さ2024年10月19日
レトロなアーケードを歩き、丸亀城を目指します。
歩いて10分〜15分ほどで丸亀城の水堀に到着です。
二の門を抜けると枡形になっていて、大手一の門が出現!
上から見た枡形虎口。これぞ城門!
二の門は高麗門で、一の門は櫓門。
大手門を抜けるとお土産屋があり、その脇の見返り坂を登り進めると天守へ繋がります。
先進的な切込接で隅は算木積み。
見返り坂を登りきると、二の丸大手口跡が見えてきます。
天守入り口が可愛らしいのは、元々は天守と渡櫓が接続していた為。
しかし、この天守は小ぶりなのに相当な実装を備えた軍事施設なのです。
天守内部に潜入ー!
天守は1950年に解体修理が行われ、当時のままの姿を維持しています。
一階は天井が高く、階段も急です。
いくつも複雑に重なり取り合っている横架材。
こちらも珍しい防御アイテム、太鼓壁。
最上階。
昭和の解体修理をした際に、南東隅の壁の中から、祈祷札が出てきて万治三年の年号が墨書きされていました。
最上部の天井は面白いですね。
二の丸を取り囲む南東側の石垣。
複雑に形成する三の丸を囲む石垣群。
これはさらに凄い!
土の中で隠れていた石垣によって、修復石材個数は1万1746個。
皆さん天守や石垣に目がいきがちですが、忘れてはいけないのが、再び戻ってきました大手一の門。
一の門の中から太鼓で時間を知らせていたので、奥には太鼓がおいてあります。
現在は正午に太鼓で時を知らせているようです。
しかし、丸亀城のメインゲートの大手門ですから、当然防御機能も備わっています。
大手一の門は1670年に京極氏によって建造。
大手一の門内部を見たら、来た時と同じ大手口の枡形から帰ります。
名残惜しいですが、大手口から丸亀城を後にします。
日本一の石垣の名城なので、見どころが多い丸亀城でしたが、やはり心に突き刺さったのは崩落した石垣。
同じ城なのに全く性質が異なるので、城めぐりはやめられない。
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昨日の高松城に続いて、今日は丸亀城に向かいました。
まさかの曇りで、雨予報。
当初の予定は午前は高松城で午後は丸亀城の予定でしたが、晴天の昨日の内に高松城に行ったのは正解!
高松駅からJR伊讃線で約20分ほどで丸亀駅に到着。
レトロなアーケードを歩き、丸亀城を目指します。
城が目的であっても、知らない街並みを歩くのも旅の楽しさの一つ。
歩いて10分〜15分ほどで丸亀城の水堀に到着です。
丸亀城周辺は大型バスも入れる大きな駐車場もあり、観光客を受け入れる体制がしっかりしているように思えました。
1587年に17万石でこの一帯を納めた生駒正親。
1597年に丸亀城に着手。1602年には完成したものの、本城は昨日行った高松城でしたので、1615年の一国一城令によって廃城とされてしまいました。
しかし、生駒氏がお家騒動によって所領没収により、丸亀藩が立藩し山崎氏が入封し丸亀城再建に着手。
その後、京極氏が入封して明治期を迎えます。
京極氏の時代に32年間の改修の末、現在の丸亀城に生まれ変わりました。
城下から城を見上げた瞬間、丸亀城の石垣に衝撃を受けます。
山一つを削り出して造られた城です。
まるで天空の城ラピュタのような、いくつも段になった石垣。
雨が強くなり、どんよりとした天気でも、この石垣を見ればテンションが上がってしまいます。
写真では何度も見ていましたが、実際に見ると圧倒されます!
