渡辺崋山の門弟メキシコへ渡る
その名を佐波多三平という



渡辺は号を崋山と言い、本名は登という。
渡辺の家は田原藩三宅家一万二千石の代々の家来で、登も寛政五年九月に江戸藩邸で生まれている。そして文化十一年には納戸役になり、
父の定通の死後は家禄八十石を継いだ。その後文政九年に番頭になり側用人を兼ね、天保三年五月からは家老になり百石の加増をの他に、役扶持二十石がついて二百石となった。
渡辺の家は田原藩三宅家一万二千石の代々の家来で、登も寛政五年九月に江戸藩邸で生まれている。そして文化十一年には納戸役になり、
父の定通の死後は家禄八十石を継いだ。その後文政九年に番頭になり側用人を兼ね、天保三年五月からは家老になり百石の加増をの他に、役扶持二十石がついて二百石となった。
二百石というのは他家ではたいしたことはなくとも、ここでは大身である。だからその頃は奉公人も多く十人ぐらいは居た。
ところが二年前、江戸町奉行鳥井耀蔵の「蕃社の獄」が起きた。これは、山口屋金次郎という町人だが蘭学好きの者が、今日の小笠原群島が無人島だったのに眼をつけ、
ここへ船をだして開発するという計画だけにすぎなかったのだが、幕府に、
(怪しい、南蛮人とそこで交易して御禁制の煙硝などを入手し、火薬を製造なして謀叛を企てるのではあるまいか)と勘ぐられた。そして、鳥井耀蔵はこれに、
(これらと気脈を通じているのは、かねて内偵中の『尚歯会』ではあるまいか)と嫌疑をかけた。
鳥井耀蔵というのは幕府の儒者林大学頭述斎の次男から、鳥井一学の許へ養子にゆき、天保八年に目付役となって、新しく勃興した和蘭学に対しては、憎悪しかもっていない男である。
(時こそ来れり。これで和蘭学をやる者をば一網打尽となし、もって儒学万能の世に戻すべき好機ではないか)というので、町奉行になると老中水野忠邦を説きつけ、
「小関三英、高野長英」といった尚歯会の面々を召捕ると、ついで譜代大名田原藩三宅家の家老渡辺登まで逮捕してしまった。
ここへ船をだして開発するという計画だけにすぎなかったのだが、幕府に、
(怪しい、南蛮人とそこで交易して御禁制の煙硝などを入手し、火薬を製造なして謀叛を企てるのではあるまいか)と勘ぐられた。そして、鳥井耀蔵はこれに、
(これらと気脈を通じているのは、かねて内偵中の『尚歯会』ではあるまいか)と嫌疑をかけた。
鳥井耀蔵というのは幕府の儒者林大学頭述斎の次男から、鳥井一学の許へ養子にゆき、天保八年に目付役となって、新しく勃興した和蘭学に対しては、憎悪しかもっていない男である。
(時こそ来れり。これで和蘭学をやる者をば一網打尽となし、もって儒学万能の世に戻すべき好機ではないか)というので、町奉行になると老中水野忠邦を説きつけ、
「小関三英、高野長英」といった尚歯会の面々を召捕ると、ついで譜代大名田原藩三宅家の家老渡辺登まで逮捕してしまった。
しかし尚歯会と山口屋金次郎との繋りは、いくら取調べても証拠もでてこない。といって、せっかく召捕っ者を、(見込み違いであった)では牢から出せぬ。
その内に渡辺登が「崋山」と号して絵をかいている方の知り合いで松崎慊堂というのが、「あれは、まったくの濡れ衣でござれば」と水野忠邦の許へ訴えでた。
さて渡辺登は三英や長英と違って、小なりといえど御譜代大名の家老職である。なのに、それを強引に伝馬町の牢へ、いつまでも入れておいては、他の大名への気兼ねもできてくる。
そこで天保十年も押し迫った十二月。
七ヵ月ぶりで牢から出された渡辺登は、受取りにきた帝鑑間詰三宅備前守の手勢にかこまれて、小石川下屋敷へ移されると、そこで五日ほど牢内でうけた疹創などの手当をなし、
そこから七十五里九丁の道のりを、三州田原へと送られた。そこでひとまず自分の屋敷へ入れられたが公儀を憚って三宅家では座敷牢の代りに、竹矢来を家の中の登の居間の周囲につけた。
投獄と同時に家老職はとかれていたから、役扶持二十石と加増の百石はなくなり、もとの八十石になっていたが、それとても、
「ご遠慮申し上げ」ということで、渡辺家ではその元扶持さえも辞退していた。
だから、かつては十人の余もいた奉公人が今では女中の芳と、内門弟の佐波多三平の二人きりになっていた。
その内に渡辺登が「崋山」と号して絵をかいている方の知り合いで松崎慊堂というのが、「あれは、まったくの濡れ衣でござれば」と水野忠邦の許へ訴えでた。
さて渡辺登は三英や長英と違って、小なりといえど御譜代大名の家老職である。なのに、それを強引に伝馬町の牢へ、いつまでも入れておいては、他の大名への気兼ねもできてくる。
