佐野信吉は富田一白(本貫地は近江国浅井郡富田荘)の五男でしたが、佐野房綱(天徳寺宝衍)の婿養子となります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%88%BF%E7%B6%B1
房綱の長兄である佐野昌綱は戦況を見定め降伏・離反を繰り返して佐野家の命脈を保った…とあるようにこの当時の強敵であった上杉謙信・後北條氏を何度も撃退していたそうですが、やがては嫡子の無かった佐野氏は、北条氏から北条氏忠を養嗣子として迎え入れ、佐野氏忠を名乗らせて家名を保とうとします。
しかし御北条氏の力が強く佐野氏が吸収されたような形となり、かえって反北条氏を攻略するための拠点となってしまったそうです。
その後は、wikipediaの『佐野氏忠』によりますと「天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では小田原城に籠城。敗戦により後北条氏が滅亡した後は氏直に従い、高野山に入る。その後大関斉と号し、伊豆河津で隠遁生活を送り、文禄2年(1593年)に死去。秀吉により、房綱を経てその養嗣子である佐野信吉が佐野氏の家督を継承することになった。 」
とあるように、佐野信吉の時代がやってきます。その陰には天徳寺の奔走があり、功を奏したようです。
あの新田老談記の後北条もこの頃のことのように思えます。
そして気が付いたことは、富田氏の中に盛んに親族として「坂崎氏」が出てきます。なんだか近いような気も。。。
でも、横すべりせずに「佐野氏」と「富田氏」の流れが関係がありそうですので、こちらを調べていきます。
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