21年前、スーダンの内戦から逃れてきた数千人の難民が一時的に宿泊できる施設として、10万人を収容可能なカクマキャンプが設立された。長い間、カクマは世界で最も多国籍な難民キャンプの一つであった。東アフリカ地域、アフリカの角地域、中央アフリカ共和国、アフリカ大湖地域 その他世界のいたるところからの難民や強制的被移住者を受け入れてきた。2012年5月半ば時点で、キャンプには95300人の難民と庇護希望者が住んでいる。ソマリアからの難民が全体の半数以上、ついで南スーダンが全体の1/3を占めている。残りの難民は、ブルンジ、エチオピア、コンゴ民主共和国、ウガンダ、エリトリア、ダルフール、タンザニア、象牙海岸、そしてイランからである。
2005年1月9日、ケニアのナイバシャで南北スーダンで包括的和平協定が調印され、これに続き、2006年から2008年にかけて、カクマのスーダン人難民は、自発的な本国帰還を成し遂げた。この協定に基づき、2011年1月9日、南スーダンで国民投票が行われ、北からの独立が支持された。2011年7月9日が南スーダンの独立記念日と定められたが、残念ながら、その後、2国間では解決困難な政治的問題で不安定な状況が続いている。国境での衝突は次第にエスカレートして緊張が高まり、人命が失われている。
2012年の初めから、カクマキャンプは、かつてそこで暮らしていた人々の自発的な出戻りを受け入れ始めた。10年以上も続いた内戦の後、よりよい生活を期待し、2度目のふるさとと呼べる地を見つけにキャンプやその周辺から母国に帰還していった人々だ。悲しいことに、その希望や期待した未来は長くは続かなかった。毎日ロキチョギオのケニア国境を越えてくる人々の大半は、スーダンや南スーダンからの避難民だ。けれども、東アフリカの国々を横切って、政治的トラブルを避け安全を求めてケニアにくる難民もいる。
キャンプの受付センターのまとめでは、2012年の1月から5月の間に、7800人を超える人々がケニアにたどり着いた。このうち、76%以上が、南スーダンとスーダンからの難民だ。多くの庇護希望者は、インタビューで、無差別の殺人、家畜の略奪、家屋への放火などの例を挙げ、最近の南スーダン・ジョングレイ州での異なる集団間での暴力沙汰を証言している。
伝えられる所によれば、多くの子供や女性を含む家族は、混乱の中で別れ別れになっている。ジョングレイの村は完全に放棄されていると述べる者もいる。9人の子供の母親、ニャクワスさんは、カクマの難民登録所でカネレの記者に「ユニティ州マンキーンで、真夜中に銃声が聞こえた。翌朝、我々は軍の飛行機で銃撃された」と話した。他の人たちも、あの地域では暴力事件が急増し、状況は日ごとに悪化、恐ろしくなって逃げてきたと口々に言う。カクマ3の新居住ブロックに住むスーダン人の老人は「復讐という名の攻撃が、私たちがカクマに再び逃げ帰らざるを得なかった主な理由です」と言う。
最近のカクマ到着者の中には、スーダンの南コルドファンからの避難民が多い。この地域では、ハルツームのスーダン政府軍と北部のスーダン人民解放軍(SPLM)との数カ月にわたる戦いが激しさを増している。最初は南スーダンに逃げたが、南スーダンがスーダン政府軍の攻撃に晒されるようになり、ケニア国境のロキチョギオに向かってさらに逃げたという者や、カクマキャンプで安全を確保するまでに、2,3か月歩き続けたと話す者もいる。
「私は親族と一緒に1カ月かけてモルトからマディンボールまで歩いた。妻と生まれたばかりの赤ん坊をピエリに残してきた。ふたりが殺されてしまったのかどうか、私にはわからない」と話すのはJ.ガツオスだ。「私たちは、何日もかけてジュバまで歩いた。善きサマリア人がカクマまでの移動を助けてくれたが、他の人たちは、この厳しい移動を最後まで貫徹できなかった」未成年者を連れた家族が付け加えた。
新たに到着した者は、700人が収容可能なカクマキャンプ受付センターのテントにとりあえず宿泊するが、この2月から5月の間に1800人を超える人々が収容されてきた。たとえば、4月6日だけでも、様々な国から来た86人の庇護希望者がカクマ3の受付センターで受け入れられた。UNHCRは登録作業の迅速化により、新たな到着者を食糧配給や支援物資が与えられる居住地区に移して、センターでの過密状態を緩和しようとしている。DRAオフィスは、UNHCRによる逃避理由調査などの詳細情報を記録する前に略式登録を行って、新たな到着者の迅速な移動を支援している。
