十五歳から町道場へ通った」などという、
天保以前の泰平の世では、有り得なかった荒唐無稽さが、講談やテレビの影響で抵抗無く受け入れられているらしいが、もし一般大衆である被捕物側がそんなに武道鍛錬を励んでいるならば、
これを逮捕する側が、棒と十手だけで太刀うちできただろうか。国家権力の方が武器は優秀でないと治安維持は出来ないものなのに、矛盾してはいまいかと考えざるを得ない。
それによく「刀は武士の表道具」などというから、幕末に輩出したプロは、みな武士クラス出身であるはずと想うのだが、比較的知られている連中をあげていっても
千葉周作・・・・馬医者(猿飼部族)の家筋
男谷精一郎・・・検校の倅
斉藤弥九郎・・・商家の丁稚上り
土方歳三・・・・日野、松坂屋の小僧
近藤勇・・・・・日野、農業
岡田十松・・・・埼玉砂山、農業
浅利又七郎・・・千葉松戸、農業
と、有名剣客で士分の家柄は案外に誰もいない。これははたして何を意味するのだろう。「本を買い込んで、つんどく」のと「読む」というのは違うと言うが、三百年来腰に刀を差している階級から剣客が出ずに、
他の階級からそうしたプロが産まれてきたことは、これは動かし難い事実であり、これまでの概念とは違い、三代将軍家光以降は幕末まで各大名家に、「武術師範」と称される存在はない。
また「何々道場」などといった物も、今では常識化されているが実際のところ、一般化されていたのは虚構ではあるまいか。
忠臣蔵で有名な浅野内匠頭は、松の廊下で吉良上野に刀を抜き二度まで斬りかかっているが、その「浅野内匠頭分限牒」には播州赤穂三万五千石の家臣団が足軽小者から医師や女中の末に到るまで書き出されていて、
「槍奉行」や「御膳方」「餅奉行」といった役職までずらりとあるのに、「武術方」とか「武道師範」などというものは全然ないのである。
講談で有名な高田馬場十八人斬りの堀部安兵衛も、分限牒では無役である。もちろん安兵衛が内匠頭に師範をしていたら、まさか二度も刀をふるって擦過傷ということもなく、吉良上野を斬殺していただろう。
すると赤穂浪士の討ち入事件は起きず、忠君思想の宣伝材料がなくなり、その後の朱子学の儒臣も困ったろうと想われる。
つまり各大名家では幕末になって、流行のように学校や塾を設立し、そこで武道鍛錬をさせたが、それまでは、公儀よりの犯罪予備罪の嫌疑を恐れてか師範など置いてはいない。
また道場というものも、今日の小説や映画に出てくるような民間道場というのはあり得ない。
なにしろ国家が十手と樫の棒で治安を保とうというのに、一般大衆に剣道を普及させるそんな物騒なものは、これを認めるわけなどありえないからである。
では存在していたのは何かというと、これは捕物側のものだけである。これはかってGHQによって武道禁止をされた時、警察関係だけは特に許され存続してこられたのと同じかも知れぬが、
現在は群馬県多野郡吉井町になるが、 昔は上州多胡の馬庭村で、そこに有名な、
「樋口家の馬庭念流」の大きな道場があって、江戸京橋太田屋敷、神田お玉ガ池、小石川の三カ所に出稽古の道場まであった。
といってこれは、一般大衆の青年が習おうとしても、「入門しとうござる」といって行けるところではなく、南町奉行所北町奉行所、小石川の方は火附盗賊改め番所の委託制で、捕物側の指南所であったのである。
のち幕末になって剣道が大衆化して、今日の各種学校のように入学金と月謝で採算がとれるようになると、馬庭念流の樋口定伊は、
「矢留術」を看板に神田明神下から、和泉橋通に一般用の道場を進出させ経営に当たった。それまで馬庭念流が上州で長らく存在しえた理由は、
