史書から読み解く日本史

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桓霊の代

2019-02-14 | 有史以前の倭国
後漢朝の第十一代皇帝である桓帝は、三代章帝(光武帝の孫、二代明帝の子)の曾孫に当たり、章帝の子の河間王劉開の孫として生まれ、十代質帝が大将軍梁冀に毒殺された後、その梁冀に擁立されて十五歳で即位しました。
従って桓帝の二十余年に及ぶ在位期間のうち、実に十年以上は跋扈将軍と言われた梁冀とその一派が国政を壟断しており、皇帝は梁一族の傀儡に過ぎませんでした。
梁冀は八代順帝の皇后梁氏の兄に当たり、父梁商から大将軍の位を世襲(皇后の身内が大将軍になるという慣例に因る)すると、順帝の後に幼帝が二代続いたことから強権を得て、一族から皇后を三人、妃を六人輩出し、七人が封候されるなど梁氏の最盛期を築いていました。
自らは高祖の功臣蕭何にも準ずる破格の待遇を受けており、王蒙と同じく簒奪を企てていたとも言われます。

やがて桓帝は大逆の罪で梁冀を罷免し、その一族を粛清して親政を復活させることに成功するのですが、その際に腹心として家臣ではなく宦官を使ったことが、後々まで朝廷に禍根を残すことになります。
これには梁一族の排除を断行するに当たり、朝廷内の高位の文武官は無論のこと、本来頼りにすべき側近や後宮に至るまで梁冀一派の息の掛かった者達ばかりだったので、皇帝が大事を託せるのは宦官しかいなかったという事情もありました。
この外戚を排除するのに宦官の助力を得るという手法は、四代和帝が継母である竇太后の一族を一掃する際にも用いており、外戚の讒言により一度廃嫡された順帝を即位させたのも宦官です。

そして後漢朝の歴史というのは、こと帝室内に於いては外戚と宦官の権力闘争の歴史と言ってよく、皇帝が強勢な外戚への対抗策として宦官を重用したことから、代を追う毎に宦官の地位が向上して行っており、梁氏の没落後は一気に宦官へ権力が集中することになりました。
また梁氏とその一党は要職を独占していたため、この粛清によって朝廷は一時的に深刻な人材不足となり、それが宦官の更なる政権進出を招く結果ともなっています。
これを日本に譬えてみれば、摂関家の全盛期を築いた藤原道長が全ての地位を剥奪され、藤一門が公職を追放されたようなものだと思えば分かります。

そもそも漢は高祖劉邦による建国以来、前後四百年を通して皇后の身内を厚遇するのが基本方針でしたから、高祖の妻呂氏を始めとして外戚の横暴はお家芸となっており、元帝の皇后王氏からは王蒙という簒奪者まで出しています。
にも関らず外戚登用の習慣を改められなかったのは、それが漢民族の家族制度の根本だからに他なりません。
国家という名称が示す通り、漢帝国もまた劉氏を宗主とする家族経営なのであり、従って正妻である皇后の実家を重役に迎えるのは当然ということになります。
父系社会を基盤とするこの家族制度は、漢民族に限らず朝鮮も含めて東亜一帯に見られる形態ですが、同じ習慣を持たない日本人には到底理解できないものであり、大陸に於ける外戚の歴史に日本人が違和感を覚えるのはそのためです。
近代の財閥を一例に挙げてみても、戦前の日本の財閥と、現代の中国や韓国の財閥とでは、同じ財閥とは言いながらその内情は全くの別物と言えるものです。