そこで天保十年も押し迫った十二月。
七ヵ月ぶりで牢から出された渡辺登は、受取りにきた帝鑑間詰三宅備前守の手勢にかこまれて、小石川下屋敷へ移されると、そこで五日ほど牢内でうけた疹創などの手当をなし、
そこから七十五里九丁の道のりを、三州田原へと送られた。そこでひとまず自分の屋敷へ入れられたが公儀を憚って三宅家では座敷牢の代りに、竹矢来を家の中の登の居間の周囲につけた。
投獄と同時に家老職はとかれていたから、役扶持二十石と加増の百石はなくなり、もとの八十石になっていたが、それとても、
「ご遠慮申し上げ」ということで、渡辺家ではその元扶持さえも辞退していた。
だから、かつては十人の余もいた奉公人が今では女中の芳と、内門弟の佐波多三平の二人きりになっていた。
なにしろ渡辺登が田原へ送られてきてから二年たつ。
抉禄を辞退し一文の収入もないのをみかね門人の福田半香が崋山の紙幅をもって、書画会をひらき、よって米塩の資に当てようとした。
しかし鳥井耀蔵の許から廻されている下目付が、これを見逃す筈もなかった。
福田半香は召捕られ、崋山の書画はもとより、門人の椿山や琴谷のものまでが、ことごとく公儀に没取されてしまい、しかも、
「不届き千万なり」と江戸半蔵門外三宅備前守上屋敷へ、鳥井からの苦情がもたらされ、「お国許の取締方不行届き」をいってきた。しかもその上、鳥井耀蔵の嫌いな伊豆韮山代官江川太郎左衛門のため、
「西洋事情御答書」などのものを、渡辺登が書いて渡しておいた写しまでが入手されてしまい、このため吟味に改めて江戸表へ呼びだしとの噂も伝わっていた。
だから陰鬱な空気が、まるで澱むように家の中にわだかまりきっていた。
なのに珍しく渡辺登が、自分から顔を剃るなどといいだしたので、そのじめついたような雰囲気が、まるで切り裂かれでもするように、ほっとした和やかさがかもし出されていた。
この時、登は覚悟を決めていたのか、三平を呼んで、
「ノヴァーイスパアナつまり今のメキシコ国だな、その昔、伊達政宗の使節として訪欧した支倉常長の一行の者が土着して、今でもその子孫が(ハポネというのを作っているそうだ。
高野長英がなんとかして渡航しようと企てたが、策ならず、ついに召捕られてしまったのは知ってもいよう…。しかし誰かが海外へ渡航して、この日本を新しい目で見なければならん。それが若い者の勤めだ」
そして続けて、「メキシコは遠い。万里怒濤の彼方だ。しかしこの田原から赤松の山をこえ本前の浜へでれば、遠江灘、そこの沖合には、いつもメリケンからの船やイスパアナの鯨とりの船がきている。
福禄寿を祀っているつているメノウ社の氏子連は、そっと鰯船をこぎ出しては水や野菜をそれらの夷狄船へ内緒で売りつけているという。三平は田原街道に面した江比間の生れで、
えびすを祀る浄道社の氏子じゃから、同信心ゆえ巧く頼めば物売り船へのりこめ紅毛船へ近づけるし、秘かにメキシコへ渡れもできよう」と話した。
この、田原藩のある渥美半島というのは、今は伊良湖岬の灯台で知られているが、ここは現在でも七福神の一柱ずつを祀る拝み堂が、半島を七分しているような特殊な信心地域である。
つまり伊勢湾につきだし遠江灘をもって太平洋に面した渥美半島は、旧幕時代は三河に入り大久保彦左衛門発祥の地であり、馬伏塚の一帯は、
久世三四郎や加賀爪甚十郎といった旗本白柄組の在所でもあった。
だから徳川家にとって縁故深い所ということもあるが、課役や年貢のない別所地帯だったので、ここは鎖国時代でも密かに南蛮船に薪水を売ることなどは黙認されていた。
渡辺崋山が三十二歳からオランダ学を志し、家老になった後もそれをやめず、英艦モリソン号来日の報をきいて、それを撃ち払おうとする公儀の暴挙を諌めようと「慎機論」をかいたのも、
実はこうした土地柄が背景にあるのである。
高野長英がなんとかして渡航しようと企てたが、策ならず、ついに召捕られてしまったのは知ってもいよう…。しかし誰かが海外へ渡航して、この日本を新しい目で見なければならん。それが若い者の勤めだ」
そして続けて、「メキシコは遠い。万里怒濤の彼方だ。しかしこの田原から赤松の山をこえ本前の浜へでれば、遠江灘、そこの沖合には、いつもメリケンからの船やイスパアナの鯨とりの船がきている。
福禄寿を祀っているつているメノウ社の氏子連は、そっと鰯船をこぎ出しては水や野菜をそれらの夷狄船へ内緒で売りつけているという。三平は田原街道に面した江比間の生れで、
