元高校教師のブログ[since2007/06/27]

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東京の旅⑧--浄瑠璃坂の決闘、徳川慶喜終焉の地、小石川後楽園

2018-05-27 11:59:53 | ウォーキング

実施日;2018-05-25
天気;晴れ、気温もそれほど高くはなかった。
同行者;鎌ケ谷ハイク&ウォークの会、メンバー6人
カメラ;ニコンCoolpix (B500+S6600)

徒歩コース--タイムは一応書くが、参考にはならないだろう。
 市ヶ谷駅(9:30)--(10:00)浄瑠璃坂決闘の地--(10:20)うなぎ坂--(10:55)光照寺(11:05)--神楽坂--(11:10)本多横丁--(11:20)筑土八幡(11:35)---小桜橋--(12:10)徳川慶喜終焉の地(12:15)--(13:05)小石川後楽園西門---(13:10)涵徳亭美都屋
[昼食](13:35)---(13:40)後楽園内散策---西門(15:35)--(16:00)礫川(レキセン)公園
[春日局像]--後楽園球場前--(16:20)水道橋駅


地図(1)


地図(2)

浄瑠璃坂を行く--江戸は武蔵野台地なので、坂が多い。この坂の命名に関しては諸説あり。


浄瑠璃坂
忠臣蔵の手本になったという仇討で、江戸三大仇討の一つ。


神楽坂から横丁に入る

筑土八幡神社--この下は交通の要所となっていた。筑土八幡に関して、大変興味ある
 因縁があるのだが、話が長くなるので、改めて次回に項をたてる


音楽教育の大先輩だ。

光照寺--牛込城のあった所なので、昔は小高い場所だったのだろう。 

 


金富小横の坂道(今井坂)を登ると慶喜が3年間暮らした小日向第六天屋敷跡がある。

慶喜終焉の地--地下鉄丸の内線すぐ手前で、仏教大学院門の前にある。
 敷地三千坪の変遷;(江戸時代)松平播磨守の上屋敷→(慶喜の)小日向第六天屋敷
→大蔵省官舎敷地→財務省管理地→国際仏教学大学院大学敷地


晩年の三年間、何と、明治34年から大正2年まで生きていたのだ。

小石川後楽園--水戸藩徳川家上屋敷跡、造園は徳川光圀


涵徳亭美都屋の食事処。後楽園の庭が見える。


後楽園弁当を食す--750円


礫川(レキセン)公園を出た歩道で[こちら側道路は春日通り]
昔この辺りには川が流れていたが、小石(礫)が多かったのが小石川の地名となったと
の説あり。

◎春日局の墓は湯島天神の西方にある麟祥院にある。その前も春日通りなんだから、
 像を建てるなら麟祥院の前がよいのに、何でこの公園前なのか?昔からではなく、 
   NHK大河ドラマ放映後の平成になってからと書いてある。
◎学校の教科書でも今だに「家光の乳母」と教えている。専門研究者の間では、彼女
 は家光の母親だと認めざるを得なくなってきた。辻褄が合わないことだらけだから
 だ。身分の低い乳母なんかが、老中などの幕閣を呼びつけて頭ごなしに怒鳴り散ら
 すことなど出来るはずがない。この時代、幕府で一番えばっていたのは春日局。
 (何しろ将軍の母親だから。)
  箱根の関所を(何の咎めも無く楽々と)通過して、「家光を次期将軍に」と駿府城に
 居る家康に直談判に行けたのは何故か?
 この件に関しては、これまで、いろいろブログでも書いてきた。以下を見てもらい
 たい。
  徳川家紅葉山文庫の『松のさかえ』の「神君家康公御遺文」〔慶長19年(1614)
  2月25日付〕、「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也」


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