つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

岐阜城@岐阜県

2024-09-15 15:00:00 | 100名城
犬山城の後は車で45分の岐阜城にやってきました。
岐阜城は岐阜市の金華山にある城で、鎌倉時代からの長い歴史があります。

1567年に稲葉山城の戦いで織田信長が斎藤龍興に勝利したことで、稲葉山城から岐阜城に変えて居城にしました。

まさに天下統一への足がかりとなった城ですね。

100名城にも認定されています。

この界隈は名城の密集地帯なので、セレクトするのが本当に難しい。


岐阜城の入り口に到着です。
若かりし織田信長の銅像もあります。



麓から岐阜城の天守が小さく見えます。
標高は329m!今回はロープウェイを使うことにしました。



麓は現在発掘調査が進められています。
歴史上、超重要人物でもある織田信長の城ですから、積極的に調査して頂けるのはありがたいです。



岐阜城ゆかりの武将は、戦国の中心となったスター集団。



ロープウェイを降りて、天守までは約10分。

安土城をイメージさせる石畳の階段です。



天守への道中、天然の巨大な岩なども多く見ることができました。

岐阜城が石垣の城になった所以は、この恵まれた岩にあると言えます。


見事な堀切を発見!
これぞ戦国時代真っ只中の中世の城です。
当時は木の橋が架かっていたそうです。

尾根を切ることで進行を防ぐ役割があります。
また万が一敵が進行してきた際は、橋を落とすことで、敵を阻みつつ上から攻撃します。

中世の城ではよく見られるスタイル。



さらに先には食い違いの虎口、二の丸門。
石垣で形成されていて、安土城の天主入り口の食い違いのような風貌。



ロープウェイを乗るまでは土砂降りだったのに、またしても天守を前にして一部青空が。

最高のプレゼント再び!



織田信長が築いた石垣。
信長が入城したのは1567年。安土城が築城されたのは1579年。

やはり、岐阜城をモデルケースにして日本初の総石垣の安土城を完成させたと考えて良さそうですね。



現在の天守は昭和に復興天守として再建。
信長の時代は望楼型の四層五階だったそうです。



石垣は野面積み。
使っている石材は信長時代のものとされているが、天守を再建の際に一回り小さな天守台にするため積み直したそうです。

今では考えられませんが、もったいない。



天守内からのショット。

辿ってきた道を上から見ると、尾根の両側を削ぎ落として極度に狭い道にしているのが分かります。

大軍勢が攻めてきても、一列か二列でしか並んで進行できません。しかも後退することもできないので、一網打尽にされてしまいます。

堀切も含めて、こういった山城らしさも兼ね備えているのが岐阜城の魅力だと思います。

まさに城郭建築の転換期の起点となる城です。



岐阜城の周囲は長良川があるため、より堅牢な城になっています。



山と川に囲まれた城。 



ロープウェイで下山し、隣にある信長公居館跡に向かいます。

観光の方でいっぱいの岐阜城ですが、皆さん天守閣以外はあまり行かないようですね。



史実とは異なる天守閣と、新しく積み直した天守台の石垣よりも、麓の信長の館跡の方が歴史的には貴重かと思っています。

あれだけ大勢の観光客がいても、信長公居館跡を散策する人はワタクシ1人しかいませんでした。



入り口の前の階段を登ると、巨石で形成された食い違いがあります



館跡はロープウェイの乗り口の真隣です
石垣も積まれていて、宣教師ルイス・フロイスはこの館を宮殿と評しています。

それを裏付けるように、発掘調査では金箔瓦が出土しています。

安土城は豪華絢爛な城だっと言われているが、やはり岐阜城で既に試みていたと言えます。



巨大な岩壁。
金華山の石は各所の城で使用されています。



岐阜城は目まぐるしく城主が変わり、最後は織田秀信が城主でしたが、関ヶ原の戦いで西軍についた織田信秀は、徳川東軍先鋒隊と戦いますが敗戦。

岐阜城は開城され、後に廃城となります。

こうして、織田信長が創った歴史の中心にあった天下布武の名城、岐阜城は表舞台から姿を消すこととなりました。

岐阜城は歴史的価値が改めて見直され、2011年に金華山一帯を国指定史跡となりました。

今後の発展が十分見込めます。
いつか、この館も復元されることを願っています。

久々の城巡りは、充実した時間となりました。


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犬山城@愛知県

2024-09-15 11:00:00 | 100名城
最近仕事が多忙すぎて、城に行くことができていなかった為、一泊二日で愛知と岐阜に行くことに!