えびすを祀る浄道社の氏子じゃから、同信心ゆえ巧く頼めば物売り船へのりこめ紅毛船へ近づけるし、秘かにメキシコへ渡れもできよう」と話した。
この、田原藩のある渥美半島というのは、今は伊良湖岬の灯台で知られているが、ここは現在でも七福神の一柱ずつを祀る拝み堂が、半島を七分しているような特殊な信心地域である。
つまり伊勢湾につきだし遠江灘をもって太平洋に面した渥美半島は、旧幕時代は三河に入り大久保彦左衛門発祥の地であり、馬伏塚の一帯は、
久世三四郎や加賀爪甚十郎といった旗本白柄組の在所でもあった。
だから徳川家にとって縁故深い所ということもあるが、課役や年貢のない別所地帯だったので、ここは鎖国時代でも密かに南蛮船に薪水を売ることなどは黙認されていた。
渡辺崋山が三十二歳からオランダ学を志し、家老になった後もそれをやめず、英艦モリソン号来日の報をきいて、それを撃ち払おうとする公儀の暴挙を諌めようと「慎機論」をかいたのも、
実はこうした土地柄が背景にあるのである。
田原藩は家康と深い関係があった
崋山自害す
崋山自害す
ふつうは一万二千石位の大名では城などないのが多いが、ここは昔、徳川家康が幼い頃に今川へ人質にやられるところを、奪い返した戸田党の本城という事になっているから、
板ばり二階だての小城だが昔ながらの建物があった。
もちろん実際のところは、松平蔵人元康の子供を今川義元が人質にしようとしたのを戸田党が奪って尾張熱田の加藤図書の許へ伴い、織田信長が己が子同様に可愛がった。
そして実子の奇妙(信忠)茶筅(信雄)三七(信孝)と一つにして遊ばせ、娘が生れるとこれを娶せようと、その女子には五人で仲良くせいやいとの意味合いから、
当時いろりの灰の中へ入れて鉄瓶などをのせるように考案された物から名をとり、これを、「五徳(姫)」とよんだ。
つまり田原城の戸田党が今川へゆく人質を奪った幼児というのは、松平元康の子供でのち、岡崎三郎信康と名のる方である。
つまりのちに徳川家康を名のる男というのは、桶狭間合戦の直後に松平元康が家来に殺され、後始末に困った未亡人の築山御前に巧く交渉して替玉となり、
清洲城へゆき信長にあって和平条約を結び、その代りに人質の三郎信康を取り戻してきた人間である。
徳川時代に作られてできた「神君家康公の伝説」のように、(家康が、築山御前の夫で、三郎信康の父親だった)としたら、これは驚くなかれ、「十五歳のときに生れた伜」となるし、
その前に奥平信昌に嫁ぐ阿亀姫ら二名の娘もいるから、そうなると早熟にも、「十歳のときに阿亀姫を受胎させた」ことになってしまう。
しかし、これではいくら徳川家康が精力絶倫でも、
「せんだんは双葉よりカンバシ」と考えても十歳で長女、十二歳で次女、そして十五歳で長男を作って、三人の父親というのは若すぎる。
近頃は小学生でも栄養がよくなって初潮をみる子も多いというが、男子が小学校の三年生ぐらいでパパになるのはいないといってよい。
なにしろ、こんな例は世界史上皆無で、「スフィンクスの謎」など比べようもない。今と違って昔は男に生殖機能が働くのは、早くても十五歳位からゆえ、こじつけである。
板ばり二階だての小城だが昔ながらの建物があった。
もちろん実際のところは、松平蔵人元康の子供を今川義元が人質にしようとしたのを戸田党が奪って尾張熱田の加藤図書の許へ伴い、織田信長が己が子同様に可愛がった。
そして実子の奇妙(信忠)茶筅(信雄)三七(信孝)と一つにして遊ばせ、娘が生れるとこれを娶せようと、その女子には五人で仲良くせいやいとの意味合いから、
当時いろりの灰の中へ入れて鉄瓶などをのせるように考案された物から名をとり、これを、「五徳(姫)」とよんだ。
つまり田原城の戸田党が今川へゆく人質を奪った幼児というのは、松平元康の子供でのち、岡崎三郎信康と名のる方である。
つまりのちに徳川家康を名のる男というのは、桶狭間合戦の直後に松平元康が家来に殺され、後始末に困った未亡人の築山御前に巧く交渉して替玉となり、
清洲城へゆき信長にあって和平条約を結び、その代りに人質の三郎信康を取り戻してきた人間である。
徳川時代に作られてできた「神君家康公の伝説」のように、(家康が、築山御前の夫で、三郎信康の父親だった)としたら、これは驚くなかれ、「十五歳のときに生れた伜」となるし、
その前に奥平信昌に嫁ぐ阿亀姫ら二名の娘もいるから、そうなると早熟にも、「十歳のときに阿亀姫を受胎させた」ことになってしまう。
しかし、これではいくら徳川家康が精力絶倫でも、
「せんだんは双葉よりカンバシ」と考えても十歳で長女、十二歳で次女、そして十五歳で長男を作って、三人の父親というのは若すぎる。
