『魏志』や『後漢書』の東夷伝のように、史書の中に異国の伝を設けるというのは、始め司馬遷が『史記』を著述するに当って示した手法であり、続く『漢書』がこの形式を引き継いだことで、以後の国史もこれを踏襲して行くことになりました。
ここで『史記』から『後漢書』までの各史書に収められた異国(異人)伝を見てみると、巻数も含めて次のようになっています。
但し『後漢書』の場合、東夷伝は専ら『魏志』からの引用です。
またそれに続いて、これ等に記載された諸民族が、大陸の王朝との接点を持つに至った背景等を簡単に見て行くことにします。
ここで『史記』から『後漢書』までの各史書に収められた異国(異人)伝を見てみると、巻数も含めて次のようになっています。
但し『後漢書』の場合、東夷伝は専ら『魏志』からの引用です。
またそれに続いて、これ等に記載された諸民族が、大陸の王朝との接点を持つに至った背景等を簡単に見て行くことにします。
『史記』は、匈奴、南越、東越、朝鮮、西南夷、大宛の六巻。
『漢書』は、匈奴、西南夷両粤朝鮮、西域の三巻。
『魏志』は、烏丸鮮卑東夷の一巻。(呉志と蜀志には異国伝が無い)
『後漢書』は、東夷、南蛮西南夷、西羌、西域、南匈奴、烏丸鮮卑の六巻。
まず『史漢』に記された両越の一方である南越は、現在の広州付近を中心に広く嶺南一帯を支配していた国で、もともとは秦代に南海郡の郡尉だった趙佗という人物が、秦末の混乱に乗じて郡内を掌握すると、隣接する桂林・象の二郡を併合して南越国を称し、現地で自立したのが始まりです。
秦に代った漢との関係は、高祖の代に南越王の冊封を受け、以後も漢の外臣として百年近く独立を保っていましたが、武帝の代に漢との間で諍いが起り、元鼎六年(西暦前一一一年)に漢軍の討伐を受けて滅亡しました。
そしてその本領である秦代の旧三郡と、その後に併合した広西から北ヴェトナムにかけての一帯は、更に九郡に分割されて漢の領土に組み込まれています。
一方の東越は閩越の別称で、古くから知られた国名は閩越の方ですが、『史記』では当時の用語に倣って東越伝としており、この東越と南越(甌越を加えて三越とも)を合わせて両越とも言います。
その東越が滅亡した経緯は、閩越王郢の弟だった餘善が、隣国を侵すなどして漢に叛いた兄王を宗族や臣下と謀って弑し、その首級を漢軍へ差し出して降伏したことに始まります。
初め漢朝は郢の孫を新王に即位させて閩越継承を許したのですが、閩越内に於ける餘善の勢力が強大だったこともあり、餘善にも東越王の冊封を与えて功に報いたため、閩越は国内に二人の王が並立する事態となりました。
但しあくまで正統の国王は郢の孫であり、東越王の冊封が果してどの程度の意味を持っていたのかは不明な点も多いのですが、新王が若年だったことに加えて、長安から遠く離れていたこともあり、閩越の実権を前王弟の餘善が握ってしまったのは当然の成行きでした。
その東越王餘善は、前述の漢による南越征伐の際に、一度は漢軍への協力を申し出ておきながら、両国に二股を掛けて出兵しなかったことから漢に疑われ、南越平定後に追討の対象となりました。
窮した餘善は兵を興して抵抗したものの、翌元封元年(前一一○年)、かつて自身が兄王に対してそうしたように、東越の臣下が餘善を弑して漢に降伏する形で滅亡しています。
漢はこの戦役の後、郢の孫にはそれなりの地位を与えて厚遇したものの、現地の住民の大半を故郷から遠く離れた江淮の地に移住させたため、東越(閩越)は国家という形式ばかりでなく、その実体までもが一気にこの地上から姿を消すことになりました。
そのため漢が敢て同地に王を並立させるような冊封を行ったのは、始めから国内を分裂させることで閩越を併呑するための策略だったとする見方もあります。
また朝鮮は、その王姓から衛氏朝鮮とも言い、現在までに確認できる朝鮮半島最古の国とされます。
燕の亡命者によって建国されたと伝えられ、漢帝国の東端である遼東郡の外にあって、漢朝からの承認も得ていましたが、宗主国である漢の意向に従わなかったことが武帝の怒りを買い、元封三年(前一〇八年)に漢軍の討伐を受けて滅亡しています。
そして衛氏の故地には、楽浪・真番・臨屯・玄菟の四郡が置かれ、これを機に朝鮮半島へも漢の統治が及ぶことになりました。
ただここで朝鮮に四郡が設置されたにも関らず『漢書』に東夷伝がないのは、まだこの時代には衛氏の周囲に国と呼べるような集団もなく、特筆すべき民族も見当たらなかったからでしょう。
同じく西南夷は、その地名の如く現在の貴州省から雲南省にかけての地域で、夜郎自大の故事で知られる夜郎国の故地でもあります。