「岩鼻代官所御用」と「大戸関所御用」の二つを拝命し、そこの捕物側の訓練に当り、また出役に人手不足の時には、西部劇の補助シェリフのごとく門人を出して代官御用を勤めてもいたからこそ、
その道場はさし許されていたもまである。
つまり武道というものは、権力に反抗する恐れのあるものとされたから、伝承のように武士階級によって護持されてきたのではない。
たえずそれを役目柄必要としていた治安維持担当の捕物側によって江戸期には受け継がれてきた。明治三十五年刊の「日本武術名家伝」にも、はっきり、
「捕手は竹内流の小具足の中に起こり、我より仕掛けて敵の不意をうち、これを捕りひしぐの術にて、関口流、川上流、一伝流らみな捕り方を主となし、制剛流も必ず捕手術をもって、その武芸の髄となす」とでている。普通の概念でゆくと、武芸とは、
「刀槍をもって相手を倒すこと」と大衆文学的にどうも考えがちであるが、それらは「武門の意地をたてるため」とか「剣の使命によって」などと漠然とした曖昧模糊の観がないでもない。
きわめて非実用的である。ところが、そういう観念をかなぐり捨て改めて、「捕手術こそ武芸である」とすると、治安維持上目的意識が明確になるし、これはきわめて実用的な技術であるから、
捕縛方がこれに励み伝承することにも、その意義が認められてくるというものである。今でも剣道の道場が何処にもあるのは警察だけである。
   居合と抜刀術 の違い
さて『近世詩儒伝』というのに、「井上石香は江都の詩をよくする者の筆頭。三河松助が本名にして千葉周作をその支配地神田於玉ガ池に招き、その道場をたてて己の輩下に刀術を学ばせる。
石香も同道場師範としてその剣技令名あり」とでている。
これだけ見ると石香というのは千葉周作のパトロンで、どこかの大名のご隠居のごとくも想われてしまう。そして『石香談話』には、
「抜刀術にて吾に比するものなかりき」といった箇所がある。だからどうしても、「北辰一刀流の千葉周作から抜刀術の極意」なるものを授かり、西部劇の早撃ちのごとく、
サアッと刀を抜く術に優れていたもの、と、どうしても解釈しがちである。
ところが拳銃を素早く引き抜き一秒もかからず、引き金を引く所作のごとく、刀の鯉口をきり己の長刀を抜く技術は、山田次郎吉の『日本剣道史』をみても、これは「居合」という呼称をされている。
つまり「抜刀」とはいわれないのである。
が、表向きに「抜刀」をその流派に冠するものもないではない。幕末に金比羅大神宮の御利益で、田宮坊太郎という少年が親の仇討ちを目出度く遂げたという辻講釈が、金比羅講の信者によって宣伝され、
世に広まった後『北条早雲記』という読み本が刊行され、その中に田宮平兵衛成政という長柄の刀をおびた剣豪が興味本位に創造されている。そして、
(柄の長い刀は抜くのに厄介だろう)という想念のもとに、ここに流行に便乗し、「田宮流抜刀術」という名称が生まれた。なにしろ十二歳の坊太郎少年が一メートル余の大刀を、
大地を蹴って飛び上がり、すらりと抜き打ちに出来たというので、講談を本当と思いこむ人士も多く、ついに紀州や水戸にまでこれは広がった。
(松井源水の長刀抜きが大道芸で広まったのもこの影響である)しかし田宮流抜刀といっても、この派の万治元年に死んだ水野新五左は、自分で「水野流居合術」と改めているし、
その派の加藤権兵衛も「水府流居合」と直し、誰も「抜刀」という名称は避けている。
何故「居合と抜刀」とは相違するのであろうか。
これこそ今まで解明されなかった一般武芸と、捕物武芸の分岐点のようなものである。だが、それを解く前に井上石香を本名の三河松助から考究する必要が出てくる。
通称「三松」と呼ばれた彼は『福山志料』に現れる「三八」と同じであって、弾左衛門世襲の手代六人衆の一人なのである。
