実施日;2018-12-20
天気;晴れ
同行者;鎌ケ谷ハイク&ウォークの会、メンバー4人
カメラ;Pentx X-90
電車;[往] 船橋---西船(7:04)--[東西線通快]--飯田橋--[有楽町線・和光市行き]
--(7:51)江戸川橋*
*地下通りが複雑で江戸川橋前に出るのに大幅な時間ロス
[復] 若松河田(16:07)--[大江戸線]--飯田橋---[総武線]--(17:07)船橋
徒歩コースとタイム--*トイレ
駅*(8:20)→(神田川)江戸川橋→目白坂→大泉寺→永泉寺→養國寺→(8:45)正八幡
神社→幸神社→(9:00)椿山荘入口→ホテル内*→椿山荘庭園→入口(10:00)→胸突き
坂→旧細川庭園前→芭蕉園→芭蕉庵(10:30)→駒塚橋(10:35)→リーガロイヤルホテル→早大
正門前→大隈庭園(10:50)→大隈講堂前→早大構内*→大隈重信像→早大西門→グラ
ンド坂→(12:10)甘泉公園裏門→公園出入口(12:50)→堀部安兵衛碑→(13:10)水稲
荷神社→高田馬場跡→(13:40)大隈講堂前食事処・ユニショップカフェ125*(14:40)→穴八
幡神社(15:05)→戸山公園*→(15:30)箱根山(15:35)(44.6m)→箱根山通り→(16:00)*若松河田駅
地図--以下4枚の地図はgoo地図に、ソフト「ペイント」で上書きして作成したもの
です。
目白坂--地名にもなった目白不動尊があった坂道。目白不動尊は戦災で焼失とのこと
で、痕跡を探したが見つからなかった。昔は重要な道だったらしい。
江戸川橋を渡ると、左手に最初に現れた碑だ。神田川は、江戸に向かう川なので、江戸川と呼ばれていた。島崎藤村が若菜集の「おえふ」で『水静かなる江戸川の 流れの岸に生まれ出で 岸の桜の花影に われは処女となりにけり』と歌ったのは、この江戸川である。だから、今しがた渡ったのが江戸川橋で、目の前の公園は江戸川公園となる。
信号の所のローソン手前で左の脇道に入る。ここが、目白坂で下の説明板に出会う。
目白坂
西方清戸(清瀬市内)から 練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り,このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
この坂の南面に,元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。
坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し,不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
目白台の空を真北にわたる雁
稀に見る雁の四・五十羽かも 窪田空穂(1877-1967)
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
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最初の寺・大泉寺の向こうは高層ビル群だ。
大泉寺↑
永泉寺は日本離れの建物で、建物と仏舎利塔の関係が独特だ。
↓養國寺は静かなたたずまいで、花を大事にしている様子だ。鉢植えでないシクラ
メンが目立つ。
これは狂い咲きか。
正八幡神社はひっそりとしていた。案内板は無し。なぜ精や清ではなく、「正」なのか?これは地名ではなさそう。
幸神社--目白坂にあったとされる新長谷寺跡を探したが、痕跡すらなかった。
このまま、坂を進むと椿山荘に着いてしまうという位置の左手に小さな神社が
あった。新長谷寺のヒントを期待したが、幸という字を見てがっくり。
中の石碑を写真に撮り、刻まれた文字も観たが、さっぱり分からない。
それで、この神社に関する感想もパスしようと思った。
だが、いろいろネットを見ているうちに下記の記事に辿り着いた。
神社名から庚申を読み取ったことには敬意を表したい。大いに興味が湧き、参考に
なった。
→目白坂、目白不動と幕末の関口水車、関口大砲製作所 | 東京坂道ゆるラン
椿山荘--学校の教科書にも出ていて、子供のころから有名な場所であった。結婚式や
祝賀会などによく利用されてきた。
椿山荘のパンフによると、「山縣有朋公爵が、明治11年私財を投じてこの地を購
入。---」とある。同行のメンバーに「こんな広い場所では、莫大なお金がかかっ
たのでは?」と問われた。
だが、私財なんて出してないだろう。長州の片田舎で、伊藤博文たちと密かに語
