新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

渡辺崋山の門弟メキシコへ渡る その名を佐波多三平という

2019-09-24 09:43:07 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
渡辺崋山の門弟メキシコへ渡る
その名を佐波多三平という

渡辺は号を崋山と言い、本名は登という。
渡辺の家は田原藩三宅家一万二千石の代々の家来で、登も寛政五年九月に江戸藩邸で生まれている。そして文化十一年には納戸役になり、
父の定通の死後は家禄八十石を継いだ。その後文政九年に番頭になり側用人を兼ね、天保三年五月からは家老になり百石の加増をの他に、役扶持二十石がついて二百石となった。
二百石というのは他家ではたいしたことはなくとも、ここでは大身である。だからその頃は奉公人も多く十人ぐらいは居た。
 ところが二年前、江戸町奉行鳥井耀蔵の「蕃社の獄」が起きた。これは、山口屋金次郎という町人だが蘭学好きの者が、今日の小笠原群島が無人島だったのに眼をつけ、
ここへ船をだして開発するという計画だけにすぎなかったのだが、幕府に、
 (怪しい、南蛮人とそこで交易して御禁制の煙硝などを入手し、火薬を製造なして謀叛を企てるのではあるまいか)と勘ぐられた。そして、鳥井耀蔵はこれに、
 (これらと気脈を通じているのは、かねて内偵中の『尚歯会』ではあるまいか)と嫌疑をかけた。
 鳥井耀蔵というのは幕府の儒者林大学頭述斎の次男から、鳥井一学の許へ養子にゆき、天保八年に目付役となって、新しく勃興した和蘭学に対しては、憎悪しかもっていない男である。
 (時こそ来れり。これで和蘭学をやる者をば一網打尽となし、もって儒学万能の世に戻すべき好機ではないか)というので、町奉行になると老中水野忠邦を説きつけ、
「小関三英、高野長英」といった尚歯会の面々を召捕ると、ついで譜代大名田原藩三宅家の家老渡辺登まで逮捕してしまった。
 しかし尚歯会と山口屋金次郎との繋りは、いくら取調べても証拠もでてこない。といって、せっかく召捕っ者を、(見込み違いであった)では牢から出せぬ。
 その内に渡辺登が「崋山」と号して絵をかいている方の知り合いで松崎慊堂というのが、「あれは、まったくの濡れ衣でござれば」と水野忠邦の許へ訴えでた。
さて渡辺登は三英や長英と違って、小なりといえど御譜代大名の家老職である。なのに、それを強引に伝馬町の牢へ、いつまでも入れておいては、他の大名への気兼ねもできてくる。
そこで天保十年も押し迫った十二月。
七ヵ月ぶりで牢から出された渡辺登は、受取りにきた帝鑑間詰三宅備前守の手勢にかこまれて、小石川下屋敷へ移されると、そこで五日ほど牢内でうけた疹創などの手当をなし、
そこから七十五里九丁の道のりを、三州田原へと送られた。そこでひとまず自分の屋敷へ入れられたが公儀を憚って三宅家では座敷牢の代りに、竹矢来を家の中の登の居間の周囲につけた。
投獄と同時に家老職はとかれていたから、役扶持二十石と加増の百石はなくなり、もとの八十石になっていたが、それとても、
「ご遠慮申し上げ」ということで、渡辺家ではその元扶持さえも辞退していた。
だから、かつては十人の余もいた奉公人が今では女中の芳と、内門弟の佐波多三平の二人きりになっていた。

なにしろ渡辺登が田原へ送られてきてから二年たつ。
 抉禄を辞退し一文の収入もないのをみかね門人の福田半香が崋山の紙幅をもって、書画会をひらき、よって米塩の資に当てようとした。
しかし鳥井耀蔵の許から廻されている下目付が、これを見逃す筈もなかった。
 福田半香は召捕られ、崋山の書画はもとより、門人の椿山や琴谷のものまでが、ことごとく公儀に没取されてしまい、しかも、
 「不届き千万なり」と江戸半蔵門外三宅備前守上屋敷へ、鳥井からの苦情がもたらされ、「お国許の取締方不行届き」をいってきた。しかもその上、鳥井耀蔵の嫌いな伊豆韮山代官江川太郎左衛門のため、
「西洋事情御答書」などのものを、渡辺登が書いて渡しておいた写しまでが入手されてしまい、このため吟味に改めて江戸表へ呼びだしとの噂も伝わっていた。
 だから陰鬱な空気が、まるで澱むように家の中にわだかまりきっていた。
 なのに珍しく渡辺登が、自分から顔を剃るなどといいだしたので、そのじめついたような雰囲気が、まるで切り裂かれでもするように、ほっとした和やかさがかもし出されていた。
この時、登は覚悟を決めていたのか、三平を呼んで、
「ノヴァーイスパアナつまり今のメキシコ国だな、その昔、伊達政宗の使節として訪欧した支倉常長の一行の者が土着して、今でもその子孫が(ハポネというのを作っているそうだ。
高野長英がなんとかして渡航しようと企てたが、策ならず、ついに召捕られてしまったのは知ってもいよう…。しかし誰かが海外へ渡航して、この日本を新しい目で見なければならん。それが若い者の勤めだ」
そして続けて、「メキシコは遠い。万里怒濤の彼方だ。しかしこの田原から赤松の山をこえ本前の浜へでれば、遠江灘、そこの沖合には、いつもメリケンからの船やイスパアナの鯨とりの船がきている。
福禄寿を祀っているつているメノウ社の氏子連は、そっと鰯船をこぎ出しては水や野菜をそれらの夷狄船へ内緒で売りつけているという。三平は田原街道に面した江比間の生れで、
えびすを祀る浄道社の氏子じゃから、同信心ゆえ巧く頼めば物売り船へのりこめ紅毛船へ近づけるし、秘かにメキシコへ渡れもできよう」と話した。
 