弾家というのは幕末三田屋敷で御用盗を指揮していた薩摩の益満休之助が、「おはんのところは、源頼朝の直裔ではごわせぬか」と言いに行ったような家門で室町御所の頃は「室町弾左衛門」を名乗っていた。
現在の日本橋室町の三越から日銀までにその居宅があって、麹町平河から左岸は彼の土地だった。
天正十八年に徳川家康が江戸に入った時、土地を譲って隅田川向こうに移ったが、幕末に到るまでその敷地内には、棟割長屋二百三十二棟。
猿飼十五戸。外に品川、代々木、神田、日本橋に飛び地をもち六十棟ぐらいの長屋が あって、慶応三年の調べでは弾左衛門輩家は江戸だけで六千人。これに奥州までの十二カ国に、
六千五百六十二の支配村落を持っていて、そこに散在している人数は女子供を入れると約五十万人。この他に、「道の者」といって、
墨屋、筆屋、獅子舞、鳥追いといった行商や遊芸で旅から旅へと渡り歩く弾左衛門鑑札の者が二十万。
しめて七十万の人間から人頭税をとっていたのが弾家で、一人から年に一両とっても年間七十万両の現金が入る家柄である。
そこで三田村玄竜の考証によると、「江戸の札差しの金は全部、弾家の金で、後世の日本銀行の役割をしていた」という。
だから世襲の手代といっても、実質は何万石の家老位の実権やみいりがあったから千葉周作に道場の一つぐらいたててやるのは何でもなかったらしい。
しかし弾家というのは初めはそれ程の地盤ではなく、これは隅田川の関屋別所を合併してかららしい。といってこれは弾家の意志ではなく、家康入国の時に、
他地方なみに牢獄と刑場を一つにして弾家の責任にしようとしたところ、関屋別所の石出帯刀が三百石どりの武士になってしまって牢屋奉行になり、所属地を一切あげて弾家に委せてしまった故である。
徳川政権の奉行職は次々とお役目替えがあるのに、石出帯刀の子孫だけは三百年にわたって世襲であったのはこの為であった。
また千住関屋の牛田にある千葉山西光院という寺に石出帯刀の石碑があるが、後にその素性の所だけは判読できぬよう石を削り除かれているのも理由はそこにある。
弾家は今の南千住駅前の昔の小塚原刑場だけが担任の仕事なので、破戒僧だとか人別帳をけずられてきた共の払い下げを受け、それを奴隷代わりに処刑人として使用し、ここを六人の手代の一人にやらせていた。
山田浅右衛門、通称「首切り浅右」がそれで、御一新前は門人にやらせて自分で斬首などせず、もっと威張っていたものだとその手記が残っているが、
「山田流居合抜き」と呼ばれて名高い新免流据物斬りは、代々その山田家に伝わって来たものである。
         
 白は逃がせ黒は捕らえろ

では、山田浅右の居合抜きに対し井上石香の抜刀術とは一体なんであったのか。この区別が今日では、まったく判らなくなってしまっているが、
『石香談話』の中に「われ十手をもち刀の下げ緒に引っかけ栗形(鯉口の下にある鞘紐通し)又は反角(腰に差したとき鞘がすべらぬよう引っ掛る所)にこじり通して、
その鞘を抜くはこれ百発百中なり」と言う箇所がある。
これまでの既成概念で考えると、刀を叩き落とすなら判るが、鞘を抜くというのは理解に苦しむ。しかし文字通りでは自分の刀を抜くのが、居合い術。相手の刀を抜くのが抜刀の術。なのである。
だから従来の武芸観からゆくと、どうも「刀法とは相手を早く斬り倒すもの」と考えて判らなくなるが、江戸期に武芸を専門に鍛錬していたのは捕物側なのであることに思いつけば、
「抜刀させる必要性がそこにあったのだ」と、帰納して考えざるをえない。
これは「鯉口三寸抜いたら、お家は断絶、その身は切腹」というのが千代田城内だけのことと今では考えられているが、あれは帯刀する者全部ヘの掟だつたのである。
