後漢と周辺諸国の関係について軽く触れておくと、基本的に後漢は前漢に比べて他国や諸民族との交流には淡白で、前漢のように漢帝国が東亜全域を覆い尽くして、凡そ知り得る限りの世界の果てにまで一元支配を敷く気はありませんでした。
むしろ諸民族が後漢に従属する意思を表し、漢帝を頂点とする封建体制の枠組みの中で共存する限りは、帝国の藩屏として自主権を認めるという方針であり、どちらかと言えば劉氏を盟主とする緩やかな連合体のような関係だったと言えます。
実際に後漢時代の東亜の民族配置を見てみると、前漢時代のように漢帝国以外には国らしい国がないという状況から一転して、漢帝国の周囲を(子供が親に寄り添うように)小国群が取り囲んでいる様子が見て取れます。
むしろ諸民族が後漢に従属する意思を表し、漢帝を頂点とする封建体制の枠組みの中で共存する限りは、帝国の藩屏として自主権を認めるという方針であり、どちらかと言えば劉氏を盟主とする緩やかな連合体のような関係だったと言えます。
実際に後漢時代の東亜の民族配置を見てみると、前漢時代のように漢帝国以外には国らしい国がないという状況から一転して、漢帝国の周囲を(子供が親に寄り添うように)小国群が取り囲んでいる様子が見て取れます。
後漢の外交政策が上記のように方向転換されたのは主に二つの理由があって、まず一つは(単に後漢の国力が足りなかったという面もありますが)、前漢の統治を受けて漢文明が波及したことにより、諸民族の方も自治が可能なレベルにまで成長していたことが挙げられます。
特に武帝以降の漢では、周辺の少数民族を片っ端から郡県に組み入れてしまっていましたが、逆に言えば当時の漢帝国の周囲に蠢いていた小勢力などというのは、そうする以外に支配のしようがないような集団ばかりだったのです。
そうして漢式の統治が続いたことにより、諸民族の方も漢を宗主国として仰ぐことに抵抗がなくなっており、皇帝からの冊封を自然に受け入れる土壌が整い始めていました。
もう一つは、そうした前漢時代の諸民族支配の問題点として、漢帝国の主権の範囲が無制限に広がってしまったことで、それに伴う軍事的経済的な負担が国家運営に重くのしかかっていたことが挙げられます。
確かに仮想敵国を尽く自国内に編入してしまえば、戦争や外交といった対外的な負担は軽減されます。
しかしその一方で、広大な国土を統治する内政的な負担は凄まじい規模で増加するのであって、しかもそれが戦争のように突発的な経費ではなく、その領土を堅持する限り続く慢性的な負担ともなれば、それに見合うだけの国益も得られぬような辺境の経営に正当性を見出すのは難しいと言えます。
まして前漢のように郡県という型に嵌めて統治しなくても、冊封という形式によって国家の枠組みの外で統制できるならば、もはや漢朝が四方の果てにまで地方官を派遣する意義は薄れていたのです。
また一般に前漢と後漢を比較したとき、よく引合いに出される例として、前漢に比べて後漢の国土が縮小していること、つまり国境が後退していることが指摘されます。
しかしそれは一面では正しいのですが、反面では正しくありません。
確かに後漢は辺境の支配を半ば放棄して、諸民族の自治を認めた上で傘下に置くという方針を取っていたので、前漢時代から見れば国境線そのものは後退しています。
但しそれは前漢が古来漢人の土地ではない領域にまで版図を広げたからで、その前漢二百年を通して漢民族の居住地も各地に増設されているため、むしろ後漢時代の実質的な漢民族の生息圏は、武帝の頃に比べても遥かに拡大しているのです。
これは旧ソ連と現行ロシアを比較して、ソ連を構成していた共和国が独立したことで、モスクワの統治する国土そのものは縮小しても、ソ連建国の頃からすれば、旧ソ連領内でのロシア人の人口が各地で増加し、その居住地域もまた広範囲に及んでいるのと同じです。
さらに言えば、自治を許された周辺諸国にしても、単于が劉姓を称した南匈奴や、三国時代に蜀漢の討伐を受けた南中の孟獲など、漢化された諸民族の中には漢人風の姓名を名乗り始めた例も多く、実際の辺境の民族構成については不明な点も多いものでした。
これを平安時代の日本に譬えてみると、平安中後期に奥羽有数の豪族だった安部氏と清原氏は、共に朝廷側の資料では俘囚(朝廷に従属した蝦夷)の長とされおり、長くその説が無条件に信じられて来ましたが、近年では両者の出自を再考する識者が増えています。
また安部にしても清原にしても本来は中央の王臣家の姓であり、なぜ奥羽を地盤とする在地の豪族が中央の姓氏を名乗り、朝廷もまたそれを許していたのについてはよく分かっていません。