らって青年・大室寅之助を新天皇に育てた山縣有朋だ。彼らは江戸占領軍の中心人
物だから、地位・金・土地・女など手あたり次第に私物化。最後には、西郷や大久
保など薩摩派の排除にも成功。脱線だが、伊藤博文など、芸者は勿論、素人・人
妻・華族など、女と見れば我がものとした。あんまり酷いので、(育ての息子)
成りすまし明治天皇から注意されたほどだ。
まあ、彼ら長州閥が今日まで日本を牛耳っている。疑う者は初代総理から現在の
総理まで、一人ずつ名を調べてもらいたい。だから、田中総理は異色なのだ。
ホテルと言われる椿山荘の建物。「入っていいんですか?」と恐る恐る尋ねると
「どうぞ、どうぞ。よろしかったら、庭も。」と従業員が丁寧に招き入れてくれ
た。中に入って驚いた。オーバーに言えば、まるで宮殿だ。足元の床は大理石より
格上の?石。ピカピカに光っていて鏡のようだ。階段の手すりは、何という金属な
のだろう。周囲の調度品も目を見張るばかり。
↑ 以上、ホテル内(此処は三階だそうだ)から見下ろした庭園。
室内をキョロキョロしながら、階段を伝わって一階の庭園に降りた ↓
ほたる沢に架かる朱塗りの弁慶橋を背景に、本日のメンバー。
聴秋爆の水車
三重塔「圓通閣」
藤田平太郎は藤田組財閥の二代目。山縣有朋と同じ長州閥の井上馨の口利きで藤田組に渡ったようだ。
※こんな素晴らしいところが無料で見られるとは驚きだ。
胸付坂--昔は、芭蕉園から下方が相当な勾配だったらしい。
芭蕉園--中には入れない。
旧細川庭園
芭蕉庵--駒塚橋の前にあり、芭蕉が若い時に一時住んでいた庵だそうです↓
胸突き坂 ↑
早稲田大学構内--駒塚橋からリーガロイヤルホテルに進み、その南側に周り、早大
正門に行く。先ず大隈庭園、次に隣の大隈講堂前の脇道に学食があるのを確認。
↓ 以下、大隈庭園
大隈重信像
早稲田大学校歌碑--作詞 相馬 御風 作曲 東儀 鉄笛 校閲 坪内 逍遥
※キャンパス内には立看などもあったが、安保闘争時代の面影はなく比較的静かだっ
た。だが、昼食後、穴八幡神社へ向かうとき、丁度授業が終わったころだろう。
我々の向かう方向の道路は早大生の波。歩道は彼らで溢れ、若い活気でいっぱい。
ああ、若いっていいな。これを見ていると日本の未来は明るいぞ。
甘泉園とその周辺--甘泉園は徳川御三卿の一つ・清水家の下屋敷だった。その後、
幾つかの変遷を経て早大の敷地になり、現在は都のものとなった経緯がる。
裏門から入った高台で一休み。この後、前方の低い庭園に降りていく。
池の飛び石を渡る
裏門と逆方向に出入り口があるようだ。そちらに登る。
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出た場所に下記の碑があった。
此処から奥に進むと水稲荷神社があり、そのすぐ手前が下記の松だ。
太田道灌、駒繫ぎの松
再び堀部安兵衛碑に戻り、そこから車道に下りる。次に、右方向の早稲田通りに向かう。十字路の角、すし屋が下記の場所だ。馬場とは軍事用の乗馬訓練をする広い土地
だが、現在はこの寿司屋の店先にある案内板だけとなってしまった。
上記の場所を探すのに、たいへん苦労した。12時を大幅に過ぎていたので、昼食のため、早大正門方面に向かう。
学生食堂に到着して時計を見たら、午後2時。閉店時間だというので入れなかった。
止むを得ず、道路を挟んだ「ユニショップカフェ125」に入る。
昼食時間に約1時間とった後、穴八幡神社及び戸山公園へと向かう。
穴八幡神社--思っていたより立派な神社で、朱塗りが鮮やかだし、縁日には大勢の人
出で賑わうようだ。
戸山公園--江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷であった場所。 明治から昭和の戦前まで軍事施設が並んでいたところである。
戦火に遇い、広大な焼け野原になったが、進駐軍は新たな軍事施設とはせず、庶民
の住宅(戸山ハイツ)や研究施設や学校などの建設を推奨した。
「箱根山通り」と言うのがある。江戸時代に此処の箱根山を訪れる庶民が多かった
せいで、今だに名前が残っている。
山手線内での最高峰ということで、私も以前から訪問を望んでいた場所だ。
箱根山山頂に向かうところ。
山頂にて
富士山や丹沢山塊も見えたようだ(上部中央あたり)。
明るいうちに箱根山山頂に着きたいという願いは叶った。これで、安心して帰ることができそうだ。
なお、膨大な写真や触れねばない内容が多すぎて、完成とは言い難い。そのうち、
誤り個所などを見つけて訂正版を出すことになりそう。