実施日;2017-02-16
天気;晴れ、かなり暖かった。
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー6人。
カメラ;pentax X-90
コースと参考タイム--
①当初の予定コース
竹橋駅→和気清麻呂像→将門首塚→楠正成像→愛宕山(曲垣平九郎)→青松寺
(肉弾三勇士)→金地院(崇伝)→増上寺(三解脱門など)→猫塚→六本木ヒルズ→
[昼食]→賢崇寺(226青年将校の墓)→善福寺→がま池→有栖川宮公園→広尾駅
②実際のコース(足を怪我しているので、標準タイムではありません。)
竹橋駅→和気清麻呂像(9:40)→皇居二重橋前→楠正成像(10:50)→将門首塚
(11:35)→{地下鉄・大手町駅----地下鉄・御成門駅}→(12:15)愛宕山・愛宕
神社(曲垣平九郎)(12:45)→青松寺(肉弾三勇士)(13:25)→東京タワー→増上寺
→三解脱門→芝丸山古墳→赤羽橋→(15:00)三田国際ビル前・食事処[遅い昼食]
(15:40)→猫塚→オーストラリア大使館→信号・麻布山入口→ピーコックストア→(16:30)賢崇寺
(226青年将校の墓)(17:00)→(17:20)麻布十番駅
goo地図(その1)
goo地図(その2)
goo地図(その3)
和気清麻呂--この銅像が皇居にある謎
この人は昔の教科書には載っていたが、道鏡の野望を打ち砕いたことで有名であった。備前の国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身とある。となると、同郷の先輩に吉備真備がいる。彼は遣唐使に派遣された秀才。同じ遣唐使に藤原仲麻呂 がいて、二人は日本に帰ってきて朝廷の中枢で争うことになる。鎌足の血筋を引く仲麻呂が女帝・孝謙天皇に成り替わろうとしたのが「藤原仲麻呂の乱」。それを阻止したのが
吉備真備だが、それを機に清麻呂は急に出世する。どうも、吉備真備の引きだろう。
さて、今度は道鏡という怪しい僧が孝謙天皇の寵愛を受け、更に天皇を目指す。宇佐八幡の神託が出たという。その危機を救ったのが和気清麻呂だ。岡山のほうの下級役人ということになっている者が、女帝をシンボルに国政の実権を握ったのが清麻呂だろう。戦前の教科書では、皇統の危機を救った偉人となっていて、肖像が紙幣にもなった。
上の画面で、クレーンの下・金網の中に清麻呂像がある。この日は、工事中とあって
中に入れなかった。皇居には他に楠正成像があり、この2体だけである。
マッカーサーがやって来て、日本各地の小学校から二宮尊徳像が消えた。なのに、旧第一生命ビルの執務室の眼前にある旧体制の遺物・この二体を何故彼は破壊しなかったのか?マッカーサーは日本に来る前に相当勉強したのであろう。天皇をA級戦犯などにしてはならない、と彼は考えた。天皇に対する日本人は宗教のようなもので、天皇教と言ってもよい。日本をうまく統治するには、これを利用しようと彼は考えたようだ。現に、マッカーサー統治下、一度もゲリラなどの抵抗運動や反乱など起こっていない。皇居前の執務室に座っているだけで、北海道から沖縄まで、一度も占領地域を視察などしていないのに、日本全国津々浦々平和裏に治まっている。まさに名君だ。
さて、和気清麻呂像に関して、残した理由が「マッカーサー回顧録」の中にある
そうだ。"---, because he is my senior." 彼は私の先輩だから、と述べている。
藤原仲麻呂や道鏡のように、目の前の天皇を排除して、自分が天皇に成り替わるのではなく、和気清麻呂のように、天皇は象徴として残し、自分が実権を握っていれば
良いとマッカーサーは考えたのだ。
楠正成像--孝明天皇の息子なら、明治天皇は北朝のはずだが。
世間では北朝の明治天皇と思っていた明治初期、宮廷かどこかで「私は南朝だ」とポロリと口走ってしまったとのことだ。
ここに「明治革命」の謎があり、皇居に楠正成像がある理由なのだ。私など、
後醍醐天皇のために福井まで遠征して、そこで壮絶な戦死を遂げた新田義貞のほうが
相応しいと思うのだが。