近頃は小学生でも栄養がよくなって初潮をみる子も多いというが、男子が小学校の三年生ぐらいでパパになるのはいないといってよい。
なにしろ、こんな例は世界史上皆無で、「スフィンクスの謎」など比べようもない。今と違って昔は男に生殖機能が働くのは、早くても十五歳位からゆえ、こじつけである。
日本人というのは知能指数にしろ、全ての点において、地球上では最優秀の民族に属する。それなのに、いまだに、底意地の悪い外国のインテリから、
「ジャツプ」「ヤポン」といわれ、未開扱いなどされる真相は何かというと、「彼らは、まるでアフリカや中南米の土人と同じように、荒唐無稽な伝承を信ずるという愚かさを、
歴史という名でまだ保っている。だからとても尊敬すべき友人とはいえない」と、
英国の歴史家アガサーが、その答えをはっきりうち出している。つまり、「西暦一九四〇年の時に、日本だけが、皇紀は二千六百年」とお祭りをやったり、
「欧米人の目からみれば、後光もさしていないし羽もはえていない、一人の人間にすぎない方を、神としてまつりあげたり」するのがいけないというのらしい。
日本人として腹のたつ話だが、なにしろ敗戦後七十三年たってさえ、
「信長さまのお指図で、わが子三郎信康と妻の築山御前を討たねばならぬ、この家康の苦しさを、うぬら家来にはわからぬのか」
といった山岡荘八のデタラメな本が、(経営者の参考に)などと売られる日本人ゆえ、「……ちいとばかり可笑しいのと違うのか」
と、歴史方面で低開発国扱いをされているのが、本当のところだが、これは国民が悪いのではない。宇宙へ人類が移住計画の時代に、チョンマゲをつけた江戸時代とすこしも変らぬ歴史観が、
まかり通っているせいらしい。これでは軽視をうけてもまた止むを得ない。なにしろ、
「……徳川家康は後見人の立場で自分は浜松にあって、三河岡崎城の三郎信康の成人を見守っていたが、やがて岡崎を相続させるのが惜しくなり、信長の命令といつわって、
彼とその母を殺した、これは外国ものの推理小説にも多い話である」と、はっきりしていて、これが後に「信長殺しの真相になる」のだが。
「ジャツプ」「ヤポン」といわれ、未開扱いなどされる真相は何かというと、「彼らは、まるでアフリカや中南米の土人と同じように、荒唐無稽な伝承を信ずるという愚かさを、
歴史という名でまだ保っている。だからとても尊敬すべき友人とはいえない」と、
英国の歴史家アガサーが、その答えをはっきりうち出している。つまり、「西暦一九四〇年の時に、日本だけが、皇紀は二千六百年」とお祭りをやったり、
「欧米人の目からみれば、後光もさしていないし羽もはえていない、一人の人間にすぎない方を、神としてまつりあげたり」するのがいけないというのらしい。
日本人として腹のたつ話だが、なにしろ敗戦後七十三年たってさえ、
「信長さまのお指図で、わが子三郎信康と妻の築山御前を討たねばならぬ、この家康の苦しさを、うぬら家来にはわからぬのか」
といった山岡荘八のデタラメな本が、(経営者の参考に)などと売られる日本人ゆえ、「……ちいとばかり可笑しいのと違うのか」
と、歴史方面で低開発国扱いをされているのが、本当のところだが、これは国民が悪いのではない。宇宙へ人類が移住計画の時代に、チョンマゲをつけた江戸時代とすこしも変らぬ歴史観が、
まかり通っているせいらしい。これでは軽視をうけてもまた止むを得ない。なにしろ、
「……徳川家康は後見人の立場で自分は浜松にあって、三河岡崎城の三郎信康の成人を見守っていたが、やがて岡崎を相続させるのが惜しくなり、信長の命令といつわって、
彼とその母を殺した、これは外国ものの推理小説にも多い話である」と、はっきりしていて、これが後に「信長殺しの真相になる」のだが。
しかし、渡辺崋山の時代の田原藩では、(家康に殺されることになる岡崎三郎信康を助けて尾張へつれていった話)よりも、(家康と松平元康が同一人だった)というこじつけが徳川家の御為にと、
まかり通っていた時代だったから、その方が好都合とばかり、「当城の先代戸田党は、神君家康公を」というのを誇りにしていたのだろう。
まかり通っていた時代だったから、その方が好都合とばかり、「当城の先代戸田党は、神君家康公を」というのを誇りにしていたのだろう。
崋山は、お家に迷惑のかかることを案じて、頸動脈を見事に切って自害した。「不忠不孝、渡辺登」文机の上に遺言が書かれのせられていた。