桓帝は梁氏を粛清して外戚の勢力を抑えたものの、それを機に却って宦官の台頭を招いた訳ですが、すると今度は高級官僚を構成する士大夫と、君主の近臣である宦官の対立が顕在化し、これが朝廷内の新たな火種となって行きました。
有力豪族を中心とする士大夫と宦官の対立もまた、外戚のそれと同様に根深いものがあって、士大夫が自らを清流、宦官を濁流と称して非難すれば、宦官は士大夫を党(徒党を組む者)と呼んで紛糾するという具合でした。
そして桓帝がこの対立を収拾できなかったことと、続く霊帝が幼君として即位したことから、桓帝末期から霊帝初期にかけて両者の闘争が激化し、やがて情報戦に長けた宦官が、敵対する士大夫を弾圧して終焉を迎えます。
清流派の有力者を排除して政権を掌握した宦官は次々と朝廷の要職を専有し、その後も霊帝の在位期間を通して史上例を見ない宦官による政府を具現化して行くことになります。

霊帝は桓帝と同じく河間王の系譜に連なる王族に生まれ、桓帝が男子に恵まれないまま崩じたため、皇后の竇氏や大尉の陳藩らに擁立されて十二歳で即位しました。
世代としては桓帝の一代下になり、章帝の玄孫に当ります。
霊帝の在位は三十年にも及びましたが、君主としての見るべき実績は何もなく、むしろその治世は史上稀にみる悪政と評されるのが常となります。
霊帝が崩ずると、何皇后の生んだ太子の劉弁が即位したものの、劉弁は天子の器ではないという理由で廃され(少帝弁)、異母兄の陳留王劉協が董卓等に擁立されて即位しました。
これが後漢朝最後の皇帝となった献帝です。
しかし霊帝一代で既に後漢帝国は見る影もなく崩壊しており、続く献帝は唯の一度も親政を施すことなく、時の権力者だけが入れ替わり続けた末に禅譲しているので、実質的には霊帝が後漢朝最後の皇帝だったと言えます。

霊帝の治世を語る上で、宦官と並ぶ代表的な悪政に売官があります。
売官そのものはいつの時代にも行われているもので、別段珍しくもない風習の一つですが、霊帝統治下の売官というのは、賄賂を積んだ豪族による猟官などではなく、中央政府である朝廷自らが官職に値段を付けて売り出したものです。
そもそもは朝廷の歳入不足を補うために始められた制度で、下は県の役人から上は三公まであらゆる公職が対象となっており、文字通り金さえ積めばどんな地位でも公然と買うことができました。
この空前絶後の売官制度は、それに伴う賄賂も当然のように横行したことから銅臭政治とも言われ、後漢末の頽廃ぶりを象徴する事例となっています。

因みに魏の武帝こと曹操は、祖父の曹騰が安順両帝に仕えた高位の宦官で、実父の曹嵩はその養子になります。
曹騰は宦官としての出世を極めた後、その功績を称えられて桓帝から封候されており、曹嵩はその余沢を受けて大尉にまで昇進しましたが、これは養父の成した財産によって三公の地位を買ったとも言われています。
つまり乱世の奸雄は異形の時代が生んだ鬼子だった訳です。
また曹騰に限らず著名な宦官の殆どは庶民の出身ではなく、その父祖兄弟は普通に官僚として勤務している有力豪族で、そうした意味では外戚・士大夫・宦官の対立などと言っても、所詮は豪族間の権力闘争でしかないという面もありました。

以上が桓霊の治世の要約ですが、この時代を一字で表せば、それは「肆」となります。
蕭何と同等の待遇を許されたという大将軍梁冀は、妹が順帝の皇后だったというだけの人物で、国に何の功もなければ地位相応の資質もありませんでした。
そんな男が漢帝国の実権を握ったのですから、まともな思考から発する決裁など望むべくもありません。
これが宦官となると更に酷く、(事務官として優秀な宦官も多かったのは事実ですが)本来後宮の雑用を職分とする去勢された男達が、自ら高位高官となって政権を運営するなど茶番にもなりません。
そして彼等にとっての政治とは、己の欲望に従って意のままに権を振るうことであり、言動の基準は是非善悪などではなく、単純に「私情」でした。

