国際保護団体はルワンダ人難民を保護していない。
ルワンダは長い民族差別の歴史を持つ国であり、国際社会は明らかにそれに関与してきた。1959年、ツチ族のみの王制からフツ族の大統領へと権力が移行したが、その背後にあったのはベルギーの植民地支配だ。ツチ族や一部のフツ族が周囲の国へ亡命したのも、この頃が最初である。ツチ族は権力を失い、フツ族は人権を擁護する側に立っているかのように演出された。ツチ族はその後、力を集めて権力を得ることになる。30年後、国際連合ルワンダ監視団(UNMIR、United Nations Mission in Rwanda)および周囲の国々がツチ族に権力を与えるのに成功した。アルーシャ和平協定に基づいたため、王制は認められなかった。1960年代の初めから、ルワンダは民主国家となった。
悲しいことに、これが難民危機の悪循環を生んだ。1964年、何十万人ものいのちが失われ、拷問を受け、強姦され、首都キガリに政府が成立する。両者とも、加害者だ。この結果、何千ものフツ族とツチ族が近隣諸国へ亡命した。政治的理由により、今もルワンダを後にする人は少なくない。異なる民族、地域からたくさんの人が国を後にした。
〈難民認定停止の条項がもたらす危険〉
1951年の条約には、難民認定を停止する状況について書かれた部分がある。条項1のCの1から4の小段落によれば、難民は母国に改めて居住した際に、難民ではなくなる、とある。1996年のルワンダの難民については、この条件が当てはまらなかった。タンザニア、コンゴ共和国、ブルンジという3カ国の軍の戦車やヘリコプターに囲まれたキャンプでは、外に出ようとする者は殺され、強制的に引き戻され、強姦され、拷問された。いずれの軍も、難民たちを母国に帰すよう命じられていたのだ。
条項1のCの(5)および(6)によれば、この条約で最初に難民と認められた者が難民でなくなることについての基本的条項の改正は認められていない。ルワンダの難民の場合、状況は終わっていない。それどころか、悪化するばかりである。大殺戮の後も現在まで、政情不安、民族闘争、法的制裁、無差別の報復、政治的暴力、言論の弾圧、刑罰の不執行、責任回避は続いている。ルワンダ政府は自国民への抑圧を続けている。殺人、拷問、失踪、逮捕の報告は絶えることがない。一党政治は続き、言論の自由は失われたままだ。これでは、人びとに開かれた民主的な社会は建設できない。
この政府は国境を越え、近隣諸国のルワンダ人難民の殺害を試みたり、同政府に背いた難民たちの親類や友人を殺したりしている。1998年5月、セス・センダスホンガさんが殺された。2002年4月、難民施設にいたふたりの子どもが、オーストラリアへの再定住が遅れているという理由で虐殺された。ナイロビではリジンデさんが殺されている。2000年、ウガンダ軍と協働していたルワンダ軍により大勢のルワンダ人難民が強制的にトラックに乗せられルワンダへ連れて行かれたが、うち少なくとも3人が殺されている。昨年は、南アフリカでカユンバ・ニャムワサ将官が銃殺の危機を免れた。2011年10月、インイェンイェリニュースの編集者であるチャールズ・インガビレさんは、ウガンダのカンパラで銃殺された。
〈再定住の必要性〉
ルワンダ政府は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に対し、長期の政治的責務となっている上記の条項を停止するよう圧力をかけてきた。2009年、アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官がルワンダを訪れ、ルワンダ難民に関しては2011年12月よりこの条項を認めないとすることに同意した。
東アフリカで難民に関わってきた人権団体、社会正義のためのファハム・ネットワークによれば、難民認定を停止とするためにルワンダ政府が挙げた理由はいずれも無意味だという。保証なしの認定停止は、2011年10月UNHCRの年次執行委員会、また加盟国の会議で議題になった。しかし施行については2012年6月に、その後、2013年6月までずれ込んだ。ここでの決定は1959年から1988年12月までに国を後にした難民についてのみの適用となっているが、ルワンダからの難民はその後も増え続けている。この決定は、主にアフリカに住んでいるルワンダ人難民10万人の命に影響を及ぼす。
多くの難民が保護を求め、その必要性を訴えている。新しい地での順応は、帰国する危険を恐れる者にとっては最善の解決策のひとつである。1996年から2000年にかけて、ルワンダ軍はコンゴ民主共和国の森の中で人びとを虐殺したが、生き延びた者は皆その虐殺の証人である。こうした難民たちはルワンダへ帰ることを望んでおらず、国際社会による保護が必要だ。難民認定の停止は早まった施行であり、亡命国で生きる人、強制送還される人、強制送還後に迫害を受ける可能性のある人たちに、深刻な影響を及ぼすものである。難民が十分な保護を受け、国として和解案を示すよう、ルワンダ政府は進むべきである。
〈難民にできることは?〉
ルワンダ人難民は今住んでいる国に対し、たとえば1996年に強制帰国させられた際の恐怖について説明するなど、何らかの手立てを打つべきである。1951年の条約に関する不適当と思われるこの決定について、政府へ訴えることは可能である。情報を入手する権利、働く権利はあるのだ。地域レベル、国際レベルの人権団体や、メディアとの連絡も必要である。
難民は保護を受けるべきであり、それはルワンダへの帰国を難民が自ら望む時まで続く、というのが共通の理解だろう。「誰も亡命するのを手伝ってくれなかったけれど、ルワンダは自分にとって安全な場所ではなかった。母国へ戻るのに、UNHCRに手伝ってもらうことはないと思う」と、カクマにいるあるルワンダ人難民は語っている。