警官が拳銃を佩用しているが、持っているからと言ってバンバン撃てないないように、刀を差しているからと誰もがやたらに許可無くして抜刀は出来なかったのである。
天保期から幕末にかけ治安が悪化したのはこのタブーが無視され、気儘に抜刀する輩が現れた為で、それまでの世情では国家権力は棒だけで取締まりが可能だったのである。
つまり抜刀の斬り合いが希有だった例証としては、切傷に対する漢方の処置方というものが、幕末まで全くなかった事実がある。
会津軍務局頭取玉虫左太夫が明治二年四月に西軍に命じられて自刃する前に書き残した『官武通紀』にも外科の手当を知らず難渋した旨の記載があるし、
これは子母沢寛の『からす組』や『狼と鷹』にも蘭医松本良順が外科の処置を教えに行くまで、東北諸藩の医者は手当が判らず、てんでに傷口を消毒するどころか温めたり冷やしていた野放図さかげんが出ている。
つまり、「需要があって供給が生まれる」原則からして抜刀して斬合いをよくしていたものなら、漢方医といえど、どうしても切傷手当の外科はやっていたはずである。
なのに、その需要がまったくなかったというのは、とりも直さずチャンバラはなかったことになる。こうなると通俗時代小説などメルヘンでしかない。
では何を被捕物側は振り回し国家側の捕物陣営と争ったかと言えば、それは鞘ごとである。だからして必要上鞘の末端には「こじり」とよぶ鉄の尖った物が冠せられ、
直ぐしたには「責め金具」とよぶ鋭い鉄枠ががつき、鞘が割れぬように「足金物」で厳重にベルトがしめられていた。
それゆえテレビや映画と違い、被捕物側は本当は刀を抜かず八十センチの鞘ごと向かってくるからして、それなら二メートルの樫棒の方が遥かに優位だったのである。
しかし鞘ごと振り回すのを召し捕っても、もし容疑が晴れたら虻蜂とらずである。 一旦捕らえるからには起訴事実を作っておかねば徒労になる。
そこで考案されたのが抜刀術である。十手の下の方の出っ張りは、あの間に刀身を挟むのではなく、鞘をひっかけ無理に鯉口を切らせ、刀身を露出させ罪に落とす為である。
さす叉にしろ、からみ棒にしろ用途は、「抜刀させ、罪にする」目的だった。芝居などでは首へさしこみ挟み込むが、あの幅は十五センチ間隔であるから、Mサイズの頸なら入るが、
Lサイズの相手なら入らない。
また十手それ自身でも三センチの空間に、刀身をすっぽり入れることはパチンコのチューリップへ玉を入れるより難しいし、もし抜身なら十手の方が怪我をしてしまう。
いまならパトカーで運ばれすぐ手当も受けられるが、昔はそうはゆかない。それにクロロマイセチンや抗生薬剤のなかった時代では、小さな怪我でもすぐ傷口がうんで、
「破傷風」と当時は呼ばれたが命取りになってしまう。
だからそうしたことを考えると、捕物道具というのは「棒」が主要武器であって、「十手」も初めは軍配や采配のごとき性質だった物が、点数稼ぎの末端の警吏に抜刀用にと利用されだしたものらしい。
さて話は八一二年戻って文治二年。九郎判官義経が捕らえられぬのに業を煮やした源頼朝が、日本全国六十六国に対する「総追捕使」を自分でかって出た時、各地に警察署を設けるわけにゆかないから、
六十六国に散在している二千有百の同族神徒系の別所のに、逮捕と処罰の警察権をもたせてしまった。ところがこの連中は足利期にはいると、
「白旗党余類」と呼ばれるように、白旗をいつも立てている部族なので、自分らの事を「仁田のしろ」「武田のしろ」と自称するくらいだから、捕らえてきたのが源氏の末裔で、
同じ神信心の部族と判するや、「白じゃ、同族の情けぞ」と放免してしまう。
しかしそうそう見逃していては起訴できぬから、補充の意味で、墨染の衣をまとう仏教系の反源氏の者を代用に捕らえてきては、「黒じゃ」と適当に罪科をつくって処罰してしまった。
