史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

魏志東夷伝

2019-02-15 | 有史以前の倭国
次に倭国や倭人が漢籍に登場するのは『三国志』になります。
著者の陳寿は始め蜀漢に仕え、その滅亡後は晋に仕えたという経歴を持ち、蜀の出身ということで益州に関する書物も多く著したといいますが、『三国志』以外の著書は現存していません。
『三国志』は『魏書』三十巻(本紀四巻、列伝二十六巻)、『呉書』二十巻、『蜀書』十五巻の計六十五巻から成り、他の『魏書』や『呉書』と区別するため『魏志』『呉志』『蜀志』と呼ぶことが多く、或いは『魏国志』『呉国志』『蜀国志』とも言います。
『三国志』は魏呉蜀の三国を並立してはいるものの、晋の前身である魏を正統としているため、本紀があるのは『魏書』だけで、他の二書については国主でさえも列伝扱いとなっています。
また三書全てに志と表がありません。
 
その成立の経緯を見てみると、『魏志』については、まず晋王司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位し、魏が滅んで晋が建国された直後から、腕に覚えるある史家が競って魏史の執筆を試みたのが始まりとされます。
その『三国志』に先行する魏史の中でも著名なものが、魚豢の『魏略』と王沈の『魏書』であり、そもそも陳寿の『魏志』はそうした先人の書を再編して書かれたもので、特に『魏略』は邪馬台国を始めとして倭人の記録が多く残っていることでも知られます。
このようにまず先行する複数の史書があり、それを文才のある者が完成させるという手法は『後漢書』と同様で、或いは陳寿の『三国志』が史書としての評価を得たことが、後年後漢書の乱立に繋がった可能性はあるでしょう。
 
また『呉志』については、同じく『三国志』以前に呉の韋昭等が記した『呉書』が原本とされます。
その『呉書』は、いくつか作られた魏史がいずれも魏の滅亡後に書かれたのに対して、呉が国として存続している間に孫家の臣下によって記されたもので、『漢記』と同じく国家の修史事業として編纂された史書です。
但し前述の通り『三国志』は魏を正統とする立場を取っているので、『呉書』の内容がそのまま『呉志』に反映されている保証はありません。
残る蜀については、そもそも国として存続した期間が短かったこともあってか、『蜀志』の原典になるような史書があったという話は聞きませんが、陳寿自身が旧蜀臣でしたから、その点では特に不自由はなかったと思われます。
 
しかし呉や蜀のような敗戦国の場合、魏や晋に降伏して国が滅亡した時点で、公文書の大半は戦勝国に押収されてしまうため、やはり歴史を後世に伝える権限を有しているのは勝ち残った者のみということになります。
そして陳寿の仕事というのは、そうした別個に成立していた史書を一つに纏め上げて、それを晋帝に献上することだった訳で、『三国志』が『史記』や『漢書』に比べて短期間で完成しているのは、そうした理由によります。
因みに同書が『三国志』として一括りにされるのは後代のことで、完成当初は三書が独立して扱われていたといいます。
また書名に「志」という言葉が使われた理由については、諸説あるものの詳しくは分かっていません。
 
その『三国志』の中の『魏書』東夷伝に倭人条が収められていて、一般的には略称の「魏志倭人伝」の方で広く知られています。
そして同書以前の諸文書に見える倭人関連の記事というのが、既出の通り内容的に至って貧弱であることを思えば、実質的にはこの『魏志』東夷伝こそが、初めて倭人の詳細を記録した書物だと言ってよいでしょう。
無論それは逆に言えば、倭国の方もこの頃になって、ようやく国としての体裁が整い始めたということでもあります。
その東夷伝は、夫餘・挹婁・高句驪・東沃沮・濊・韓・倭人の七条(つまり後漢書と同じ)から成り、その始めに序、終りに評が寄せられていて、序では東夷伝の意義を次のように述べています。
 
