木村摂津守喜毅、通訳として乗っていた中浜万次郎らがカメハメハ4世に謁見した際に「日本から移民を送ってほしい」と要請されたことが大きなきっかけとなって、その後移民を送ることとなっていく。
1854年(嘉永7年)日米和親条約
1858年(安政5年)日米修好条約
1866年(慶応2年)海外渡航禁止令廃止
という動きがあり、
1868年のサイオト号が横浜から約150名を乗せて出港となることにつながっていく。
初の移民船には曲芸師(コマ回し)も乗っていたそうである。
1881年 カラカウア王(7代目)が移民調査を始める。(以下はwikipediaによる説明)
~~~*~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%A2
カラカウア王は、移民問題について学びまた外交関係を改善するためハワイを発ち、サンフランシスコを経て日本、中国、シャム、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻った。初の外国元首の来日となった日本では明治天皇と会見し移民の要請およびカイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請した(後者は明治政府に断られた)
~~~*~~~
明治政府にとって初めての現職にある王様の訪問となり、大歓迎をしたようである。
これを機に「官約移民」(明治政府が正式に認めた移民)を始めることとなる。
詳しくみると、
1885年(明治18年)-1894年(明治27年)・・・官約移民
1894年(明治27年) -1899年(明治32年)・・・私約移民 ハワイ共和国
1900年(明治33年)-1907年(明治40年)・・・自由移民 米国準州
1908年(明治41年)-1924年(大正13年)・・・呼び寄せ移民・・・ジョンソン・リード法
このジョンソン・リード法というのは「排日移民法」のこと。(以下はwikipediaによる説明)
~~~*~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
日本人移民のみを排除した法律ではない。この法律では、各国からの移民の年間受け入れ上限数を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。
~~~*~~~
1900年以降 日本人排斥運動も盛んになり、紳士協定を結ぶ。米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。
労働者としての受け入れはしない、しかし呼び寄せ移民(家族・親戚)はOKである。
この時、写真花嫁が2万人とこうしたそうである。
1924年 日本人はこなくてよい、となり移民時代が終了した。
~~~*~~~
まだまだ続く。
1854年(嘉永7年)日米和親条約
1858年(安政5年)日米修好条約
1866年(慶応2年)海外渡航禁止令廃止
という動きがあり、
1868年のサイオト号が横浜から約150名を乗せて出港となることにつながっていく。
初の移民船には曲芸師(コマ回し)も乗っていたそうである。
1881年 カラカウア王(7代目)が移民調査を始める。(以下はwikipediaによる説明)
~~~*~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%A2
カラカウア王は、移民問題について学びまた外交関係を改善するためハワイを発ち、サンフランシスコを経て日本、中国、シャム、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻った。初の外国元首の来日となった日本では明治天皇と会見し移民の要請およびカイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請した(後者は明治政府に断られた)
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明治政府にとって初めての現職にある王様の訪問となり、大歓迎をしたようである。
これを機に「官約移民」(明治政府が正式に認めた移民)を始めることとなる。
詳しくみると、
1885年(明治18年)-1894年(明治27年)・・・官約移民
1894年(明治27年) -1899年(明治32年)・・・私約移民 ハワイ共和国
1900年(明治33年)-1907年(明治40年)・・・自由移民 米国準州
1908年(明治41年)-1924年(大正13年)・・・呼び寄せ移民・・・ジョンソン・リード法
このジョンソン・リード法というのは「排日移民法」のこと。(以下はwikipediaによる説明)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
日本人移民のみを排除した法律ではない。この法律では、各国からの移民の年間受け入れ上限数を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。
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1900年以降 日本人排斥運動も盛んになり、紳士協定を結ぶ。米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。
労働者としての受け入れはしない、しかし呼び寄せ移民(家族・親戚)はOKである。
この時、写真花嫁が2万人とこうしたそうである。
1924年 日本人はこなくてよい、となり移民時代が終了した。
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まだまだ続く。
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