あまりにでっちあげが酷いからというので「嘘の三八」という言葉が伝っているのは前述したが、目安箱に投書などして黒の者が白の役人に再審請求することを「黒白を争う」といったのはこのためである。
八世紀に渡って日本全国で、鉢屋とか八部ともいう連中のボスのが、代官手先となって片っ端から捕らえて廻り、番屋の番太郎や目明かし下っ引きの類も、
「白か」「黒か」とやったから、今でもこの用語は「そんなに言うなら白黒つけようじゃないか」などと生きているが、薩摩系に警察権が変わった明治七年からは、今や実際には白黒は反対になったのである。
そして村役人や番太だった八部衆が「村八分」にされたように、も関西では仕返しのため「ん坊」と苛められた。
        
         
  二足草鞋やくざと源氏屋
また今日では「二足草鞋」と言う呼び方をして、博徒で御用聞きをつとめた者を悪くいうが「無職」(ぶしょく)というのは職がないのではなくて、職を持たなくてもよい身分の者のことなのである。
といって豪いというのではなく、これは七世紀に仏教を持って天孫系が日本列島へ入ってきたとき、原住民を捕らえて別所という捕虜収容所へ入れたが『延喜式』といった古記録にもあるように、
給食給衣の宣撫策がとられ、治外法権の民とされた。大江匡房の書き残した『傀儡子記』(くぐつき)にあるような、
「一畝の田も耕さず、一枝の桑も作らず、己らに主君はなしとし、生涯、貢租や課役なきを誇り、夜毎に白神をまつり白酒をあげて鼓舞しあう」といった無職渡世の気儘な伝統を幕末まで持ち越し暮らしていた。
つまり天孫系は各檀那寺に人別帳とよぶ戸籍台本を作られ、そこで年貢をとられたり「助郷」とよぶ労力奉仕にかり出されるから、どうしても職というものが必要だった。
が、原住系は百姓の作った米を、蔭では(勧進)と悪口を言われようが、御用風をふかし、巻き上げ徒食していた。この結果が天孫系は何をやるにしても努力し銭になるよう励まねばならぬから、
勤勉で仕事に直ぐ熟練した。
ところが原住系は何によらず遊び人気質が抜けず慣れないというので、前者を黒人(玄人)、後者を白人(素人)といった区別の仕方すらある。
さて、ぶらぶらしているのが博徒になるのは当たり前だし、その素性からして、代官所の下働きとして御用の十手を預けられるのはこれまた当然である。
つまり、「二足草鞋」の方が主流派の存在であって、今でこそ有名だが清水の次郎長とか、黒駒の勝蔵といった連中の方が「半可打」という反主流はだったのである。
だから次郎長や勝蔵は自分の土地に居られず、旅から旅へと逃げ回っていたのである。ところが、この双方の纏め役を後にかって出た安東の文吉になると、これは二足草鞋の主流派だから、
博徒と言っても今日で言えば警察署長、当時の地方公務員だから、生涯旅がらすなどは一度もせずに畳の上で大往生をしている。
さて、春日局の実子で小田原城主だった稲葉美濃守から、駿府城代大久保玄蕃頭宛慶安四年八月二十七日付書面で「由井正雪の親類を探索のため、江戸から目明かしが来る」というのが現存している。
だがこの場合は、「面通し」の意味で、俗に言う目明かし岡っ引きの類は、地方の八部、三八と同じで江戸では弾左衛門配下の手代井上石香に属していた。
しかし弾家は人頭税はとるが給与は出さない。では何処から貰っていたかというと、吉原が日本橋蛎殻町にあった頃より、ここから支払われていた。
何故かというと遊女屋というのは誰でも出来る商売ではなく、源氏の末裔の原住系の者だけが営める蝋燭の灯芯と同じような限定営業で同族だったせいである。
だから遊女の名を源氏名というし、目明かしの下っ引きなどでぶらぶらしている者を源氏屋と昔はいったものである。