まずは大手二の門から入城します。
大手二の門脇には、鉄砲を打てる狭間があります。
水堀に架けられた橋は極度に細く、大軍が攻めても横並びで進行するのは不可能。
つまり1000人で攻めてこようが、10000人で攻めてこようが、この橋を渡れる人数は決まっています。
この橋を渡る敵は狭間から完全にロックオンされます。
遥か奥の天守は今でこそ美しいですが、攻める側であれば、総石垣も含めて威圧が凄いですよね。
横から見ると分かるのですが、橋が途中で途切れています。
おそらく、有事の際はこの橋ごと落とすことで、より攻めにくくする狙いがあるのではと個人的には感じます。
水堀の石垣は綺麗な切込接で目地を揃えた布積み。
しかし、土塀下の石材だけは一回り大きな石材を使用しています。
二の門を抜けると枡形になっていて、大手一の門が出現!
枡形には鏡石と呼ばれる巨石が使われて、メインゲートとなる大手門にふさわしい格式高い門となっています。
上から見た枡形虎口。これぞ城門!
袋小路にすることで、敵に一斉攻撃を仕掛ける仕組みになっています。
二の門は高麗門で、一の門は櫓門。
櫓門で藩士が太鼓を打ち、時を知らせていたので太鼓門とも呼ばれていました。
大手門を抜けるとお土産屋があり、その脇の見返り坂を登り進めると天守へ繋がります。
坂は150mあります。
見返り坂の途中には、丸亀城の名所となる扇の勾配と呼ばれる石垣が現れます。
見返り坂の途中には、丸亀城の名所となる扇の勾配と呼ばれる石垣が現れます。
高さ20mクラスの石垣が丸亀城を取り囲みます。
先進的な切込接で隅は算木積み。
扇の勾配と呼ばれる通り、下は緩やかな勾配ですが上にいけばそり返って、ほぼ垂直になっています。
熊本城も同じ扇の勾配で有名です。
この巨大な高石垣を築いたのは、当然最高技術を有した石工集団の穴太衆。
熊本城の石垣も穴太衆が積んでいます。
元は自然石をその形を生かして利用した野面積みから始まった石垣は、綺麗に加工され、最終的には隙間がないように敷き詰められ、横目地が綺麗に揃った切込接と呼ばれる技術に辿りつきました。
昨日の高知城では野面積みの最高峰技術を見ましたが、丸亀城では日本の城郭建築における石垣技術の最高到達地点を目にしました。
見返り坂を登りきると、二の丸大手口跡が見えてきます。
写真では分かりづらいのですが、勾配がきついです。
二の丸には多くの櫓や渡櫓が建築されていて、本丸を防御していました。
本丸を支える石垣。
二の丸には多くの櫓や渡櫓が建築されていて、本丸を防御していました。
本丸を支える石垣。
奥の張り出した場所には二重の塩櫓がありました。
天守に続く本丸の入り口、本丸虎口跡。
天守に続く本丸の入り口、本丸虎口跡。
丸亀城はどこまで行っても勾配と石垣!
天守に到着。
三重三階の層塔型天守。
丸亀城は現存12天守の一つで、1660年に完成。
四国には現存天守が4城ありますが、四国の中で最も古い天守です。
国指定重要文化財の貴重な建築物。
長手面には黒の下見板張りが施されています。
天守入り口が可愛らしいのは、元々は天守と渡櫓が接続していた為。
天守の高さは15mで現存12天守の中では最も小さなサイズ。
総高60mを誇る石垣の要塞にしては、可愛らしい天守ですね。
しかし、この天守は小ぶりなのに相当な実装を備えた軍事施設なのです。
後ほど紹介!
非常にシンプルな天守で、後から付けたかのような唐破風が特徴的。
控えめながら千鳥破風もあり、一通りの装飾があります。
下から見上げる石垣も素晴らしいのですが、上から見る石垣もまた良き。
丸亀城には天守以外には麓にある城門しか建築物が残っていないのですが、至る所に櫓の跡が残ります。
丸亀城には12基の櫓が上がっていたので、当時の姿は壮麗だったことでしょう。
天守内部に潜入ー!