この、田原藩のある渥美半島というのは、今は伊良湖岬の灯台で知られているが、ここは現在でも七福神の一柱ずつを祀る拝み堂が、半島を七分しているような特殊な信心地域である。
 つまり伊勢湾につきだし遠江灘をもって太平洋に面した渥美半島は、旧幕時代は三河に入り大久保彦左衛門発祥の地であり、馬伏塚の一帯は、
久世三四郎や加賀爪甚十郎といった旗本白柄組の在所でもあった。
 だから徳川家にとって縁故深い所ということもあるが、課役や年貢のない別所地帯だったので、ここは鎖国時代でも密かに南蛮船に薪水を売ることなどは黙認されていた。
渡辺崋山が三十二歳からオランダ学を志し、家老になった後もそれをやめず、英艦モリソン号来日の報をきいて、それを撃ち払おうとする公儀の暴挙を諌めようと「慎機論」をかいたのも、
実はこうした土地柄が背景にあるのである。
田原藩は家康と深い関係があった
崋山自害す
 ふつうは一万二千石位の大名では城などないのが多いが、ここは昔、徳川家康が幼い頃に今川へ人質にやられるところを、奪い返した戸田党の本城という事になっているから、
板ばり二階だての小城だが昔ながらの建物があった。
 もちろん実際のところは、松平蔵人元康の子供を今川義元が人質にしようとしたのを戸田党が奪って尾張熱田の加藤図書の許へ伴い、織田信長が己が子同様に可愛がった。
そして実子の奇妙(信忠)茶筅(信雄)三七(信孝)と一つにして遊ばせ、娘が生れるとこれを娶せようと、その女子には五人で仲良くせいやいとの意味合いから、
当時いろりの灰の中へ入れて鉄瓶などをのせるように考案された物から名をとり、これを、「五徳(姫)」とよんだ。
 つまり田原城の戸田党が今川へゆく人質を奪った幼児というのは、松平元康の子供でのち、岡崎三郎信康と名のる方である。
 つまりのちに徳川家康を名のる男というのは、桶狭間合戦の直後に松平元康が家来に殺され、後始末に困った未亡人の築山御前に巧く交渉して替玉となり、
清洲城へゆき信長にあって和平条約を結び、その代りに人質の三郎信康を取り戻してきた人間である。
 徳川時代に作られてできた「神君家康公の伝説」のように、(家康が、築山御前の夫で、三郎信康の父親だった)としたら、これは驚くなかれ、「十五歳のときに生れた伜」となるし、
その前に奥平信昌に嫁ぐ阿亀姫ら二名の娘もいるから、そうなると早熟にも、「十歳のときに阿亀姫を受胎させた」ことになってしまう。
 しかし、これではいくら徳川家康が精力絶倫でも、
「せんだんは双葉よりカンバシ」と考えても十歳で長女、十二歳で次女、そして十五歳で長男を作って、三人の父親というのは若すぎる。
近頃は小学生でも栄養がよくなって初潮をみる子も多いというが、男子が小学校の三年生ぐらいでパパになるのはいないといってよい。
 なにしろ、こんな例は世界史上皆無で、「スフィンクスの謎」など比べようもない。今と違って昔は男に生殖機能が働くのは、早くても十五歳位からゆえ、こじつけである。
日本人というのは知能指数にしろ、全ての点において、地球上では最優秀の民族に属する。それなのに、いまだに、底意地の悪い外国のインテリから、
「ジャツプ」「ヤポン」といわれ、未開扱いなどされる真相は何かというと、「彼らは、まるでアフリカや中南米の土人と同じように、荒唐無稽な伝承を信ずるという愚かさを、
歴史という名でまだ保っている。だからとても尊敬すべき友人とはいえない」と、
 英国の歴史家アガサーが、その答えをはっきりうち出している。つまり、「西暦一九四〇年の時に、日本だけが、皇紀は二千六百年」とお祭りをやったり、
「欧米人の目からみれば、後光もさしていないし羽もはえていない、一人の人間にすぎない方を、神としてまつりあげたり」するのがいけないというのらしい。
 日本人として腹のたつ話だが、なにしろ敗戦後七十三年たってさえ、
「信長さまのお指図で、わが子三郎信康と妻の築山御前を討たねばならぬ、この家康の苦しさを、うぬら家来にはわからぬのか」
 といった山岡荘八のデタラメな本が、(経営者の参考に)などと売られる日本人ゆえ、「……ちいとばかり可笑しいのと違うのか」
 と、歴史方面で低開発国扱いをされているのが、本当のところだが、これは国民が悪いのではない。宇宙へ人類が移住計画の時代に、チョンマゲをつけた江戸時代とすこしも変らぬ歴史観が、
まかり通っているせいらしい。これでは軽視をうけてもまた止むを得ない。なにしろ、
「……徳川家康は後見人の立場で自分は浜松にあって、三河岡崎城の三郎信康の成人を見守っていたが、やがて岡崎を相続させるのが惜しくなり、信長の命令といつわって、
彼とその母を殺した、これは外国ものの推理小説にも多い話である」と、はっきりしていて、これが後に「信長殺しの真相になる」のだが。
 しかし、渡辺崋山の時代の田原藩では、(家康に殺されることになる岡崎三郎信康を助けて尾張へつれていった話)よりも、(家康と松平元康が同一人だった)というこじつけが徳川家の御為にと、
まかり通っていた時代だったから、その方が好都合とばかり、「当城の先代戸田党は、神君家康公を」というのを誇りにしていたのだろう。
崋山は、お家に迷惑のかかることを案じて、頸動脈を見事に切って自害した。「不忠不孝、渡辺登」文机の上に遺言が書かれのせられていた。
だがこれが田原藩では問題となった。というのは、謹慎中の者が勝手に自害するのは、公儀から預かった囚人の監視不行き届きで幕府からの咎めがあると騒ぎになったのである。
城代や目付たちが、己たちに責任が及ぶのを恐れ、側近くに勤めている崋山の母親や佐波多三平を責め、三平に討手がかかることになった。
これに反発した母親は崋山の遺志を継いで、三平を逃がすことにした。
崋山が死んだのは天保十二年十月の十七日。当時女中の芳と好きあっていた三平と芳が、高松浜の鰯船に乗り、沖のスペイン船へ乗れたのがその月末。
それから太平洋を渡り現メキシコのマサトランに近いナヴィタの浜へたどり着いた。だが、その頃のメキシコは荒れに荒れ狂っていた。
メキシコ革命児
此処から少し当時のメキシコとアメリカの歴史上の関係を見てみよう。
西暦一五一九年、キューバ総督の命令をうけたエルナン・コルテスのスペイン軍が兵船十一隻を率いて、カンペーシェ湾に上陸すると、ここをば総督の名をとって、
 「ヴェラークルス」と命名。
  すすんでメキシコ全土を占領して、スペイン国王チャールズ一世の新領土としていたところ、日本の文化七年になると内乱が始まった。このため文政四年から国王になっていたイズルビデが倒され、
天保三年にはサンタ・アナが独裁政治をしいた。そこで天保七年には、ついにメキシコのテキサス地帯が、叛旗をひるがえしだして、隣接する新興アメリカへ、「合併したい」というような騒ぎになった。
もちろん自国の一地方が勝手に他国へ身売りをしたがったからとて、それに、「よろしい」と許可を与えるような国はない。
 なにしろ事の起りというのも、「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」のメキシコ政府の方針が、「カトリック教の信仰。そして奴隷解放」の二つで、これがいわば国是のようなものなのに、
アメリカと境を接したテキサスへは、どんどん海外から新教徒移民が流れこんできては、平気でプロテスタントの教会を建て、これまでのカトリックの旧教僧院を迫害した。
 その上、彼らはテキサスへ、東洋人や印度人の奴隷をつれこんできて鎖をつけて働かせていた。そこでサンタ・アナ将軍は、