山深い森林地帯である西南は、昔から歴代帝国の統治も及びにくい土地であり、表向きは中央政府によって郡県が設置されていたとしても、実際には土着の豪族を地方官に任じて間接的に支配する場合が多く、それは基本的に清の時代まで変りませんでした。
と言うより地方によっては現代でも同様です。
秦漢の時代では夜郎が最大の国だったようで、その夜郎は南越の滅亡後に漢へ入朝して、武帝から夜郎王の冊封を受けていましたが、数十年後に漢へ反旗を翻して討伐を受けています。
そして当然ながらその故地には郡県が置かれ、漢の直接統治下に入ることになりました。
こうして見てみると両越・朝鮮・西南夷の三地域は、漢との接点から滅亡までの経緯が酷似していて、それは取りも直さず漢帝国の領土拡大の歴史に他なりません。
『漢書』に於いてこの三方が一巻に纏められているのは、そうした共通性に因るものでしょう。
ただこれ等の地域については、必ずしも異人の土地という訳ではなく、前述の通り南越は秦の旧領でしたし、朝鮮は燕人の建てた国であるように、その人種構成は甚だ複雑でした。
これは秦が早くから入植を始めていた西南についても言えて、要はこの時期に大々的に行われた漢による領土拡大は、漢人が殆ど住んでいないような土地まで併呑したというよりは、漢帝国の周辺にあって漢人と原住民が同居しているような、言わば人種のグレーゾーンとでも言うべき地域を明確に漢領へ組み入れたという一面もありました。
次いでこれも『史漢』に撰ばれた西域を見てみると、やはりその主題は武帝の治世の出来事で、そもそも漢にとって建国以来最大の外敵は北の匈奴でした。
そこでかつて匈奴によって更に北方へ追われた月氏と同盟を結び、南北から匈奴を挟撃しようという戦略が立てられ、その使者として張騫を月氏へ派遣したのが事の始まりです。
尤も当の月氏は匈奴に敗れて北へ逃れた後、その北の地では烏孫に追われて遥か西方へ移住しており、漢の一行は途中で北から西へと大きく進路を変更しなければなりませんでした。
そして張騫等はその道中で二度も匈奴に捕えられ、延べ十年余も抑留されるなど苦労を重ねながら、西域諸国を経歴してようやく月氏の国へ到着したものの、既に西方で安住の地を得ていた月氏の協力は得られず、実に十数年もの歳月を経て漢へ帰還します。
しかしこの旅程で張騫一行が西域諸国を歴訪したことによって、それまで未知の世界だった西域の情報が漢へと齎され、やがてそれが都護の設置に繋がって行きます。
因みにここで言う西域とは、ほぼ現代の新疆ウイグル自治区に当り、国々の大半は砂漠の周辺に点在する小さなオアシス国でした。
大苑もそうした西域諸国の一つで、『史記』では個別に伝を立てられていますが、なぜ大苑伝だけがあるのかというと、それは漢の討伐を受けたからです。
もともと大苑は漢が豊かな国であることを知っており、早くから漢との交易を望んでいたようで、張騫が月氏へ向う道中で自国に立ち寄った際には、途中まで案内を買って出るなど厚遇しています。
一方の漢としても西方の有力国と誼を通じておくことは、北の匈奴を牽制する上でも重要でしたから、これを機に両国の間で国交が開かれることになりました。
また大苑は良馬の産地としても知られ、漢が匈奴との合戦に備えて遊牧民に負けぬ馬を揃えておく必要があったことや、武帝が大苑産の駿馬を愛したことなどから、しばらくの間は両国の関係も良好でした。
程無くして両国は敵対することになりますが、友好を終らせた原因もやはり馬で、事の発端は武帝が再び名馬を求めて使者を派遣した際、大苑が漢の要望を拒絶した上に、交渉時の揉め事から漢の使者を殺すという事件を起したことでした。
交渉が決裂した経緯については、大苑が漢の足元を見て条件を吊り上げてきたとも、漢の使者の態度が高慢だったとも伝えますが、いずれにしても遥か西方にあって漢の国威を読み誤ったのか、漢帝国に対する大苑側の認識が甘かったのは間違いありません。
ただ西域出陣の前兆は早くから現れていて、張騫が帰還して西域諸国との交流が開始された当初から、その往来は必ずしも順調とは言えなかったからです。
例えば漢人が西域へ赴くに当り、現地の事情を知らぬまま無謀に隊を組んで出立する者も多く、途中で立往生して周辺の諸民族から嘲笑を買っていたことや、漢帝国の威光を笠に着て異国の地で傍若無人に振舞う者があり、次第に西域諸国が漢人の一行を敬遠するようになっていたことなどは、その顕著な事例と言ってよいでしょう。
やがて道中の諸民族の中に漢の使節団を襲撃する者が出てくると、そうした状況を知った匈奴が再び西域に触手を伸ばし始め、遂には匈奴までが漢人を襲うようになっていました。
