<上野の山の歴史は天海から始まる>
【GPS軌跡が利用できるM-241】
これに関しては 私のパソコンの師匠・Moon55さんから紹介はされていた。地図上にGPS軌跡が取り込めるとあって、アウトドアには必須のグッズであることは分かった。だが、使いこなすには面倒らしい。ということで、M-241は購入したが、しばらくはほっといた。いろいろ教えてもらおうと、先日、上野に持参した。
帰宅して、ブログに利用しようとしたが、なかなかの難敵。この数日、他のことは放っといて、このM-241と格闘。軌跡入りの地図だけは何んとか jpg ファイルに変換して、ブログに発表できるようになった。
以下の地図は「ペイント」に取り込んで、Google の地図に上書きしたものである。
M-241 のデータから。この日は、暑い中をトータル約10キロ歩いたことになる。
松戸駅から常磐線快速に乗って上野駅に着いた。その一つ上のホームだったか、
たしか、14番線ホームの到着先頭場所に、啄木の歌碑があった。あまりにも有名な短歌だが、所在場所は、ほとんど知られていない。
啄木の歌碑のそばにある朝倉文夫の彫刻。「三相 知情意」
改札を出て京成上野駅方面に向かうと、以下の碑がある。
上野の山の歴史は天海に始まる
西郷像は誰でも知っている。明治新政府が建てたものだが、除幕式に立ち会った西郷夫人が「うちの人はこんな顔じゃない」と口走ったという。鹿児島の銅像とはえらい違いだ。そこに新政府の意図があるのではないか。
その西郷像の後ろに彰義隊の墓が、目立たぬように立っている。
その彰義隊の墓のさらに後方に、さらに目立たぬ一角がある。木立に囲まれてよく捜さないとわからない。この柵の中に天海の毛髪塔が立っているのを知っている人は少ない。だが、今で言う上野の山は、すべて天海の設計プランで装いを新たにしたのだ。
家康・秀忠・家光、三代に使え、徳川家の黒幕として活躍した天海は家光に至って、その影響力が頂点に達した。
先ず、天海は江戸城の鬼門にあたる上野の山を比叡山に見立てた。
比叡山と延暦寺、天台宗と年号、琵琶湖と竹生島、弁財天と清水寺---これらを全て(東の京である江戸の)鬼門に持ってきたのだ。いちいち述べよう。
東の比叡山→東叡山、延暦寺→寛永寺(これも天台宗)、年号→延暦と寛永、
琵琶湖→不忍池、竹生島神社→中ノ島弁財天、京都清水寺→清水堂、(吉野の桜→上野山へ移植)---。いかに天海がこだわったか、これらで分かる。
上野の山には、本来お寺はなかった。家光の意向で天海が寛永寺を建て、山全体が寛永寺の境内となった。---ここで話がそれるが、家光・天海・春日局の関係は異常と言わざるを得ない。以前に次のような記事を書いた。→徳川家の謎 一 --家光は家康の素性の秘密を知っていた
先の大戦で破壊されたが、秀忠の墓は増上寺にある。いや、将軍は死ねば増上寺に葬ることになっていた。
---『家光は秀忠の増上寺に埋葬されるのを頑強に拒否し、日光を選んだ。幕閣は困り果て、ならば、神君家康の傍らに、と申し出たところ、「ただ大師堂(天海)の側に納むべし」、つまり、天海の側でなければいやじゃ、と言い張ったのである。--「もうひとつの徳川物語 将軍家霊廟の謎」浦井正明著。』
学校歴史では「家光は秀忠の子」と教わった。だが、それでは不可解なことが多すぎる。家光は幼少時には両親から疎んじられ、自殺を図ったこともある。さらに、長じて将軍跡継ぎ騒動の時には、春日局が静岡の家康のところに談判に行って、家光を将軍にする約束をさせている。一介の「うば」が「出女に入り鉄砲」の時代にそんなことができるはずがない。切腹・(実家の)お家断絶は明らかだ。
それが出来るのは、彼女が家康の女だからだ。ずばり言って、家光は、家康と彼女の間にできた子。彼女が家光の母親だからこそ、大奥に君臨し、大老や老中をしかりとばしていたのだ。家康が秀忠に向かって、「お前の子として、預かっておけ」ということにしていたのではないか。
ひょっとして、春日局は天海とも通じていたのかもしれない。家光の天海に対する傾倒振りには、春日局の影響があったのかも。
家光のお守り袋には、「コンケンさま」つまり、家康に継ぐ、「(二代)ショウクン」のような文字があったという話しがある。家光は、秀忠の子ではなく、家康の子であることを春日局から聞かされていたのかもしれない。
家光が馬鹿殿様だったとの話もある。それは母親のお墓も知らなかった ということからきている。お付の者と増上寺に出かけたときのことだ。秀忠の墓の隣の石積みを見て、あれは何だとお付の者に尋ねた。「~院さまです」と聞いて、「目障りだから壊してしまえ」と言ったそうだ。これが、自分の母親の墓も知らなかった、との源である。---自分の母親が亡くなったとしよう。当然、葬式があり、納骨がある。一般人でも、その場には必ず出席する。ましてや、徳川家の跡取りか将軍なら、周囲や世間の手前、「俺は気に食わないから、出ない」なんてわけにはいかない。
家光が知らなかったというのは、葬式にも納骨にも立ち会ってなかったからだ。つまり、その石積みは、家光の母親ではないからだ。彼が将軍になったら、兄弟であるはずの駿河大納言忠長を高崎城に幽閉し毒殺している。
話を元に戻そう。これで、家光が増上寺に埋葬されることを拒み、天海に寛永寺を建てさせ、さらに、日光に、さらに、天海のそばに、埋葬されることを、願ったのであろう。ついでだが、秀忠が全国の大名の力を結集して建てさせた東照宮を、家光は自分の代になって建て替えたのである。秀忠の子だとしたら、これも信じられない行為だ。(*当時の日光東照宮の拝殿は群馬県世良田東照宮に移築されている。)
建物が老朽化したとでも言うのか。家光としては、秀忠色を払拭したかったのだろう。
こういう調子で語っていくと、話が終わらなくなる。上のような背景の下、要するに、家光の意図を汲んで、天海が上野の山に(東の比叡山構想で)寛永寺を建てたのが、現在の上野公園の始まりだ。
三平の妻・海老名香葉子が私財を投じて建てた平和祈念母子像「時忘れじの塔」
右上大仏顔に関しては↓
巨大にお化け灯篭 小松宮像
ボードワン像の近くで オランダの医師で、上野戦争で焼け野原になった
上野の山を公園にするように明治政府に進言した人
南北戦争の北軍の将・グラント将軍
野口英世像
この日は噴水前広場で、中国雑技団が路上パーフォーマンスをしていた。↓
これを見てから、一旦、東京文化会館まで戻り、その脇にあるレストランで昼食をとった。冷房が効いていたのでゆっくり休み、再び東照宮方面に向かった。
藤堂高虎の土地に建てられた東照宮(江戸在住の各大名が日光まで行くのは大変だろうということで建てられたそうだ)
下の不忍池ではハスが花を咲かせていた↓
不忍池の弁財天を通り、旧岩崎邸に向かう。気温が高くなってきた。
旧岩崎亭 *(入館料400円、65歳以上は200円)
※[参考]Mapple地図でのGPS軌跡(色が赤にならない のが不満。どなたか教えてください)↓