天守は1950年に解体修理が行われ、当時のままの姿を維持しています。
やはり木造建築は素晴らしいです。
小さめな天守ですが、一階は50本の柱で支えています。
一階は天井が高く、階段も急です。
いくつも複雑に重なり取り合っている横架材。
現存12天守だからこそ楽しめる昔ながらの技術。
海側に向けられた狭間。
海側に向けられた狭間。
鉄砲狭間はよくありますが、鉄砲狭間より大きなサイズの大砲狭間は、漆喰を塗られて穴が塞がれています。
これは非常時に壁を破って大砲を使用できるようにしたもの。
この天守から放たれる大砲の威力は、きっと強力であったと思われます。
丸亀城は一度も戦うことが無かった城です。
こちらも珍しい防御アイテム、太鼓壁。
写真をよく見て頂くと、長押から下の壁が分厚く内側に張り出しているのが分かります。
漆喰が厚く塗られ、鉄砲の弾丸が貫通しないように防御力を高めた壁になっています。
最上階。
昭和の解体修理をした際に、南東隅の壁の中から、祈祷札が出てきて万治三年の年号が墨書きされていました。
築城した日付なのか、解体修理した日付なのか、可能性は幾つか考えられますが、この時には天守が存在していたことが証明されました。
数百年の時を超えて、先人から我々に送られたメッセージ。
最上部の天井は面白いですね。
日本に12城にしか残されていない貴重な現存天守。これからも素晴らしい天守を、そして受け継がれた技術を守り続ける使命があります。
天守を見た後は、本丸→二の丸→三の丸へと戻り、南東隅にある月見櫓跡へ。
何故か天守を出た30分程だけ雨が止みました。
曇ってはいますが、それでも景色が素晴らしい。奥に見える大きな山は飯野山。
当時もこの月見櫓で絶景を楽しんでいたことでしょう。
二の丸を取り囲む南東側の石垣。
圧巻の打込接の高石垣です。
帰りは登ってきた見返り坂とは逆側となる搦手口側から降ります。
こちら側からの石垣も凄い!
帰りは登ってきた見返り坂とは逆側となる搦手口側から降ります。
こちら側からの石垣も凄い!
張り出した石垣が多い為、隅部が多く石垣の技術の高さを、より一層感じることができます。
三の丸下の石垣。
二の丸下の石垣も高くて魅力的でしたが、三の丸下も同じくらい高い。
最上部に向かうに連れて勾配がキツくなり、最上部はほぼ垂直!
右奥には先程立っていた月見櫓跡の石垣。
下から見上げると、石垣の反り具合が分かります。
時代や城、築城者、地域によって石垣は全く異なります。
そんなところに石垣の魅力があります。
複雑に形成する三の丸を囲む石垣群。
上には三の丸の石垣。
下段は三の丸下にある帯曲輪の石垣。
これはさらに凄い!
一番上段は三の丸の石垣。
中段は三の丸下の帯曲輪の石垣。
下段は時代の異なる野面積みの石垣。
丸亀城には各曲輪ごと石垣で形成していて、いくつもの段々になっています。
三の丸石垣上には二の丸を囲む石垣と、さらに上には本丸を囲む石垣が存在します。
これが石垣の総高60mという、日本一の高さを誇る要塞、丸亀城です。
そんな全国のお城ファンからも愛されている丸亀城ですが、悲劇が襲います。
平成30年7月7日、七夕。
断続的に続いた西日本豪雨により、
南側の帯曲輪の石垣が一部崩落。
同年、10月8日
帯曲輪の南西隅部も崩落。
翌日、10月9日
三の丸坤櫓を含む南西隅部の大部分の石垣が崩落。
日本屈指の石垣の名城、丸亀城は大ダメージを受けてしまいました。
三の丸と帯曲輪の石垣は以前から危険とされていて、修復工事に着手する直前だったそうです。
6年経過した今も、鹿島建設が必死に復旧をしています。
本来は2024年度末に完工予定が、2028年完工に変更されました。
それは単純に復旧すべき石垣の数が増えたからです。
では、なぜ当初の見立てより増えてしまったのか
実は帯曲輪で隠れていましたが、三の丸の石垣は帯曲輪の土の中深くまで積まれていていたことが、崩落によって判明。
写真の通り、上段の石垣がグッと下まで伸びているのが分かります。
その高さは驚愕の31m!!