登録から再配置エリアへの移動やシェルターの支給まで、2週間以上もかかるはずはないのだが、必ずしもそうではない。シェルターが不適当だったり、タイミング良く入居できなかったり、行政面での欠陥により、難民たちはなかなか収容センターから出られない。「私たちは、3カ月後にシェルターができると言われた。子供たちは未だテント生活です。太陽がプラスチックのテントの中で燃えたぎっています」と、2月に到着したH.ビヤムングさんは言う。「私には壁は造れません。シェルターオフィスからプレハブの家をもらえないでしょうか」カクマ3ゾーン3ブロック2の4人の子供の母は尋ねる。キャンプの管理者は、キャンプへの新たな到着者の流入を支援するために、カクマ3と4の居住地区を拡張して収容能力と支援要員を増やそうと計画している。KANEREは、UNHCRカクマ支部にコメントを求めているが実現できていない。
大湖地方とエチオピアの庇護希望者は、政治的な暴力と迫害を訴えている。エチオピアでは、最大の民族集団であるオロモ族が、連邦政府による過酷な政治的迫害、拘留、拷問に苦しんでいる。「私の夫は2011年に自宅で警備軍に殺されました。夫の弟は後日行方不明になりました。私も拷問を受け、脅迫された後、逃げてきました」とタラツ・ガルガロさんはUNHCRのカクマ受付センターで話した。
ガンベラ地域出身のエチオピア人の証言によると、彼らの農場は政府に不当に接収され、強制的に立ち退かされ、その土地は私企業に99年間貸し出された。2012年2月6日にカクマに到着したニャルアク・ガトさんは「政府の役人に、お前の所有地の一部が私企業に払い下げる区域にかかるから、ここから立ち退けと言われた」と話している。
コンゴ民主共和国(DRC)からの庇護希望者は、北キビュ州での無差別殺人や行方不明事件のあと起きた銃撃から逃れてきた。「私は軍隊にレイプされました。夫は強制的に捕えられて殺され、息子は少年兵として連れて行かれたんです」カネレ記者との面談である未亡人はこう話した。
多くの南スーダン人はジョングレイ州(ウロール地区)か、同じ州のラングケンから逃げてきた。それらの地域では、ヌエル、ムール、ディンカの間での家畜泥棒に端を発する民族抗争が激化している。南スーダンでは、民族の長は政府の役人を兼ねているので、もめごとは直ぐに政治問題になる。もめごとがエスカレートして争いとなり、よそのグループからの子供や牛の略奪となった。「ジョングレイ州では、他州の対立する民族と抗争するのではなく、同じ民族同士で家畜や子供の盗みあいが続いている」と匿名希望のかつてのジョングレイ住民は話す。
2012年1月、南コルドファンのヌビアンやダルフール地域のマッサリトを含む北スーダンから、大量の庇護希望者がカクマキャンプに入ってきた。南コルドファンのカデュグリ地域の住民は、スーダン空軍による空爆で何百人もの住民が追い立てられたと証言している。「殺人、恐ろしいマシンガンの轟き、空軍による空爆が生活に差し迫ってきた。私の兄弟はそこで殺された」と話すのは、2012年2月16日に到着したヌビアンスの住人イブラヒム・クラルだ。
2012年3月、UNHCRはある難民集団を居住地から直接連れてきた。スーダン人ヌビアンの80家族をカクマキャンプに移すため、エアバスがカクマの滑走路に入った。これはカクマ難民キャンプの存在をアピールするために仕組まれた行動のようにみえる。
UNHCRは、このヌビアンのケースのように、難民保護の名目で彼らの母国内部に直接入って、家から人々を引き離すようなことをすべきではない。国連の難民機関は、難民キャンプを、保管所として永続していくことではなく、閉鎖していくことに注力すべきである。
スーダンと南スーダンの間にある問題はいまだ未解決であり、カクマに新たにやってくる多くの人たちは、かつてカクマに住んでいた昔からの難民である。カネレは国連に対し、政治的暴力により住民を故郷から追い立てている東アフリカの国々の諸問題について、現実に即した解決法を見いだすために、もっと頑張って欲しいと懇願したい。
*ここに記載した人名は実名ではありません!
