日時:2012-10-15
*早起きして朝風呂に入り、その後、朝食まで山荘前の湖畔を散策した。
やがて、陽が射してくると紅葉が見事であった。
以下25枚、未整理のまま掲載しました。
湯の湖の湖畔で
ススキの向こう側が湖面です
大学時代のハイキング部夏合宿で登った温泉岳を望む
[バス・湯けむり号] 山荘(10:00)--竜頭の滝前@---(11:15)麺亭・表参道[昼食]
*(12:35)→松戸へ
@竜頭の滝周辺の(滝上のPも含めて)Pは満杯。車は路上に溢れていて、土日も
平日も関係ないみたいだった。
*[昼食後の散策] ---東照宮周囲
麺亭(11:35)→(11:55)大猷院[家光墓所](12:00)→東照宮(12:15)→
(12:25)麺亭
●大猷院(たいゆういん)---家光の墓所がここにあることへの疑念
多くの人は疑念さえ持たない。家光は三代将軍ということになっている。秀忠を飛び
越して家康に次ぐ地位にあるのであろうか?このことに関して、多くの作家や研究者が
書いている。その中で、一番分かり易く説得性があるのは
浦井正明著、『もうひとつの徳川物語』--将軍家霊廟の謎(誠文堂新光社)
であろう。著者は上野寛永寺の執事長だが、本の中のポイントを以下に挙げる。
①家光は秀忠の建てた東照宮を立て替えてしまった。
②家光と春日の局の異常な関係
③家光のお守り袋--「二世しょうくん」「二世こんけん」の紙切れ
さらに、家光が、秀忠とお江の子とするには、辻褄が合わない数々のエピソード。
要するに家光は「両親、特に母親(お江)」を憎んでいたのだ。そして、本当の母親から
(秀忠を飛び越し)「二世しょうくん」と知らされていた。
春日の局が駿河にいる家康の元へ直訴に出かけ、並み居る幕閣の前で、わが子
・竹千代を三代将軍に認めさせた話は有名だ。
秀忠は家康から「竹千代をお前の子として預かってくれないか、そして成人したら
将軍の座を竹千代に譲れ」と言われ、(お江はともかく)秀忠は家康の命を約束通り
守ったのだ。このことは、春日局も知らされていたはずだ。だから、竹千代自殺未遂
をきっかけに、彼女は家康の元に談判しに行った。
二代将軍秀忠が未だ男盛りの年齢で、突然、若い家光に将軍職を譲った謎は、
神君・権現様である家康の絶対命令であったからだ。
身分のいやしい乳母が「出女に入り鉄砲」の時代に、箱根の関所を越えて大御所
家康に接見など、できるはずがない。
ずばり言うと、家光は、家康と春日の局の子。本人も「自分は(家康の次の)二世しょう
くん、二世こんけん」と自覚していた。だから、家光は遺言で家康の傍らに葬らせた。
それが、大猷院である。
もし、秀忠の子なら、墓は増上寺でなければならないし、増上寺にあった(母親でない)
お江の墓を「目障りじゃ、壊してしまえ」と命じるはずがない。幼少時に苛められた恨み
があるのだ。ついでに言うと、将軍になると、国千代(後の忠長)を毒殺しているし、春日
局は将軍の母親として、絶大な権力を握り、大奥の支配はもとより、政治にも口を出し、
幕閣を顎で使う始末。
大猷院
二荒山神社鳥居。 ふだらく→ふたら(→二荒→日光)
東照宮表門
東照宮五重塔
輪王寺三仏堂
奇遇ですが私も14日に日光に行って大猷院と東照宮を見てきました。奥日光には行きませんでしたが。
ところで、
>要するに秀忠は「両親」を憎んでいた
のところは、「家光は「両親」を憎んでいた」ですよね。
ところで、日光は天候に恵まれましたね。東照宮裏手の滝尾神社の方は行かれましたか?