つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

岡山城@岡山県

2024-10-17 17:00:00 | 100名城
2024年10月17日

岡山県に初上陸!
高知県で設計打ち合わせがあった為、岡山駅で乗り換え四国入り。

当然、岡山で乗り換えるならと岡山城へやってきました。

岡山城は日本100名城で宇喜多秀家、小早川秀秋、池田氏などによって戦国期から江戸時代末期まで活躍した城。

結論から言うと、想像を超えて素晴らしい城で3時間ほど見て周りました。

岡山駅から歩いて15分〜20分ほどですが、岡山到着が15時だったので、タクシーでひとまず岡山城に向かうことにしました。

運転手さんの計らいによって、大手門の前まで連れて頂きました。

降車の際に、楽しんで!と運転手さんに言われ暖かい気持ちになりました。



橋を渡るとすぐに本丸となります。

つまり、この水堀は主郭を囲んでいて、当時は内堀とさらにその外周を囲む外堀で形成された大きな城郭でした。

岡山城は旭川に面している為、城の後方部は旭川によって守られ、前方は幅の広い水堀で防御しています。

水堀の石垣は高くありませんが、石材ひとつひとつが大きく威圧感は十分です。


入ってすぐに枡形虎口の跡があります。
櫓門と櫓が上がっていたそうです。



こちらは、枡形虎口の正面にあたる石垣。
かなり巨大な石材が使われていることがわかります。

縦に長い隅の石は、他の城では見ることのできない独特な積み方。



模型で見るとこのような重厚感のある櫓と櫓門がカッコいいですね。


岡山城といえばやはり特徴的な天守が有名なので、ネットを見てもやはり天守の写真が多いですね。

しかし、まず思ったのは岡山城は石垣がすごい!

時代を感じる幾つかの積み方を見ることができます!



