実施日;2016-01-28
天気;快晴 最高気温13℃
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー7人
カメラ;Pentax X90
交通;往き;鎌ヶ谷(6:49)-----(7:10)柏(7:15)----(7:51)川間
[南口](8:07)--[バス]--(8:40)いちいのホール(8:51)--[バス]--(9:12)関宿台町
復;納谷(13:32)--(13:56)いちいのホール*(14:18)--(15:11)#愛宕神社前
//*将棋名人・関根名人記念館併設 #「かごめ唄」発祥地説
徒歩コースとタイム--*トイレ、{}内はカット。
バス停(9:15)→(9:20)鈴木貫太郎記念館*(9:50)→{関宿あおぞら広場→}昌福寺→薬師堂→関所跡→香取神社→牧場→関宿城跡→(11:10)管理橋{→中の島公園・関宿閘門}(11:20)→(11:30)関宿城博物館*(11:55)→(12:00)けやき茶屋*[昼食](12:30)→鬼門除け稲荷→信号・博物館入口→処刑場跡→光岳寺→(13:20)香取神社→バス停・納谷
関宿という場所→
関宿城記念館の資料より
関宿は、軍事上、交易上、要の場所なので、家康は弟の康元を初代関宿藩主にしたとのことだ。弟は松平康元で、二人の母親は於大(おたい)の方だが、父親は違うという。
だが、私は、この説には賛成しかねる。世間には異父弟ということにして、康元を格別に
取り立てたのではないか。世良田の二郎三郎が後の家康だとすると、家康には弟などいない。関宿藩主指名の件で、急に名が出てきた感じだ。
乞食坊主と一緒に上州から三河まで流れて行き、その間、山賊のような集団のリーダーとなり、松平家の内乱に乗じて、その妻子及び系図を乗っ取り、松平元康に化け、世を欺いたのが、世良田の庄・徳川出身者である家康=世良田の二郎三郎。
元康の名を上下逆にし、腹心の部下を松平康元にしたて上げ、関宿初代藩主に送り込んだと考えられる。於大の方の話も信じられない。彼女と関宿との関係は何も無いのだ。
※参考→徳川家の謎 一 --家光は家康の素性の秘密を知っていた
↓下の地図で(歩行者用の)管理橋下は川の名残池で、江戸川はもっと左にあります。
カシミール3Dからの地図にソフト「ペイント」で上書きしました。
鈴木貫太郎記念館--入館料無料(野田市が維持管理)
看板の立っている右手の敷地に旧宅がありました。
貫太郎は関宿の人なのに関西で生まれた訳が分かります。堺は関宿藩の飛地だったのですね。関宿は徳川幕府の直轄地で、家康が弟を初代藩主にしたほど重要地だったことが
分かります。
日露戦争における日本海海戦時は海軍司令官であった。
226事件では、侍従長官邸で反乱軍に襲われ九死に一生を得た。
※鈴木貫太郎の墓は、関宿中の隣り、実相寺にあります。
※「ほんみち」教施設と旧関宿城跡地の間に、幾つか現役の牧場があります。
記念館から旧関宿城跡へ--
昌福寺境内にある不動堂
背後に江戸川土手が見える。右手に香取神社。
香取神社の屋根に珍しいものが。
関所跡から旧関宿城方面へ歩いていると、立派な建物があった。
何かなと近寄ると、「ほんみち」の文字が。天理教から独立した新興宗教の建物らしい。
帰宅して地図を見たら、香取神社の北側に、ほんみち本部直轄関東出張所なる施設も。
以上4枚、旧関宿城跡地から。徳川時代にはこの場所にあったが、明治時代に取り壊され、今は跡形も無い。遠方に平成の関宿城が見える。
ここから城近くまで歩き、そこから立派な橋を渡り、中之島公園へ行こうとしたが、時間がかかりそうなので、橋の途中から踵を返し平成の関宿城へと向かった。
関宿城と展示→千葉県立関宿城博物館 - 千葉の県立博物館
上記のホームページを開き、上部にある「展示案内」をクリックしてください。
入館料200円。65歳以上は無料。
関宿城博物館前。中の様子は、上記のホームページに任せる。
30分くらい時間をとったが、それでも駆け足になってしまった。
この下に「けやき茶屋」という食事処があり、そこでカレーライスの昼食にした。
鬼門除け稲荷から光岳寺へ--
鬼門除け稲荷は旧関宿城の鬼門に当たる場所だそうだ。隣りに盛り土があり、
そこに国土地理院の三角点があった。
そこからかなり南へ歩き、バス通りを横断して処刑場跡に辿りついた。
正式名は「於大の方御守り仏地蔵尊」だそうです。
徳川家康の弟である松平康元が二人の母親・於大(おたい)の方の供養に建てた寺とのこと。
光岳寺で
関根名人記念館--帰りの「まめバス」で「いちいのホール」(旧関宿町役場)に寄った。
そこの5階に(将棋の)関根名人記念館がある。
参考→野田市観光協会 観光名所 > 木間ケ瀬地区 > 関根名人記念館
展示品が並ぶ隣の部屋では、多くの将棋ファンが静かに盤を囲んでいた。
阪田三吉は、村田英雄が歌う「王将」で有名だ。
『明日は東京に 出て行くからは /なにがなんでも 勝たねばならぬ--』
野田・愛宕神社--「かごめ歌」の謎
いちいのホールを出て、まめバスが愛宕神社へと運んでくれた。
わらべうた「かごめ かごめ」は不思議な唄だ。歌詞を見ると、わけの分からない文字が
並ぶ。そのため、昔から多くの人が、この歌の謎解きに挑戦している。ネットを見ると、切が無いくらい並ぶ。
単なる子供の遊び歌ではないようだ。埋蔵金伝説と結びつけたり、人減らしの歌だと言ったり、中には古代ヘブライ語で読める、或いは日光東照宮を囲む山々を繋ぐとダビデの星が現れる、などなどだ。
諸説の中に、野田の愛宕神社が、かごめ歌発祥地だというものもあり、愛宕神社に寄ってみた。社殿の周囲に彫刻が施されていて、下の部分が問題のようだ。籠の中は軍鶏のよう
に見えるが---
この問題はあまりにも奥が深く、私の手におえないので、最後に、続きの歌詞を載せて
今日は終わりにしたい。 歌詞は、この他にも、地域によっていろいろある。
①番 かごめ かごめ
かごの中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
うしろの正面 だあれ
②番 向こうの山で 鳴く鳥は
信心鳥か ニワトリか
銀三郎のお土産に 何と何とを買ってきた
金ざし かんざし 買ってきた
納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてった
③番 その文だれだ 金三郎の妻だ
金三郎の妻はさんしょにむせた
④番 鎌倉街道の真ん中で 一抜け 二抜け 三抜け さくら
さくらの下で文一本ひろった