つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

高田城@新潟県

2023-12-30 16:00:00 | 続100名城
2023年12月30日

今年も残り2日となった12月30日は、今年最後の城巡りとなります。

城納めに選んだ城は新潟県上越市にある高田城です。

高田城は日本三大夜桜で有名ですが、城好きとしては、やはり続100名城に選定されているので要チェックな城です。

実はワタクシ、18歳〜20歳まで上越市に住んでおりましたが、恥ずかしながらその時は歴史にあまり興味がなかったので、高田城の前を通ったことさえありませんでした。

そんな勿体無い過去を払拭するために、城巡り納めとして2023年の年末にやってきました。

前置きが長くなりましたが、高田城はえちごトキめき鉄道の高田駅から歩いて10分少々の場所にあります。

高田城は現在、高田公園として整備。
復元された三重櫓が見どころ!

年末年始が博物館が休館、櫓も年末年始は閉鎖されていた為、12月30日と1月5日の二日間で観覧しました。

故に日が違う写真を合わせて掲載するので、雪の状況や天候が違う写真が混ざっていますが悪しからず。



慶長19年(1614年)に徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請で築城された近世城郭。

普請総裁は忠輝の舅である伊達政宗。縄張りから陣頭指揮をとりました。

天下普請とは諸大名に、幕府の命で城造りを命じることです。幕府の要請ということは国家プロジェクトのイメージ。

普請総裁とは現代でいう、現場監督(所長)みたいな立ち位置でしょうか。
国家プロジェクトの総裁なので後世に名も残ります。

大坂の陣でやらかした忠輝の後は、徳川四天王の榊原氏や松平氏など城主が変わりました。



今回歩いたルート。
地図を見ての通り、城郭の形がしっかり残っていて、外堀も一部残された貴重な城跡です。


早々に土堀と高田城の顔でもある三重櫓が見えてきます。

三重櫓の前には広大な内堀があり綺麗です。



二の丸と本丸を繋ぐ極楽橋は発掘調査の上、2002年に復元。



橋の先には巨大な枡形虎口になっており、本城御門という立派な城門がありました。



当時はこのように橋の両脇には多聞櫓があり、この門を通過すると枡形になっていました。
多聞櫓から土塁に沿って下がる土塀がカッコいい。



模型で見ると極楽橋を渡って先が枡形になっているのが分かります。

土堀でこの迫力。生きている間に一度でいいから実際に見てみたいものです。



こちらが当時枡形になっていた場所。奥が極楽橋。



極楽橋を渡って右手。こちらに本城御門がありました。

一部、土塁は残っています。



本城御門の模型。かなり立派な櫓門だったことが分かります。

この模型は三重櫓の内部で見ることができます。



本城御門の先には本丸があり、巨大な御殿がありました。

現在、本丸は学校に。
学校がある以上は御殿の復元の可能性が無いので少し残念な部分もあるが、城郭のど真ん中の本丸に学校があるなんて生徒が羨ましい気もします。

ちなみに、高田城の御殿は二条城や江戸城と同等の大きさだったらしい。
さすが天下普請で造られた江戸幕府の要衝となった城。



こちらは東不明門。
こちらにも枡形と堅固な土塁、城門がありました。



ゆっくりと内堀を一周します。
城郭内には本丸以外にも学校が多く、近づけない箇所もあります。



北堀からのショットは妙高の山々が綺麗で絶景。

当時の武士達もこの壮大な景色を眺めていたのだと思います。



この先に大手門跡があります。



高田駅から高田城に向かうと大手門跡に出ます。
残念ながら今は普通の車道になっている為、大手門の影も形もありません。



大手門の左手には松の木が生えていて、一部盛り上がっているのが分かります。

これは土塁の跡らしく、当時はおそらくこの高さで土塁が大手門と繋がっていたのだと思います。



右手には野球場が見えます。
当時の地図を見ると、大手門の脇に島のような独立した瓢箪曲輪というのがありました。

その曲輪を生かして野球場が作られました。その発想がすごい。 

Googleマップで見ると一目瞭然です。



この時代は石垣の城が主流で技術も発展していましたが、高田城には石垣が全く使用されていません。

しかし、石垣に負けない立派な土塁と水堀は魅力的です。



高田城には天守がありませんでしたので、三重櫓が実質的な天守の役割だったと思われます。

雪国らしく下見板張りで黒をベースとした櫓は、三層三階ながらかなり重厚感があり、見たものを圧倒して満足感を与えてくれます。



石垣や天守が存在しないのは、大坂冬の陣の直前だったので、築城を急いだことが有力とされています。

60ha、東京ドーム12.8個分を超える城郭を僅か4ヶ月間で完成させました。



近くで見るとかなりカッコいいです。
張り出した切妻破風や入母屋破風が威厳と華麗さを出しています。