深夜2時に車で出発。
朝7時半に犬山城に到着です。

江戸時代以前より建築された城で、現代に残っている天守閣は残念ながら12城しかありません。
その内の一つが犬山城です。
そして、現存天守の中で国宝に指定されているのは5城のみ。

姫路城、松本城、彦根城、松江城、犬山城。
犬山城はそんな貴重でありがたいお城なのです。

城の麓にある駐車場に車を停めて、9時開城まで近くを散策です。



まさかの土砂降りです!
それでも行かないわけにはいかないのです。



駐車場からも美しいロケーションを堪能することができます。

天気が悪くても、やはり城を目の前にしてしまうと、自然とテンションが上がってしまいます。



天守に向かう大手道。
櫓があった場所には、現在神社の社務所が建っています。



続いて黒門跡。
防御性を高めた食い違いというクランクになっています。

敵はここでスピードを落とさなければならず、そこを脇の櫓から攻撃されます。



黒門には薬医門があったそうです。

現在でも礎石だけが残ります。
ちなみに、この黒門は徳林寺というところに移築されているそうです。

明治の廃藩置県と廃条令によって、犬山城は残念ながら天守以外は解体されてしまいました。


黒門を抜けるとガッチリとした石垣が出てきます。

野面積みの隅石を見る限りでは、織豊系でまだ石垣技術の発展途上なのかなと感じました。

また、この石垣の前にも岩坂門があったとされています。



本丸を囲む石垣。
上には小銃櫓があります。

ついに本丸手前まで攻めてきた敵を倒すための、最終砦。
木が生えていてよく見えないのが残念。

個人的な注目は石垣です。
隅石が先ほどと明らかに異なることがわかります。

ちゃんと算木積になっているので、荷重が分散することから高く、急な勾配を形成することができます。



本丸を囲む石垣と小銃櫓。
石垣の出隅も素晴らしいのですが、入隅の石垣も素晴らしいと個人的に思っています。

違った曲線美を楽しむことができます。


本丸鉄門。
防御力を高める為に、当時は鉄板を貼ったことから鉄門と呼ばれていました。

本丸鉄門は復興城門の為、当時の形を再現したわけではありませんが、雰囲気は伝わります。

ちなみに、現在は管理事務所となっていて、100名城スタンプはこの櫓門の二階で押すことができます。



ワタクシは復興城門よりも、脇にあるこの石垣の方が気になってしまいます。

高さは無いものの、熊本城のように上部が垂直に立ち上がる石垣。

なんとも美しいシルエット。


現存天守では最も古い天守閣が見えてきます。

雨もなんとかやみした。



城内の入り口は石垣の中となり、まるで探検しているようで、大人でありながら無邪気にワクワクしてしまいます。



階段を上がると半地下のようになっていて、少し広めな踊り場です。


小さなスペースにも関わらず、とても魅了されるところが多い空間です。

石垣を貫通して複雑に梁が取り合っていて、じっくりと観察すると非常に興味深い造りをしています。



さらに上にあがると一階となります。



やはり現存の木造は素晴らしいと改めて実感!
天井高があり、下り壁などは現代建築の鉄骨造と同じ構造。



犬山城には上段の間があります。



羽出した屋根の垂木。
考えたらこの屋根となる天井部をこんな間近で見れるのは、なかなか無いかもしれないですね。



やはり木造は時が経つほど味が出て、より魅力的な建築物となります。



内部から見た破風。



最上階。
現存12天守の中で、廻縁と呼ばれるバルコニーがあるのは、ここ犬山城と高知城のみ!

手すりを高欄と呼びますが、建築基準法で手すりの高さが1100mm以上とされていますが、歴史ある建築物の為手すりり高さが低いので、高所恐怖症の方は怖いかもしれないですね。



犬山城は木曽川を背にして造られた堅牢な城です。



下から眺める天守も素晴らしいですが、高欄から眺める街並みも最高です。

はるか400年以上の時が経ち街並みは変わっても、ここから見る木曽川は今も昔も変わらない。

同じ景色を見ている。
そんなことを考えてしまいます。



最上階から見た本丸の広場。
左手の小銃櫓もここからならよく見ることができます。



下に降りると、驚くほど快晴になりました!
青空と天守閣はやはり映えます!

