やっと着いたと思っても、そこは山頂ではなく御幸が原。この名のいわれを知りたいが、今のところ、まだ分からない。下の神社からここまで「筑波山への道」をケーブルカー沿いに登ってきたわけだ。
話はそれるが、それで思い出したのが「筑波の道」。俳句の祖先である連歌(レンガ)のことを「筑波の道」と言い、筑波山が発祥の地となっている。これは日本書紀にも古事記にも載っていて、山門の片側に収まっていた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が大元。 彼が父・景行天皇の命により東夷征伐に向かう際、筑波山に寄り、甲斐の国・酒折宮にたどり着いた。そのとき、「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と詠んだ。それに対して、御火焼翁(オヒタキノオキナ)というのが、「日々並べて 夜には九夜 日には十日を」(筑波からここまで10日かかりました)と答えたそうだ。
一種の問答歌で、これが連歌の始まりとされ、「新治筑波を過ぎて---」から、連歌のことを筑波の道というようになった。
前九年の役のときの、源義家と安倍貞任のやりとりも連歌と言ってよいだろう。
衣のたてはほころびにけり 義家
年をへし糸のみだれのくるしさに 貞任
この始めの部分が発句(ホック)として独立し、芭蕉の俳諧で発展し、正岡子規の改革で発句→俳句となった(と高校で習った)
そのまま、一気に男体山へ。休憩無しにしたので、20分ぐらいの登りだが脚にくる。測候所の隣りに小さな社がある。眼下に筑波学園都市方面が見渡せる。
集合写真をとり、御幸が原に降りる。広場の砂利にシートを敷き、そこで昼食。シーズンほどではないが、けっこう人が多い。
昼食後、女体山に向かう。茶店の前にセキレイ岩が現れる。
この岩の名を巡って、形状にしては納得できないし、何だろうと分からなかった。あとで分かったのだが、太古、この岩にセキレイがとまり、イザナギとイザナミの二神を引き合わせたという伝説があるそうだ。
この岩に気を取られて、大事な忘れ物をしてしまった。というのは、横瀬夜雨の詩碑をミスってしまった。
横瀬夜雨の存在を知ったのは数年前。かつて、都立K高校の山岳部の部員だったY君と足慣らしに訪れたときだ。この詩碑に接し、それ以来この異質の筑波嶺詩人が気になりだした。
後で分かったのだが、この茶店の辺りは道が二本になっていて、セキレイ岩の道ではないほうにあるのだ。---この穴埋めに、小貝川にポピーが乱舞する頃、下妻にある彼の生家や他の文学碑を巡りたい。「ビアスパークしもつま」で地ビールを飲むのもいいなぁ。
【横瀬夜雨】彼は筑波山麓の郷土をこよなく愛し、中央に名が知られるようになっても、郷土を離れることは無かった。それで筑波嶺詩人と言われ、筑波山に詩碑があるのだ。代表作に「お才」というのがある。横瀬家に越後から(家が貧しいので)奉公にきていた少女をモデルにしたという。
以下に詩「お才」を転載する。冒頭の「女男(フタリ)居てさえ---- -----寂しいもの」の部分が筑波山の詩碑だ。
女男居てさえ筑波の山に 霧がかかれば寂しいもの 佐渡の小島の夕波千鳥 弥彦の風の寒からん 越後出てから常陸まで 泣きにはるばる来はせねど 三国峠の岨道を 越えて帰るは何時じゃやら お才あれ見よ越後の国の 雁が来たにと騙されて 弥彦さんから見た筑波嶺を 今は麓で泣こうとは 心細さに出て山見れば 雲のかからぬ山は無い
※横瀬夜雨の生家近くの小貝川河畔には「やれだいこ」の直筆の詩碑「花なる人の恋しとて 月に泣いたは夢なるもの やぶれ太鼓はたたけど鳴らぬ 落る涙を知るや君」が建てられている。
がま石の前に来た。開けた口の中に小石が詰まっている。下から投げ上げて、口の中に納まれば出世するとのことだが、すでにいっぱいで納まらない。
女体山山頂の岩場 一等三角点や日本百名山の字も見える。
女体山から男体山を見る
祠の在る女体山は狭い岩峰になっている。危険なためか、なぜかこの日は人でごったがえすことはなかった。先端の岩の上に立てば360度の展望だ。
ここでも集合写真を写り、つつじヶ丘への下りを開始。(→その3へ続く。)