三重櫓は明治期に焼失しましたが1993年に復元。
その他、城郭全体を現在まで保存できたのは、行政や地域の方々の力があってこそ。

三重櫓内は資料館となっていて、高田城について詳しく知ることができます。



三重櫓から見た水堀。

かなり幅が広く、最大58mなので水に浮いた城のようです。



三重櫓から見た極楽橋と土塁。
上から見ても土塁の美しさが際立ちます。

ちなみに、チラッと見える瓦は本瓦葺きと言われる伝統工法で、平瓦と丸瓦を使うので瓦の枚数が多く屋根自体が重たくなります。

よく一般住宅で見られる瓦は桟瓦が使われ、軽量化され施工も簡素化されました。



復元された三重櫓はS造(鉄骨構造)ですが、内部に木を使って雰囲気だけは出しています。

明治の廃城令後は天守や櫓や城門などの建築物は取り壊し、堀も埋めて一般の土地として活用したために、原型を留めない城跡は全国にたくさんあります。

しかし、高田城は今でも近世城郭の形を保っているのが素晴らしいポイントです。

また、高田駅周辺には寺が多いからか、街並みはおそらく江戸時代の土地割のまま生かされているので、整備したらすごい城下町になりそうです。

先に書きましたが、高田城は天下普請によって築かれましたが、その他にも全国では10城前後あります。
名古屋城(愛知県)
二条城(京都府)
彦根城(滋賀県)
江戸城(東京都)
大阪城(大阪府)
など、名だたる城が天下普請によって築かれました。

それだけ幕府にとって重要な位置付けであったことが分かります。

理由としては加賀の前田、出羽に移封となった上杉に対抗する為と言われています。

また佐渡の金山の支配を強化する為とも考えられています。

長くなるので割愛しますが、幕末の高田藩の結末なども非常に興味深い話です。

また登城した際に書きたいと思います。

上越地方は上杉謙信が居城としていた街なので城跡も多く残ります。

今後、少しずつ越後の山城を攻めていきたいと思います。

素晴らしい2023年でした。



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



大多喜城@千葉県

2023-11-23 13:00:00 | 続100名城
2023年11月23日

千葉県城巡りの旅、ラスト4城目は大多喜城。
ここまで、全てが計画通りの一泊2日の旅。

千葉県には82城もの城跡があると言われています。
尋常ではない数です。
その中で100名城に選出されているのは、下総国の佐倉城のみ。

続100名城に選出されているのは、同じく下総国の本佐倉城、そして上総国の大多喜城になります。

今回の旅の目玉はやはり最後の大多喜城です。

久留里城から大多喜城まで車で移動。
紅葉シーズンなので、道中至る所で観光の方が多くいました。

大多喜城は里見氏が惣無事令の違反を名目に上総を没収された後、徳川家康がこの一帯を支配。

そして、徳川四天王の本多忠勝が初代大多喜藩として城主となり、大多喜城は近世城郭に生まれ変わりました。

その後、本多家→阿部家→青山家→稲垣家→松平家と城主は変わるものの、明治維新まで生き残りました。


大多喜城入り口には無料駐車場も完備。



そして、まず先に現れるのは県内最古の水道水路跡があります。
最後の城主、松平正質の第に考えられたそうです。

岩を切り裂いたような穴で、覗くと遠くに出口の穴が見えます。
全長5.8km、その内4kmがトンネル内を通っています。


 
次に見えてくるのは空堀。上には二の丸があります。

地形を削り生かしたような圧巻の空堀です。近世城郭ながら、山城のような防御機能が良いですね。



アスファルトで整備された道を進むと、本丸に辿り着きます。

本丸は標高70m。



こちらも削り落としたような地形です。
本丸跡には土塁も残っています。



資料館もあり、甲冑なども観覧できます。
真ん中は本多忠勝の甲冑ですが、甲冑を支える台は真田六文銭。



千葉県にある城跡の地図。この数には圧倒されます。
里見家、北条家、上杉家、千葉家、徳川家など有名な家柄が、この地を治めたり激戦を繰り広げたので、興味深い県です。



本丸跡には現在、復興天守がありますが2022年からは入ることができません。

本多忠勝時代に三層三階の天守があげられたそうですが、その後焼失。

1835年の図面と映し絵を参考に1975年に鉄筋コンクリート構造で復元。

ちなみに、この天守が復元天守か復興天守か模擬天守かは今でも議論となっています。

しかし、今では大多喜町のシンボルとなっていることは間違いありません。



先ほど通り過ぎた二の丸跡に向かいます。
切通しの階段を登れば二の丸跡です。



姫路城のような土塀で取り囲む城も大好きですが、この山城感も個人的には好きです。





広めな敷地の二の丸跡。





二の丸跡の脇には腰曲輪のような細長い曲輪が残ります。



一度降城して、大多喜町の駅の方に向かいます。
電車の脇には門を模した建築物があります。
街をあげての雰囲気作りは本当に素晴らしい。
いすみ鉄道のレトロな電車とのコラボは格別。