但し史実に従えば、桓武帝以後の奥州征伐により、奥州には鎮守府が置かれ、内地人の入植も盛んに行われていたので、当時の安部氏や清原氏の勢力を支えた人種構成が、全くの俘囚ということは有り得ません。
同じことは薩摩についても言えて、その後も薩摩の人々は薩摩隼人と呼ばれ、奥羽の人々は蝦夷や俘囚などと蔑まれてきましたが、人種的には既に内地と変らぬ日本人であり、(その血が流れているとは言え)隼人や蝦夷の純血の子孫という訳ではありません。
やがて時代が下ると、奥州藤原氏は鎮守府将軍藤原秀郷の末裔を称し、薩摩の島津氏は源頼朝の落胤を家伝としますが、当然ながら今となっては事実など知る由もありませんし、恐らくは当時にあっても真実など(当人も含めて)誰も知らなかったでしょう。
単純に考えると、前漢のように唯一の大国が全ての土地や民族を統治するよりも、大国側が異なる文化を持つ他民族には自立を促し、大小多様な国々が共存する世界の方が健全なようにも思えます。
少なくとも十九世紀以降世界の主流だった帝国主義と、その支配のやり方に反感を覚える現代人の多くはそう感じることでしょう。
まして周辺諸国の多くはその後も後漢に臣従しており、言わば後漢の方は僻遠の統治の負担から解放され、諸国の方は漢人による支配から解放された訳ですから、両者にとって悪いことは何もないとさえ言えます。
そして諸国が後漢の周囲に配されていて、双方が友好関係にある限り、藩屏諸国が外敵から身を守る行為が、結果として後漢を防衛することにもなりますから、後漢はそれによって国防費も大幅に削減できたのです。
しかし物事には必ず裏と表があり、光があれば闇があるように、辺境の他民族支配を放棄した後漢は、次第に国内の統治さえ放棄するようになり、そうした政治姿勢は時を追うごとに内部から後漢朝を蝕んで行きました。
例えば後漢時代も暫くすると、僻地の刺史や太守に任命された有力者の中では、俸給だけ貰って現地には赴任しないのが慣例となり、これが後漢末ともなると、首都洛陽の周辺を除けば、刺史の世襲や軍閥による太守の私任が公然と行われるようになりました。
もともと後漢は、他国との関係ばかりでなく、国内の権力構造も基本的には豪族の連合体であり、社会そのものが遙任と請負によって成り立っていましたから、かなり早い段階から建前としての制度は機能しなくなっていたのでした。
と言うより後漢の場合、建国から滅亡までの約二百年間を通して、恐らく朝廷の定めた制度などというのは殆ど機能しておらず、法令とは別の力が社会を治めていたような時代でした。
そして政府としての後漢朝や、行政区である州郡の役割というのは、そうした無数の小さな権力を緩やかに束ねて、一つの天下の中で静かに纏めておくことだった訳で、秦のような法治国家など初めから望むべくもなかったのです。
だからと言って必ずしも国内が不安定だった訳ではなく、確かにお世辞にも治安が良いとは言えませんでしたが、末期に至るまで戦争は殆どありませんでしたし、延々と続く権力闘争も民衆には関係のないことでした。
また後漢文化という言葉もある通り、(村上帝以降の平安朝と同じく)典型的な政治不在の国家でありながら、極めて洗練された文化の発展した時代でもあり、善政や道徳といった模範的な単語さえ無視すれば、或いは美しく魅力的な世界だったとも言えます。
そんな時代でしたから、後漢の有力者が海外への関心を無くしていたのは、むしろ当然の帰結とも言えて、或いはそれも前漢からの反動だったのかも知れません。
しかし漢人側のそうした態度に反して、周辺の諸民族から漢文明に向けられる視線は、前漢の頃とは比較にならないほど強くなっており、その辺りの両者の認識の相違が、後の五胡十六国を招く遠因になったとも言えるでしょう。
そして暫く東夷との交流を示すような事跡も薄れた後漢朝が、再び東夷諸国との間に接点を持つようになったのは桓帝と霊帝の代で、それはまさに内に籠って衰退を始めた漢帝国と、漢文明と交流することで成長した諸民族が、時勢という点で逆転した瞬間でもありました。
しかし漢人側のそうした態度に反して、周辺の諸民族から漢文明に向けられる視線は、前漢の頃とは比較にならないほど強くなっており、その辺りの両者の認識の相違が、後の五胡十六国を招く遠因になったとも言えるでしょう。
そして暫く東夷との交流を示すような事跡も薄れた後漢朝が、再び東夷諸国との間に接点を持つようになったのは桓帝と霊帝の代で、それはまさに内に籠って衰退を始めた漢帝国と、漢文明と交流することで成長した諸民族が、時勢という点で逆転した瞬間でもありました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます