つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

寺田屋旅館と伏見の街@京都府

2023-12-12 16:30:00 | その他建築物
2023年12月12日

伏見城跡→御香宮神社に行った後は、伏見桃山駅に向かいました。
しかし、寺田屋旅館が近いと知ったので、急遽向かうことに!

寺田屋旅館は幕末に二つの大きな出来事の舞台となります。

1862年。倒幕を進めようとする薩摩過激派志士と暴発を止めようとする薩摩藩士によって斬り合いが勃発。薩摩藩氏9名が命を落としました。
寺田屋事件や寺田屋騒動と呼ばれています。

もう一つは、1866年。
坂本龍馬が襲撃された事件です。

天皇を中心とした政治、徳川幕府を中心とした政治。
この二つの思想で日本が分裂し、幕末の動乱の時代に突入します。

特にこの京都は日本の中心だったので、事件が多く起きて治安も悪化していきました。



向かうまでの伏見の街が凄く素敵だった。
おそらく土地割は江戸時代の状態であると感じました。

道が直角に曲がったり、狭いところもあったりするので、当時を想像しながら歩くだけで既に楽しい。



街並みはまさに情緒溢れています。

建物が江戸時代もしくは江戸時代風に造られ、街の景観を大切にしているのが伝わります。



伏見は現在、京都市ですが昔から独自の文化や歴史を歩んできたそうです。



伏見の景観はノスタルジックで、どこを撮っても映えます。



さらに伏見は豊臣秀吉が大阪をつなぐ水運を整備したことで発展しました。

豊臣秀吉って本当に凄いと改めて感じます。
圧倒的財力もありましたが、秀吉が整備した城下町はどこも近代的で、多くの人で賑わっていたそうです。

商業が発展しやすい街づくりをしていたとも言えます。



今でも街中を綺麗な川が流れています。



山、川、街並み、商店街。
既に伏見の街が好きになり、ここに住んでみたいと本気で思いました。

それくらい美しい街です。



龍馬通り商店街。
駅前のアーケードから一本入った通り。

このノスタルジックな感じも心に沁みます。

新しそうなお洒落なお店も、外観の雰囲気は統一されています。




御香宮神社からゆっくり歩いて15分ほどで、寺田屋旅館に到着です。



これまた素晴らしい外観。
歴史ある寺田屋旅館は幕末の戊辰戦争の前哨戦、鳥羽・伏見の戦いにて焼失。

その後再建されて今に至ります。





旅館の横には坂本龍馬の銅像や記念碑が据えられています。



当時はこちらの敷地が旅館があった場所のようです。



坂本龍馬の襲撃は、幕府の役人が1866年1月26日の午前3時頃に決行。

坂本龍馬はピストルで応戦しながら裏手から脱出したとされています。



寺田屋旅館には10:00〜15時40分受付まで、400円で入ることができます。

中には坂本龍馬と新撰組局長、近藤勇が飾られグッズなども売っています。



当時の資料などが各部屋に貼られ、伏見の歴史を今に伝えています。

当時、坂本龍馬を支援していた寺田屋の女将・お登勢の資料なども多くあります。























まさに幕末にタイムスリップ。
最高の雰囲気を味わうことができます。

坂本龍馬は現在の高知県、土佐藩の下級武士の末っ子。

倒幕を掲げながら最大の敵同士だった、薩摩藩と長州藩を薩長同盟に繋げた立役者です。

ちなみに、新撰組は会津藩管轄の幕府側。京都の治安維持のために結成された浪士組です。

幕末の歴史の舞台の中心は京都です。
いかに天皇を取り入れるかがポイントだったので、攘夷派と江戸幕府による高度な戦略が繰り広げられました。

その歴史の一部を味わうことのできる伏見の街でした。

さらに、衝撃なのがこの寺田屋旅館、今でも宿泊できるのです。

しかも一泊6500円!

個人的にすごく興味があります。

その他、伏見だけで多くの歴史の足跡があります。しかし、半日で周り切るのはやはり難しいですね。

それだけ魅力が多いエリア。
また時間を作って訪れたいと思います。




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伏見城@京都府

2023-12-12 14:00:00 | その他城
2023年12月12日

大阪から再び京都へ。
淀城に行くか、二条城に行くか悩みましたが、時間もあるのでゆっくり伏見城を目指すことにしました。

伏見城は豊臣秀吉が隠居後の城として築城したのが始まりとされています。

伏見城は戦国時代に歴史のキーポイントとなる城ですが、城としては不運な運命でもありました。

元は豊臣秀吉の隠居城としての計画でしたが、息子の秀頼の誕生により天守を持つ本格的な城郭に整えられました。
初代の伏見城を指月伏見城と呼びます。

しかし1596年に慶長の大地震により築城中に倒壊。
この場所が城地に向かないと判断した秀吉は、現在の明治天皇伏見桃山陵になっている、伏見木幡山に移して新たに築城しました。

この時代の伏見城を木幡山伏見城と呼びます。

当時は最新技術を集結した五層の豪華絢爛な大天守が建っていたようです。

また政務の中心となっていたので、伏見城の周りには大名達の屋敷が並びました。

また豊臣家の財力によって城下町も整備され、水陸交通の要衝になり、情報と物資が集結する当代随一の近代的な都市となりました。

秀吉が亡くなった後は徳川家康が伏見で政務を行いました。

そして、1600年に天下分け目の関ヶ原の前哨戦として、豊臣軍と徳川軍が伏見城で激突した為、残念ながら伏見城は焼失。

天下を取った徳川家康は1602年に伏見城を新たに築きましたが、1623年に廃城となりました。

現在は全く違う場所に四代目となる模擬天守が1964年にキャッスルランドというテーマパーク内に建てられました。

現在キャッスルランドは閉園。天守の中に入ることもできません。



今回ワタクシは近鉄京都線の丹波橋駅から向かいました。

歩いて15分ほどで入口らしき所に辿り着きます。



最初に現れたのは桓武天皇陵。



このあたりも、おそらく城の一部だったと思われます。



後世に造られた可能性もありますが、周りは土塁のようになっています。

この裏には堀があったようなので確率は高そう。



桓武天皇陵を越えると巨大なゲートが見えてきます。

キャッスルランドの入り口。
現在は閉園しているので、自由に通過することができます。



大きな駐車場の先には模擬城門と模擬天守が見えてきます。



模擬とは言え凄い大迫力。江戸城の大手門並みに大きな櫓門です。





これまた立派な模擬天守。
大天守と小天守の連立。
大阪城の復興天守と似た造りになっています。



天守があった場所は若干違えど、この伏見のエリアに巨大な城があったことは事実ですからね。

雰囲気は存分に味わえます。

しかし、人が一人もいなかったので寂しい雰囲気でした。



続いて明治天皇伏見桃山陵の近くにあると言われる石垣を見る為に山林を抜けて向かいます。



天守近くにある森の中の池。
これは治部池と呼ばれています。

治部といえば石田三成。

この地に治部少丸という建物がありました。
石田三成は豊臣秀吉に信頼を得ていた奉行衆でしたので、伏見の城内に建築することを許されたそうです。

この池は当時、内堀の一部だったとのこと。



明治天皇伏見桃山陵に向かう広い砂利の道は桃山御陵山道。両側は杉の木で美しい山道となっています。

こちらも平日だからか、人が全くいません。



至る所で城らしい自然地形もあるのですが、説明看板やパンフレットもないので不明。



やっと当時の石材が現れました。
一つ一つが大きくインパクトあります。



矢穴と呼ばれる跡が石材の至る所に見られます。



矢穴とは石工職人が石材を割るときに、ノミで矢(クサビ)を入れる穴を掘ります。

そこに矢を入れて大ハンマーで叩くと綺麗に左右に割れる技術。

その痕跡がはっきりと分かる石材です。
この頃には石垣の技術がさらに上がり、石の形状をそのままに積んでいく野面積みから、石を加工して使用する切込み接や、打ち込み接が出てきました。

伏見城は石垣も最先端技術であったことが分かります。



当然、明治天皇陵には立ち入ることができないので、紅葉を見て引き返します。



こちらが木幡山伏見城の本丸があったとされている場所です。

残念ながら現在は伏見城跡として開放しているわけでは無いので、どこに行っても遺構などの説明書きも地図もありません。

また京都市が出しているパンフレットはあるらしいのですが、園内には一切ないので事前に調べていかないと、広大な土地故にどこを歩けば良いのか分からなくなります。

ワタクシは一度伏見城跡を出て、伏見桃山駅方面へ向かいます。

目指すは御香宮神社。
こちらは徳川家康が建立したとされる神社で、豊臣秀吉と徳川家康を祀っています。



一番の目的は御香宮神社の門を見ること!
重厚感のある巨大な門。



立派な石垣の上に漆喰の土塀と瓦が目を惹きます。



神社の門でありながら、上には鯱が鎮座しています。



これは伏見城の大手門を移築したそうです。
近くによると尚更、城門にしか見えません。



惚れ惚れするような立派な門。



これが伝説の伏見城の門だと思うと、感慨深いものがあります。



こちらの門は重要文化財に指定されています。

伏見の周りには伏見城から移築された建築物が存在しています。

石垣も至る場所で部分的に保存されています。

巨大だった伏見城は城郭の櫓なども移築されました。
天守は二条城へ移築。
櫓は福山城に移築されたのは信憑性が高く有力とされています。

その他、大阪城や江戸城にも伏見櫓は存在していて、いずれも伏見城から移築との言い伝えがあります。

歴史から姿を消した城でしたが、全国の至る所で伏見と名の付く建築物が存在します。


歴史的に外すことのできない城。

二日前に行った勝龍寺城。明智光秀の娘の玉(細川ガラシャ)が最後を迎えたのも、伏見城で勃発した関ヶ原の前哨戦。

徳川家康が征夷大将軍に任命されたのも伏見城。

一大シティとなった伏見城は、江戸時代には立ち入り禁止となりました。

静けさなども相まって、何となく禁足地に近い雰囲気がありました。
そんな不思議なエリアでした。


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