大多喜城のもう一つの見どころは、城の麓にある大多喜高校の中にあります。



大多喜城の唯一の現存とされる薬医門が大多喜高校内に移築保存されているのです。

一般の方も普通に学校に入って観覧することができます。

ワタクシは祝日に行ったので、部活をしている学生しかいませんでしたが、平日なら多くの学生がいる中で観覧することになります。



これ、大事!
学生さんのための敷地であることを忘れてはいけません。



城の門には種類があります。
大多喜城は薬医門。



薬医門の特徴は横から見た時に分かります。
妻側(側部)が切妻屋根を乗せたような作りになっています。



鎌倉時代から室町時代の武家屋敷でよく使われていたようです。

この薬医門は大多喜城の二の丸御殿の門を移築したようです。



さらに大多喜高校の薬医門を先に進むと、井戸があります。

こちらは本多忠勝が築城の際に掘らせた井戸とされています。

底知らずの井戸と呼ばれ、周囲17m深さ20mで当時は日本一の大井戸だったそうです。



高校の校舎と天守のコラボもなかなか良い景色です。



大多喜町は房総の小江戸と呼ばれていて、昔ながらの建物や街並みが残っています。



城下町の雰囲気があって素晴らしい。
やはり大多喜町としては全面的に本多忠勝を推してるようです。

有名な武将でしたからね。

御城印や武将印は大多喜駅前の大多喜城観光本陣にて販売中。



最後は大多喜の中心部をぶらりと散歩し、食事をして2日間の素晴らしい旅は終わりました。

千葉県はとにかく広いので、電車での移動はやや困難かもしれませんが、車でなら近い距離に幾つも城跡が存在するので、計画的に行けば周りやすいです。

行政が動かないと、城は世間一般的には忘れ去られた存在となってしまいます。

しかし、どの城跡にも分かりやすい遺構の看板があったり、模擬であっても何かしらの復元がなされていたり、各エリアでしっかりと観光の起爆剤として行政が力を入れている印象でした。

今回の城巡りでは山城の魅力に気付くことができました。

城×食事

地元にも観光の方にも人気の、とんかつ亭有家さんでランチ。
創業1981年の老舗

人気メニュー、わらじとんかつ定食に海老フライを単品オーダー。
衝撃的な大きさのとんかつ!しかし、三種類のソースがあるので味変しながらペロリと完食。



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



浜松城@静岡県

2023-09-10 13:10:00 | 続100名城
2023年9月10日

静岡城巡り最後は浜松城にやってきました。

徳川家康が29歳から45歳まで17年間在城した城です。

徳川家康以降も、家康と繋がった譜代大名が在城して江戸時代に要職に出世したことから、出世城とも呼ばれています。

凄く縁起のいい城です!

場所は浜松駅から徒歩で20分ほど。
一体は浜松城公園として地元の方にも親しまれています。



今回は市役所側から入城しました。
天守閣と石垣が見えてきます。

見晴らしが良く遠くからでも天守閣が見えるので、まさに街のシンボルというイメージです。


遠くからでもハッキリとわかる石垣が素晴らしいです。



天守門が近づきます。
緩やかな丘のような場所なのに、天守閣に近づくと割と急な勾配になっている気がします。

下から見上げるようで、石垣が絶壁のように感じます。



立派な天守門。
天守門は明治6年に解体されましたが、平成26年に復元されました。



角の算木積みもハッキリ見て取れます。荒々しい石垣と木造。



立派な天守台です。
不揃いな大きさの石垣が積み重なる野面積み。
不安定そうに見えるのですが、400年経過した現代でもしっかりと形を保っているのが凄いですね。



天守閣は1959年に再建された復興天守となりますが、実際は天守台の大きさからすると現在の1.5倍の天守閣だったと考えられています。



確かによく見ると天守台の大きさと、天守閣の大きさが合っていないですね。



昨年改修が終わったばかりのようで、装飾も凄く綺麗です。
黒×白×金の天守閣と青空のコントラストが映えます。



内部は展示品や売店などがあります。







三重三階の最上階の天井は、金色で豪華です。



最上階では外に出ることができ、浜松市を一望できます。
何となく浜松市の街並みに溶け込んでいる感じがして、まさにシンボルといった印象でした。



全体的に石垣の遺構は素晴らしいです。



ちょうど大河ドラマ「どうする家康」が放送されているので、大河ドラマ館が麓で行われていました。




市役所脇の下の広場から見るショットだと天守門も映って良い感じです。

大河ドラマの舞台になっていることもありますが、浜松市はしっかりと浜松城と徳川家康をPRしていて好印象です。

以前からそう思っていました。

やはり街の歴史は自治体の力の入れようによって、見る人々の印象を大きく変えます。

歴史好き、城好きとしては凄く魅力的な市でした。


城×食事
うな炭亭

創業70年近い老舗の鰻屋。

やはり浜松といえば鰻!
ほんのりパリッと香ばしく、中はふっくら。タレは創業以来の継ぎ足しで絶品!