「わがメキシコは、かつてスペインに何世紀にも渡って征服され、全住民はスペインの奴隷として散々に苛められてきた。だから奴隷の禁止は国家目的として布告してある。
なのにテキサス地帯にのみ、流れ者の外人が入ってきては我物顔に暴れ廻って、国禁の奴隷制度を復活させるとは何事か……あれを見逃しておくと、いつの日にか、あぶれ者達が昔のスペイン人のごとく
メキシコ全土を占領し、今にわれわれを奴隷として鎖につなぐ日が来るだろう」と軍隊に出動を命じた。
 さて、有名なリンカーンが奴隷解放を叫んで南北戦争を起したのは、この二十五年後の文久元年のことで、当時のアメリカは、まだ奴隷制度を国家でも認めおおいに奨励していた時代である。
「奴隷解放の旗を立て、メキシコの軍隊が討伐にくるから、援助を……」とテキサスへ入りこんでいる連中から助けを求められると、
「よしきた。昔は奴隷だったメキシコインデアンの生き残り共のくせして、生意気な奴らめ……」直ちにアメリカから武器弾薬が補給され、テキサスの白人達は、「しっかり頑張れ」と声援された。
 そこで、すっかり元気づけられたテキサス人は、星一つの独立国の旗を作り、「来るならきてみろ、メキシコインデアンめら……」とアメリカからの武器で、サン・アントニオの
アラモを要塞にして、ここにたてこもった。 
アラモの戦いはアメリカの捏造
リメンバー・パールハーバーの原語
「アラモ」とメキシコでよぶのは、カトリックの礼拝堂を中心に修道院や尼僧院の建物を並べ、その周囲を分厚い土壁で囲んでいる一廓のことである。
 ここへ到着したサンタ・アナ将軍は、カトリックの「アラモ」を攻撃することは信仰上できないからして、
「メキシコ領土のテキサスに住もうとする人間は、カトリックの教えを大切にして、アラモヘ土足のままで銃をもって立て籠ってはいけない」と、まず訓した。
 しかし、背後のアメリカが後押ししてくれると信じているテキサスのならず者の白人は、その忠告に対してせせら笑って相手にもしない。
 仕方なく将軍が、しまいには軍使をやると、これをアラモの塀壁から白人達は、まるで野獣狩りのように狙い撃ちして、バンザイと熱狂しあった。
「もはや堪忍袋の緒もきれた」将軍は、天帝のために進軍を命じた。
これが西部劇でおなじみの「アラモの戦い」である。ハリウッド映画では自国の正当性を誇示して、メキシコ軍が野蛮無比で、アラモの砦を占領した後、アメリカが武器を届けに行った生き残りの者まで、
将軍が残忍にも白人を皆殺しにしたことになっている。西部劇でも、白人がアメリカ大陸に勝手に入ってきたのに、インデアンを全て悪逆非道の野蛮人として描いている。
しかし実際には、アラモを取り戻した後、あまりにも荒された礼拝堂や、尼僧院における彼らの神をおそれぬ修道女達への暴行ぷりに、
憤激したカトリックの司祭らが、「神の名において、生き残りの者へも天罰を与えたまえ、アーメン」と将軍に要求したので、それで止むなく、
「神の思召とあれば……」将軍は銃殺の許可をしただけである。しかしこの報がアメリカへ伝わると、
「リメンバー・アラモ」となった。太平洋戦争のとき、(真珠湾を忘れるな)「リメンバー・パール・ハーバー」という合言葉があったが、これはこの時のやき直しである。
 さて、アメリカはそこで、テキサスに以前いた事のあるサム・ヒューストンというのに、兵と武器弾薬を与えて、ひそかにメキシコへ送りこんだ。
 (まさかアメリカが、他国領であるテキサスをそこまで悪辣に狙っていよう)とは露ほども気づかぬサンタ・アナ将軍は、
「これで、テキサスの謀叛人のかたもついたからよかった」と汗をふきつつサン・ハシントまで戻ってきたところ、そこを突如として、新鋭のアメリカ派遣軍サム・ヒューストンの部隊に包囲されてしまった。
始めは、何処の軍隊か皆目なんの心当りもなく、きょろきょろ眺め廻して、「ありや、なんじや。もう戦はすんだというのに、われらの応援にきた連中なのか」
と、たかをくくっていたので、すっかり取り巻かれパンパン撃ちごまれだしてから、初めてびっくり仰天。将軍は天を仰いで嘆息し、
「身を隠すサボテンさえ、ろくすっぽ生えていない、こんなところで戦闘をしたら、部下がみな殺しになってしまう」
 仕方なく白旗を掲げたところ、相手のヒューストンは使をとばさせてきて、サンタ・アナに、「テキサスの独立を承認せねば、みな殺しである……それでよいか」脅迫してきた。
仕方がない、「プロメテール(約束する)」と返事をして捕虜となってしまった。
 そこで勝ち誇ったヒューストンがテキサスの大統領になった。こうなると喜んだのはアメリカの奴隷所有者たちで、彼らは思いきってテキサスへ移住して綿花を栽培しようと、自国のポーク大統領をして、
テーラー将軍のアメリカ陸軍を、「リオ・グランデ河畔まで確保占領せよ」と進発させた。時に日本年号弘化三年のことである。
 三平と芳が、このメキシコへ渡りついて、丁度五年目の春のことだった。さて、これまでメキシコ政府は、
「サンタ・アナ将軍が認めたという、テキサス独立承認は、強制されて止むなくしたものである。だから無効である」と、英国政府に扱い方を依頼していた。
 しかし英国は、このときカナダとアメリカとの境界線を米国ポーク大統領の要求するところの、「五四度四十分の緯度」から「四九度」に譲歩させる代償として、
カナダの利益のためメキシコを裏切ってこれを見てみぬふりをすることとなった。そこでアメリカ軍が怒濤の進撃をしてきても、頼みの綱だった英国は仲裁に入ってくれるどころか、
あべこべにアメリカに協力的な立場をとった。
そして、大西洋をこえロンドンからアメリカ向けに、銃器弾薬の援助をしていると伝わってきた。「好戦国アメリカを討て」「鬼畜米英から国土を守れ」「なにがなんでも、やりぬくぞ」
 リオーグランデ河まで攻めこんできた侵略軍を防げとばかり、もはや正規軍だけでは心許なくなってきたから、メキシコ全土に、「義勇軍に集まれ」の叫び声が、野に山にひろがった。
この国で、「マーチョ」とよぱれる男伊達の連中は、てんでに銃と毛布を肩に、「国難に殉ずる時はきた」と、リオ・グランデ目がけて殺到した。
すると、アメリカの国会は、この弘化三年に、つまり一八四六年五月十二日に、「忍従の盃にもついに蓋をせざるを得なくなった。野蛮なメキシコはわが領土に向って侵入し、
アメリカの血をアメリカの土地に流そうとしている」とアジ演説をなし、「ついにメキシコ共和国の行為は、吾々を欲せざる戦争状態へ遺憾ながら追いこんだ」と声明。
 ここに宣戦布告。メキシコ・アメリカ戦争の火蓋は、ついに切って落された。
メキシコ大将
この時、三平と妻の芳の間には子供もでき、日系人に住んでいた。
ここのは、なき崋山先生から、
(ノヴァ・イスパアナへ行けば支倉常長の一行が渡った時、同地へ居残って土着した日本人が帰化したらしい所がある)
と教わてきたアルタタ浜には近い場所である。だから藁草履に似た椰子やシュロ葉編みのはき物のことを、日本語と同じように「ワラジ」と今でも呼んでいるし、ニッパ椰子で屋根をふいた笠みたいな恰好からか、
「家」のことを「カーサ」ともよぶ。色が黒くてカラスみたいに黒光りする顔のことは、これまた「カーラス」というし、「酒席ではやたらに物を食するな」というのであろうか、の入口にある酒場のことも、
「食べるな」とよび、看板も、「Taberna」になっている。
この後、三平はメキシコ独立のため戦い、命を落とすのだが、後編は近日中にという事にしましょう。