仕事で忙殺される日々が続いたワタクシへのご褒美と言わんばかりの晴天!
信じられません。



犬山城は複合式天守のジャンルに属していて、写真のように天守と付櫓が接続されています。

また天守には層塔型と望楼型があり、犬山城は望楼型天守になります。

織田信長の時代に広まった造りで、寺院のような建築物の上に別の建築物をくっつけたような造りを望楼型と呼びます。



令和の改修が終わり、漆喰を塗り直したことで、白と黒のコントラストがよりハッキリして美しく生まれ変わりました。

こうして日本の大事な文化は守られ、先に受け継がれています。

犬山城は織田信長の叔父にあたる、織田信康が築城したと言われています。

現在の天守が築城された年は議論され続けていましたが、柱の年輪などの調査から1590年と発表したことで、現存天守の中で最も古い城というのが確定しました。



場内でのんびりと見てまわった後は城下町に繰り出します。

また雲行きが怪しくなり、土砂降りになりました。
しかし、先ほどの晴天はやはり格別なご褒美でした。

城下町からも天守を見ることができます。



犬山城に来た際は城下町も是非行ってほしいスポット。

食べ歩きもできる素敵な城下町です。



メンチカツとキュウリの一本漬けがめちゃくちゃ美味しかった!


青葉神社@宮城県

2024-08-12 10:00:00 | 神社
2024年8月12日

宮城の伊達家ゆかりの地を巡る旅、再び。

関ヶ原の合戦後から幕末まで仙台を納めた伊達家。
その長さ故、ゆかりの地が多く存在します。

今回は御朱印を集める目的もあり、最初は青葉神社にやってきました。

最寄りは北仙台駅。
仙台城や仙台市内からも、やや離れています。



青葉神社は仙台藩祖、伊達政宗を祀る為に創建された神社な為、歴史も販売されている御守り、のぼりの旗まで、全てが伊達政宗オンリーの神社です。

当然、御祭神は伊達政宗。



お盆だからか人もいなく、静寂な境内に蝉の鳴き声が、どこかお盆らしくもあり懐かしくもなります。



手水舎には伊達家の家紋、三引両紋。
伊達家には幾つも家紋があります。

有名なのは竹に雀紋ですが、伊達家が古くから使っている家紋は、この三引両紋です。



龍と伊達政宗の像がお出迎えしてくれます。
伊達政宗は生前から龍を含んだ印などを用いていました。

諸説ありますが、政宗と龍には深い関わりがあります。



青葉神社は1874年に創建。
しかし、1876年に焼失。

1927年に現在の建築物が完成したそうです。



拝殿。
国指定の登録有形文化財です。



こちらは手水舎の隣にある、旧愛姫社鞘堂。
伊達政宗の正室、愛姫はこちらに祀られていたが、現在は本殿で政宗公と一緒になっているそうです。



小さな建築物ながら、細かな箇所まで神社建築物らしさが光る造り。

こちらも登録有形文化財。

今日はお盆だからか、誰もいなく拝殿も閉鎖されていました。

目的の御朱印をもらうことができず(T . T)

ちなみに、伊達政宗が亡くなった5月に毎年開催される仙台青葉まつりでは、青葉神社の神輿が登場。

その他、甲冑の武者行列や豪華絢爛な山鉾、伊達家の家紋にもなっている雀踊りなどで盛り上がる青葉まつりの方が、個人的には仙台七夕祭りより魅力的。

仙台市がお祭り一色の二日間になります。

是非、伊達政宗マニアなら行ってみて欲しい神社です。

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江戸城【二回目】@東京都

2024-07-27 09:00:00 | 100名城
2024年07月27日

休日の土曜日。
暑い日が続いているので、早朝に散歩も兼ねて江戸城にやってきました。

江戸城は日本で最大の巨大城郭でした。
東京の中心部ということもあり、現在残っている遺構はだいぶ縮小されましたが、それでも圧巻の城郭を至る所で感じることができます。