さて日本の学生運動の草分けとも言うべき一八六四年(元治元)水戸の時擁館生徒二十歳の田中源蔵が、学生三百を率いて決起したとき。
今は日立市になっている茨城の助川城に彼らが立て籠もる前から、これを追撃していた公儀機動隊というのが、水戸領鯉淵村他五十三村の八部衆たちで、
彼らは昔ながらの源氏の白旗をたてて総督田沼意尊の命令下に九月二十七日の早朝には水戸額田村の博徒隊寺門組二百、同じく博徒のうこん組の二百ずつと合流した。
つまり源氏屋と呼ばれる二足草鞋の博徒が主力となって、これに奥州二本松の丹羽軍を初め近接諸藩の軍勢が加わり二万の大軍をもって、田中隊の助川城を包囲攻撃したのである。
博徒といっても公儀御用の機動隊だから、みな鉄砲を持っていた。
その銃口の前に立ちふさがって教え子を庇うために、「時習館教授方尾形友一郎」「潮来館教授方林五郎三郎」を始め師と仰がれる多くの先生たちが散華していった。
もちろん結果的には、十三、四歳の少年までが捕われ体が小さいため斬首できぬからと木に吊され撲殺されはした。
だがかっての師には、身をもって教え子を守る気概があったからこそ、三尺下って師の影を踏まずというような考えもあったのである。
今日のように教官や教授がサラリーマン化しては、バカヤロー呼ばわりされるのがいても無理はない。







真相・鳥羽伏見戦争敗戦の訳

2019-05-24 11:10:21 | 古代から現代史まで
真相・鳥羽伏見戦争敗戦の訳
 
 
幕末、「御用盗」の名で江戸八百八町を公然と荒し廻っている強盗団の巣窟が三田の薩摩屋敷、と証拠をつかんだ江戸市中取締りの庄内藩は、慶応三年十二月二十三日夜、 己が屯所へまで鉄砲を打ちこまれたのには立腹した。そこで、「下手人をすぐさまお引渡し願いたい」と交渉したが、三田の薩摩屋敷より、 「そげえなことは知り申っさん」とすげなく拒絶されてしまい、そこで、「えい、もはや、これまで」堪忍袋の緒をきらし、翌二十四日夜。すぐさま支藩の兵まで動員して、 「やってしまえ」と三田の薩摩屋敷を包囲するなり直ちに、これに火をかけて攻めた。この知らせは、年の瀬も迫った二十九日夜。当時大坂城にいた徳川慶喜の許へも届けられ、これに対し、 同行していた老中永井尚志は、「かくなる上は、すべてが薩摩の陰謀と判然しましたゆえ」と申しでて慶喜の許可を貰い、総督に大河内正質をたて、すぐさま淀に本陣をもうけた。  そして「討薩の表」を掲げもった滝川播磨守の本隊は鳥羽街道を進み、竹中丹後守の隊は伏見口から、一気に京へ入ろうとした。
 
 
 しかし、そこには、薩長土三藩の兵がいたから、まず鳥羽口を守っていた薩州の中村半次郎、野津七左衛門(のち鎮雄)が、滝川の部隊に砲火を浴びせかけた。 一月三日の午後五時頃だというが、僅か二千たらずの軍勢に何故、このとき、精鋭であるべき幕軍二万近くがころ負けをしてしまったのか。 「錦旗が出てきたから、それで幕軍は退却したのだ」というけれど単純すぎる。はたしてそんなことが有ったものなのか。  なにしろ錦旗の贋物を岩倉具視が呉服屋に調製させたのは、それより後だというのだから、これではてんで話の辻つまが合わないことになる。  だからでもあろう。伏見奉行所にたてこもって戦い、逃げて船で江戸表へ戻った新選組の土方歳三などに、「もう、これからの戦争は鉄砲だ。いくら刀なんか振り廻したって歯が立たなかった」  などと語らせて、この経緯を説明しようとする小説もある。
 