だがこれが田原藩では問題となった。というのは、謹慎中の者が勝手に自害するのは、公儀から預かった囚人の監視不行き届きで幕府からの咎めがあると騒ぎになったのである。
城代や目付たちが、己たちに責任が及ぶのを恐れ、側近くに勤めている崋山の母親や佐波多三平を責め、三平に討手がかかることになった。
これに反発した母親は崋山の遺志を継いで、三平を逃がすことにした。
崋山が死んだのは天保十二年十月の十七日。当時女中の芳と好きあっていた三平と芳が、高松浜の鰯船に乗り、沖のスペイン船へ乗れたのがその月末。
それから太平洋を渡り現メキシコのマサトランに近いナヴィタの浜へたどり着いた。だが、その頃のメキシコは荒れに荒れ狂っていた。
だがこれが田原藩では問題となった。というのは、謹慎中の者が勝手に自害するのは、公儀から預かった囚人の監視不行き届きで幕府からの咎めがあると騒ぎになったのである。
城代や目付たちが、己たちに責任が及ぶのを恐れ、側近くに勤めている崋山の母親や佐波多三平を責め、三平に討手がかかることになった。
これに反発した母親は崋山の遺志を継いで、三平を逃がすことにした。
崋山が死んだのは天保十二年十月の十七日。当時女中の芳と好きあっていた三平と芳が、高松浜の鰯船に乗り、沖のスペイン船へ乗れたのがその月末。
それから太平洋を渡り現メキシコのマサトランに近いナヴィタの浜へたどり着いた。だが、その頃のメキシコは荒れに荒れ狂っていた。
メキシコ革命児
此処から少し当時のメキシコとアメリカの歴史上の関係を見てみよう。
西暦一五一九年、キューバ総督の命令をうけたエルナン・コルテスのスペイン軍が兵船十一隻を率いて、カンペーシェ湾に上陸すると、ここをば総督の名をとって、
「ヴェラークルス」と命名。
すすんでメキシコ全土を占領して、スペイン国王チャールズ一世の新領土としていたところ、日本の文化七年になると内乱が始まった。このため文政四年から国王になっていたイズルビデが倒され、
天保三年にはサンタ・アナが独裁政治をしいた。そこで天保七年には、ついにメキシコのテキサス地帯が、叛旗をひるがえしだして、隣接する新興アメリカへ、「合併したい」というような騒ぎになった。
もちろん自国の一地方が勝手に他国へ身売りをしたがったからとて、それに、「よろしい」と許可を与えるような国はない。
なにしろ事の起りというのも、「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」のメキシコ政府の方針が、「カトリック教の信仰。そして奴隷解放」の二つで、これがいわば国是のようなものなのに、
アメリカと境を接したテキサスへは、どんどん海外から新教徒移民が流れこんできては、平気でプロテスタントの教会を建て、これまでのカトリックの旧教僧院を迫害した。
その上、彼らはテキサスへ、東洋人や印度人の奴隷をつれこんできて鎖をつけて働かせていた。そこでサンタ・アナ将軍は、
「わがメキシコは、かつてスペインに何世紀にも渡って征服され、全住民はスペインの奴隷として散々に苛められてきた。だから奴隷の禁止は国家目的として布告してある。
なのにテキサス地帯にのみ、流れ者の外人が入ってきては我物顔に暴れ廻って、国禁の奴隷制度を復活させるとは何事か……あれを見逃しておくと、いつの日にか、あぶれ者達が昔のスペイン人のごとく
メキシコ全土を占領し、今にわれわれを奴隷として鎖につなぐ日が来るだろう」と軍隊に出動を命じた。
「ヴェラークルス」と命名。
すすんでメキシコ全土を占領して、スペイン国王チャールズ一世の新領土としていたところ、日本の文化七年になると内乱が始まった。このため文政四年から国王になっていたイズルビデが倒され、
天保三年にはサンタ・アナが独裁政治をしいた。そこで天保七年には、ついにメキシコのテキサス地帯が、叛旗をひるがえしだして、隣接する新興アメリカへ、「合併したい」というような騒ぎになった。
もちろん自国の一地方が勝手に他国へ身売りをしたがったからとて、それに、「よろしい」と許可を与えるような国はない。
なにしろ事の起りというのも、「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」のメキシコ政府の方針が、「カトリック教の信仰。そして奴隷解放」の二つで、これがいわば国是のようなものなのに、
アメリカと境を接したテキサスへは、どんどん海外から新教徒移民が流れこんできては、平気でプロテスタントの教会を建て、これまでのカトリックの旧教僧院を迫害した。