2005年1月9日、ケニアのナイバシャで南北スーダンで包括的和平協定が調印され、これに続き、2006年から2008年にかけて、カクマのスーダン人難民は、自発的な本国帰還を成し遂げた。この協定に基づき、2011年1月9日、南スーダンで国民投票が行われ、北からの独立が支持された。2011年7月9日が南スーダンの独立記念日と定められたが、残念ながら、その後、2国間では解決困難な政治的問題で不安定な状況が続いている。国境での衝突は次第にエスカレートして緊張が高まり、人命が失われている。
カクマに新たに到着した人々
2012年の初めから、カクマキャンプは、かつてそこで暮らしていた人々の自発的な出戻りを受け入れ始めた。10年以上も続いた内戦の後、よりよい生活を期待し、2度目のふるさとと呼べる地を見つけにキャンプやその周辺から母国に帰還していった人々だ。悲しいことに、その希望や期待した未来は長くは続かなかった。毎日ロキチョギオのケニア国境を越えてくる人々の大半は、スーダンや南スーダンからの避難民だ。けれども、東アフリカの国々を横切って、政治的トラブルを避け安全を求めてケニアにくる難民もいる。
キャンプの受付センターのまとめでは、2012年の1月から5月の間に、7800人を超える人々がケニアにたどり着いた。このうち、76%以上が、南スーダンとスーダンからの難民だ。多くの庇護希望者は、インタビューで、無差別の殺人、家畜の略奪、家屋への放火などの例を挙げ、最近の南スーダン・ジョングレイ州での異なる集団間での暴力沙汰を証言している。
伝えられる所によれば、多くの子供や女性を含む家族は、混乱の中で別れ別れになっている。ジョングレイの村は完全に放棄されていると述べる者もいる。9人の子供の母親、ニャクワスさんは、カクマの難民登録所でカネレの記者に「ユニティ州マンキーンで、真夜中に銃声が聞こえた。翌朝、我々は軍の飛行機で銃撃された」と話した。他の人たちも、あの地域では暴力事件が急増し、状況は日ごとに悪化、恐ろしくなって逃げてきたと口々に言う。カクマ3の新居住ブロックに住むスーダン人の老人は「復讐という名の攻撃が、私たちがカクマに再び逃げ帰らざるを得なかった主な理由です」と言う。
最近のカクマ到着者の中には、スーダンの南コルドファンからの避難民が多い。この地域では、ハルツームのスーダン政府軍と北部のスーダン人民解放軍(SPLM)との数カ月にわたる戦いが激しさを増している。最初は南スーダンに逃げたが、南スーダンがスーダン政府軍の攻撃に晒されるようになり、ケニア国境のロキチョギオに向かってさらに逃げたという者や、カクマキャンプで安全を確保するまでに、2,3か月歩き続けたと話す者もいる。
「私は親族と一緒に1カ月かけてモルトからマディンボールまで歩いた。妻と生まれたばかりの赤ん坊をピエリに残してきた。ふたりが殺されてしまったのかどうか、私にはわからない」と話すのはJ.ガツオスだ。「私たちは、何日もかけてジュバまで歩いた。善きサマリア人がカクマまでの移動を助けてくれたが、他の人たちは、この厳しい移動を最後まで貫徹できなかった」未成年者を連れた家族が付け加えた。
新たに到着した者は、700人が収容可能なカクマキャンプ受付センターのテントにとりあえず宿泊するが、この2月から5月の間に1800人を超える人々が収容されてきた。たとえば、4月6日だけでも、様々な国から来た86人の庇護希望者がカクマ3の受付センターで受け入れられた。UNHCRは登録作業の迅速化により、新たな到着者を食糧配給や支援物資が与えられる居住地区に移して、センターでの過密状態を緩和しようとしている。DRAオフィスは、UNHCRによる逃避理由調査などの詳細情報を記録する前に略式登録を行って、新たな到着者の迅速な移動を支援している。
新たにやってきた人々のための家づくり