真説 明智光秀 【奇怪・斉藤玄蕃允】

2019-09-22 09:29:22 | 新日本意外史 古代から現代まで
       真説 明智光秀
     光秀と斉藤玄蕃允の関係
                 【奇怪・斉藤玄蕃允】

 「全く素性の判らない男で、おそらく斉藤の姓からすれば、玄蕃允は前美濃国主斉藤道三入道か、その孫ともなる同竜興の一族であろうか。
が彼が本能寺の変のすぐ直後、織田信長の嫡男・中将信忠の居城である美濃稲葉山を占領し、美濃一国へ号令する地位を獲得している。どうも光秀に味方していたらしい。
なのに秀吉が美濃へ進出してくるや、彼はさっさと自分から降参しにゆき、後に信長の三男の信孝が美濃国主として現れると、今までの城主の地位を譲り、その家老となってしまった。奇怪すぎる進退である」
と『戦国戦記』にはあり、同じ故高柳博士の『戦国人名辞典』では、「織田信孝の老臣、稲葉一鉄の聟。信孝が秀吉と争ったとき秀吉方に加担。のち浪人して主取りせず」という彼の説明をしている。
さてこれだけでも疑問が多いのだが、
突如、稲葉山の岐阜城主になったが、秀吉が美濃へ攻め込むや一戦を交えるどころかさっさと自発的に降参しに行き、光秀の一味として普通なら殺されるところを、何故か助命されて戻ってくる。
そして、また城主の位置に座っていて改めて信長の三男が新任の美濃国主として現れてくると、その時少しも騒がず、「どうぞどうぞ」と席を譲り「私は家老で結構でございます」と、
自分から格下げして彼に仕えたというのであるから、何だか白々しいというか、その精神状態が可笑しかったのではあるまいかとも思いたくなる。
またこれを裏返しにすると、「よく降参に来たな。まあ当座は岐阜城主をやっているがよい」と、岐阜県不破郡長松の本陣で、にこにこいった秀吉も、これまでの俗説のように、
山崎円明寺川で主君織田信長の、弔い合戦をしてきたばかりの引き上げ途次にしては、まこと変である。通俗歴史小説の類ならば、
「おのれ逆賊め、どの面さげてこの秀吉の本陣へ来おったか......うぬは明智光秀の同類、その素首叩き落として曝してくれんず」とここで殺してしまわないことには、話の辻褄が合わない。
『美濃旧記』によれば、本能寺の変から二十五日目、山崎の合戦からなら十四日めの清洲会議の決定で七月三日に信孝は美濃稲葉山城へ入ったとされているから、
「おのれ斉藤玄蕃允め。父信長兄信忠の敵の片割れ覚悟致せ」と六月十日の事件から一月と経っていないゆえ、信孝も彼を成敗するべきだったろうと思われるのに、全く反対なのである。
「よおこそお越しなされました。お待ちして居りましたぞ」、「そうか大儀であった」、と、まるで留守居番が戻ってきた主人を迎えるような有様で、「礼をしたい、なんなり申せ」
「はい、では此処を出ていく当てとて有りませぬ。一つ又お召抱えを願いとうござりまするが......」「そうか、では家老になれ」「これは有難き仕合わせ.....」と、主従契約を結んでしまうのでは、
主客転倒どころの騒ぎではないのである。もし信長殺しが光秀であったなら、織田信孝は、親や兄の仇敵の一味をば喜んでその家老にしたことになる。まこと可笑しい。
が、『武家事記』『浅野侯爵家文書』の類にも、この時即座に彼が採用され、その後老臣として仕えたことは誌されている。だから、世にも不思議な物語だがこれは事実なのである。
さて、旧参謀本部発行の「日本戦史」にも、仰々しい山崎戦役の一冊が入っているし、これを底本にした戦記物も出ている。
が、講談で名高い竹中半兵衛の子の重門の書いたという『豊鑑』と幕末の講談本の『太閤記』によってそれは出来ている。では天正十年六月十四、十五日に、桂川の支流、
円明寺川を挟んで戦われた明智軍と羽柴軍との合戦について、信頼に足る物はなかったのか?となる。勿論『真書太閤記』『絵本太閤記』の類ではさも本当らしく、
「天王山の占領が、この合戦の死命を制するもので、秀吉が機知をもって先に奪ったから勝てたのである」など説明しているし、『黒田家記』に入っている『永源師壇記年録』などでは、
この時居もしない細川忠興を持ち出して、彼が天王山の西の尾崎を占領したのが勝運の基だったなどと書いている。が、これは細川家にとって事実はどうあれ名誉な話だから、
その家記にも加えられているにすぎない。だから明治、大正にかけ、細川侯爵家御抱えだった歴史学の泰斗も、金を貰っていた立場上この説を押している。
しかし、天王山の争奪しあった戦など事実無根で、良質の史料には無いと、高柳学説は戦後真っ向からこれを否定している。
では今日、何によって山崎で合戦の有ったことが知られているのかと言えば、それは浅野侯爵家に伝わっている天正十年十月十八日付の、
「岡本次郎左衛門、斉藤玄蕃允宛の秀吉書状」によるものである。岡本は信孝の初めからの家老で、後、伊勢亀山城主になった男で、斉藤は前述のごとく、信孝が美濃入りの時家老になった者である。
つまり、いくら奇怪であっても彼は歴とした実在人物なのである。
   【長良川合戦】
弘治二年(1556)四月。かって美濃一国の太守として威をふるっていた斉藤道三入道も、すっかり落目になっていた。
何故そうなったかと言えば、『江濃記』によれば、前年十一月二十三日に鷹狩りに出かけた後、岐阜城の前身である井ノ口城に叛乱が起き、急を聞いて戻ってきた道三はその時から城を閉め出された。
やむなく近くの大桑城によったが、鷹狩りの装束の姿である。もちろん味方に駆けつけた者も居るが、始めから劣勢である。
それでも道三入道は戦った。しかし年が明けてからはもう補給もつかなくなった。これまでの数度の抗戦で側近の殆どを失ってしまった道三入道は、
「やむをえん、かくなる上は娘婿の信長に頼るしかあるまい」すぐさま尾張へ使いを出した。道三にすれば、かって天文十六年に信長の父織田信秀が美濃へ攻め込んできた時、
十四歳だった信長諸共捕らえはしたが、直ぐ父子共に解き放して戻させた。そしてその際の約定通りに二年後には、一人娘の奇蝶を嫁がせていた。そして天文二十年三月に信秀がぽっくり亡なった後、
「四郎信行殿をこそ、お跡目に」と尾張の重臣達が騒ぎだしたのを、道三入道は娘可愛さに隣国尾張へ兵を入れ、金を運び信長に相続させた。
だからして、「あの義理からしても此方から頭を下げれば、信長めは恩返しに直ぐさま助成に参ろう」当てにして道三は待ちわびた。
 が、尾張からは梨の礫。ついに待ちきれぬ事になって四月には長良川で決戦せねばならぬ羽目となった。が、道三は諦めきれず「美濃一国の譲条」なるものを信長に届け、加勢の催促をした。
この時、人質として清洲城へ送ったのが、生き残っていた当時十歳の末子新五郎である。道三が幼いときに出家していたと伝わる日蓮宗の妙覚寺には、新五郎にその際持たせたと伝わる書状の写しがあって、
頼めばコピーを送ってくれるが、それには(美濃のことは織田上総介に委せ譲り状を送ってある。
よって其の方は京の妙覚寺に入って出家し、わが供養の回向をせい)といったような内容がもられている。
つまり道三入道は、「譲り状を出しても、自分の実子が居ては、信長が兵を出して来ぬやもしれぬが、出家させいといっておけば、
これを見て安心して加勢に来るであろう」といった思惑で書いた物か真偽の程は判らない。がさて、そこまでされては信長も放ってはおけない。
『信長公記』によれば、「木曽川飛騨川の大川まで出陣」とあるが、ここは後(信長ほどの人が逃げ戻った地)と言う意味から、今は大退の地名になっている。
さて信長は出陣したものの、そこの葦草の茂みに全軍を匿したまま何故か最後まで打って出なかった。つまり舅道三の討死にを見届けて清洲城へ引き上げてきた。
その代わり「新五郎は京の妙覚寺へやらんと、腹違いとはいえ弟じゃ。そもじの手で育ててとらせい」美濃からきているから美濃御前だが、略して濃御前とか、濃の方と呼ばれていた奇蝶にいった。
この新五郎が後の斉藤玄蕃允なのである。さて、清洲城に移っている内に生駒蔵人の後家娘の腹から信長の子の奇妙丸こと、後の信忠。ついで三介こと後の信雄。
そして北畠家の後家女板御前からは、三七信孝が生まれたから、幼い日の新五郎は彼らの餓鬼大将のような遊び相手だった。
 もちろん秀吉もその頃は籐吉郎の名で奉公していた。城といっても、後の岐阜城と比べれば五条川に取り巻かれて天然の要害となっているが、規模は五分の一もない清洲城である。
手狭な城の中で暮らしたのだから、「斉藤玄蕃允と織田信孝」の二人は幼な馴染みであるし、小者から足軽時代の籐吉朗とも、主従として深い馴染みだった訳である。
これで秀吉が美濃へ攻め込んできた時、気軽に一人で出かけて、「俺は止めた」と言い、秀吉もそれに対して、にこにこしながら、「まあ当分は今の儘で.....」といった訳も判ってくる。
信孝にしても彼に迎えられて「さあ今日からお手前が領主になられませ」といわれれば、「そうか済まぬ。なら其方を家老にしてやろう」となるのは、幼な馴染みで、かっての遊び仲間の餓鬼大勝ゆえ、
これまた差程に驚くには当たらぬ。明智光秀も丸っきり誤られているが、玄蕃允もこれまで解明する学究など居らず、歴史辞典の類などは秀吉の馬廻りに間違えている。
しかし『信長公記』天正六年十月四日の条には、はっきりと、「斉藤新五郎は越中の大田保の本郷に陣取り、上杉方の川田豊前守らの大軍と戦う。富山城下の戦いにて新五郎は、
上杉景勝の兵を月岡城に引き込み、ついに川田らを敗退させ討取ったる首数は三百六十。されど勝って奢らず各所を攻め廻り人質をとり降参さす」と、その勇猛な働きぶりが出ている。
新五郎はこの富山攻めの他にも、美濃衆を率いて大将となって各地に転戦している。
だから何処かで一国とはゆかない迄も、一城の主になっていてもよいのだが、奇妙なことに、どさくさで半月だけ岐阜城主になった外はそれまで何処の城も持っていない。
天正五、六年頃に一方の旗頭となって働いた者は、その後、森乱(蘭)丸の二つ違いの兄の鬼武蔵でさえ、信濃四郡二十万石。滝川一益も上野一国の他計五十万石で「関東管領」にまで任命されている。
それゆえ斉藤玄蕃允も五、六十万石になっていてもおかしくない。彼は斉藤道三入道の忘れ形見で、奇蝶の異母弟で信長にも義弟に当たっていたのに冷遇されている。
     【奇蝶と怨念】
だから、当人もくさったろうが、姉の奇蝶もかっかしていたろう。話は戻るが天正四年に、信長が新築した安土城へ移ることになったとき、奇蝶を呼んで「玄蕃允は岐阜へ残せ」と言いつけたことがある。
「えッ、まことにござりまするか」声を震わせ奇蝶は声をのんだ。何故そこまで感激したかといえば、名こそ岐阜と変わっているが、昔の井ノ口城でかっては父道三入道が君臨していた所である。
世が世であれば、新五郎がここの跡目に座って美濃一国を治めていた筈の、奇蝶には実家の城だったからである。そこで歓び、(これまで信長殿を恨み抜いてきた怨念も、この際すっぱり忘れ去ろうぞ)と、
頑なになっていた心を和らげさえした。
思い起こせば二十年前。父道三が鷹狩りに出かけた直後、突如として起きた叛乱の真相が、その当時は判らなかったが、やがて歳月が経つにつれ「道三入道は悪党なり」とか、
「まむしのような悪い奴」と美濃中に言いふらさせて人心を離反させ、まんまと謀略にのせてしまった黒幕が、誰あろう夫の信長であることが、いつとはなしに判ってきた。それ故に無念でならず、
(父道三が居ては美濃を併合出来ぬと、調略で内乱を企てさせ、やがて桶狭間合戦で拿捕した鉄砲五百挺で四年越しに進攻をなし、父亡き後の稲葉山城を入手し増築して岐阜城となせし信長は夫とは申せ、
この身にとっては親の敵ぞ)と憤慨。新五郎に対しても、
「故父道三の妄念を晴らし、その成仏を願うには美濃人の美濃を奪い返すしかない」とも、かねて言い聞かせてきた処。だから信長の口より、そういわれれば、
(安土城へ引き移るゆえ、その後を払い下げのような恰好だが、まあそれでも....)歓び、「父道三の供養を晴れて致そう」と玄蕃允にも言いつけた程だ。
ところがその仕度が出来た頃になって、岐阜城へ美濃城主として入るのは、生駒御前の腹から生まれた長子の信忠。玄蕃允はその付け家老として残されることが判った。
「なんたることか。この身を嫁にしたるがゆえ父道三より助けられ、尾張の跡目を継げた恩も忘れ、美濃を押領したいばかりに、まむしの悪党のと言いふらし、父を殺せし....おのれ信長め」と奇蝶は怒った。
女性は一旦こうと思いこんだら、なかなか改めないものだというが、奇蝶は弟新五郎を岐阜城主にし亡父の跡目を継がせようと、
(おのれ信長、信忠め。共に葬ってくれんず)とばかり、この時からはっきりと決意した。これも信長殺しの一因である。
さて、太田蜀山人が大公儀に奉職中、当時の各家へ命じて、系図史料などを提出させて、これを台命で纏めたものが、寛政杏花園集とか『太田南畝・家伝史料』の名で伝わっているが、
その中の『蜷川家古文書』によると、