書に称す、東は海に漸み、西は流沙に被ると。其の九服の制、得て言う可し。然るに荒域の外、重訳にして至るは、足跡車軌の及ぶ所に非ずして、未だ其の國俗殊方知る者有らず。虞より周へ曁ぶに、西戎に白環の献有り、東夷に肅愼の貢有り、皆曠世にして至り、其の遐遠なること此の如し。漢氏に及び、張騫を遣わして西域に使し、河源を窮め、諸國を経歴し、遂に都護を置きて以て之を総領し、然る後西域の事具存し、故に史官詳載するを得る。魏興り、西域盡く至ること能わずと雖も、其の大國龜茲、于寘、康居、烏孫、疎勒、月氏、鄯善、車師之屬、朝貢を奉ぜざる歳の無きこと、ほぼ漢氏の故事の如し。而して公孫淵の父祖三世遼東に有り、天子其の絶域と為し、海外の事を以て委ね、遂に東夷隔断し、諸夏に通ずるを得ず。景初中、大いに師旅を興して淵を誅し、又軍を潜ませ海に浮かびて楽浪帯方の郡を収め、而して後海表謐然、東夷屈服す。其の後高句麗背叛、又偏師を遣わして到討し、窮追すること極遠にして、烏丸骨都を踰え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踐み、東に大海を臨む。長老日の出ずる所の近くに異面の人有りと説く。遂に諸國を通観し、其の法俗小大区別を采る。各に名號有り、詳紀を得可し。夷狄の邦と雖も、而も俎豆の象を存す。中國礼を失せば、之を四夷に求む、猶信なり。故に其の國を撰次し、其の同異を列し、以て前史の未だ備わざる所を接ぐ。
 
書経に言う。東は海へ注ぎ、西は流砂に被われると。その(周代の)九服の制を言い得ている。しかし荒域(文化の果てる所)の外の、訳を重ねて至るような地は、とても足跡車軌の及ぶところではなく、その国俗や異文化を知る者はなかった。虞(帝舜)から周に至り、西戎には白環の献があり、東夷には肅愼の貢もあったが、皆それらは幾年も掛けて至るような地で、その遠方なることは斯くの如しであった。漢の世となるに及んで、張騫を使者として西域へ派遣し、黄河の源流を窮め、諸国を経歴し、遂には都護を置いて(漢が)これを総領したので、その後に西域の事情が明らかになり、史官はその詳細を記すことができた。魏が興ると、西域へ尽く至ることはできなかったけれども、諸国が朝貢を奉じない年のないことは、漢の世と変らなかった。しかし(東域は)公孫淵が三世に渡って遼東に居り、(漢魏の)天子はその地を辺境であるとして、海外の事を(公孫氏に)委ねたため、東夷は隔断されて、中国に通じることができなかった。景初(魏の明帝の代)に入り、大軍を興して淵を誅し、密かに海から軍を渡して楽浪・帯方の両郡を収めると、その後に海外は静然とし、東夷は屈服した。その後に高句麗が背叛したので、また偏将(この場合は太守)を派遣して討伐し、遥か遠方までこれを追い、烏丸と骨都を越え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踏み、東に大海を臨む地(日本海側)にまで至った。その土地の長老が言うには、日の出ずる所の近くに異面の人がいるという。遂に諸国を周観し、その法俗、大小、区別を知り得た。(東夷も)各々名称があり、それを詳しく記すこともできた。夷狄の邦といえども、祭祀や序列に基づく法度がある。中國が礼を失ったとき、これを四夷に求めるというのも、また真実であろう。故にその国を選定し、その同異を分け、前史(史記から東観漢記まで)の欠けている所を継ぐのである。
 
一読して分かる通り、この序は前半と後半の二部構成になっていて、前半では東西の対比をその主題としています。
言わば漢が西域を鎮撫してその周辺諸国を詳らかにしたように、魏が遼東朝鮮を平定したことによって東夷が明らかになったのだという訳です。
ただ後にシルクロードへと続く漢の西域統治と、魏に対する東夷の朝貢という二つの事柄を、果して同一に論ずべきかどうかはともかくとして、東西の対比を強調することで、東夷伝の価値を高めようとした意図が見えなくもありません。
続いて後半では、遼東に割拠していた公孫氏を討伐したしたことと、その後に東夷へ進軍したことを略記して、東夷伝が上梓されるに至った経緯を示しています。
 
一方評では「評に曰く、史漢(史記と漢書)は朝鮮両越を著す。東京(東観漢記)は西羌を撰録す。魏の世、匈奴遂に衰えて、更に烏丸鮮卑有り。ここに遼東に及び、使訳時に通じ、随時記述す。豈に常ならむや。」と述べており、漢代の匈奴を魏代の烏丸と鮮卑に、同じく『史漢』の朝鮮両越と『漢記』の西羌を『魏志』の東夷に、それぞれ擬えていることが分かります。
確かに西域と比較するよりは、むしろこの方が自然でしょう。
また最後に「使訳時に通じ、随時記述す」とある通り、『魏書』に東夷伝が設けられたのは、未だ前史では東夷について詳しく触れられていなかったというのも理由の一つです。

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