「防長回天史」なる史書があり、その中の何処かに明治天皇擁立の件があるそうだ。明治天皇については、昔、幸徳秋水も真実を述べている。私は今から20年前に(鹿島曻著)「裏切られた三人の天皇」[新国民社]を購入した。これは誰でも入手できるだろう。この本がきっかけで、多くの研究者が調査し、長州の旧田布施村出身・大室寅之助が孝明天皇の後継ぎ・睦仁親王に成り替わったというのだ。
20年前と違って、今や注意して探せば、多くの人がネットに書いている。外人も含めて沢山あるので、京都明治天皇と東京明治天皇のことは、そちらに任せる。
結局のところ、睦人親王は、南北朝並立時代で言う持明院統だから北朝。楠正成などがサポートした後醍醐天皇は南朝で大覚寺統。南朝の末裔ということにして伊藤博文や岩倉具視などが担いだのが東京明治天皇。明治もかなり経ってから、正統天皇をを知らしめすために南朝の忠臣・楠正成像を皇居に建てたのだ。
A級戦犯で田布施村出身の岸伸介を追放しないで日本統治に利用したぐらいだから、マッカーサーが明治維新の裏・田布施システムを知らないはずはない。だから、忠臣・楠正成像も壊さないでそっとしたのだろう。
占領下の日本国民は、楠正成のように、天皇--おおっと、マッカーサーの忠臣であった。マッカーサーは第一生命ビルの6階(?)から昭和天皇を監視さえしていれば
それでいいのであった。
将門首塚--正成像から将門首塚まで、歩くと結構距離がある。
回る順序を間違えて失敗であった。それで、愛宕山まで地下鉄移動となった。
将門の祟り--大手町再開発でも生き残った首塚。首塚を壊して大蔵省の庁舎を建てたら、怪我や病気にかかる人が続出。大蔵大臣の病死をきっかけに現職の課長以下数十名が不審死。更に、GHQが乗り出したら、ブルドーザーの運転手も事故死。
ついに断念して現在に至る---という首塚。周りを高層ビルに囲まれて、現在も祀られている。
徳川幕府は京都に対抗して、こちらのほうが日本の中心だと唱える。先輩がいたではないか。関東を平定して自ら新皇と名乗った平将門だ。徳川幕府は首塚にあった神田明神を現在の地(江戸城の鬼門)に移し、「江戸総鎮守」とし、将門を神と崇めた。
愛宕山--NHK発祥の地で、都内最高26mだ。高層ビルの無い昔は、眺めが良かったであろう。桜の名所であったらしい。「桜田門外の変」では、浪士たちがここに集結して打合せをしたという。上から見下ろすとぞっとする急勾配の 「出世の石段」は有名で、講談や浪曲でお馴染み。家光の提案で曲垣平九郎が馬に跨り、下から駆け上がり、上の梅の枝を取って来て将軍に差し出したという話。更に、下りも実行したというから驚きだ。義経の鵯越えの逆落しは勾配35度というが、こちらはもっとあるのでは。とても人間業ではない。人間の私たち一行は、危険なので別の女坂から降りた。
山上にある池
伊勢へ七度熊野へ三度、芝の愛宕へ月参り→『東海道中膝栗毛』や俗謡にある言葉。
「桜田門外の変」集結所 間垣平九郎ゆかりの「出世の石段」
愛宕山中の青松寺にある「肉弾三勇士」像の一部。戦時中は揃っていたようだ。
観光目的での入墓は拒否される。特攻隊やIS自爆と関連付けられたくないようだ。
増上寺~猫塚~賢崇寺--日比谷通りに面している二天門・三解脱門・旧大徳院霊廟惣門は、いずれも国重要文化財で一見に値する。
移動中の道路で、ド派手な一向に遭遇した。
↓ 猫塚は赤羽小学校の敷地内にあり、勝手に入ることは認められない。
赤羽小から賢崇寺まで、延々と歩かされた。バスなどを使ったほうがいいみたい。
賢崇寺は、北側からでないと入れない。信号・麻布山入口から道路を北上し、ピーコックの所で左折。最後は急坂を南へ登ることになる。226事件の青年将校の墓がある。
本来は佐賀藩・鍋島家ゆかりの寺である。
※前回のブログ→梅の花を観に青葉の森公園へ で書いたように、今日も足を引き
摺りながら歩いた。半月経っても治らないので、翌日整形外科に行き、レントゲン写真
をとってもらった。医師から差し出された画面をよく見ると、骨折していた。
「山はおろか、ウォーキングは2~3ケ月駄目でしょう。」が最後通告。
よって、それまでブログは長いお休みです。