これが作成された寛政五年は、本能寺の変より二百十年たっているが、紅葉山文庫所蔵のこれは信頼出来るものだろう。さて、この二つの系図をくっつけ合わせると、
(稲葉一鉄の弟の娘を嫁にし、春日局を生ませた斉藤内蔵介は、一鉄の娘婿の斉藤玄蕃允と義理の従兄弟どうしの仲になる)のである。天正十年当時権中納言であった山科言経が、その六月の日記に、
「斉藤内蔵介、今度謀叛の随一なり」と明記されている男と、玄蕃允の妻どうしが肉親だった点が問題なのである。
さて、今でもまだ、『川角太閤記』などの俗悪書によって、内蔵介を明智光秀の家老と歴史辞典も誤っているのもある。
しかし光秀が、信長にまだ仕えていない元亀元年の時点において、「信長公記巻三、元亀元年五月六日」の条には、浅井長政が俄に裏切りの気配を見せ、信長が栃木越えで逃げる殿軍として、
「稲葉伊予父子(一鉄、重通、貞通)をそえ斉藤内蔵之佐(助)を江州守山へ残せし処、町の南口より焼き討ちをかけ突入する輩を追い崩し、あまた切り捨てて働き比類なし」と記載がある。
光秀が信長に奉公するのはこの翌年だから、一軍を指揮していた信長の直属将軍の内蔵助が、陪臣の家老にまで落ちぶれる筈などない。天正十年当時、軍監として、つまり信長の名代として光秀につけられ、
丹波亀山に駐在していたから、その地位を利用し、近江坂本城にあった光秀には無断で、「徳川家康追討」を名目に、信長の命令なりと詐って兵を進め上洛したのは、
フロイス日本史のカンリオン書簡にも明確にのっている。
なにしろ『長宗我部古文書』にも、「長宗我部元親は宮内少輔国親の子、四国全土を征服せんと志をたて、その資金を得んと欲し京すみくら(角倉)に仰ぎ、その一門の斉藤内蔵介の妹を嫁女とす。
よってその間に生まれし弥三郎十六歳の天正八年、内蔵介これを携え信長に目見得、その一字を賜り長宗我部信親となのり元服す」とあるくらいのもで、光秀の家老位の身分では、信長に目通り出来る訳もなく、
また四国全土を征服した元親がそんな低い地位の男の妹など貰うわけもない。
六月二日に斉藤内蔵介が叛乱しなければならなかった原因も、
(天正八年には四国全土の保障を長宗我部に与えておきながら、二年たつと三男信孝へ四国をやりたくなって約束を反古にし、信長は同六月二日、四国向け渡海船団を住吉の浦から出帆させることになっていたから、
何とかそれを阻止するための実力行動だった)のである。
これに加担していたから、つまりクーデターの資金を出した京の蜷川や角倉財閥は、後、豊臣や徳川の世となるや、その功により「角倉了意にのみ御朱印船許可」の特例をだしてやり、海外貿易の独占を許したのである。さて、「明智光秀」の著も出している日本歴史学会長だった故高柳光寿氏は、そういえば、その当時にはこういう例証がある、とあげて、「光秀が主殺しというのは、斉藤内蔵介の娘が徳川の権勢を握った後、その死後も孫の稲葉美濃守あたりが老中として威光を示していたので、春日局やその子孫への遠慮から、初めは斉藤内蔵介は光秀の家来ゆえ、主命でやむなく謀叛したと作り、それがエスカレートして光秀が信長殺しにまで変えられたのだろう。
次々と記入されたり、筆写されて伝わってゆく内に、それが定説化し、幕末頼山陽の『敵は本能寺』の詩吟が普及し、それで常識になったらしい」といった意味のことをあげていたが、
(斉藤内蔵介は四国渡海軍を牽制するため本能寺を爆発させた)ことの裏書きである。が、彼は単なる殺し屋で革命家ではなかった。
当時大阪城にいた四国遠征軍が解散するのを見極めると、これで良しと丹波へ引き揚げてしまった。そこで昼過ぎに上洛してきた光秀に対し、
「洛中が掠奪暴行の巷と化し、難民がこの時とばかり衆を頼んで火付けして廻ってる。今の儘では御所も危ない。事態収拾を計るがよい」と、恐れ多くも、時の正親町帝よりの沙汰が出た。
これが悲劇の発端である。
当時、信長の重臣は北陸、関東、備中に散らばって戦をしていた。今で言う戒厳令をしいて京の暴動騒ぎを鎮め、御所を警備する能力の在る者は他になかった。
利口者の徳川家康はマッチだけ擦ってさっさと領国へ逃げてしまい、兵を集めて愛知県の鳴海から津島間に布陣し、形勢如何と観望していたきりだが、律儀者の光秀はそうはいかなかったのである。
何しろ、これまでの織田信長という仏教嫌いの体制側の大黒柱が、髪毛一本残さず吹っ飛んでしまい、影も形も無くなったというので、「仏都」とさえ呼ばれる京の者達が喜び勇み、
それに便乗した浮浪者や難民の群が各所に放火し、乱暴の限りを働いていたのを眼前にして、光秀としては、
「大御心を安んじ奉るのが、この国土に生を受けし日本人の務め」と、直ちに坂本より従えてきた三千だけの兵で、同日の午後から御所を守護し、洛中へ警備兵の巡廻をさせ、治安維持の任に就いたのであろう。
俗説では光秀は浪々として困っているところを、信長に拾われてひとかどの武将になったごとく説く。
しかし言経の父、山科言継の日記の元亀元年二月の条には、「岐阜より三郎信長上洛、光秀の館を宿所にかり、三月一日には伴われ禁裏へ伺候」とでている。
山科言継は信長の父織田信秀が勝幡城に居た頃、京で食い詰めた蹴毬の家元姉小路卿らと共に頼ってゆき、そこで興行していたことも、その日記にあるから思い出し懐かしがって又日記に書き留めたのだろう。
 
さて今と違ってホテルの無かった時代故、信長は光秀の邸に泊めて貰ったらしいが、まさか単身ではない。
足利義昭を擁し上洛しているのだから身の回りの家来だけでも二百近くは側を離れずだったろう。
つまり光秀の京屋敷は収容人員二百も入れる大邸宅だったことになる。なお三月十六日には、三好義継、松永久秀の両名が供揃いを仕立て、二十四日には武田下野と和田維政が、
美々しい行列で取り巻かれた信長へ御機嫌伺いに行っている。
同年七月四日に上洛した際も、七日まで光秀邸に泊まっている。この頃から光秀は足利義昭の代理の恰好で、朝倉攻めの信長の出陣になど加わりだしたが、家来に未だなったわけではない。
翌年元亀二年十月二十九日に、岐阜城へ赴いた光秀に対し信長は銭二百疋を贈っているのも、給与ではなく礼金である。
が、当時の一文は時価で千円に当たるから、それは二百万円に当たる。前の宿泊料であろうか。
さて、御所へ信長を初めて伴い案内して行ったのは光秀だから公家達は、後光秀が彼に仕えるようになってからも、やはり同格位に見ていたらしい。
というのも、信長は本当のところあまり御所の役にはたっていない。逆に弓鉄砲の兵を率いて御所の中へデモさえかけている。ところが光秀は違うのである。
『御湯殿日記』と呼ぶ当時の女官が書き溜めた御所の記録によれば、皇室御料米山国荘を、宇都左近大夫が横領し、恐れ多いが飯米にさえ事欠かれた際、光秀は自分の米を運び込み、
内侍所以下皇太子誠仁さま以下女中衆にまで献じ、兵を率いて宇都を征伐した。
このため御所では、末の者に到る迄やがて山国米の配給を受けられるようになった。よって正親町帝は馬、鎧、香袋などを「その勤皇の志を嘉せられ」下賜された旨が出ている。
これは当然な行為であったかも知れない。が、天皇おん自ら勤皇とお言葉を頂けた彼は数少ない日本人の一人なのである。
だからこそ軍監斉藤内蔵介が、前もって従弟にもあたる玄蕃允と連絡を取り、奇蝶の助けを借りて挙兵。さっさと信長や信忠を吹っ飛ばして逃げてしまった後始末も、帝からの勅命とあればすぐさま、
「大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」と仰せかしこみ、明智光秀は大命に従ったのである。 
     【山崎合戦の嘘】 