その上、彼らはテキサスへ、東洋人や印度人の奴隷をつれこんできて鎖をつけて働かせていた。そこでサンタ・アナ将軍は、
「わがメキシコは、かつてスペインに何世紀にも渡って征服され、全住民はスペインの奴隷として散々に苛められてきた。だから奴隷の禁止は国家目的として布告してある。
なのにテキサス地帯にのみ、流れ者の外人が入ってきては我物顔に暴れ廻って、国禁の奴隷制度を復活させるとは何事か……あれを見逃しておくと、いつの日にか、あぶれ者達が昔のスペイン人のごとく
メキシコ全土を占領し、今にわれわれを奴隷として鎖につなぐ日が来るだろう」と軍隊に出動を命じた。
さて、有名なリンカーンが奴隷解放を叫んで南北戦争を起したのは、この二十五年後の文久元年のことで、当時のアメリカは、まだ奴隷制度を国家でも認めおおいに奨励していた時代である。
「奴隷解放の旗を立て、メキシコの軍隊が討伐にくるから、援助を……」とテキサスへ入りこんでいる連中から助けを求められると、
「よしきた。昔は奴隷だったメキシコインデアンの生き残り共のくせして、生意気な奴らめ……」直ちにアメリカから武器弾薬が補給され、テキサスの白人達は、「しっかり頑張れ」と声援された。
そこで、すっかり元気づけられたテキサス人は、星一つの独立国の旗を作り、「来るならきてみろ、メキシコインデアンめら……」とアメリカからの武器で、サン・アントニオの
アラモを要塞にして、ここにたてこもった。
「奴隷解放の旗を立て、メキシコの軍隊が討伐にくるから、援助を……」とテキサスへ入りこんでいる連中から助けを求められると、
「よしきた。昔は奴隷だったメキシコインデアンの生き残り共のくせして、生意気な奴らめ……」直ちにアメリカから武器弾薬が補給され、テキサスの白人達は、「しっかり頑張れ」と声援された。
そこで、すっかり元気づけられたテキサス人は、星一つの独立国の旗を作り、「来るならきてみろ、メキシコインデアンめら……」とアメリカからの武器で、サン・アントニオの
アラモを要塞にして、ここにたてこもった。
アラモの戦いはアメリカの捏造
リメンバー・パールハーバーの原語
リメンバー・パールハーバーの原語
「アラモ」とメキシコでよぶのは、カトリックの礼拝堂を中心に修道院や尼僧院の建物を並べ、その周囲を分厚い土壁で囲んでいる一廓のことである。
ここへ到着したサンタ・アナ将軍は、カトリックの「アラモ」を攻撃することは信仰上できないからして、
「メキシコ領土のテキサスに住もうとする人間は、カトリックの教えを大切にして、アラモヘ土足のままで銃をもって立て籠ってはいけない」と、まず訓した。
しかし、背後のアメリカが後押ししてくれると信じているテキサスのならず者の白人は、その忠告に対してせせら笑って相手にもしない。
仕方なく将軍が、しまいには軍使をやると、これをアラモの塀壁から白人達は、まるで野獣狩りのように狙い撃ちして、バンザイと熱狂しあった。
「もはや堪忍袋の緒もきれた」将軍は、天帝のために進軍を命じた。
これが西部劇でおなじみの「アラモの戦い」である。ハリウッド映画では自国の正当性を誇示して、メキシコ軍が野蛮無比で、アラモの砦を占領した後、アメリカが武器を届けに行った生き残りの者まで、
将軍が残忍にも白人を皆殺しにしたことになっている。西部劇でも、白人がアメリカ大陸に勝手に入ってきたのに、インデアンを全て悪逆非道の野蛮人として描いている。
ここへ到着したサンタ・アナ将軍は、カトリックの「アラモ」を攻撃することは信仰上できないからして、
「メキシコ領土のテキサスに住もうとする人間は、カトリックの教えを大切にして、アラモヘ土足のままで銃をもって立て籠ってはいけない」と、まず訓した。
しかし、背後のアメリカが後押ししてくれると信じているテキサスのならず者の白人は、その忠告に対してせせら笑って相手にもしない。
仕方なく将軍が、しまいには軍使をやると、これをアラモの塀壁から白人達は、まるで野獣狩りのように狙い撃ちして、バンザイと熱狂しあった。
「もはや堪忍袋の緒もきれた」将軍は、天帝のために進軍を命じた。
これが西部劇でおなじみの「アラモの戦い」である。ハリウッド映画では自国の正当性を誇示して、メキシコ軍が野蛮無比で、アラモの砦を占領した後、アメリカが武器を届けに行った生き残りの者まで、
将軍が残忍にも白人を皆殺しにしたことになっている。西部劇でも、白人がアメリカ大陸に勝手に入ってきたのに、インデアンを全て悪逆非道の野蛮人として描いている。
しかし実際には、アラモを取り戻した後、あまりにも荒された礼拝堂や、尼僧院における彼らの神をおそれぬ修道女達への暴行ぷりに、