内堀の低めな石垣とは一変して、高い石垣群が現れます。
より本段に近い、中の段を囲む石垣。
重要な場所だけに堅牢な造りになっています。



信長の安土城から始まった総石垣の城ですが、野面積みの技術がかなり進んでいるのがよく分かります。



武骨ながら出隅は算木積みになっていて、出隅が急勾配になっています。

これこそ、荷重分散の石垣技術進化の象徴。

長い石材を角部で交互に積むことで、石垣の荷重が一点に集中せず分散することで、高く急勾配の石垣を積むことができるようになりました。



復元された不明門。
この門は主郭の本段に直結した門で、普段は閉ざされた門だったことから不明門と呼ばれました。



櫓門で明治の廃条例で取り壊されましたが、昭和41年にRC造で復元。

門の土台の石材は鏡石と呼ばれる巨石を使用。

鏡石は敵への威嚇や権力の象徴として、重要な門に使われます。

徳川大阪城が典型的ですね。



不明門を抜けると岡山城天守が見えてきます。
天守の前は現在広場になっていますが、当時は城主が住んだり政治を行う御殿がありました。



横幅のある、ずんぐりとした造りが特徴的の岡山城。
脇には付櫓もある複合式の望楼型、四層六階。

望楼型天守は豊臣期の象徴した天守といえます。


外壁は下見板で真っ黒。
この外観から岡山城は烏城と呼ばれています。



天守内は現在、展示や歴史を学べる博物館になっています。

金箔瓦なとが展示されています。



天守を出て、付櫓の脇の道から天守の裏側にまわります。



極度に狭く、まるで迷路のように折れ曲がります。



振り返っての一枚。
奥には天守台の石垣見えます。



右は天守を含めた本丸石垣。
左手には廊下門。
個人的にこのアングルの写真はお気に入り。

何百、何千という敵が攻めてきた際に180°旋回すればスピードが落ちます。

そこを、石垣上の狭間から攻撃。

道が急に狭くなるのもポイント。
大勢の軍勢がせめてきても、この場所では横並びで進むことはできません。

攻めにくく守り易い。
城は戦国の軍事施設。岡山城は至る所でその片鱗を見ることができる素晴らしい城です。



廊下門は1620年の池田忠雄によって造られましたが、明治に取り壊されました。

現在の門は1966年にRC造で復元されました。



廊下門の左手に、年季の入った建築物が現れます。

こちらは現存の月見櫓。
廊下門と同じ時期に作られたとされていて、外観は二層ですが内部は三階の造りになっています。


月見櫓の脇には穴倉があります。
上から銃で攻撃する際の穴で、石垣が加工されています。

同じ穴倉田は大阪城や江戸城でも見ることができます。



月見櫓アンダーショット。
月見櫓はその名の通り、お月見をするための櫓。

軍事施設の役割だった城は、江戸時代に戦のない平和な世が訪れたことで、役割も変化しました。

月見櫓は平和な象徴とされています。
岡山城にとって貴重な現存建築物といえます。



月見櫓脇の石垣。
月見櫓が建築されたのは1620年。
つまりこの石垣も岡山城が拡張されてから、日が経過した石垣といえます。

この一帯の石垣は、石材の形をそのまま生かした野面積みではなく、石材を加工して積んだ打込接。

特に隅にある石垣は綺麗に加工され、長手と短手を交互に積む算木積みのお手本となるような技術が詰め込まれています。



岡山城の天守裏側。
特徴は多角形の天守構造という点。

安土城をモデルにしたとも言われています。
こちらから眺めた天守の方が個人的には好みです。



天守裏は石垣が高いので、より迫力を感じます。
歪で特殊な形状をしている珍しい天守。
この多角形が安土城と同じスタイル。



こちらも天守のある本丸に直結した六十一雁木門。

この階段の下に当時は櫓門があり、強固で大きな城門を抜けた先の門のため、守りに徹した城門とは一味違います。



六十一雁木門の脇には土塀が連なり、その下の石垣は岡山城の中でも古い積み方をしています。

自然の石を生かした野面積みの中でも、岡山城は比較的大きな石が使用されていますが、こちらは小さな石材が使われています。

土塀と取り合っている石材だけは、綺麗に加工されていますね。



一周まわって最初に通過した不明門の下に戻ってきました。

この辺りの石垣が一番迫力あるように感じました。

それもそのはず!
豊臣政権時代の石垣技術の中ではトップクラスの15m級!



出隅は算木積みになってはいますが、技術の進化途中なのが分かります。

先ほどの月見櫓下の石垣とは違いが一目瞭然。
算木積みの技術が確立されて、高く勾配がきつい石垣ができるようになりましたが、この時代はやや勾配が緩いのが分かると思います。

しかし、この時代で15mの石垣は素晴らしい。

これだから、城の石垣は見ていて楽しい!
ちなみに、この石垣は築城者の宇喜多秀家の時代になりますので、関ヶ原の合戦前となります。

城の技術は石垣も含めて、関ヶ原の合戦以降に急激に進化します。



中の段の隅には大きな櫓が上がっていました。

櫓台を見ても横幅が大きいですね。
そして、石垣はやや大きめの自然石で積まれた野面積み。



模型で見るとイメージがつきやすい。
右下には変わった形の幅広い櫓が、先程の櫓台の上に上がっていました。


このまま中の段を囲む石垣下を進みます。



このあたりは、石材が綺麗に加工された打込み接。

場所によって石垣のタイプが全く異なります。
宇喜多秀家時代の岡山城の石垣を積んだのは、石工職人の集団穴太衆。
織田信長の安土城の石垣を積んで以来、全国各地の名城といえる城郭石垣を手掛けた集団。

穴太衆の技術は日本の宝です。



再び天守裏側へ。
天守裏側には旭川が流れていますが、現在後楽園と繋ぐ鶴見橋があります。

鶴見橋からの天守の写真が一番かっこいい。
段々に連なった入母屋破風がオシャレです。

主郭から見た姿とは違った見え方をします。



岡山城の特徴とも言える金箔瓦と金鯱、金の鬼瓦。

一部の大名にしか使用を許されていなかった金箔瓦を、岡山城は大量に使用しています。
やはり豊臣政権下での宇喜多秀家の立ち位置は重要であったと考えられます。

白漆喰の城も素晴らしいのですが、黒漆の城は重厚感があり金色が綺麗に映えます。



岡山城の裏に流れる旭川。
河岸にも石垣が使われています。


現在の上空写真。
旭川が岡山城の三方を守っているように流れています。

現在は主郭の前の内堀しか残っていませんが、当時は城の前面はいくつもの水堀で防御していました。



最後は内堀からのショット。左手には月見櫓。奥には小さく天守が見えます。

現在は本丸しか残っていない岡山城ですが、見どころは満載でした。



岡山駅まで帰る途中、至る所に石垣を発見しました。

天守台クラスのこの高石垣の上には、現在駐車場になっています。
これには衝撃でした。



突如街の中に現れたこの石垣も素晴らしい。



食い違いになっているこの場所は、門があったのではないかと個人的には思います。

今では一般車が普通に通行しています。



街と完全に一体化しています。
貴重な城郭の遺構なので、複雑ではありますが、ある意味では市民の手で守られているとも言えます。



駅へ向かっている路地で、偶然に櫓が出現しました!

櫓を模した建物かと思って調べたら、西丸西手櫓という重要文化財でした!

岡山城で一番大きな石材が使われていて、月見櫓と同じ現存建築物です。

10.4m×7.3m。高さ10.6m。二層の櫓です。

超貴重な建築物が、街中にあります。

まるでスタンプラリー。街そのものが城郭の遺構です。


こんなに素晴らしい岡山城ですが、天守や櫓など廃条令による取り壊しを免れた建築物は、空襲によって残念ながら焼失してしまいました。

もしこの大天守が現存で残っていたら・・・
そう思わずにはいられません。

すごく胸が締め付けられる悲しい歴史。

しかし、今では岡山県のシンボルとして、歴史を知るための観光スポットとして市民や観光客に愛され続けています。



戦う城、権威の城、政治の城。様々な時代を生きてきた岡山城は、今でも金箔瓦のように輝いています。


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