下記は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です
現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
今回紹介するのは「家族や親類とも不仲で、友人も恋人もなく、また極度の生活苦にて、毎日死にたいと思いながら生きてる状態です」と編集部にメールをくれた、47歳の男性だ。
次から次へと作業があるときはパニックに
「ニンジン(イチョウ切り)500グラム、ゴボウ(細切り)1.5キロ、ニンジン(角切り)350グラム」――。小さなホワイトボードに、時間割表のように作業工程が書かれている。切った野菜を小分けにする袋が入ったかごには、容量に応じて「100~200グラム用」「200~300グラム用」などと印刷したシールが張られている。
2年前に発達障害と診断されたトモノリさん(仮名、47歳)は食品加工の工場で働き始めた。作業の順番を忘れたり、袋の大きさを間違えたりといったミスが続いたので、以前からアドバイスを受けていた「障害者職業センター」のジョブコーチ(職場適応援助者)と社長に相談したところ、ホワイトボードとシールを用意してくれたのだという。
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「キリのいい数字なら大丈夫なのですが、180グラム、250グラムとなった途端、どの袋を使えばいいのか、頭がこんがらがるんです。今お話ししているように冷静に考えればわかるんですよ。でも、次から次へと作業があるときはパニックになってしまうんです。ホワイトボードとシールのおかげでミスが減りました」
生まれも育ちも長野県。祖父の代までは裕福だったが、自営業の父のときに身代が傾いた。戦時中に建てられたという実家は修復もままならず、「今はお化け屋敷のようです」。
高校卒業後は就職したものの、どの仕事も長続きしなかった。電話を受けながらメモを取ることができなかったり、注文の数や種類をたびたび間違えたりしたからだ。自分でも「効率が悪い、手が遅い」という自覚がある。失敗を挽回しようと焦るほどミスを重ねた。
「やる気あんのか」「遊び半分で仕事してんのか」「お前じゃ務まらないから辞めろ」――。そう罵倒されるたび、泣きながら帰ったという。「自分には知的障害があるんだとずっと思ってきました」とトモノリさんは振り返る。
クビになるたび、しばらくの間ひきこもり状態になるという繰り返し。なんとかしなければと数年前に保健師に相談したところ、社会福祉協議会の就労支援担当の相談員とつながることができた。この相談員の勧めで精神科を受診、ADHD(注意欠陥多動性障害)であることがわかったのだという。その後は障害者枠で現在の会社にパートとして就職。今もジョブコーチが毎月会社を訪れ、社長を交えた3者面談を続けている。
月収はコロナ前は15万円ほどだったが、現在はシフトカットされて10万円ほど。正直、暮らしていくには厳しい水準だが、トモノリさんは「転職しても今以上の環境は望めないと思います。社長は『慌てなくていい。落ち着いて行動すればミスは減るから』と言ってくれる。(社協の)相談員もジョブコーチも理解のある人たちに恵まれました」と感謝する。
本連載で取材してきた中でも、理想的な形で「公助」の支援を受けたケースに見えた。しかし、トモノリさんは昨年来、編集部に何通もの悲痛なメールを送ってきた。
「毎日死にたいと思いながら生きています」「いつ死のうかと、それだけ考えながら通勤しています」「この無間地獄から抜け出したいですが、どうにもなりません」――。
かつての職場でつらい経験はしたが、現在の仕事に大きな不満はないはずだ。ではなぜこんなメールを? あらためて話を聞くと、希死念慮の発端は子ども時代の壮絶ないじめの記憶にあった。
ナイフを突きつけられ、汚水を飲まされた
小学校高学年のころから、クラスの同級生に背中や腹、ふくらはぎをこぶしで殴られたり、飛び蹴りを食らったりするようになった。「(加害者は)元気がいいとされている男子10人くらい。殴られるかどうかは彼らの気分次第。『あいつは頭悪いし、弱いし、何をしてもいいんだ』という雰囲気でした」とトモノリさん。
学校からの帰り道、果物ナイフを突きつけられ、側溝にたまった汚水を無理やり飲まされたこともある。翌日、「あいつんちは貧乏だから、泥水だって飲むんだ」と吹聴された。
ランドセルを持たされたり、掃除当番を押し付けられたりするのは当たり前。一度だけ担任の教師に「なんでお前ばっかり掃除をしてるんだ?」と言われたことがあるが、報復が怖くて「いいんです」と答えることしかできなかった。教師がそれ以上事情を聞いてくることはなかったという。
中でも中学校まで続いた給食の時間はひどかった。
「ミートボールとか、鶏のから揚げとか、デザートのプリンとか、子どもが好きそうなメニューはおよそ食べた記憶がありません。『お前にはもったいない』とみんな持っていかれるんです。『やめなよ』と言ってくれる女子もいましたが、お構いなしでしたね。給食はいつも余り物を食べていました。夕方になるとおなかがすいて仕方がありませんでした」