憤激したカトリックの司祭らが、「神の名において、生き残りの者へも天罰を与えたまえ、アーメン」と将軍に要求したので、それで止むなく、
「神の思召とあれば……」将軍は銃殺の許可をしただけである。しかしこの報がアメリカへ伝わると、
憤激したカトリックの司祭らが、「神の名において、生き残りの者へも天罰を与えたまえ、アーメン」と将軍に要求したので、それで止むなく、
「神の思召とあれば……」将軍は銃殺の許可をしただけである。しかしこの報がアメリカへ伝わると、
「リメンバー・アラモ」となった。太平洋戦争のとき、(真珠湾を忘れるな)「リメンバー・パール・ハーバー」という合言葉があったが、これはこの時のやき直しである。
さて、アメリカはそこで、テキサスに以前いた事のあるサム・ヒューストンというのに、兵と武器弾薬を与えて、ひそかにメキシコへ送りこんだ。
(まさかアメリカが、他国領であるテキサスをそこまで悪辣に狙っていよう)とは露ほども気づかぬサンタ・アナ将軍は、
「これで、テキサスの謀叛人のかたもついたからよかった」と汗をふきつつサン・ハシントまで戻ってきたところ、そこを突如として、新鋭のアメリカ派遣軍サム・ヒューストンの部隊に包囲されてしまった。
始めは、何処の軍隊か皆目なんの心当りもなく、きょろきょろ眺め廻して、「ありや、なんじや。もう戦はすんだというのに、われらの応援にきた連中なのか」
と、たかをくくっていたので、すっかり取り巻かれパンパン撃ちごまれだしてから、初めてびっくり仰天。将軍は天を仰いで嘆息し、
「身を隠すサボテンさえ、ろくすっぽ生えていない、こんなところで戦闘をしたら、部下がみな殺しになってしまう」
仕方なく白旗を掲げたところ、相手のヒューストンは使をとばさせてきて、サンタ・アナに、「テキサスの独立を承認せねば、みな殺しである……それでよいか」脅迫してきた。
仕方がない、「プロメテール(約束する)」と返事をして捕虜となってしまった。
そこで勝ち誇ったヒューストンがテキサスの大統領になった。こうなると喜んだのはアメリカの奴隷所有者たちで、彼らは思いきってテキサスへ移住して綿花を栽培しようと、自国のポーク大統領をして、
テーラー将軍のアメリカ陸軍を、「リオ・グランデ河畔まで確保占領せよ」と進発させた。時に日本年号弘化三年のことである。
さて、アメリカはそこで、テキサスに以前いた事のあるサム・ヒューストンというのに、兵と武器弾薬を与えて、ひそかにメキシコへ送りこんだ。
(まさかアメリカが、他国領であるテキサスをそこまで悪辣に狙っていよう)とは露ほども気づかぬサンタ・アナ将軍は、
「これで、テキサスの謀叛人のかたもついたからよかった」と汗をふきつつサン・ハシントまで戻ってきたところ、そこを突如として、新鋭のアメリカ派遣軍サム・ヒューストンの部隊に包囲されてしまった。
始めは、何処の軍隊か皆目なんの心当りもなく、きょろきょろ眺め廻して、「ありや、なんじや。もう戦はすんだというのに、われらの応援にきた連中なのか」
と、たかをくくっていたので、すっかり取り巻かれパンパン撃ちごまれだしてから、初めてびっくり仰天。将軍は天を仰いで嘆息し、
「身を隠すサボテンさえ、ろくすっぽ生えていない、こんなところで戦闘をしたら、部下がみな殺しになってしまう」
仕方なく白旗を掲げたところ、相手のヒューストンは使をとばさせてきて、サンタ・アナに、「テキサスの独立を承認せねば、みな殺しである……それでよいか」脅迫してきた。
仕方がない、「プロメテール(約束する)」と返事をして捕虜となってしまった。
そこで勝ち誇ったヒューストンがテキサスの大統領になった。こうなると喜んだのはアメリカの奴隷所有者たちで、彼らは思いきってテキサスへ移住して綿花を栽培しようと、自国のポーク大統領をして、
テーラー将軍のアメリカ陸軍を、「リオ・グランデ河畔まで確保占領せよ」と進発させた。時に日本年号弘化三年のことである。
三平と芳が、このメキシコへ渡りついて、丁度五年目の春のことだった。さて、これまでメキシコ政府は、
「サンタ・アナ将軍が認めたという、テキサス独立承認は、強制されて止むなくしたものである。だから無効である」と、英国政府に扱い方を依頼していた。
しかし英国は、このときカナダとアメリカとの境界線を米国ポーク大統領の要求するところの、「五四度四十分の緯度」から「四九度」に譲歩させる代償として、
カナダの利益のためメキシコを裏切ってこれを見てみぬふりをすることとなった。そこでアメリカ軍が怒濤の進撃をしてきても、頼みの綱だった英国は仲裁に入ってくれるどころか、