正親町帝は先に勅令を下したもうて、その勤皇の志を賞した明智光秀が、粉骨砕身よく京の治安を安泰にし、御所の警備にも身を挺したのを欣びたまい、六月七日には勅使を派遣された。
使いに立った公卿は、神祇大福の位を持つ吉田神道の右衛門督兼和であった。のち彼はその名を兼見と改め、秀吉よりの摘発を恐れて、二重帳簿ならぬ二重日記を作った。
だからその『兼見卿記』には、七日に光秀の許へ行き八日に戻ったことのみ記入し、何の伝達だったか明らかにされていない。
さて、大命降下を受けた光秀は、本城の丹波亀山へは斉藤内蔵介が頑張っていて戻れぬから坂本へ戻った。そして斎戒沐浴してから六月九日朝上洛。
公家百官に迎えられて禁裏に伺候し、御礼として銀五百枚を献納した。余程優渥な勅命だったらしいことはこれでも判る。ついで京五山と大徳寺へ計二百枚の銀を光秀は贈っている。
これが問題である。ヨーロッパで中世の王様が即位するときに、法皇庁からの受洗をうけ、神に誓ってから王位に就き、一定の額を奉納する風習があった。が、足利将軍家も何故か、
五山と大徳寺より「受禅」なる洗礼を受け、征夷大将軍に任ずる慣習があった。そして、その際に贈るのが銀二百枚の定まりだったことは、伏見宮さまの『看門御記』にもはっきりでている。
今までこの間の解明は誰もしていないが、光秀が正親町帝に五百銀を献納してから二百銀を奉納しているのは、従来の古例に則したものと見れば、「六月七日の勅使派遣の大命降下」たるや、
征夷大将軍への宣下ではなかったろうか。寿永の昔、後白河上皇へ強要し、征夷大将軍の位を得た旭将軍木曾義仲のことは僅か在位数日でも記録に残っている。なのに帝自らの思召しで、
六月九日に正式にお受けし、旧来の風習通りに手続きもした光秀の記録は何処にも伝わってない。これは取って代わった秀吉体制が極めて厳しく、
大徳寺や京五山の寺院記録も、吉田兼見卿記同様に、やはり二重に書き直したらしい。
有名な斉藤道三入道の忘れ形見なのに、玄蕃允がさっぱり知られて居らず、奇蝶を仇として狙った織田信雄が放火したのさえ、安土の町の人々は今も知らずで、
不勉強で無責任な歴史屋さんの説を教えられ、「光秀に焼かれ、それから町はすっかり寂れたのだ」と、国鉄の駅の所在地なのに旅館もないことの言い訳にしている有様である。
さて、『兼見卿記』や『多聞院日記』によると、光秀が「大御心を安んじ奉ろう」と、御所へばかり詰めている内に、六月二日の本能寺の変を素早くキャッチした秀吉は、
三日の内に対戦中の毛利家と講和を結び、四日の朝に備中高松城を開城させて、直ぐ備前へ引き返し、七日には居城の姫路へ戻っているのである。そして改めて出動準備をし、
九日には兵庫まで兵を進めてきた。『秀吉事記』では、秀吉は亡君の仇討ちをするのだと、髷を切って弔い合戦として長躯尼崎まで出陣したというが、
光秀はこの時、(自分へ加勢に来た)ぐらいに考えていたらしい節がある。
前後の事情からすると、秀吉も九日までは光秀を討つ気ではなかったらしい。が、九日になって、「光秀へ征夷大将軍の宣下」と聞いた時から、秀吉の心境は一変したようである。
何しろ武門の者にとって、その地位は最高のものである。(この儘ではこれまでのライバル光秀へわしは臣従せねばならぬのだ)と狼狽して「何が何でも光秀を倒さねば」と決意をここで決めたものらしい。
家康の光秀贔屓から、「家康側近の天海僧正こそ、あれは助けた光秀の変名で同一人物」などと噂されたのだろう。ところが家康が、
斉藤内蔵介が殺されるまで自分の名を出さなかったのを徳としてその末娘ふくを探し出し春日局にしてしまったから、父内蔵介を庇いだてするため、
前章で説明したように「信長殺しは光秀」と又されてしまったのだろう。そして現代になっても徳川史観そのままで歪められているのだろう。
が、正親町帝の大御心にそい奉って、草莽の武将として散華していった明智光秀が埋もれていた勤皇の士として、やがて再評価される日は遠くあるまい。
坂本城で明智秀満つまり講談で言う明智左馬介が安土城の奇蝶御前の保護をとりやめ坂本へ戻ってきたところ山崎円明寺での事を聞き、己が妻女や光秀の妻しらやその子らと共に爆死した。
丹波横山にいた秀満の父は木村吉清が捕らえたという。だが、秀吉は他の者まで殺しただろうか?信長とは違い秀吉はチャッカリしていたゆえ、
捕らえた明智の生き残りは奴隷として海外へ売り払ったのではあるまいか。アルジェリアの十五世紀の古城への石段が日本式に左右がストレートで、桔梗の紋がマーク化して入っている。
だから明智の残党の男供が奴隷として鞭打たれ造った物と想像できる。
【補記】
「日本の特殊発生史」には写真入りで出ている。リルケ航海王の碑の近くにある修道院の塔にも何故か北畠のカタバミ紋が小さくつけてあり、これらも写真で見られる。
日本から大量の奴隷輸出が存在したという事実は、日本では伏せて隠匿されており、一般の歴史書には出ないのであろう。
 
 

琉球哀歌 尊王攘夷は沖縄製

2019-09-19 09:04:38 | 新日本意外史 古代から現代まで

     琉球哀歌
 尊王攘夷は沖縄製

 沖縄の首里博物館が今あるところの前に古びた池がある。あまり見事とか美しいとは、お世辞にもいいかねる。ただ周囲の青々とした熱帯樹の茂みに眼がひかれる。
 しかし、この竜潭池というのは琉球王朝が華やかな頃には、丹青色の船が浮かび、下々の者は近づけない高貴な場所だった。
 さて、〈尊王攘夷〉なる言葉がある。
 今では日本の幕末の勤皇志士あたりが、東山三十六峰を背にして新選組と、
 「いざこい来れ」と斬り合いをしながら、悲壮な叫びをあげたもののように考えられ、そう想われて居る。しかしそういうものの、
 (勤皇……なら判るが、日本では天皇を王様といわないのに変てこではないか?)
 といった疑問を、投げかける者はなかったかどうか……歴史家さんは誰もこれまで書いていない。
 なにしろ日本の歴史は講談や芝居によって、歪められた優で堂々とまかり通っている……
 というけれど、これも故尾上松之助、市川百々之助、阪東妻三郎、沢田正二郎といったスターたちの、チャンバラ幕末ものによって作られた虚像といえるようだ。
 というのは明治八年五月二十九日に、ときの日本の太政大臣三条実美よりの、
 「琉球藩は、もう清国へ朝貢と称して使節を派遣したり、清国より冊封を受けてはならぬ」
 との内示をうけ、渡航してきた内務大丞松田道之が、首里城へ今帰仁王子以下百余名を集めて、きびしく冷酷にいいわたしたとき。
 