 しかし新選組には余り銃がそろっていなかったかも知れぬが、滝川播磨守や竹中丹後守が率いて進撃したのは、なにも刀槍を振り廻した連中ではない。 四年前の元治元年に那珂湊で水戸天狗党をば散々に打ち破った光栄ある仏人軍事顧問が、調練して育てあげた公儀歩兵隊なのである。その歩兵隊が鉄砲をもっていない筈はないから、彼らはポンピドー銃を担ぎナポレオン砲を引張った砲兵隊と共に進軍したのである。  二万の内、新選組のようなのを除外しても、大半が歩兵隊だったのなら、まさか二挺拳銃みたいな二挺鉄砲ということはなかろうから、二千たらずの向こうより幕軍の 方が遥かにその鉄砲の数も多いわけである。だから、土方歳三にそんなことをいわせたように書いたとしても、こじつけでしかない事になる。  では個人的に薩摩っぽや長州人が滅法強すぎて、関東者はだらしなく鉄砲を放り出して、みんな逃げてしまったのかともなる。が、そんなに易々と幕軍とても退却はしていない。徳川家伝習隊、会津藩兵も翌四日未明にかけ、一歩も退かずに、「敵は僅少ぞ。頑張れや」と、土方歳三の率いる新選組と共に、伏見奉行所から反撃、 近藤勇の養子周平の他に新幕の隊士二十名近くを失いつつも、なお奮戦敢闘している。しかし明るくなっては防ぎきれず、会津兵は淀まで下って散兵線をしいたが、新選組はそれでも退却せず千本松に陣をしき、 沼地を要害にして、ここで薩長軍をくいとめた。
 
 
 このため、新選組結成以来の仲間だった井上源三郎を初め、探偵諜報役だった山崎烝以下二十余名を、改めてここで失ったのである。  そこで、息のある者もいたが、とても収容などできず、土方歳三は歩ける者だけ纏めて辛うじて引きあげる羽目になった。やがてこのため、富森、橋本、八幡まで進んできていた幕兵までが、まき添えのかたちで敗走。雪崩をうって大坂城へと逃げこんだ。  元日は牡丹雪がふったが、二日、三日、そしてこの四日も、ひどい西北の烈風が吹きまくっていた。だから風に叩きつけられて、京へ向かう行軍は阻まれたが、大坂へ逃げ戻るとなると追風をうけるようなものだから、生き残った幕兵は夕方までにみな 立ち帰った。
 
「緒戦は不運にもしくじり申したが、この大坂城内には、まだ新しき兵が万余も居る。戻ってきて編成し直した者を加えれば、二万いや三万にもなりましょう。 将軍家おんみずから御出馬下されば、将兵は勇気百倍致しまして、関東武士の意気をあげましょう」しきりと周囲の者は慶喜に出陣を求めた。  兵力が十倍近く多いのだから、誰がみても慶喜さえ陣頭に馬を進めれば、これは絶対に勝利間違いなしの筈だからである。処が慶喜は、「この城がたとえ焼土となるとも、死をもって守るが徳川武士の本分というもの。もし吾らが此処で討死したとしても、関東忠義の士がきっと遺志を継ぐであろう」などと、今でいえばおおいにアジっておいて、そっと大坂城の後門(うしろもん)から脱出してしまった。 「もしもし、どちらさまでござるか」警護の兵たちが、ばらばらと駆け出してきて誰何(すいか)したが、「これは、これは、てまえは上様のお小姓でござる」  山岡頭巾をかぶった慶喜は腰を屈めまでしたという。さて、衛兵たちは、雲の上の慶喜の顔や姿など拝んだこともない。それに、まさか前十五代将軍さまが、衛兵の御徒士あたりへ、形ばかりにせよ、 頭を下げる、とは思いもよらぬことだから、「それは、それは‥‥」と通してしまった。慶喜はそこですぐさま、天保山沖に碇泊させてあった軍艦開陽丸へのりこみ、八日の夜に出帆し江戸へと帰ってしまった。
 
 