今日は竹橋方面へ内堀周りを散歩したいと思います。

7時頃に東京駅に到着。



東京駅前から江戸城に続く、片側4車線の永代通り。
現在は日本の中枢なので、見上げるほどの高層ビルが立ち並びます。


ここが江戸城のメインゲートとなる、大手門。
巨大な櫓門が見えます。
大手門から東皇居に入れますが、今日は早朝の為まだ開城していません。

この大手門の石垣は改修の際に伊達政宗が担当したといわれています。



江戸城の内堀。
皇居ランでも使われる内堀周りは約5.5Km。

九段下や、武道館方面まで歩いたらさらに長い距離を誇ります。

やはり日本最大の城郭はスケールが大きいです。



江戸城は高低差があり、大手町駅や東京駅方面にある大手門側は下にあるので、やや石垣も高さは控えめ。



竹橋方面にあるのは平川門。
こちらも伊達政宗を含めた大名によって造られました。



平川門は三の丸の正門となっており、大奥に通じる門だったことから、お局門とも呼ばれていたそうです。

時間が早いため、こちらもまだ開門していないので外観だけ。



竹橋付近では、他では見ることができないロケーションを拝むことができます。

水堀と立派な石垣。
そして、その上を通る首都高速道路。

貴重な遺構の上に堂々と高速を通すとは、独創的すぎます。

城好きな方なら目を疑う光景。



北の丸方面から見た、本丸方面の石垣。
こちらは高低差のある江戸城の上の方にあるため、石垣が大手門側よりはるかに高くなっています。



土塀も何も残ってはおりませんが、石垣だけでも十分見惚れてしまうほどの、素晴らしい石垣群を見ることができます。



清々しい朝とのコラボレーション。
大都会の中で見る、美しい三連の高石垣。



北桔橋門と石垣。
江戸城本丸と北の丸を繋ぐ門であり、天守直結の門のため、鉄壁の強固な作りになっているように思えます。



九段下から日本武道館に抜けるには、田安門を通過します。

今ある江戸城の中では最古の建築物であり、重要文化財です。



石垣は綺麗な切込接で、門自体は高麗門。
田安門は寛永13年1636年頃に建てられた門とされています。



田安門の橋から見た堀。

この一帯は内堀ではなく、ダムのような役割を果たした場所なので、石垣ではなく土塁と腰巻きと鉢巻の石垣なのでしょうか。


主郭を囲む堀と比べて防御力がやや劣る堀かなと思ったが、田安門を抜けると巨大な枡形と巨大な渡櫓門。

江戸城のメインゲートではないのに、この迫力。

抜かりの無い防御力。


枡形の石垣も切込接。
江戸城は10年以上の期間で築城されたので、石垣一つとっても場所によって技術が違います。



枡形の石垣で貴重な彫印を発見!