あべこべにアメリカに協力的な立場をとった。
そして、大西洋をこえロンドンからアメリカ向けに、銃器弾薬の援助をしていると伝わってきた。「好戦国アメリカを討て」「鬼畜米英から国土を守れ」「なにがなんでも、やりぬくぞ」
リオーグランデ河まで攻めこんできた侵略軍を防げとばかり、もはや正規軍だけでは心許なくなってきたから、メキシコ全土に、「義勇軍に集まれ」の叫び声が、野に山にひろがった。
この国で、「マーチョ」とよぱれる男伊達の連中は、てんでに銃と毛布を肩に、「国難に殉ずる時はきた」と、リオ・グランデ目がけて殺到した。
すると、アメリカの国会は、この弘化三年に、つまり一八四六年五月十二日に、「忍従の盃にもついに蓋をせざるを得なくなった。野蛮なメキシコはわが領土に向って侵入し、
アメリカの血をアメリカの土地に流そうとしている」とアジ演説をなし、「ついにメキシコ共和国の行為は、吾々を欲せざる戦争状態へ遺憾ながら追いこんだ」と声明。
ここに宣戦布告。メキシコ・アメリカ戦争の火蓋は、ついに切って落された。
「サンタ・アナ将軍が認めたという、テキサス独立承認は、強制されて止むなくしたものである。だから無効である」と、英国政府に扱い方を依頼していた。
しかし英国は、このときカナダとアメリカとの境界線を米国ポーク大統領の要求するところの、「五四度四十分の緯度」から「四九度」に譲歩させる代償として、
カナダの利益のためメキシコを裏切ってこれを見てみぬふりをすることとなった。そこでアメリカ軍が怒濤の進撃をしてきても、頼みの綱だった英国は仲裁に入ってくれるどころか、
あべこべにアメリカに協力的な立場をとった。
そして、大西洋をこえロンドンからアメリカ向けに、銃器弾薬の援助をしていると伝わってきた。「好戦国アメリカを討て」「鬼畜米英から国土を守れ」「なにがなんでも、やりぬくぞ」
リオーグランデ河まで攻めこんできた侵略軍を防げとばかり、もはや正規軍だけでは心許なくなってきたから、メキシコ全土に、「義勇軍に集まれ」の叫び声が、野に山にひろがった。
この国で、「マーチョ」とよぱれる男伊達の連中は、てんでに銃と毛布を肩に、「国難に殉ずる時はきた」と、リオ・グランデ目がけて殺到した。
すると、アメリカの国会は、この弘化三年に、つまり一八四六年五月十二日に、「忍従の盃にもついに蓋をせざるを得なくなった。野蛮なメキシコはわが領土に向って侵入し、
アメリカの血をアメリカの土地に流そうとしている」とアジ演説をなし、「ついにメキシコ共和国の行為は、吾々を欲せざる戦争状態へ遺憾ながら追いこんだ」と声明。
ここに宣戦布告。メキシコ・アメリカ戦争の火蓋は、ついに切って落された。
メキシコ大将
この時、三平と妻の芳の間には子供もでき、日系人に住んでいた。
ここのは、なき崋山先生から、
(ノヴァ・イスパアナへ行けば支倉常長の一行が渡った時、同地へ居残って土着した日本人が帰化したらしい所がある)
と教わてきたアルタタ浜には近い場所である。だから藁草履に似た椰子やシュロ葉編みのはき物のことを、日本語と同じように「ワラジ」と今でも呼んでいるし、ニッパ椰子で屋根をふいた笠みたいな恰好からか、
「家」のことを「カーサ」ともよぶ。色が黒くてカラスみたいに黒光りする顔のことは、これまた「カーラス」というし、「酒席ではやたらに物を食するな」というのであろうか、の入口にある酒場のことも、
「食べるな」とよび、看板も、「Taberna」になっている。
この後、三平はメキシコ独立のため戦い、命を落とすのだが、後編は近日中にという事にしましょう。
この時、三平と妻の芳の間には子供もでき、日系人に住んでいた。
ここのは、なき崋山先生から、
(ノヴァ・イスパアナへ行けば支倉常長の一行が渡った時、同地へ居残って土着した日本人が帰化したらしい所がある)
と教わてきたアルタタ浜には近い場所である。だから藁草履に似た椰子やシュロ葉編みのはき物のことを、日本語と同じように「ワラジ」と今でも呼んでいるし、ニッパ椰子で屋根をふいた笠みたいな恰好からか、
「家」のことを「カーサ」ともよぶ。色が黒くてカラスみたいに黒光りする顔のことは、これまた「カーラス」というし、「酒席ではやたらに物を食するな」というのであろうか、の入口にある酒場のことも、
「食べるな」とよび、看板も、「Taberna」になっている。
この後、三平はメキシコ独立のため戦い、命を落とすのだが、後編は近日中にという事にしましょう。