白石城@宮城県

2023-08-14 13:00:00 | 続100名城
2023年8月14日

30年ぶりくらいに来た白石城。
大坂夏の陣の後、江戸幕府は一国一城令を布令します。

仙台藩の居城は仙台城(青葉城)で、明治維新までの270年間もの間、伊達家の居城であり続けました。

しかし、白石城は残り続けました。
伊達政宗の右腕でも片倉景綱が居城として、代々受け継がれていました。

幕末の廃城令で解体され建物全てを破却されたそうですが、1995年に木造で復元されています。

当時は幕府に配慮して天守閣ではなく大櫓と呼ばれていたそうです。

白石市は宮城県の下に位置して福島に非常に近い位置にあります。

白石城は伊達家のものになったり、上杉に取られたりを繰り返し、最終的には関ヶ原で上杉から伊達政宗が奪還して江戸時代も仙台藩の領地として残りました。



登っていくと立派な石垣が見えてきます。


石垣の上に立派な三重櫓。
戦後の木造復元が行われた天守閣では高さ広さともに日本最大級らしいです。



本丸に入る第一の門。大手一ノ門。
下から登ってくると、ぐるっと180度曲がって一ノ門をくぐるようになっています。



門の下には狭間も大量に設けられていて、防御に優れた作りになっています。


ちなみに、白石城は伊達家が統治していましたが、豊臣秀吉によって白石城は蒲生氏のものとなります。

その後、上杉領となりますが関ヶ原を契機に再び伊達領となります。

エリアとして如何に重要な拠点だったかが伺えます。


大手一ノ門の先には大手ニノ門が待ち構えます。
枡形門でさらに極端に入り口が狭くなっているので、敵が攻めてきた際はこの空間で立ち往生するものが増えて、かなりの戦果が期待できると思われます。



大手ニノ門も忠実に木造復元されています。


大手ニノ門を潜ると、本丸跡に出ます。そして奥には天守閣。



天守閣下には井戸なども残されています。



天守閣の中。
かなり立派な作りになっています。

忠実に再現しているらしく、かなり技術評価も高いそうです。

これだけ大きな建物ですが、東日本大震災の時は石垣も含めて無傷だったらしい。



中には片倉景綱、伊達政宗などの甲冑が飾られています。

赤い甲冑には六文銭!

白石城と片倉景綱と真田家は実は深い繋がりがあります。

後ほど!



天守三階には外で景色を眺めることができます。
出入り口は華頭があしらわれています。


先ほど通ってきた大手一ノ門と大手ニノ門を上から眺めます。

上から見るとすごく変わった形をしているのが分かります。

一ノ門からニノ門までにギュッと狭まり、ニノ門の目の前で枡形になっています。





木造の巨大な建物を見ると、日本の建築技術は凄いと思い知らされます。

木の打ち継ぎ方や切り欠きなど、間近に見ることができます。


大手ニノ門と天守閣。
城らしくて良いショットです。

仙台城には天守閣が元々なく、その他の建築物も全く復元もされていないので、この白石城は宮城としては貴重なお城といえます。



破風も見事で、張り出しの下は石落としになっています。
野面積みの石垣も素晴らしい。



天守閣下にある資料館にも真田幸村の甲冑が飾られています。
グッズも伊達政宗、片倉景綱、真田幸村と揃えられています。

ワタクシの好きな武将、伊達政宗と真田幸村の甲冑が並んでいるのはテンション上がってしまいます。

大坂の陣で大活躍した真田幸村。大阪夏の陣で伊達軍と激突しました。

そして、真田幸村が亡くなる前日に敵の東軍である伊達軍に子供や妻達を託しました。

その後、真田幸村の子供たち5人を匿う形で江戸を抜けて、仙台に帰ってきたといいます。

そして、この白石城の二の丸で匿いながら養育したとされています。

真田家は信州上田ですが、仙台でも繁栄したのはこの白石城があったです。


そして、幕末に幕府軍と新政府軍が激突した明治維新。
仙台藩を含めた越後、東北勢は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗。

その軍議はこの白石城で行われました。


小さな城ですが、歴史上では奥の深い話が、たくさん詰まった白石城です。