元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

新吉原に花街の名残を求めて

2012-04-20 17:14:39 | ウォーキング

訪問日:2010-4-19
天気:曇り
メンバー:鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会

コースとタイム--*トイレ(気をつけて見ると、大通りのところどころに公衆トイレがある。台東区というのは、行政がそこまで気をつかっているのか、日本でも珍しい所だ。)
 南千住駅(9:35)→回向院→延命寺→浄閑寺(投込み寺)→(10:20)目黄不動尊→(10:50)一葉記念館→鷲神社→吉原弁財天→(11:30)吉原神社→吉原大門・見返り柳→日本堤公園*→浅草高校(旧・台東商業)→(12:40)今戸神社(13:00)→隅田川土手道→浅草寺→(13:45)ラーメン店[昼食](14:10))→地下鉄・浅草駅(14:20)

 JR南千住駅を降り、準備を整えて出発しようとしたら、「待って」と背後からメンバーの声。
確か、マクドナルド店の前だった。コーヒーを無料でくれるという。そこで、メンバー全員ゆっくりと頂く。

 駅周辺はすっかり変貌していて、回向院に辿り着くのに手間取った。小塚原刑場跡の中を常磐線が走っていて、工事の際に分断されてしまった。元は同じ敷地内だったのに、「首切地蔵」のあるほうは、延命寺として独立したとのことだ。営団日比谷線も走っていて、この刑場跡もすっかり荒らされてしまった。

回向院--両国の回向院の別院。ということで、鼠小僧次郎吉の墓が両方にある。 
 橋本左内や頼三樹三郎など安政の大獄関係者(吉田松陰のは、後に高杉晋作などにより
長州の松蔭神社に改葬)、鼠小僧次郎吉や高橋お伝などの墓もある。だが、処刑者なので、目立たないようにしてある。よく見ないと分からない。
  ここの死体の観察のおかげで、杉田玄白らによる「解体新書」が誕生したということで、「観臓記念碑」も注目すべき。

  
正面建物内は橋本左内                  「毒婦」高橋お伝

延命寺--ここの「首切り地蔵」は思ったより大きかった。 
 刑死者の死体の扱いはひどいものだったそうだ。ほとんど野山に捨てられた状態で悪臭が漂い、野良犬やカラスが突いていたという。そこで、両国回向院の住職が刑死者の菩提を弔うために1741年に建てたという。


   「小塚原刑場 - Wikipedia」 より転載させていただいた写真。

あの東北大地震で、我々が訪れた時は、在りし日の姿ではなかった。下の写真のように
左手が腕から捥ぎれていた。他の部分は、何処かに保管されているのだろうか?

  

浄閑寺--吉原遊郭の「投込み寺」 


濡髪長五郎という侠客は知らないな

 
永井荷風 の言葉                          新吉原総霊塔

 『投込み寺というのは遊郭の遊女を葬る寺のことで、遊女たちは長い勤めの末死ぬと身ぐるみはがれて寺に投げ込まれるところから名づけられたものであった。投げ込み寺は当時の遊郭にはたいていあるが、内藤新宿の成覚寺などが有名である。
 遊郭の主人には、ひどい者がいて、まだ息も引きとらないうちから浄閑寺にかつぎこんで捨てていくこともあったという。「生きては苦界、死しては浄閑寺」という文句があるが、この
寺に葬られた無縁の遊女の数はなんと一万一千余人にもおよぶということである。』
 ----改訂 東京風土図 城北・城東編 サンケイ新聞社編 教養文庫332(p.289) より

 
                                      目黄不動にて

 目黄不動から一葉記念館までの道のりで、途中迷ってしまった。しかし、よそ者にたいして、この土地の人は皆親切だ。
 あちこちで土地の人に道を尋ねたが、誰一人としていやな顔をせず、皆親身になって教えてくれた。下町の良さであろうか。ビジネスバッグを片手に持った人に尋ねた。彼はこれから会社に向かうところなのに、三ノ輪二丁目信号あたりから、一葉記念館までずっと案内してくれた。まったく恐縮です。 

樋口一葉--本年4月11日のブログで塩山の慈雲寺へ行ったことを書いた。下のはその一葉像だ。 父親の出身地ということだ。

たけくらべ」は竜泉寺界隈が舞台だ。二つに分かれた少年グループの争い。なんか、ウエストサイド・ストーリーを彷彿とさせるではないか。やがて、遊女となる運命の美登利があわれ。一葉自身も、この辺りの環境で、貧しい生活を背負っていた。しかも、若くしてこの世を去る。

 
                      鷲(おおとり)神社。下は境内にある一葉の文字。

吉原弁財天--ここに来るといろいろなことが分かる。

 『現在のNTT吉原は花園公園池を埋め立てて建設したものである。その池の中島には昔から弁財天がお祀りされていました。震災後吉原神社にも合祀され、池畔に小社が建てられ、五稲荷社ともども新吉原遊郭の守護神としてあがめられております。
 池畔の小社は現在も存在しており、苑内には花吉原名残碑、また震災殉難慰霊の観音像も建てられています。入口の両柱には明治文壇の福地桜痴居士の詩が刻まれており、明治時代の吉原大門の形がおもい浮かばれます。』(「吉原神社参拝の栞」より)

 『吉原大門通りの手前に弁才天の社がある。昔ここに花園池があって、関東大震災や戦災の時には多くの焼死者を出して、地獄池を現出したのであるが、売春防止法の成立を機会にほとんど埋め立てられ、いまはみるかげもない。浅草公園のひょうたん池などとともに、昔なつかしい池は下町からつぎつぎと姿を消してゆくのである。
 台東病院(もと吉原病院)、吉原神社を左に見て進む大通りの左右一帯は、新吉原であって、もと公認売春地帯であった。-----
 おいらん道中が行われた仲之町通りに出る。-----大門通りが曲がって終わるあたり、昔は引き手茶屋が並んでいて、登楼する者はここで紹介をうけたという。』
 ---投込み寺で紹介したサンケイ新聞社編 教養文庫p103 より 

 
芸大生たちによる壁画

 
吉原神社                       往時をしのばせるモルタル建ての民家(?)

 
仲之町通りで                      新吉原から見たスカイツリー

 仲之町通りの両側は昔の吉原で、全体が大きな四角形状に囲まれていて、周囲は「おはぐろどぶ」で区画されていたそうだ。
 遊女のいた建物は、現代では旅館や料理店に衣替えしているようだ。(吉原神社から見て)京二通りの右手には、そうした旅館も散見されたし、少し路地に入れば昔の名残を留めている家もある。

 仲之町大通りを行き、大門が近づくと一大風俗店街となる。真昼間だというのに、通りの両側を埋めた煌びやかな店の入口には、黒系のスーツ姿のお兄さんたちがお誘い姿で立っている。

 
吉原大門の「みかえり柳」 大門を出て、客が名残惜しさに振り返る場所なのであろうか。

 大門から土手通り を渡り、(いまは暗渠の)音無川の堤(もと日本堤)を、髪洗い橋経由で浅草高校(もと台東商業)へと進む。 

 
もと山谷堀道から。 この子規の句で、この道は、昔は舟が浮かんでいたことが分かる。

吉野通りを横断し、高校の裏手に出、そこから今戸神社へ向かう。

 

 今戸神社は「今戸焼き」で有名とのことだが、知らなかった。「たい焼き」の類と思っていたら大間違い。招き猫や朝顔鉢などを作る焼き物だそうだ。
 沖田総司の終焉地に関しては、他にもう一箇所、説がある。

 
  今戸神社                       浅草寺へ向かう土手道から


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