徳之島ゲストハウスみち お庭番日誌

「♪おはなしさんぽみち♪福岡出張所」から「徳之島ゲストハウスみち お庭番日誌」に変更。ヤギと鶏と愉快な島人たちとの記録。

徳之島〜🎵

2017-01-08 15:35:40 | 奄美

 夏以来、半年ぶりの徳之島です。

なんとびっくり!

今日の気温…窓全開、網戸で…23.8℃

 暑いです。

さすが、南の島です。

こんな感じで、バナナもまだ下がってます(笑)

 

携帯からの投稿なので…こんなもんで終わり。

今…近所の神社の石段に腰掛けてます。

目の前には、太平洋〜\(^^)/


徳之島でお盆

2016-08-17 17:47:59 | 奄美

 お盆のちょっと前・・・11日が父の月命日なので、その日はお墓へ。

雑草を抜いたり、湯飲みやおちょこを洗ってきれいにしたり、お花を入れ替えたり・・・そして、多分、これは実家辺りの独特な風習で、浜から真っ白な砂を持ってきて、それを敷き詰めました。父の墓は、実家の敷地に代々住んでいたというご先祖の墓をそのまま使わせてもらっていて、天保という字が掘られているので、江戸時代からのもの。サンゴの石でできていて・・・何とも味のあるお墓なのです。昨日書いた、辞世の句にあるように、土になりたい・・・土になりたい・・・と、強く願ったので、土葬にしました。なので、墓の下でそのまま眠っています^m^ 

 そして、お盆の初日。

お墓へ父を迎えに行きました。

お酒を呑ませて(?)・・・今日は一緒に家に帰ろう・・・と声をかけて、一年ぶりに家へ。

どこへも寄らず、お墓からまっすぐ家へ帰らないといけないんだそうな。

家に着いたら、神棚(神道なので)に母が準備しておいてくれたおちょこにお墓から持ち帰ったお酒を入れて・・・父の迎えは終了。笹の葉を採ってきて見ずに浸しておくのも忘れずに。これは何のため?と聞いたら、母もよくわからないそうな。

 

 父を連れてきて、まず最初にお供えするのはお餅。茶色いのがそう。

二本ずつ並べられているのは草の幹を切ったもの。あの世の人たちの箸なんだそうな。

祀っているのは父だけなんだけれど、箸は数組。

なぜかというと、私達に関係のあるご先祖様ならどなたでも皆さんで分け合ってお召し上がりください・・・という意味だそう。徳之島の方言で言うと「ゆれゆれ にきゃぎてぃたぼれ」

 

 その後、晩ご飯をお供え。

そして・・・翌日から、大忙し。

朝起きたら、まずお茶、7時ごろに朝ごはん、10時におやつ、12時にお昼ご飯、3時におやつ、6時ごろに晩ご飯。この時間は麺類を出す・・・とか、ここでは白いお餅を出す・・・とか、色々決まりごとも。母と一緒に、作って出して片付けて・・・の繰り返し。我が家は分家なので、父が亡くなるまではお盆は無く、送り盆の時に本家へ行くくらい。子供の頃は、他所の家の神棚や仏壇の前の色とりどりのお供え物が羨ましくて、どうしてうちには無いの?と、お供え用のお菓子を買ってもらったことも^m^

ここまで書いて、あ~・・・ちゃんと全てのお供えの写真を撮っておけばよかったと後悔。母に教えてもらえるうちに記録しておかねば!

 

 送り盆の15日、福岡へ戻る日だったので、父を送れず。

この日は、必ず準備する食べ物が。白いお餅、素麺、厚揚げ、豚肉・・・だったかな?厚揚げはあの世へ帰る時に履く下駄で、素麺は鼻緒、他は・・・何だろう?これも聞いておかねば。

 

 

 盆踊りの提灯(^^♪

子どもの頃のように賑やかでは無く、数えられるような数の人たちが踊っていました。無料のかき氷や焼き鳥もあり、小さい子供たちが元気に走り回っている姿も。

 お盆は、できるかぎり帰省しなきゃ・・・と、思いました。ちゃんちゃん。

 


樹齢300年のガジュマル

2016-05-23 11:22:25 | 奄美

 ケンムンが出てきそうだなぁ。

というか、ここなら出てもおかしくないなぁ・・・と思ってしまうような不気味なガジュマルを観てきました。

 

 このガジュマルを観られるのは伊仙町阿権(いせんちょう あごん)

オットの実家の隣りの集落なのに、こんな近くにこんなすごい場所があったとは!