石垣を積んだ職人や担当した武将などが石垣に刻印をすることはよくあることですが、天下の江戸城でこんなに間近に見れるのは貴重。



もう一つ発見!
400年以上の時を超えて、現代に伝わる職人からのメッセージです。



巨大な渡櫓門の上部は破損のため大正期末期あたりに撤去されたものを、昭和に復旧。

今はなかなか復元するにも難しい時代となってしまったので、昭和に復元したのはありがたい話。



近くで見ると、上を見上げるほど高いのでより迫力が伝わります。



格式と迫力と守備における実用性。

天守を見るのも素晴らしいのですが、やはり個人的には城門も外すことができない。



裏からは横架材も見え、日本の木造建築の技術を堪能することができます。

これを眺めるだけでも、飽きることがありません。

いつか内部も見てみたい。



裏からのショット。
シンプルにかっこいい。

今では武道館に向かう人やランナーなど多くの方がこの門をくぐります。


今日は朝から二時間ほど歩き、九段下駅より帰宅。

江戸城の外堀外周は14kmの巨大城郭な為、一度で全てをコンプリートするのは難しいので、少しずつ魅力を感じていきたいと思います。

近いうちに、半蔵門から江戸城を周ってみたいと思います。






大垣城@岐阜県

2024-06-25 06:00:00 | その他城
2024年6月25日

仕事で視察のために岐阜県に初上陸。

岐阜県の有名な城といえば、岐阜城、郡上八幡城、岩村城、苗木城、墨俣城、美濃金山城など多くの名城が存在します。

時代を席巻した織田信長が拠点としていたので、まさに歴史舞台の中心にあったエリア。

そして、明智光秀の出身地でもあります。
 


新幹線、岐阜羽島駅に降り立ち大垣市に向かいます。
宿泊も大垣市だったので、次の日は当然大垣城に行くことにしました。

天下分け目の関ヶ原の際に、石田三成が拠点としたのが大垣城。
本来はこの地が関ヶ原の主戦場になると言われていました。

そんな歴史の転換期の中心となった大垣城ですから、当然ながら期待度も大きくなります。

早朝6時に大垣駅前から歩いて大垣城を目指します。



大垣城までは歩いて10分程ですが、その途中にはたくさんの水路が張り巡らされています。



大垣城の縄張りの名残りとなる、水路をひたすら歩いてみました。



当時の絵図を見ると、大垣城は多くの水堀と川を生かした城郭であったことが分かります。

三重の堀で区画した、総構えの近世城郭です。

そして、駅前から続く商店街や細路地を見ても、当時の縄張りをそのまま生かしたような感じがして、城下町らしさが残ります。



朝早かった為、車や人がいなく、のんびり当時を妄想しながら歩くことができました。

400年以上前に、この道を戦国武将も歩いていた事を想像すると、なんか震える。



江戸の街並みも素晴らしいですが、こんなレトロな昭和感漂うのも、個人的には好きです。
ノスタルジックな雰囲気を味わえる大垣市は素晴らしい。



駅前から続くメインストリートから細路地に入ると、大垣城が見えてきます。



大垣城のメインゲートとなるのは東門。

多聞櫓と艮隅櫓が出迎えます。

艮隅櫓は空襲で焼失してしまい復元。消失前は国宝に指定されていました。

多聞櫓は大垣城唯一の現存建築物。

元々は柳口門にあったものを、こちらに移築したとされています。



やはり城門の前に立つと心がワクワクしてしまいます。

天守閣も魅力的ですが、城門も大好きなワタクシ。

敵を迎え撃ったり、肩を並べる武将に対する牽制や威圧を与える城門は、城郭に欠かせない存在となります。



大垣城の天守。裏からのショット!
もちろん、天守も旧国宝です。

層塔型天守で天守の左側には南附多聞、右側には東附多聞が接続した複合型天守。



復元天守を支える石垣。
石材そのものを生かした野面積み。

素晴らしい!
大垣城の石垣は一部を除いて、再建時に修復、積み直されました。


石材が白っぽいのが分かります。

石垣のほとんどが、大垣城近くの赤坂金生山の石灰岩。
石垣の中には化石が多く含まれているようです。

その情報を知らなかった為、化石を見つけることができませんでした。



天気は曇りでしたが、最高のショット。
下段は乾隅櫓。上段には四重四階の天守。

大垣城の天守も一国一城令や廃条例を免れた貴重な天守で、国宝に指定されていましたが、残念ながら焼失。

しかし、鉄筋コンクリート造で当時の外観を完全に復元。
比翼千鳥破風がとてもおしゃれ。

時期的に木々が生い茂っており、天守の前にも木があったので、ここからしか綺麗に撮れませんでした。



城内には昭和初期の写真がありました。
写真で見るとなかなか迫力ある天守です。

悔しいのは終戦の17日前に、日本の宝が空襲で失われたこと。

この大垣城が現存していたら。と考えてしまいます。



こちらは本丸鉄門跡。



現在の大垣城には、本丸への入り口として4つの門と門跡がありますが、当時はこの鉄門前に橋が架けられていて唯一の入り口となっていたんですね。



かつては10の櫓があり、城下町を取り囲んだ総構えの巨大な城郭だった大垣城は、今ではだいぶコンパクトになりました。

草木が多くて、あまり良い写真が撮れないのが残念ですが、焼失したにも関わらずここまで復元したのは、すごくプラスなことかと思います。
模擬で作られた門などには少々疑問に思いますが・・

石川康通が大垣城に入場してから大垣藩ができ、松平氏が現在の近世城郭に改修。
以降、幕末まで戸田家がこの地を納めました。

今でも大垣城はこの地のシンボルとなっていることを実感。
幾つもの時代のヒストリーを持った大垣城は、日本にとっても貴重な城郭といえます。

次こそは岐阜城に行く計画をしたいと思います。


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