1.基本情報
所在地
東京都八王子市長房町
現況
墳丘は湮滅したが、「遺跡公園」内に地表面表示あり
史跡指定
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
7世紀前半
被葬者像
墳丘
形状:円墳
径:14m(現地説明板)
段築:なし
周溝:1重
主体部数:1基
築造時期:7世紀前半
周溝
主体部
・半地下式
・竪穴系横穴式石室
・河原石積み石室 4.9m×2.4m
・玄室は片袖の胴張り構造
※以上、『新八王子市史 資料編1 原始・古代』による
出土遺物
3.探訪レポート
自転車を駆って近所の歴史めぐり② 2009年11月8日(日)
船田石器時代遺跡を出た後、出羽山へ向かおうと思いますが、手元の地図を見ると、長房団地のなかに「遺跡公園」という名の公園があります。
気になるのでちょっと寄ってみましょう。
団地の中を走って辿り着いたところ、何の変哲もない公園です。
まあ、一応来てみた訳だから、一通り探ってみましょう。
プラプラと公園の周りを一周してみます。
おや、何か説明板があるぞ。
なに、船田古墳だと!
何とこの公園には、かつて古墳があったのです!
公園の真中の空間に描かれた丸い模様は古墳の跡だったんですね。
説明板によると、団地の造成に先立つ発掘調査でこの古墳は発見されましたが、その当時既に削平されており墳丘は無かったということです。
墳丘の規模は14メートルで、その周りに幅1メートルの周溝が巡っており、石室は4.7×2.7メートルで、既に盗掘されており、副葬品はありませんでした。
いやー、まさか古墳と出会うとはねえ。
最近、私の中では古墳が流行りつつあり、連日古墳の本を読んでいたところなのです。
こういう予想していない物に出会えると嬉しいよね。
次は近藤出羽守の居城と伝わる出羽山に向かおうと思います。
4.考察
補足(2020年6月8日)
探訪の後に刊行された『新八王子市史 資料編1 原始・古代』を元に補足します。
八王子市内には、古墳時代の遺跡は約60あり、その中で人が生活した形跡のある集落遺跡は34ほどあります。
そのうち、船田古墳の周辺に広がる舟田遺跡は、建物跡が195棟見つかっており、市内最大の集落跡です。
以下に、市内の古墳時代の遺跡の分布図を示します。
※『新八王子市史 資料編1 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)より転載
市内の場合は、古墳時代前期の集落は弥生時代終末期から連続する遺跡が多く、3世紀から4世紀にかけて集落が継続しましたが、中期の5世紀になると、関東地方全体の傾向と同様に集落遺跡数は激減し、後期の6世紀にまた増えるという現象が見られます。
船田遺跡は、縄文時代から奈良・平安時代にいたる複合遺跡で、弥生時代後期後半の方形周溝墓が一基みつかっています。その方形周溝墓は、長径12mの長方形をしており、周溝の南東隅のみ切れるタイプです。
古墳と同時期の竪穴式住居跡は6群23棟程度で、この古墳の被葬者は100人程度の住民を管掌する立場の人物とされています。
また、船田古墳の大きさに関しては、説明板とは違って内径12mの円墳としています。
石室は、河原石積みで壁面を持ち送りして天井石を設置していたと考えられ、片袖の胴張り構造となっており、片袖の胴張り石室は、現在のところ市内ではここと鹿島古墳のみで確認されています。
⇒鹿島古墳のページはこちら
なお、片袖式は少数派で、『江戸川の社会史』所収「石室石材が語る古墳時代の交流」(松尾昌彦報告)によると、群馬県には2例、埼玉県には8例、千葉県には3例しかなく、千葉例では市川市の法皇塚古墳が片袖式です。
⇒法皇塚古墳のページはこちら
石室の規模に関して、北大谷古墳や小宮古墳と比較すると、下図のようになります。
※『多摩の古墳』(八王子市郷土資料館/編)を加筆転載
船田古墳と同時期の古墳時代終末期前半における八王子の首長墓である北大谷古墳が両袖式であるので、船田と鹿島の有力者はその支配下の下、それぞれの地域を統括していた有力者ではないでしょうか。
ただし、多摩川流域の中流・下流域を見ると、船田古墳ぐらいのスペックであれば他に抜きに出るような存在ではなく、数基が群集していてもよいものですが、船田古墳の周辺ではそういった古墳は見つからず、船田古墳は船田丘陵では最高権力者の墓なのです。
八王子盆地では古墳時代後期に集落数が増えましたが、想定される人口に比べて現在見つかっている古墳が少ないというアンバランスな状況が看守できるところも興味深いです。
5.参考資料
・現地説明板
・『江戸川の社会史』(松戸市立博物館/編) 2005
・『特別展 多摩の古墳』 八王子市郷土資料館/編 2009
・『新八王子市史 資料編1 原始・古代』 八王子市市史編集委員会/編 2013