彼が初めて日本に漂流・上陸したのは焼尻島で、そこにはトーテンポールがあるとのこと。そこから利尻島に移された。現在、野塚展望台に記念碑があり(私は未だ訪れてない)、この島を最初の上陸地としている。
「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで 夜も寝られず」(上等の茶である上喜撰を蒸気船にかけて、ペリー来航の状況を皮肉っている。船も一っぱい、二はいと数える。)
幕末の日本にやってきたペリー艦隊に、時の幕閣は右往左往。日米友好通商条約は明らかに不平等条約であるが、このときの日本側通訳が森山栄之助。彼はその後日本に降り懸かる数々の外交交渉に、通訳(主席通詞)として中心的役割をはたす。彼のオランダ語はオランダ人より美しい発音だったそうだが、英語の方はいまいちで、辞書を片手に何んとか役目をはたしていたようだ。
それでも、当時としては、[注]英語において彼の右に出る者はいなかった。その彼に英語を教えたのが、インディアン系アメリカ人、ラナルド・マクドナルドであった。幕末の外交交渉は森山がいなかったら不可能であったと言ってもよく、わが国における英語利用の歴史はラナルド・マクドナルドに始まる。その意味で、彼の評価はあまりにも低い。
[注]同時代に、米国から戻ったばかりのジョン万次郎が土佐にいた。彼は本場の英
語が堪能であったため、1854年ペリー来航で急遽、土佐の中浜から幕府に呼び
出された。ところが、米国滞在が長かったため、幕閣からアメリカのスパイだ
と言われ、ペリーとの交渉からすぐに外され、土佐に戻されてしまった。
なお、不法入国者・マクドナルドの尋問に立ち会ったのも森山であった。
森山栄之助(多吉郎) の墓所は巣鴨の本妙寺にある。→「王子・狐の行列」コー
スを歩いてから染井霊園へ
その功績を讃えて、(正式名称は忘れたが)「日本マクドナルドの会」というのがある。元都立小岩高校のI 教諭(社会科)はその会員で、マクドナルドの研究者だ。
実は、そのI教諭から教えをいただくまで、私はマクドナルドの存在すら知らなかった。もう、二十年以上前のことだ。マクドナルドに関する研究書や諸々の資料を記した膨大な記録のコピーを先生からいただいた。それによると、最近ようやく、中学や高校の英語教科書にもマクドナルドが紹介されるようになった。
そして、吉村昭著『海の祭礼』(文春文庫)の誕生となる。我が国の英語史・英語教育に関心のある人にはぜひ読んでもらいたい本である。『マクドナルド「日本回想記」--インディアンの見た幕末の日本』(富田虎男訳、刀水書房・刀水歴史全書5。310p、1,854円、ISBN4-88708-005-0、1993年)も所有しているが、欠かせない本だ。
元はといえば、アメリカの捕鯨活動に端を発する問題で、美浜町の小野浦にある「岩吉・久吉・乙吉 頌徳(しょうとく)記念碑」(いわゆる三吉記念碑)も、日本初の和訳聖書と共に無視できない。