狭い徳之島なのに、まだまだ知らないところがいっぱいです。

 義母の25回忌の法事で里帰り。

オットの実家へ行く前にちょっと寄り道して観てきました。

「うわぁ~!すごいねぇ~!!」

そんな感想しか口から出てきませんでした。

梅雨入りしていて、空もどんより・・・空気もじっとり重たくて、その上、こんな不気味に伸びた根っこを見ていると、これはもう絶対、何かがあの根っこの隙間に住んでるよ・・・と、妄想が膨らんでいくような・・・。

 

 

 

 その不気味な樹齢300年のガジュマルのそばにある平家(たいらけ)。

名前の通り、平家の子孫だそうで、石垣でぐるっと囲まれた家がありました。

 

 この先へ進んで行きたいけれど、個人の家なので行けず。

オットによると、小学生の頃に遠足で寄ったことがあるそうな。

母は、観光バスに乗って寄ったことがあるそうな。

・・・遠足で行くような、観光案内されるような家なのに、オットの実家のこんな近くにあるのに、どうして今まで誰も教えてくれなかったの・・・と、残念な気分。

実は、最近知った事実なんだけど、この平家に住んでいらっしゃるのは同窓生のお母さん。

ただ、こんな昔の趣をそのまま残しているようなお宅だとは知らず・・・。

 そこで、オットの実家へ行ってから、写真を添付してその同窓生にメールしてみました。

どこだと思う?と。

すると、びっくりポン!な返事が。

「さっきまでそこにいたよ。今、空港。」

えぇぇぇぇぇ~\(◎o◎)/!

じゃあ、写真を撮っていた頃に勇気を出して石畳を進んで行ってたら・・・そこに居たってこと?

その場でメールを送ってたら、入れたかもしれないってこと?

 

 人生なんてそんなもんだよなぁ。

ちょっとしたタイミングのずれで、こんなことが起こる。

良いことも。悪いことも。

 徳之島にも流れて(?)来ていた平家のこと。ちょっと気になったので調べてみよう。

 

 最後に、オットの実家のパパイア。

レロ~ンレロ~ンシンタ~ パパイアの木が~♪♪・・・という歌詞の歌があったなぁ。

レロンレロンシンタ・・・って・・・?

 

 

 


徳之島の「明治時代の酒のつくり方」

2016-05-11 23:57:28 | 奄美

 父の書斎から出てきた原稿。

日付が無いのでいつ頃書かれたものなのかわかりません。

「紹介しておく」という書き方がされているので、何かに投稿するためのものだとは思うけれど、それもわかりません。

へぇ~・・・各家庭でお酒を造ってたんだ。それより、蘇鉄からお酒が作れるんだ・・・が、素直な感想。

 

   明治時代の酒のつくり方

 松山メッタガネ(明治二十二年生、徳之島町徳和瀬)から明治時代の酒の造り方を聞いたのでここに紹介しておく。

 用意する原材料

(ア)蘇鉄の幹の粉を約五升ぐらい。

 蘇鉄の幹を伐り倒して表面の黒い部分を剥ぎとると中の間白い繊維質の部分が残る。それを一~二日乾燥させてからカンナで削るとかんぴょうのような薄くて細長いものが得られる。これをカナクリと呼ぶ。このカナクリを筵などに広げて天日に干すと二~三日でこちこちに乾燥する。これを臼に入れて杵で搗くと容易に粉が出来上がる。

 因みに、蘇鉄の幹から澱粉をとって粥をつくるときは製法が異なる。この場合は幹の白い部分を手のこぶし程の太さに切ってからカマスなどに入れて発酵させる。発酵すると表面に黒い黴が発生するので、そのとき取り出して水に浸す。二~三日も浸せば軟らかくなるので水を切って臼に入れて杵で砕く。この砕いたものを容器に入れて、その上に水を注ぐと不純物は上に浮いて澱粉だけが下の方に沈殿する。このとき上部の不純物を捨てて澱粉だけを取り上げ、それを米や麦などと混ぜてお粥にして食べるのである。

 普通の場合、蘇鉄の実や幹を製造して食べる際には水に浸すか、または発酵させるなどして中に含まれた毒素を発散させるのであるが、酒の製造に使うこうじ用の粉の場合はそのような毒抜きをしていない。

(イ)イナシケを一升五合ぐらい。

 イナシケというのは籾がらの中から得られる粉状のものである。すり臼に籾をするときにできる籾がらをフイという細い穴のあいた竹製の容器に入れてゆするとこのイナシケが得られる。また、シイビジャ(中に実の入っていない空の籾)を臼に入れて砕いてイナシケを得る場合もあった。昔の人たちは現在放棄している籾がらや使い物にならないシイラからも食用になる部分を抽出して利用していたのである。

(ウ)甘藷を大ザルの一杯ぐらい。

 甘藷を掘ってきて水洗いにし、それを一センチメートル角ぐらいの太さにきざむ。

 材料は以上の三種で出揃った。次はこれら材料に少量の水を加えながら均分に混ぜ合わせる。そして、それで握り飯のような丸いかたまりをつくり、そのかたまりをハジという竹製の蒸し器に並べて蒸す。約二時間ぐらいはかかる。

