実施日;2018-05-25
天気;晴れ、気温もそれほど高くはなかった。
同行者;鎌ケ谷ハイク&ウォークの会、メンバー6人
カメラ;ニコンCoolpix (B500+S6600)
徒歩コース--タイムは一応書くが、参考にはならないだろう。
市ヶ谷駅(9:30)--(10:00)浄瑠璃坂決闘の地--(10:20)うなぎ坂--(10:55)光照寺(11:05)--神楽坂--(11:10)本多横丁--(11:20)筑土八幡(11:35)---小桜橋--(12:10)徳川慶喜終焉の地(12:15)--(13:05)小石川後楽園西門---(13:10)涵徳亭美都屋
[昼食](13:35)---(13:40)後楽園内散策---西門(15:35)--(16:00)礫川(レキセン)公園
[春日局像]--後楽園球場前--(16:20)水道橋駅
地図(1)
地図(2)
浄瑠璃坂を行く--江戸は武蔵野台地なので、坂が多い。この坂の命名に関しては諸説あり。
浄瑠璃坂
忠臣蔵の手本になったという仇討で、江戸三大仇討の一つ。
神楽坂から横丁に入る
筑土八幡神社--この下は交通の要所となっていた。筑土八幡に関して、大変興味ある
因縁があるのだが、話が長くなるので、改めて次回に項をたてる。
音楽教育の大先輩だ。
光照寺--牛込城のあった所なので、昔は小高い場所だったのだろう。
金富小横の坂道(今井坂)を登ると慶喜が3年間暮らした小日向第六天屋敷跡がある。
慶喜終焉の地--地下鉄丸の内線すぐ手前で、仏教大学院門の前にある。
敷地三千坪の変遷;(江戸時代)松平播磨守の上屋敷→(慶喜の)小日向第六天屋敷
→大蔵省官舎敷地→財務省管理地→国際仏教学大学院大学敷地
晩年の三年間、何と、明治34年から大正2年まで生きていたのだ。
小石川後楽園--水戸藩徳川家上屋敷跡、造園は徳川光圀
涵徳亭美都屋の食事処。後楽園の庭が見える。
後楽園弁当を食す--750円
礫川(レキセン)公園を出た歩道で[こちら側道路は春日通り]
昔この辺りには川が流れていたが、小石(礫)が多かったのが小石川の地名となったと
の説あり。
◎春日局の墓は湯島天神の西方にある麟祥院にある。その前も春日通りなんだから、
像を建てるなら麟祥院の前がよいのに、何でこの公園前なのか?昔からではなく、
NHK大河ドラマ放映後の平成になってからと書いてある。
◎学校の教科書でも今だに「家光の乳母」と教えている。専門研究者の間では、彼女
は家光の母親だと認めざるを得なくなってきた。辻褄が合わないことだらけだから
だ。身分の低い乳母なんかが、老中などの幕閣を呼びつけて頭ごなしに怒鳴り散ら
すことなど出来るはずがない。この時代、幕府で一番えばっていたのは春日局。
(何しろ将軍の母親だから。)
箱根の関所を(何の咎めも無く楽々と)通過して、「家光を次期将軍に」と駿府城に
居る家康に直談判に行けたのは何故か?
この件に関しては、これまで、いろいろブログでも書いてきた。以下を見てもらい
たい。
徳川家紅葉山文庫の『松のさかえ』の「神君家康公御遺文」〔慶長19年(1614)
2月25日付〕、「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也」