ついで翌明治九年五月の太政官令に反したとの理由で、年があけた三月二十日に、
 「処分の都合があるから首里城内から、何物も持ち出すことなく三十一日限りにて明げ渡し、尚泰王は城を出て東京出発まで謹慎のこと」という命令がでたとき。
 病臥中の王を守ろうというので、「尊王攘夷」の旗が、尚王一世の五百二十八年前の時点、石で底をかためて作られた竜潭池の畔に、再度に及んで立てられた。
 かつて中国の重陽の節句の日など美々しく装われた竜形船で埋められた池だが、蘇鉄や芭蕉が茂った木立に、ついで翩翻とひるがえったレジスタンスの旗に対し、
 「かまわぬ、撃ってこませ」と、薩摩出身の川路大警視の命令によって、派遣された園田二等警視補を隊長とする百六十三名の巡査隊と、
旧薩州士族三百名が、神聖視しされ一般の者は近づくことを禁じられていた池畔を襲って旗をひきちぎった。
 そしてこの結果、首里士族、泊村士族、久村士族らは、次々と内務省の出張所へ呼び出されて苛酷な取り調べもうけた。がそのため、かえって反発が強くなった。
 「御病気中の王や、まだ幼年の王子まで、東京へ連れて行くとは何たることか。首里城をあけ渡せとは、五百年つづいた琉球王朝の最後ではないか。
かくなる上は徒手空拳とはいえど、夷であるヤマトンチュを撃ち払わねばなるまい」と固く、一致団結をしたのである。
 
どうも尊王攘夷なる熟語は幕末の日本製ではなくて明治に入ってからの、いわゆる琉球処分の際に、どうやら生まれたものであるらしい。
つまり尊ぶ王とは、尚泰王のことであり、「攘夷」と、それに続くのは、幕末までの日本では、英米仏あたりの異人をやっつけることであったが、
沖縄では、夷は内地人の意味であったのである。さて、いくら哂の宮古上布の旗をたてて皆が必死になって「尊王攘夷」と反抗して騒いでも、また、
 「泣血奉御願候」と王子や旧摂政が、本土から派遣されてきた松田道之や、勅使の富小路敬直に懇願したけれど情け容赦もあらばこそ、
とりあえず王子尚典は明治十年四月二十七日郵便船明治丸にのせてつれてゆかれた。
 そして病臥中の尚泰王も翌月、タンカにのせられたまま、彼らのいう夷の軍隊である日本軍の鉄砲隊に包囲された中を、東京行きの船にのぜられてしまった。
 沖縄の人々は大地にひれ伏し、おんおん泣き伏して見送った。しかし王を奪い返したくとも、いかんせん武装のない彼らはどうしようもなかったのである。
 さて王様や王子でさえ旧薩州出身の士族らの鉄砲隊で、身柄を拘束されて護送されるくらいゆえ、彼らによって住民への、掠奪暴行は目に余るものがあったらしい。
 そこで東京政府は治安維持にやむなく、一部の者は残留させたが、他の者は三月前から風雲急を告げていた九州へ、政府軍の助勢として回されることとなった。
 このとき鹿児島第二大隊長として、池田屋斬り込みで名をはせた奈良原喜八郎が、五十名の薩州健児を率いて沖縄を荒し回った記録が詳しくある。
 が、このとき、奈良原喜八郎は分捕品として、
 
「尊王攘夷」の宮古上布の旗を、十数流も持ち戻った。そして改めて、
 「討賊官軍第六大隊長」を拝命するや、この旗をもって、大隊旗に代用した。
 つまり奈良大隊長の指揮をとる官軍は中隊ごとに、沖縄から持ち帰ってきた、
 「尊王攘夷」の旗をたてて西郷軍に対し、「おのれ……賊軍めッ」とばかり、攻めたてた。
 東京から派遣されてきた兵や鎮台兵は、ろくに戦歴もない連中だが、奈良原の率いる二百余名は非武装地帯とはいえ、沖縄では連戦連勝みたいに勝ち誇って、
気ずい気ままを勝手にしてきた連中である。だから普通なら同じ薩摩人どうしゆえ、そこには手加減や遠慮がありそうなものだが、逆に奈良原隊はすこぶる強かった。
 もちろん旧幕時代に奈良原は島津久光の命令で、有馬新七ら過激派を斬り倒し、そのとき西郷隆盛も追手にせまられ入水自殺まで企てているのだから、昔からの仇敵どうしとはいえる。
しかし、なんといっても琉球処分の荒稼ぎが奈良原隊を意気軒昂にしたことは否定できまい。
これまで歴史家は等閑視しているけれど、琉球王や王子を東京へ護送してしまったの、か、やがては同年九月二十四日の城山での大西郷の悲壮な自決とも結びつく。
いうなればこの結果は、「琉球処分、大西郷を死にはしらす」となるのである。さて十月一日。惜しくも城山で西郷隆盛や桐野利秋か自刃したので、
「西南の役」は終結となったから、奈良原喜八郎らは凱旋ということになった。
 そこで硝煙にまみれた宮古上布の旗を、意気揚々と十数流たてて上洛した。
 彼らが陣営をはっていたうずまさが、その後京都における活動写真のメッカになった。だから故牧野省三も幼時に眺めたことのある、
「尊王攘夷」の旗の記憶がなまなましかったのだろう。そこで時代劇のタイトルに、
「尊王」とか「尊王攘夷」といったのを、まさか沖縄からの輸入とは知らずして、堂々と用い世にひろめてしまったのだろうと思われる。異説めくが、
 「勤皇」というのは、昔からの本物であるが、そうでないのはどうも明治十年に奈良原喜八郎によって、もたらされたものといえるようである。
まあ沖縄の観光に行くひとは、かつて、「尊王攘夷」の旗が初めて立った博物館前の古びた湖畔にたって、往時をしのび、
「ひめゆりの塔」や「健児の塔」の参拝もぜひついでにしてきたいものである。




イロハ歌留多の解説。 「札高し、愛宕さんには月詣り」江戸時代、庶民の借金地獄

2019-09-18 10:15:16 | 新日本意外史 古代から現代まで
イロハ歌留多の解説。
 「札高し、愛宕さんには月詣り」江戸時代、庶民の借金地獄


これは関西に広まった歌留多で、その意味としては以下に記す。

昭和になってから映画が盛んになり、中でも時代劇が全盛で、多くの男優が綺羅星の如く活躍したが、中で小林重四郎は映画「国定忠治」の劇中歌を唄い評判を得、ポリドールよりレコードも発売。
歌う映画スターのはしりとなった。
そして「飴屋の唄」として江戸時代には良く歌われていたこの唄を劇中で復活させ、
「伊勢にゃ七度、熊野にゃ三度、愛宕様には、さあ月詣り」と頭上に棒つきの飴を並べ、小太鼓打っての唄で、レコード化され、当時は大いにこの唄は流行した。しかしその歌の意味の事実は全く伝わっていない。
テレビの大岡政談などで、「年に一割八分までが、お上の法定利子だ」などと真面目くさって越前守の台詞があったが、あれはとんでもない間違いで大嘘なのである。

時代考証の人間も、脚本家も、ましてや現場のプロジューサーも全くの歴史音痴だからこんなとんでもない間違いを平気で犯す。
江戸時代には、現代のような「利息制限法」のような法律は無く、施行されたのは明治になってからである。
井原西鶴や近松門左衛門ものには「死に二倍」「死に三倍」といったものも書き残されている。
これの意味は、江戸時代商家の道楽息子が、 「親父が死んで自分が跡目を継いだ節には、二倍にして返すとか三倍にして戻す」という博打のようなものだが、
江戸のようにその日暮しの貧乏人が多い庶民の間では「烏金」ていって、夜が明けて鳥が鳴き、やがて鳥が飛んでいく午前十時から昼までには返金するという約束が定まっていた。

つまり元金が倍々と跳ね上がって行くのだから、十日で一割などといった生易しいものでなく、連日午前から昼までに返さなければ、一日十割で一ヶ月滞納すれば元金は三百倍に、
これは複利計算でなくてもなってしまう。
これではとても払えないから仕方なく娘を吉原の女郎にでも売るはめになってしまう。
そもそも金融業というのは、一般からは年五分ぐらいで預かって、それを7分、八分の効率の良い処に貸しての利鞘稼ぎだから、銀行やサラ金の無かった江戸時代は、こうした過酷な利息がまかり通っていた。

それに担保にしたくても、肝心な土地というものは、これ全て徳川家の物だった。これの例証として、三田村鳶魚の時代考証では、
質屋とか札差は、隅田川向こうの新地にある弾左衛門家を「親質」にして大名でも借金する際は、大名の領内で収穫される米の引取り受取書を持っていって金を借りたとある。

