今の時間は何時だろうか。もうどれだけの時間を確認したのだろう。その確認した時間に費やした時間は、どれだけの時間になっていたのだろうか。この繰り返しは何度続けても、繰り返しになる。何か生まれそうで生まれない、待ってばかりの時間は、後にも先にも沢山存在して来る。その存在は正しいのか。
毒になる林檎は無いけど、独となる林檎はある。果汁100%の林檎なんて存在しないのに。かじる勇気はあるけど、一番にかじる勇気は無いだろう。赤い林檎なんて見せかけだけの赤い面を下げてる。どうだろうか、これ以上、林檎りんごして、お利口に果実を信じて、ジュースになるのか。食べ頃は誰に頼るの
切っても切っても、なすびなのに、なぜ、なすびを超えようとするのか。そのフライパンに入れば、なすびは超えれられる。なすびもここまで味が変わるのかと思ってもらえる。素晴らしい、それは素晴らしいと周りが言うもんだから、なすびは良くも悪くも何一つとして、なすびで生まれた事に振り返らない。
卵のように、あっさりと割れて中身をさらけ出す事はしないよ。君、君、君の事を言ってるんだ。器用に目玉焼きとか、玉子焼きとか、揚げ句の果てには生でぐちゃぐちゃにご飯に絡みだす始末。しょうがないからって醤油が手助けしてる。君の事だよ、世の中は複雑だけどシンプルにどうにかなる考えは正しい
炭酸水のように、ちょっとだけ気分は弾ける。とても静かな朝とは、当たり前の表現なのに、とても静かなと表現をつけてしまう。当たり前の朝にしようと思う。当たり前の朝だった。それは当たり前のように来る朝のようでかわいい。それは朝の音の話で、誰も聞いていないようで、沢山の人が聞き覚えてる。