登録から再配置エリアへの移動やシェルターの支給まで、2週間以上もかかるはずはないのだが、必ずしもそうではない。シェルターが不適当だったり、タイミング良く入居できなかったり、行政面での欠陥により、難民たちはなかなか収容センターから出られない。「私たちは、3カ月後にシェルターができると言われた。子供たちは未だテント生活です。太陽がプラスチックのテントの中で燃えたぎっています」と、2月に到着したH.ビヤムングさんは言う。「私には壁は造れません。シェルターオフィスからプレハブの家をもらえないでしょうか」カクマ3ゾーン3ブロック2の4人の子供の母は尋ねる。キャンプの管理者は、キャンプへの新たな到着者の流入を支援するために、カクマ3と4の居住地区を拡張して収容能力と支援要員を増やそうと計画している。KANEREは、UNHCRカクマ支部にコメントを求めているが実現できていない。
大湖地方とエチオピアの庇護希望者は、政治的な暴力と迫害を訴えている。エチオピアでは、最大の民族集団であるオロモ族が、連邦政府による過酷な政治的迫害、拘留、拷問に苦しんでいる。「私の夫は2011年に自宅で警備軍に殺されました。夫の弟は後日行方不明になりました。私も拷問を受け、脅迫された後、逃げてきました」とタラツ・ガルガロさんはUNHCRのカクマ受付センターで話した。
ガンベラ地域出身のエチオピア人の証言によると、彼らの農場は政府に不当に接収され、強制的に立ち退かされ、その土地は私企業に99年間貸し出された。2012年2月6日にカクマに到着したニャルアク・ガトさんは「政府の役人に、お前の所有地の一部が私企業に払い下げる区域にかかるから、ここから立ち退けと言われた」と話している。
コンゴ民主共和国(DRC)からの庇護希望者は、北キビュ州での無差別殺人や行方不明事件のあと起きた銃撃から逃れてきた。「私は軍隊にレイプされました。夫は強制的に捕えられて殺され、息子は少年兵として連れて行かれたんです」カネレ記者との面談である未亡人はこう話した。
多くの南スーダン人はジョングレイ州(ウロール地区)か、同じ州のラングケンから逃げてきた。それらの地域では、ヌエル、ムール、ディンカの間での家畜泥棒に端を発する民族抗争が激化している。南スーダンでは、民族の長は政府の役人を兼ねているので、もめごとは直ぐに政治問題になる。もめごとがエスカレートして争いとなり、よそのグループからの子供や牛の略奪となった。「ジョングレイ州では、他州の対立する民族と抗争するのではなく、同じ民族同士で家畜や子供の盗みあいが続いている」と匿名希望のかつてのジョングレイ住民は話す。
2012年1月、南コルドファンのヌビアンやダルフール地域のマッサリトを含む北スーダンから、大量の庇護希望者がカクマキャンプに入ってきた。南コルドファンのカデュグリ地域の住民は、スーダン空軍による空爆で何百人もの住民が追い立てられたと証言している。「殺人、恐ろしいマシンガンの轟き、空軍による空爆が生活に差し迫ってきた。私の兄弟はそこで殺された」と話すのは、2012年2月16日に到着したヌビアンスの住人イブラヒム・クラルだ。
2012年3月、UNHCRはある難民集団を居住地から直接連れてきた。スーダン人ヌビアンの80家族をカクマキャンプに移すため、エアバスがカクマの滑走路に入った。これはカクマ難民キャンプの存在をアピールするために仕組まれた行動のようにみえる。
UNHCRは、このヌビアンのケースのように、難民保護の名目で彼らの母国内部に直接入って、家から人々を引き離すようなことをすべきではない。国連の難民機関は、難民キャンプを、保管所として永続していくことではなく、閉鎖していくことに注力すべきである。
スーダンと南スーダンの間にある問題はいまだ未解決であり、カクマに新たにやってくる多くの人たちは、かつてカクマに住んでいた昔からの難民である。カネレは国連に対し、政治的暴力により住民を故郷から追い立てている東アフリカの国々の諸問題について、現実に即した解決法を見いだすために、もっと頑張って欲しいと懇願したい。
*ここに記載した人名は実名ではありません!
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