中学では、柔道部に強制的に入部させられた。同級生3人に囲まれ「逆らうとどうなるかわかってるのか」と脅され、入部届に名前を書かされたのだという。案の定、部室の掃除や道着の持ち運びをやらされ、顧問の目が届かないところで技をかける実験台にされた。
いじめに加わる生徒の数は増える一方で、いさめてくれる女子生徒は次第にいなくなった。いじめられる原因にあえて言及するとすれば「僕が鈍くて、何をするのも遅い子どもだったからではないでしょうか」とトモノリさんは言う。いずれもADHDの特性と関係があったと思われる。
教師に「学校に行きたくない」と訴えたこともあるが、そのたびに「(いじめた側は)元気のあるやつらだから。(トモノリさんのことが)憎くてやってるわけじゃない。こんなことくらいで学校に行きたくないなんて、これからどうするつもりだ」と逆に説教された。
「誰も助けてくれませんでした。傍観してるだけ。僕が教室で殴られていても、みんな笑って見てるだけ。僕の代わりに先生に言ってくれる人もいなかった。あのころはクラスの全員を憎んでいました」
自殺を試みたら父親から殴られた
トモノリさんは中学3年生のときに自殺を試みたことがある。ノートの切れ端に「僕は死にます」と書いたメモを黒板に張り付けて近くの裏山にのぼった。そのまま飢え死にしようと思ったのだという。“遺書”を残したのでちょっとした騒ぎになったが、結局その日のうちに教師に見つかった。帰宅後、父親からは「いじめられるお前に原因がある。こんなことをして楽しいか」と殴られたという。
この自殺未遂後、トモノリさんが欠席している間にクラスでは話し合いが行われた。その様子を後になって人づてに聞いたところ、同級生たちは「(トモノリさんが)いじめだと勝手に思い込んでいるだけ」「遊んでいるように見えました」と言い、誰一人いじめを認める者はなかった。
それから卒業までは、殴る蹴るの暴力は減ったが、今度は無視をされるようになった。夏のキャンプやスキー教室では生徒同士でグループをつくるのだが、トモノリさんは「お前、誰だっけ」「お前は1人でもいいよな」と言われてのけ者にされた。結局こうした課外授業では、トモノリさんは教師と行動をともにしたという。
「助けてくれる人が誰もいなかった」。トモノリさんはそう何度も繰り返した。
これがトモノリさんの子ども時代の思い出だ。子どものやったこととはいえ反吐がでる。
いじめられた記憶はその後もトモノリさんの人生に暗い影を落とし続けた。高校卒業後の就職先は、いずれも通勤に1時間近くかかる隣町にある会社を選んだ。「狭い町ですから。同級生にばったり会うのが怖かったんです」。
ひきこもり状態になったときに精神科を受診したところ、対人恐怖症とうつ病と診断された。発達障害の典型的な二次障害だが、原因はあきらかに子ども時代のいじめである。
特に対人恐怖症の症状は深刻だ。人の多いところでは、めまいと立ちくらみがして、恐怖心からその場にしゃがみこんでしまう。電車やバスに乗れないのはもちろん、車も込み合う時間帯は運転できない。「反対車線に止まっている車の運転手の視線が怖い」のだという。今も通勤には車が必要だが、ラッシュ時を避けるため、工場には定時より1時間ほど早く出勤している。
免許の更新手続きも、社協での相談も、込み合っている時間帯は建物に入ることさえできない。コンビニもすいている店舗を探して1、2時間うろうろすることも珍しくない。「店内にお客さんが1人、2人なら大丈夫ですが、5人以上いるとダメです。人が減った瞬間に慌てて(入店して)買い物をします。自分でもこんな生活をいつまで続けるのかと思うと情けなくて……」。
炭酸飲料を一気に飲んで夕食を抜く
父親はすでに亡くなり、年金暮らしの母親と同居している。家計はつねに厳しいので、食事を1日1食にすることもある。そんなときは500ミリリットルの炭酸飲料を一気に飲んで腹を膨らませて夕食を抜く。築80年近くたっている家は雨漏りがひどいが、修復する余裕はない。せっかく発達障害と診断されたのに、病院代を払えないので処方薬も服用できていない。虫歯も放置したままで、奥歯を中心に歯はボロボロだという。
近所にはトモノリさんをいじめた人たちの家もある。「彼らは普通に就職して、普通に結婚をして。家が新築になったり、車がファミリーカーに変わったりするのを見るたび、なんで僕だけがと、やりきれない気持ちになります」。
本当は誰も自分を知らない場所で再スタートしたい。しかし、お金もなく、対人恐怖症という爆弾を抱えていてはそれも難しい。トモノリさんが「何もないんです、僕には」とつぶやいた。友達も、思い出も、恋人も、救いも、希望も、未来も、何もないのだ、と。
トモノリさんが編集部にメールを送った理由をあらためて説明する。
「今はたしかに比較的恵まれた状態にいます。でも、それでもなおつねに死にたいと考えながら毎日を生きています。そのことを知ってほしかった」
いじめたことも忘れ、何食わぬ顔で生きているかつての同級生たち。これはトモノリさんから彼らへのメッセージなのかもれない。
藤田 和恵 : ジャーナリスト
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