この発見により、単体の石垣としては徳川大阪城に次ぐ全国2位の高さとなりました。
土の中で隠れていた石垣によって、修復石材個数は1万1746個。
石材一つ一つに番号が振られ、城の前の広大な敷地に並べられています。
発見は石垣の高さだけではありません。
崩落した石垣の中に、丸形などに加工された石材が多く発見され、重ねると五輪塔が幾つも発見されました。
供養塔やお墓の一種とされる五輪塔が、なぜ石垣の中から出てきたのか、今だに謎のままだそうです。
発見は素晴らしいことですが、痛々しい姿に20分ほど立ち止まって現状の姿を眺めていました。
石垣は崩落したら何年もの歳月を費やします。
可能な限り元の姿に戻すには、おそらく新たに石垣を積むよりも難しく、さらに莫大な費用が重なります。
それでも元の姿に戻すことを決断したのは、現代の我々に先人から託された丸亀城を守るため。
そして未来に繋ぐため。
そんな誇り高き復旧を陰ながらワタクシも応援しています。
再び雨が強くなりましたが、再び大手口に戻る途中には、玄関先御門があります。
旧藩主居館の表門とされていて、江戸時代初期に建築。
形状は薬医門。左上には天守も見えます。
皆さん天守や石垣に目がいきがちですが、忘れてはいけないのが、再び戻ってきました大手一の門。
入口が通り過ぎてしまうほど影が薄いのですが、お土産屋を出てふと見たら中に入れることを知りました。
丸亀城に来たら観覧必至です。
一の門の中から太鼓で時間を知らせていたので、奥には太鼓がおいてあります。
現在は正午に太鼓で時を知らせているようです。
しかし、丸亀城のメインゲートの大手門ですから、当然防御機能も備わっています。
櫓門の防備アイテム石落とし。
丸亀城の枡形は18m×20mで大きめ。
丸亀城の枡形は18m×20mで大きめ。
大手二の門から侵入した敵はこの枡形で立ち往生。
そこを一の門から狙い撃ちます。
ここからだと、全てが手に取るように分かります。
しかし、鉄砲狭間などはなく窓も大きめなのでガチガチの戦国期の防御機能に比べると、やや劣る。もしくは他の意図があったのでしょうか。
大手一の門は1670年に京極氏によって建造。
関ヶ原の合戦からは70年が経過しています。
櫓内部の木材はやや細め。
しかし大手門の現存は珍しく、天守と大手門が現存しているのは、弘前城と高知城そして丸亀城のみ。
丸亀城の大手一の門も国指定重要文化財になっています。
大手一の門内部を見たら、来た時と同じ大手口の枡形から帰ります。
名残惜しいですが、大手口から丸亀城を後にします。
日本一の石垣の名城なので、見どころが多い丸亀城でしたが、やはり心に突き刺さったのは崩落した石垣。
崩落する前の、10月8日、9日共に住民から石垣から音がすると市役所に問い合わせがあったそうです。
物理的に音が鳴ったことは間違い無いのですが、石垣にも魂が宿っているのではないかと考えてしまうのです。
実際に石材一つ一つに職人の手が加えられ、思いが詰まっています。
そんな思いを今、一つ一つ繋ぎ合わせています。
1日も早い復旧を願っています。
3日間で岡山城→高知城→高松城→丸亀城と日本100名城の4城を周りました。
全ての城で素晴らしい石垣や建築物を見ることができました。
同じ城なのに全く性質が異なるので、城めぐりはやめられない。
四国にはまだまだ多くの名城があります。
また、改めて四国での城めぐりを敢行したいと思います。
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