つまり直接の原因は馬を巡る些細な外交の縺れに過ぎなかったのですが、実はそれ以前から漢朝内では、西方へ軍を派遣して道中の安全を確保すべきという声が挙がっていたのでした。
そして大苑に使者を殺された武帝は、遂に軍を興しての討伐を命じ、司令官の人選を外したこともあって快勝とは言えなかったものの、二度に渡る遠征の末に大苑を降伏させます。
この大苑征伐は漢人による史上初の西域への出陣であり、これを成功裏に終らせたことで漢帝国の名は遥か西方の国々にまで知れ渡るようになりました。
またこの戦役を機に玉門関以西へ大軍を送る行路が開かれることとなり、これが後々まで続く支那王朝による西域支配の原点となっています。
従って大苑(西域)伝というのは、この大遠征の誇示とも言える訳です。
次いで『後漢書』に伝を設けられた西羌について見てみると、西羌は単に羌とも言い、ほほ現在の青海省一帯を生活圏としていた遊牧民で、居住地の隣接する氐と同じく、民族的にはチベット系であると考えられています。
そして羌族、氐族共に古くからその存在を知られていた民族でありながら、『漢書』の西域伝に■羌という集団が記された以外、『史漢』では余り触れられていません。
匈奴が冒頓単于の下で最盛期を誇っていた頃には、羌族もまた他の遊牧民同様に匈奴へ附随しており、両者の民族的な共通点は不明だが、匈奴とよく似た風習も持っていたといいます。
その西羌もまた武帝の代に漢の討伐を受けており、かつての盟主である匈奴が漢軍によって更に北方へ駆逐されたこともあって、羌族の居住地である青海は漢帝国の版図に組み込まれることになりました。
その後は原則として護羌校尉の管理下に置かれ、時折反乱を起してはその都度鎮圧されたりしていますが、『史漢』共に伝が立てられなかったということは、漢にとって余り大した存在ではなかったということでしょう。
実際当時の遊牧民の生活様式や、羌族の放牧地の規模から察すれば、それほど大きな勢力だったとは思えず、漢帝国の周辺に無数に存在する少数民族の一つに過ぎなかったと言えます。
むしろ漢にしてみれば、匈奴から切り離して校尉の管轄とした時点で既に、羌族の放牧地は自国の領土という認識だったのかも知れません。
羌族が漢にとって無視できない存在となるのは後漢末で、北の烏丸と同じように各地の軍閥と同盟を結んだりしながら独自の勢力を保ち、三国時代に入ってからは幾度となく魏や蜀と干戈を交えています。
そうした経緯から魚豢の『魏略』では特に西戎伝を立てて羌族についても扱っているのですが、『魏志』には西戎伝そのものが設けられていません。
と言うより『三国志』では烏丸鮮卑東夷伝が唯一の異国伝で、西戎以外にも呉が支配していた南蛮や、同じく呉が遠征した(結果は失敗でしたが)という夷洲と澶洲、蜀に服属していた西南等については、功臣の列伝等で副次的に触れられているのみで、東夷のように個別には条項を割いていません。
その理由については前記の東夷伝の序と評に示されていて、それ等の地域の詳細は既に前史が著していたからです。
特に西羌に関しては、同じく評にあるように『東観漢記』に録されて(言うまでもなく『後漢書』の西羌伝は『漢記』による)おり、同書の西羌伝が編修されたのは恐らく魏の代ですから、敢て『魏志』にまで付ける必要はないという陳寿の判断だったのでしょう。
また南蛮や西南が列伝として不載になっている理由については、『三国志』は漢から禅譲を受けた魏を正統としているので、呉や蜀による他国への冊封を認めないという姿勢もあったものと思われます。
こうして見て来ると、異国伝の本質というものが分かってきます。
つまり「中国」の史書の中で特に伝を設けて、外国や異民族の詳細が後世に伝えられているのは、何も文明圏の人々の好奇心でもなければ、ましてや両国の友好の証でもありません。
これは戦功なのであって、至極当然の話ながら、中国にしてみればあくまで自国の史書なのですから、異国の伝であろうと何であろうと、それは自国の歴史の一部に過ぎない訳です。
従って中国の歴史の末席に加われなかった国や民族は、基本的に記録の対象とはなりません。
前記の両越・朝鮮・西南夷の三者にしても、特に伝を立ててその歴史を後世に伝えられたのは、その国土が漢帝国の領土となったことで、その存在もまた漢の歴史の一部となったからです。
従ってもしこれ等の国々が以後も独立を保っていれば、つまり漢帝国の一片として吸収されていなければ、その詳細が文字にして書き残されることはなかっでしょう。
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