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魏志:司馬懿と四郡

2019-08-28 | 魏志倭人伝
明帝の決意と司馬懿登用
次いで、楽浪・帯方の二郡へ太守が赴任して来たのは、果していつ頃だったのかという問題があります。
尤もこれについては意外と早い時期だったと見てよいでしょう。
本来『魏志』内にその年月が明記されていればよいのですが、同書にはただ「景初中」とあるだけで、景初年間のいつの時点なのかについては全く触れられていません。
前記の通り両郡を制圧したのは、司馬懿率いる討伐軍ではなく別働隊の水軍であり、この水軍は対呉戦に備えて曹操の時代から育成してきた艦隊で、かつて一度は赤壁で敗れたりとはいえ、依然として魏の水軍も強大でした。
公孫淵のような地方の軍閥一つ踏み潰すのに、明帝が大尉の司馬懿を召喚したのみならず、水軍まで参戦させたということは、いかに戦線の長期化を厭っていたかが分かります。
勿論失敗など絶対に許されません。

これは北条征伐の際の秀吉も同じであって、彼は北条方の守備が意外と堅固で、小田原城がそう簡単には攻略できそうにないことを察すると、将兵の気晴しと称して猿楽を催したり、武将には女房を呼び寄せることを許可するなど、表向きは長期の対陣を想定したかのように振舞って部下の動揺を抑えようとしました。
しかし当時は未だ天下の情勢が定まったとは言えず、いつ誰が再び自分に牙を剥くかも知れない状況だったので、長期化だけは何としても避けたかったのが秀吉の本心で、一夜城の構築や凄まじいまでの調略など、落ち着き払った表面とは裏腹に、短期終結に向けてあらゆる手段を講じていました。
しかしその心中は敵にも見方にも決して悟られてはならないことで、少しでも焦っているところを見せたりすれば、内外の敵に要らぬ反抗心を芽生えさせてしまいます。

水軍による楽浪・帯方接収
話を遼東に戻すと、景初二年に入り、魏が本腰を入れて遼東攻撃を開始しようとしていた頃、公孫淵は南方の呉へ援軍を要請しています。
前年に一度魏軍を撃退しているとは言え、対峙した相手は刺史の毌丘倹率いる幽州兵であり、戦闘で勝利したと言うよりは、地の利を活かして防戦しているうちに、長雨や遼河の氾濫によって敵が撤退したというものでしたから、魏との間に和平でも結ばれない限り、更なる大軍が再び攻めてくることは分かり切っていました。
しかも今回は老将司馬懿をわざわざ関中から呼び戻し、新たに数万の遠征軍を編成しているとあって、とても自軍だけでは抗い通せないと判断したのでした。
かつて公孫淵に裏切られている呉帝孫権は、多少の皮肉を言ったものの、公孫氏が地上から消えてしまうと困るのは呉も同じなので、援軍そのものは了承しました。

結果として呉の援軍が大勢に影響を与えるようなことはありませんでしたが、魏が水軍まで動員したのは、公孫氏との短期での決着を望んだのは無論のこと、呉の動きを牽制するという意味合もありました。
しかし北条氏と同様に国力で劣る公孫淵は、魏軍本隊の進攻に備えて兵力の大半を遼東に集めてしまっていたため、楽浪以南には敵軍を防ぐだけの余力はなく、また公孫氏自身が後漢末の混乱に乗じて、武力で同地を支配した侵略者だったこともあり、現地の有力豪族の中にはむしろ魏を歓迎する気運が高くなっていました。
従って水軍による作戦そのものは特に何の問題もなく成功しており、上陸開始からかなり早い段階で、楽浪・帯方の二郡は平定されています。

水軍の指揮権
ただ水軍を展開させるという作戦が、果して地上戦と同時に行われたのか、つまり始めから包囲戦として計画されたものだったのか、それとも遼東の方がある程度片付いた後になって、南部の二郡を接収するためだけに実行されたのかについては、『魏志』にその詳細な記録がないので、実のところよく分からない点も多くあります。
またこの戦役に動員された兵力の全容は、司馬懿が明帝から授かった討伐軍、幽州刺史の毌丘倹が率いる幽州兵と烏丸兵、そして水軍という三部編成となっており、毌丘倹については副将として司馬懿の幕下に入ったことが分かっています。
しかし水軍の指揮権については、地上部隊同様に司馬懿の指揮下にあったのか、それとも司馬懿とは別に明帝から直接命を受けた者が実権を握っていたのかどうかも明確な記録はありません。
前者であれば司馬懿が全方面に於いて総司令官としての権限を与えられていたことになりますし、後者であれば明帝を元帥とする複数の司令官による多方面作戦ということになり、その本質はまるで変ってきます。