 蒸されたかたまりは取り出してから丁寧に手でほぐし、それを倉などのような風通しの悪い所に筵を敷いてその上に拡げる。つまり、これがサケコウジのもとになるわけである。こうじの黴が生え易いようにするために、その上にさらに筵を被せたりもする。このようにすると夏は二~三日で、また冬は七~八日ぐらいで黒い黴が発生し、こうじができ上がる。

 

 フェイ(もろみ)つくり

 酒こうじができると次はもろみ作りにかかる。これには黒糖が必要である。先ず六斤(三、六キロ)ほどの黒糖を約五斤ほどの水に入れて炊いて溶かす。砂糖水ができるわけだ。これをしばらく放置して冷やす。冷えたところでこうじを混入する。よく棒などで混ぜ合わせる。また、適当に水を加えながら濃度を調整する。こうして出来上がったもろみを大きなカメに仕込むのである。

 およそ七日ほどでもろみに水泡ができる。そして、その水泡には酒の嗅いがただようようになる。しばらく経ってこの水泡が消えたときを見はからって、いよいよ酒マアラシ(蒸留)が始められるのである。

 

 酒マアラシ

 酒マアラシとは酒を「生まれさせる」という意である。子どもが生まれ出てくるように酒も生まれ出てくるのだと昔の人たちは考えていたのであろう。そして、その生まれ出てきた新しい物質に新しい生命力を感じとっていたのであろう。酒の蒸留にはこのような生命力の誕生と同義の言葉が用いられている。つまり、目に見えない無からの発生である。

 さて、酒マアラシは次のような要領でなされる。

 先ず、もろみの中の浮遊物を総べて取り去る。こうすると後に茶褐色のどろどろの液体が残される。これをアンマルとかジナシと呼ばれる鉄製の丸鍋に入れる。そして、その上にクシキという木製の器(図1)を乗せ、さらにその上に冷水の入った丸鍋を置いて覆う。図2のようになる。

 図1

 

 図2

 

 仕掛けが終わると徐々に火を炊く。強火はこげつくのでいけない。しばらくすると酒が流れ出してくるのでこれを容器に受け取る。最初の一升を特にオームイ(泡盛り)と呼ぶ。このように呼ぶのは落下してきた酒の表面に泡ができるからである。これは濃度が高いからだという。約40度ぐらい。

 次の一升をジダケ(地酒)という。これはそのままで飲めるくらいの濃度だという。

 最後の一升をシイダリと呼ぶ。これは酸っぱくて味がまずいので自家用にする。

 オームイとジダケを壺に入れて貯蔵し、儀礼ごとや来客用などに残しておくのが一家の主婦のやりくりのならわしであった。   (松山光秀)                                               

 

 


妙に気になる名前は・・・

2016-04-17 19:38:19 | 奄美

 今日は「福岡徳之島会」の日。

昨夜の嵐のような雨と風も止み・・・初夏らしい爽やかな一日でした。

同じく徳之島出身のオットと共に会場へ。

始まるまでのひと時、参加者の名簿に目を通していると気になる名前。

「〇川 博△」という女性・・・知らない人だけれど、出身地と〇川 博まで同じの友達のご主人の名前がフッと頭に浮かぶ。

その名前は「〇川 博◇☆」。

まさかなぁ。世間は狭いし・・・徳之島はもっと狭い・・・だからって博の漢字が同じというだけで・・・でも、聞いてみよ~っと。

「知り合いのご主人と苗字が一緒で、博の字から始まっているのも一緒で、妙に気になるんですけど・・・〇川 博◇☆さんっていう方と親戚だったりしませんよね~?」

・・・なぁんと、おじさんでした^m^

なので、初めて会った彼女は友だちの義理の姪っ子ってことになる。

すぐに友だちの話で盛り上がれた♪

 友だちにそのことをメールで知らせたら「島で、〇川 博・・・まで一緒なら間違いないよね。」という返事。

そんなこともないだろうけど・・・でも、どこかでみんな繋がってる^m^

そこが、同郷の集まりのいいところ。

 

 中華料理とおしゃべりと島唄で約4時間。案内状の時間通りにはいかず、のんびりとスタートし、終わりものんびり。

懐かしい島時間(^^♪

 島唄披露中・・・

 

 いつもなら、祝い事の〆は六調だけれど、熊本の地震のこともあり、自粛して徳之島小唄で。

いつ何が起こるかわからない世の中、予定通りに徳之島会ができたことは、当たり前のようでいて、実はすごいことなんだと・・・。

 

明日からまた頑張らねば!