そんな時代でしたから、時の天子である桓霊両帝にしても、後世の史家からは愚主暗君の典型のような扱いを受けており、桓霊の代というのは後漢の滅亡から三国時代への序章となっています。
従って『後漢書』に見える「桓霊の間」という表現には、当然ながらそうした意味合いもあって、要するにこの一言で范曄が言いたいのは、中華がそんな風だから周辺諸国が乱れたのだということなのです。
ただ『後漢書』の場合、本紀はともかく列伝ともなると、その正確性に信を置けないような記事も多く、范曄の言う某帝の代云々という時代区分にしても、そのまま鵜呑みにできるほどの史実の裏付けはないと思ってよいでしょう。
もともと『後漢書』という書物そのものが、半ば范曄による文学作品のようなものなので、前記のような年代表現についても、これはあくまで物語に統一性を持たせるための共用語か、もしくは一種の慣用句といった程度の認識で問題ありません。

また規模はまるで違うが、日本史の中でこの桓霊に比する時代を探してみると、やはり院政がこれに当たるでしょう。
そもそも院政は、外戚である摂関家の専横に対抗するために考え出されたもので、敢て譲位することで既存の律令から自由の身となり、上皇として令外の権を揮うという発想は確かに斬新ではあります。
しかしこの院政は、日本史上最も恣意性の強い権力で、その独善と強権ぶりはとても摂関の比ではありません。
言わば他の多くの事例が示す通り、摂関の専横を止めるために作られた権力であるが故に、却って摂関を遥かに凌ぐ専権を生んでしまったのであり、国制に囚われない法外の制度であるが故に、その強権もまた法外なものになってしまった訳です。

ただ院政に至る前の摂関全盛の時点で、既に律令は形骸化し始めていて、例えば皇位継承一つ取ってみても、村上帝崩御(西暦九六七年)から後三条帝譲位(一○七三)までの百六年間で実に九人もの天皇が即位しており、在位期間の平均は僅か十二年足らずでしかありません。
特に冷泉帝から後一条帝までの六帝の間に限れば、成人に達してから即位したのは三条帝のみで、他の五帝のうち三帝(円融・一条・後一条)までが十歳にも満たない幼児です。
これは太子の選定に摂関家の意向が強く働いたためですが、時には生後間もない赤子を立太子させたり、若くして即位した天皇を十代で譲位させるなど、この時代の摂関家の行動は些か常軌を逸しており、こうした横暴が後の藤原氏没落の遠因になったと言えるでしょう。

そして一国の元首である皇位でさえこの有様ですから、太政官の人選も似たようなもので、最後の親政と言われる村上帝亡き後は、有力貴族が自家の繁栄を優先したことから公卿の若年化が進み、挙句の果てには未成年の中将やら少年の中納言などという訳の分からぬ事態となっています。
更にこれが院政期となると、任官や昇進の基準は家系や能力ではなく、単に上皇の近臣であるかどうか、或いは上皇に気に入られたかどうかで決まることが多くなり、昨日までは昇殿も許されなかったような小身者が、一夜にして破格の昇進を果たすことも珍しくなくなりました。
しかし子供や寵臣に国政を担える筈もなく、度を越えた情実人事は却って貴族の衰退を早めたに過ぎず、やがてそれが皇室を巻き込んだ二度の乱を生み、遂には朝廷が政権を手放す要因となっています。

言わば「この世をば我が世とぞ思ふ」も、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」も、「平一門に非ずんば人に非ず」も、その思考の根源は全て同じものであって、国家の基本法である律令はもはや機能しておらず、権力者の意向がそのまま法令になっていたと言えます。
そうした無秩序な人治国家を、厳格な規則と信賞必罰によって再び法治国家へ変えようとしたのが源頼朝なのであり、大陸では曹操孟徳だった訳です。
しかしその源家と曹家は、共に身内を疑う余り却って宗家を守るべき親族を失い、自らもまた家臣によってその地位を奪われてしまったのは、何とも皮肉と言うほかはありません。

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