景初二年 遼東征伐の魏軍の進路図

そもそも東夷伝の序文に「景初中、大いに師旅を興して淵を誅し、又軍を潜ませ海に浮かびて楽浪帯方の郡を収め」とあり、韓伝にも「景初中、明帝密かに帯方太守劉听、楽浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越え二郡を定む」としながら、その詳細な記録がないなどというのも少々おかしな話ではあります。
何しろ二郡が制圧された時期如何によっては、遼東征伐の意義がまるで変ってくるのですから猶更です。
もし倭人伝にあるように、景初二年の六月の時点で、倭人が現地の太守を通して魏に通じていたとすると、遼隧で両軍が対峙したのとほぼ時を同じくして、既に公孫淵は領土の背後を失っていたことになります。
もしこれが事実ならば、最早この時点でどう転んでも公孫氏に勝機はなく、いくら鼓舞したところで士気など上がる筈もありませんし、魏への内通者が増えるのも止められません。
従って襄平攻略も容易になります。

そして水軍の指揮権を司馬懿が有していたならば、遼東征伐は尽く彼の功績と言っても過言ではないでしょうが、地上部隊とは別に明帝が直接指示したのだとすれば、当然司馬懿の戦功は半減することになります。
少なくとも『晋書』にあるように、「宣帝の公孫氏を平げるや、其の女王は使を遣わして帯方に至り朝見す」とまでは言えなくなる訳です。
そして水軍の参戦は司馬懿とは無関係に明帝が指示したものであり、地上部隊と同時進行で投入されたものだとすると、この遼東征伐に関して司馬懿は、当然自分が全権を任されていると思っていたでしょうから、たとい事前に知らされていたとは言え、自分の作戦の価値を下げるような水軍の行動は、内心面白くなかったと思われます。
また既に司馬懿は魏朝内で位人臣を極めて久しかったので、確実な勝利のためには已むを得ない人選だったとは言え、彼に必要以上の大功を立てさせるべきではないという思惑が働いていた可能性もあります。
 
景初二年の太守は誰か
では仮に倭人の来朝が景初二年だったとすると、時の帯方郡太守は一体誰だったのでしょか。
韓伝では明帝が同地へ遣わした初代太守の名を劉听とし、倭人伝では洛陽へ倭人を送り届けた太守の名を劉夏としているので、両伝に登場する帯方郡太守の名に相違が見られます。
加えて両伝共にそれが景初何年なのかを明記していないため、未だ定説と呼べる解答も得られていないのが現状です。
そして韓伝と倭人伝で太守が異なっているという点もまた、倭人の朝貢を景初三年と主張する根拠の一つになっていて、要は景初二年に帯方郡が接収された時の太守は劉听であり、翌三年に倭人が郡に来訪した時の太守が劉夏だという訳です。
ただ翌正始元年には次の太守として弓遵が赴任しているので、この説に従うと僅か三年の間に毎年太守が交代していたことになります。
確かに劉听は戦後の一時的な就任であり、劉夏の任期が短いのは帝位の交代に伴って人事が一新されたためだと考えれば、それほど非現実的な話でもないのですが。

無論この両者が同一人物であり、劉夏は初め劉听と言い、上陸作戦や倭人来朝の成功を機に改名したというのでもあれば、一気に全ての問題が解決してしまうのですが、当然そんな記録はどこにも見当たりません。
また通常この両者を別人とする場合、あくまで劉听の就任が先で、その後任が劉夏とされる訳ですが、逆に劉夏の方が先任者で、劉听が後任だとする見方もあります。
どういうことかと言うと、もともと劉夏は明帝が任命した太守ではなく、公孫淵統治下の帯方郡太守で、公孫氏の敗北を悟った劉夏が魏に内通し、その一連の流れの中で行われたのが倭人の来朝であり、魏の水軍が楽浪・帯方の二郡を接収するに及んで、太守もまた魏の任命した劉听に交代したという解釈です。
確かにそう考えると、司馬懿率いる魏の主力が遼東に到着したのとほぼ時を同じくして、俄に倭人が朝献を求めてきたというのも辻褄が合ってきます。
因みに魏朝としては、公孫淵の独立や燕王の称号など初めから認めていないので、劉夏が誰に任命された太守であろうと、魏帝の臣下であることに変りはありませんでした。


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