ルワンダは長い民族差別の歴史を持つ国であり、国際社会は明らかにそれに関与してきた。1959年、ツチ族のみの王制からフツ族の大統領へと権力が移行したが、その背後にあったのはベルギーの植民地支配だ。ツチ族や一部のフツ族が周囲の国へ亡命したのも、この頃が最初である。ツチ族は権力を失い、フツ族は人権を擁護する側に立っているかのように演出された。ツチ族はその後、力を集めて権力を得ることになる。30年後、国際連合ルワンダ監視団(UNMIR、United Nations Mission in Rwanda)および周囲の国々がツチ族に権力を与えるのに成功した。アルーシャ和平協定に基づいたため、王制は認められなかった。1960年代の初めから、ルワンダは民主国家となった。
悲しいことに、これが難民危機の悪循環を生んだ。1964年、何十万人ものいのちが失われ、拷問を受け、強姦され、首都キガリに政府が成立する。両者とも、加害者だ。この結果、何千ものフツ族とツチ族が近隣諸国へ亡命した。政治的理由により、今もルワンダを後にする人は少なくない。異なる民族、地域からたくさんの人が国を後にした。
〈難民認定停止の条項がもたらす危険〉
1951年の条約には、難民認定を停止する状況について書かれた部分がある。条項1のCの1から4の小段落によれば、難民は母国に改めて居住した際に、難民ではなくなる、とある。1996年のルワンダの難民については、この条件が当てはまらなかった。タンザニア、コンゴ共和国、ブルンジという3カ国の軍の戦車やヘリコプターに囲まれたキャンプでは、外に出ようとする者は殺され、強制的に引き戻され、強姦され、拷問された。いずれの軍も、難民たちを母国に帰すよう命じられていたのだ。
条項1のCの(5)および(6)によれば、この条約で最初に難民と認められた者が難民でなくなることについての基本的条項の改正は認められていない。ルワンダの難民の場合、状況は終わっていない。それどころか、悪化するばかりである。大殺戮の後も現在まで、政情不安、民族闘争、法的制裁、無差別の報復、政治的暴力、言論の弾圧、刑罰の不執行、責任回避は続いている。ルワンダ政府は自国民への抑圧を続けている。殺人、拷問、失踪、逮捕の報告は絶えることがない。一党政治は続き、言論の自由は失われたままだ。これでは、人びとに開かれた民主的な社会は建設できない。
この政府は国境を越え、近隣諸国のルワンダ人難民の殺害を試みたり、同政府に背いた難民たちの親類や友人を殺したりしている。1998年5月、セス・センダスホンガさんが殺された。2002年4月、難民施設にいたふたりの子どもが、オーストラリアへの再定住が遅れているという理由で虐殺された。ナイロビではリジンデさんが殺されている。2000年、ウガンダ軍と協働していたルワンダ軍により大勢のルワンダ人難民が強制的にトラックに乗せられルワンダへ連れて行かれたが、うち少なくとも3人が殺されている。昨年は、南アフリカでカユンバ・ニャムワサ将官が銃殺の危機を免れた。2011年10月、インイェンイェリニュースの編集者であるチャールズ・インガビレさんは、ウガンダのカンパラで銃殺された。
〈再定住の必要性〉
ルワンダ政府は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に対し、長期の政治的責務となっている上記の条項を停止するよう圧力をかけてきた。2009年、アントニオ・グテーレス国連難民高等弁務官がルワンダを訪れ、ルワンダ難民に関しては2011年12月よりこの条項を認めないとすることに同意した。
東アフリカで難民に関わってきた人権団体、社会正義のためのファハム・ネットワークによれば、難民認定を停止とするためにルワンダ政府が挙げた理由はいずれも無意味だという。保証なしの認定停止は、2011年10月UNHCRの年次執行委員会、また加盟国の会議で議題になった。しかし施行については2012年6月に、その後、2013年6月までずれ込んだ。ここでの決定は1959年から1988年12月までに国を後にした難民についてのみの適用となっているが、ルワンダからの難民はその後も増え続けている。この決定は、主にアフリカに住んでいるルワンダ人難民10万人の命に影響を及ぼす。
多くの難民が保護を求め、その必要性を訴えている。新しい地での順応は、帰国する危険を恐れる者にとっては最善の解決策のひとつである。1996年から2000年にかけて、ルワンダ軍はコンゴ民主共和国の森の中で人びとを虐殺したが、生き延びた者は皆その虐殺の証人である。こうした難民たちはルワンダへ帰ることを望んでおらず、国際社会による保護が必要だ。難民認定の停止は早まった施行であり、亡命国で生きる人、強制送還される人、強制送還後に迫害を受ける可能性のある人たちに、深刻な影響を及ぼすものである。難民が十分な保護を受け、国として和解案を示すよう、ルワンダ政府は進むべきである。
〈難民にできることは?〉
ルワンダ人難民は今住んでいる国に対し、たとえば1996年に強制帰国させられた際の恐怖について説明するなど、何らかの手立てを打つべきである。1951年の条約に関する不適当と思われるこの決定について、政府へ訴えることは可能である。情報を入手する権利、働く権利はあるのだ。地域レベル、国際レベルの人権団体や、メディアとの連絡も必要である。
難民は保護を受けるべきであり、それはルワンダへの帰国を難民が自ら望む時まで続く、というのが共通の理解だろう。「誰も亡命するのを手伝ってくれなかったけれど、ルワンダは自分にとって安全な場所ではなかった。母国へ戻るのに、UNHCRに手伝ってもらうことはないと思う」と、カクマにいるあるルワンダ人難民は語っている。
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