 歴史家は、この間の事情を、 「慶喜は西軍が錦旗をあげれば官軍になるから、それと戦うと抗命朝敵となる。そこで恭順の意を表するため、騒ぐ家来達を放って戻ったのである」と説明する。  しかし、慶喜は三日の朝には、「討薩の表」を認め、進軍を命じているのである。そしてこの慶喜は、御三家の名古屋城主徳川慶勝をして、「なみの人にあらず、機をみるに敏、その頭脳の切れること、 これは到底、世の凡俗の及ぶところにあらず」とまでいわせているが、その頭の廻転の早さには定評があった。  それ程までに頭のいい男が、三日の朝には、「よし、薩摩を討て、京へ上れ」と命じておきながら、「鳥羽伏見で僅か二千の敵に、向かい風に邪魔され二万近くの幕軍精鋭が敗走してきた」と聞かされただけで、 翌日の夕方には、「恭順せねばならぬ」と途端に気が変ってしまい、己れの家臣を瞞(だま)してまで逃げ出してしまえるものだろうか。 女には、お天気屋というのがあって、くるくるっと気が変るそうだが、慶喜は男、しかも人一倍賢しい男なのである。
 
 従来ここを解明できるものがいなかった。だからみな慶喜をかいても的を逸しているが、真相は、やはり彼の機をみるに敏な賢明さにあったのである。  問題は硝石である。徳川家では島原騒動以来、それを政治的配慮で切支丹一揆といいふらす事によって、「鎖国」政策をとった。  もちろんキリスト教ごときをそれ程までに、小児病的嫌悪をもって徳川家が恐れたのではない。  便所の下を掘って天日に三日も乾してもやっと匙半分もとれるかどうか判らぬ硝石たるや、2018年代の今日でも日本国中、何処にもその鉱山はない。だから幕府はその硝石の存在を恐れたのである。  なにしろ土民にすぎぬ連中でさえ、島原半島の口の津の硝石庫を押さえれば、徳川家の歴戦の勇士が力攻めしても討伐に二年掛ったのである。そこで仰天し、
「これは大変である。硝石を大名共が勝手に入手し謀叛をなしたら、天下の一大事である」と、ここに長崎に出島を築き、硝石の輸入は大公儀のみにと限定してきた。 「鎖国」の本当の理由たるや、つまりは実にこれである。
 
 
 青い目の宣教師を迫害したのは、彼らがマカオやマニラからの、硝石のエージェントを兼ねていたからであり、キリシタン信者を殺させたのも、その手引きで硝石の密輸があったせいで、 九州の半島や島嶼で虐殺が多かったのも、そのわけなのである。江戸時代に「抜け荷」と称し密貿易取締りが厳しかったのも、なにも珊瑚やたいまいが密輸入され女が着飾ったからといって、 それくらいで公儀が大騒ぎする筈はない。気づかわれたのは、日本にはなくすべて輸入に依存している硝石の密貿易だったのである。そしてこの統制が幕末まで励行されていたので、このため、 「徳川三百年の泰平」は続けて来られたのである。しかし馬関戦争の後、長州は井上聞多らを上海へ、薩州は鹿児島戦争のあと五代才助らを海外へ出していた。硝石の買入れにである。 「徳川家は鎖国をして硝石の輸入を独占してきたはよいが、長年積みこんでおいた物ゆえ、湿気をおび使い物にならなかったようだ。それに比して、薩長使用のものは上海から輸入したての最新硝石と判明、 とてもこれでは勝負にならぬ」と咄嗟に慶喜は気がついたのである。
 
だから昔ながらの石頭の老中共が、「わが方は薩長の十倍の兵がありまする。戦というは昔から、兵の多い方が勝つに決まっております」  と口を酸っぱくして諌めても、「鎖国までして、これまで押さえてきた硝石を、こう薩長土が自由にしだしたようでは、もはや徳川の世もこれまでであろう」  と慶喜はあっさり見きりをつけ、さっさと江戸へ戻り、江戸城もやがてあけ渡し、上野寛永寺へ、そして水戸へと引っこんだのである。  つまり慶喜が恭順の意を示さねばならなかったのは、 「硝石だった」ことが、これまで知られていないから、おおかたの歴史の知識を狂わせてしまっているようだ。もちろんその責任は、 「鉄砲の弾丸の原料が日本ではとれないことを国民に知らせては反戦的になる恐れがあろう」と気づかって明治軍部へ忠義を尽すために、すべてを隠してきた歴史家や、その忠実な後継者にある。