しかし庶民は、盲人金融の座当金というものを借りたり、更に一般の商店では信心借りといって、熊野神社や伊勢神宮で借りていて、これは同じ信心の者にだけ便宜が図られていたのである。
だから熊野さんには年に三回だけ期日前に利息を納めれば良かったし、お伊勢さんには、閏月も計算されるから年に七回つまり隔月も利息の奉納だけで済んだものである。
処が吉田神道だけは、ここは朝鮮系の神社だから厳しかったのである。
そしてこうした金融制度は戦国時代から続いていて、織田信長は配下の武将に「播磨を攻めよ」と命令した場合、軍資金は全く出さず、命令を受けた武将は攻め取ったその土地から略奪するため、
それまでの諸掛軍費は借金して出征したのである。
次の秀吉となると、出征費は派遣軍に出されるようになった。
さらに徳川家康は、出すには出してやったがケチで証文を取って、後で返済させていたものである。
それゆえ、先の信長時代には武略に優れているのは勿論だが、出征の費用が賄える秀吉のような金策の上手い者が立身出世できた。
そうでない者は、一ヶ月の期限付きでしか貸さない銀を借りるために、勝軍地蔵も祭ってある、 愛宕山へやむなく借銀に登山したのである。
勿論この山には吉田神道の貸し出し用の銀や銭は山と積んであったが、即座に貸し付けては有り難味が無いと、金の掛からぬ接待として「連歌」の席を設けて、勿体をつけて待たせたのである。

だから信長殺しと間違えられている明智光秀も、信長に毛利攻めを言いつけられていた秀吉の応援のため、備中へ向かう途中で愛宕山へ登り、金策している。
ここで詠んだ有名な連歌が「時は今雨が下知る皐月かな」である。
 
 次に 「連絡(つなぎ)は、三つ葉の 枯れアオイ」という唄がある。

この歌はサンカ族に使われている。

現在「三つ葉葵」の紋所と言えば、テレビの「水戸黄門」が有名で、助さんが、一話が終わる三分ぐらい前に必ずといって良い定番の見せ場の立ち回りをやった後で突き出す印籠の紋所で、
「これなるお方をどなたと心得おるか。畏れ多くも天下の副将軍水戸光圀公であらせられるぞ、一同の者、頭が高い」と一喝する際の小道具で有名である。

この映画は最初、日活映画の撮影所が向島にあって、老齢となった山本喜一が、どうしても役者を続けたくて、当時の二枚目のスター河部五郎を助さん役に使って自分が水戸黄門役を演じたのが初めなのである。
その後月形龍之介、東野英治郎、西村昇、佐野浅夫、石坂浩二、里見浩太郎と続き、今は武田鉄矢となっている。
そして綿々と同じパターンの繰返しで、視聴者はよくも飽きないものと感嘆するが、これは後段で触れるが葵の紋に関係が有るらしい。

さて、水戸光圀の時代、水戸家は権中納言だったのが本当のところ。
(この権というのは、次官とか次席という意味で、現代でも副大臣なども居る。だから正式の中納言ではない)
光圀は元和八年に実子を額田藩に二万石分与して水戸藩は二十五万石になった。
しかし徳川綱吉の子で養嗣子として水戸家を継いだ綱条が、隠居した光圀を虐待した褒美として七万石加増される。

ついで額田藩も光圀の子を始末(毒殺)して統合して三十五万石となったのである。
しかし副将軍などという制度は徳川体制では実際に存在しない。
実際は五代将軍に綱吉を立てる際、光圀と時の大老酒井が反対した。
その結果、綱吉が将軍になると、光圀は閉門処分となり、水戸に返され、当時の特殊地帯西山に閉じ込められて、ここで生涯を終えることになる。

なにしろ、光圀は、サンカ葵族出身の徳川家康の血を引く直曾孫である。
即ち生粋のサンカ族で、綱吉というのは朝鮮(百済)系、済州島生まれの女於玉の腹より生まれている。
だから将軍綱吉に虐待されたことに同情して、閉じ込められている光圀様が、もし諸国を気楽に旅でもして・・・・といった想いが 大正時代の立川文庫の「水戸黄門漫遊記」に書かれ、
]大いにこれは売れた。そして映画にもなったのである。
東野英治郎がテレビドラマの主役だった頃、東映撮影所の小道具部屋が火事になったことがあって、
この時、撮影所には連日「三つ葉葵の紋は大丈夫だったか、助かったか」という問い合わせの電話が殺到したという逸話が残っている。
これの意味するところは、現代にもサンカ系(日本原住民系)民族の末裔が多く暮らしている証拠である。
 

 

 津軽弁と古代海人族

2019-09-17 09:52:48 | 新日本意外史 古代から現代まで

        津軽弁と古代海人族
熊をオヤジ、山者をマタギと呼ぶのは東北全体だが、船頭を弁財天とよぶのはアイヌ語でも同じ。
(宝)船に乗って日本列島へやって来た人間、つまり古代海人族が列島各地に住み着いて和人となったという意味。
宝船には、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋が乗っていて、顔からも想像できるが、中国系、インド系、アラブ系、ポリネシア系等と
長頭型や短頭型と、様々な民族が居る事が解る。
そこで日本語の原型だが、古代ヤマト言葉に相似しているのが、邪馬台国系だと謂うが、渓谷をガロとか、多大をテペイ、深山をカチカチ、猫をチャペ、蛾をバケラコと呼ぶなどは、
これは明らかに古代アラブ語その儘なのが非常に興味深い。
そして、津軽弁のイントネーションが驚くほど似ているとも言われる。
縄文時代から半島や大陸勢力に武力征服されて、弥生時代に変わった時の日本人種は、百余にも別れていたというし、あくまでも単一民族ではないと主張する
「津軽異種」説は、津軽のみである。現在は広く日本語の中にも使われている津軽弁と和語との対比によって、古来からこの日本列島にはアラブ系の人種も多く漂着し、
大陸勢力によって、北へ追い寄せられ集団で住んでいたことを解明する。
かっては、本州の北辺に「津軽王朝」として栄えていた、日本原住民の言語だが、現代用語になっているものも多くある。
以下は何千とある単語の中から、ごく一部を掲載した。
童  ワラシ(このワラシャンド、おら所のワラシ等と使う)
妻  カガ(訛ってカカアとも使われる)
夫  テデ
乞食 ホイド(物貰いだったから、ホイドのようなことはするなと使う) 
霊媒 イタコ(恐山の交霊師が有名)
独身 ヒンズリコキ(妻が居ないので淋しく自慰をすることで、センズリともいう)
大工 タクミ(匠として、職人の最高峰となっている)
女  メンタ(うるさいメンタだ等と当惑語になっている)
旅人 ドサメ(旅回りの商売人をドサマワリという)
役者 ネナシ(旅から旅で定住できぬため、根無し草と見下げた言葉)
踊子 シラビョウシ(静御前が有名だが、原住民限定職) 
馬追 マゴ(古来より牧場があった、相馬馬子唄が有名)
快楽 アジマシ(新しい家でアズマシイね、ジとシが訛って使われている)
娘  メラス(あのメラスッコ等と使う)
粗忽者 チャカシ(チャカチャカしねで、落ち着け等と使う)
弟  オンズ(お前えんとこのオンチャンと敬意を表す。オンジンともいう)
汝  ナ(ナの家は何処だ、ナは何て名だ、等と使う)
多い テペイ(あいつはテイッペイごろついていった、等と使う)
激しい スコタマ(スコタマぶん殴られた、等と使う)
恥かく ゴザラシ(山田の息子は、会社でスコタマゴザラシた、等と使う)
意地  ジョツパリ(あいつは何時もジョツパッてる)
尻  ドンズヅ(ドンズマリとかドンズの穴と使う)
寒い シバケル(今日の夜はシバレルなぁ等と使っている)
驚き ドッテン(いきなり来たのでドッテンこいた等と使う)
頑張る ケッパル(運動会などで「太郎ッ、そらケッパレケッパレ」)
早言葉 クチャベ(そんなにクッチャベれば、さっぱりわがらね)
自慰 ヒンズリ(先住民奴隷が妻帯も出来ず、淋しく自分で処理した)
酒 ミキ(御をつけておみきという)
銭 ゼンコ(ぜに、ぜんこ等とも使う)
頭を下げる コマル(こまがる、かがまるに転化している)
強情 コンボホリ(そんなに何時までもゴンボホリするでねえ)
出来ない マイネ(そんなことマイネよ)
追手 ボッテ(早く逃げねばボッタクラレルぞ)
雪解け ダンキ(今日もダンキだから春は近いぞ)
後記
 
津軽弁と越後弁は同種同族だから、似通った言葉で通じるが、九州となると古代朝鮮新羅系人間が多く住む北部と、
古代朝鮮高麗系人間が多い薩摩ではやはり身振り手振りを入れなければ会話が出来ない。
 人種が入り交じり、国境が錯綜している欧米人が会話の合間に大袈裟なジェスチャーを挟むのもやはり同じことである。