実施日;2018-10-25
天気;快晴
同行者;鎌ケ谷ハイク&ウォークの会、メンバー5人
カメラ;ニコンCoolPix S6600
交通機関;
電車;船橋(6:58)---[快速]---(7:13)千葉(7:27)--(7:40)八幡宿→駅西口
バス; 駅西口(7:58)--[バス*]--(8:08)郡本→(徒歩0.5k)府中日吉神社
*山倉こどもの国行き
徒歩コースとタイム;*トイレ
(8:30)日吉神社(9:00)→能満幼稚園→(9:40)埋蔵文化財センター*(10:10)→(10:50)上総国分尼寺跡展示館*(11:25)→(復元)国分尼寺伽藍→展示館前(12:05)→(12:15)国分寺中央公園*(12:25)→(12:35)市役所*[食堂で昼食](13:05)→バス停・市民会館前(13:15)→(13:25)国分寺(14:10)→(14:20)バス停・市民会館前(14:39)--[バス]--(14:47)アリオ市原→(14:50)上総更科公園*(15:05)→(15:25)
{五井駅東口側手前200m}菅原孝標女像(15:35)→(15:40)五井駅
歩行距離;社寺や公園内の歩行距離をプラスすると、合計約10キロ
バス停(0.5k)府中日吉神社(6.7k)市原市役所(1k)国分寺(1k)バス停・市民会館--[バス]--アリオ市原(0.2k)更科公園(1.3k){五井駅東口側}菅原孝標女像(0.2k)五井駅
Mapion 地図に、ソフトの「ペイント」を用いて上書きしました。
※阿弥陀寺伽藍はなく、その跡地に能満幼稚園があった。
府中日吉神社--
この神社、頭に「府中」が付く。国分寺・国分尼寺との関係で無視できない。
また、北側には能満城があったと言うことだ→府中日吉神社の北200mほどの所
まさか、国府に対して鬼門の役目をしていたのではあるまい。
上から3番目の字が気になる。これが「日」か。
日吉神社とか日枝神社では、猿が神のお使い。それにしても、狛犬に代わるとは
珍しい。初めて見た。
本殿
馬頭観音の合祀 桜が咲いていた。
埋蔵文化財センター--マイカー以外は、交通に不便だ。月曜は休館日。
訪れる人は先ず少ないだろう。写真撮影OKというのが気に入った。
この近くの発掘で採集されたものが展示されている。
猪の埴輪
創建当時の上総国分尼寺と関連施設の威容--
広大な敷地内に復元された回廊を見る前に付属施設の展示館で、映画やジオラマを用いて係りが説明してくれた。所要時間は30分くらいだろうか。
礎石は金堂があった場所。
光り輝く銅の灯篭がある場所が金堂の跡地。
以上、金堂を除いて、中門と回廊が復元されていた。原寸大だそうだ。これだけのものを、県・文化庁・奈良の修復技術者など、国を挙げての一大プロジェクトだったという。木材や塗装の材料など、天平時代と同じものを使い、加工道具も電動式ではなく、当時の手斧や鉋などを用いたというから脅威の技術だ。
これだけの文化遺産は他にないだろう。我々は回廊の中をゆっくりと歩かせてもらったが、柱はエンターシスなんだろうか。
※そこから緑豊かな国分寺中央公園の中を通り、(部外者も此処の食堂利用可とい
う情報だったので)市役所の中に入った。
千葉県は農作物が猪・猿・鹿などの被害甚大だという。そこで猪を捉えて食用に
との流れができ、その肉を利用したカレー(400円)がメニューにあったので、私
はそれを注文した。食べてみると、結構いけるではないか。
上総国分寺--尼寺を先に観たので、僧寺のほうは礎石程度しか残っていないだろうと
予想したが、辿り着いて驚いた。建造物など、いろいろと残っていた。
西門の礎石の向こうには仁王門が見える。そこには二体の金剛力士像が立っていた。
仁王門の前で説明板を読む同行者。なお、説明板の右手横の宝篋印塔は「将門塔」
と言われている。
なんと珍しい茅葺の薬師堂。
鐘楼
現在の国分寺(真言宗豊山派)。手前の像は弘法大師・空海だろう。
七重塔が立っていた場所。中央の礎石が心柱の土台。
この礎石を中心にして七重の塔があった。現在の市原市役所よりも高く聳えていたというから、何処からも見えた素晴らしい塔だったに違いない。
※ここから市民会館前のバス停に戻り、そこから上総更科公園までバスを利用した。
菅原孝標の女(むすめ)像--駅前ではなく、駅の手前200m位・道路中央分離帯の中
にある。上総に来たのは、彼女が10~13歳の頃だという。
菅原道真の子孫である菅原孝標は、上総の国司として朝廷から任命され3年間の
任期を務めた人。更級日記の作者である菅原孝標の娘は、父に伴って京から上総
に来た人。任期を終えて京に戻るときは大変な数の行列だったらしい。
「上総いちはら国府祭り」は現代の住民たちが当時の装束で牛車(ぎっしゃ)を先
頭に「更科通り」を練り歩く祭りだ。
現代語訳「更級日記」冒頭の部分---史跡上総国分尼寺跡展示館の資料より↓
『門出をして、かりに移って来た「いまいち」のすまいは、まわりに塀や垣根もなく、間に合わせの茅葺きの家で、しとみ戸もない。人目をさえぎるために、すだれ
をかけ幕などを引きめぐらすだけである。南は、はるかに野原が見渡せる。東と西
は海が近くて、景色がとても美しい。---』
船橋の貝塚ではイノシシの骨は出てきていますが、埴輪はないみたいで...。