日食の形と名称(国立天文台公開)
卑弥呼の死と日食の一致
更にこの両年の日食を特別なものにしているのは、正始八年のそれは日没と共に太陽が浸蝕される日食なのに対して、正始九年のそれは日出と共に太陽が復活する日食であり、恐らくはこの二つの日食とほぼ時を同じくして女王卑弥呼が世を去っていることです。
また既に暦法の確立されていた漢土では、正始八年と九年の日食の間隔は一年半になりますが、日食の起きた時期がそれぞれ昼夜の長さが同じになる三月と九月だったため、当時の倭人の年の数え方ではちょうど丸三年の節目だったかも知れません。
そして「卑弥呼」の名が、倭語では「日御子」或いは「姫(日女)御子」であり、一時的な混乱を経た後、彼女の後継として再び女王が即位していることから、二度の日食は新旧女王の交代劇を見事なまでに象徴する出来事となっています。
卑弥呼死後の混乱
卑弥呼の死後について『魏志』に伝えるところでは、一度は男王が立ったものの国中がこの新王に服さず、王位継承に絡んで千余人が相誅殺されました。
また既に暦法の確立されていた漢土では、正始八年と九年の日食の間隔は一年半になりますが、日食の起きた時期がそれぞれ昼夜の長さが同じになる三月と九月だったため、当時の倭人の年の数え方ではちょうど丸三年の節目だったかも知れません。
そして「卑弥呼」の名が、倭語では「日御子」或いは「姫(日女)御子」であり、一時的な混乱を経た後、彼女の後継として再び女王が即位していることから、二度の日食は新旧女王の交代劇を見事なまでに象徴する出来事となっています。
卑弥呼死後の混乱
卑弥呼の死後について『魏志』に伝えるところでは、一度は男王が立ったものの国中がこの新王に服さず、王位継承に絡んで千余人が相誅殺されました。
そこで卑弥呼の宗族の台与という少女を王に据えると、再び国内が治まったと言います。
臣下から不信任を受けたというこの男王については、最も基本的な情報である王の出自を始めとして、果して卑弥呼から後継者として選ばれていた人物だったのか、内乱後に男王から台与への王位の移行が一体どのような経緯で行われ、その後の男王がどうなったのか等についても、『魏志』にはそれを示す記述が全くありません。
加えて日本側の史書の中にもそれを暗示するような逸話が見当たらないので、その詳細は今も分からないままです。
臣下から不信任を受けたというこの男王については、最も基本的な情報である王の出自を始めとして、果して卑弥呼から後継者として選ばれていた人物だったのか、内乱後に男王から台与への王位の移行が一体どのような経緯で行われ、その後の男王がどうなったのか等についても、『魏志』にはそれを示す記述が全くありません。
加えて日本側の史書の中にもそれを暗示するような逸話が見当たらないので、その詳細は今も分からないままです。
もともと卑弥呼は独身で実子がないので、本来ならば生前に後嗣を決めておかなければならない筈です。
女王の後に男王が立って内乱が起きた例として、皇極女帝と孝謙女帝が挙げられますが、これはどちらも生前譲位によるものであり、内乱後は共に自ら重祚しているので、卑弥呼とは状況が異なります。
確かに卑弥呼から台与への移行劇もまた、女王の重祚と言えなくもありませんが。
そして卑弥呼の急死を受けて新王が立ったものの、国中がこの男王に服さなかったということは、この男王が生前の卑弥呼から後嗣の認定を受けていない人物だったか、或いは相当出来の悪い後嗣だったことが考えられます。
いずれにせよ十三歳の少女に王の務めが果たせる筈もなく、卑弥呼と言い台与と言い、当時の日本はまるで有力貴族の力関係で動いていた平安朝廷や、お飾りの公家将軍を迎えていた頃の鎌倉幕府のように、実質的には王不在のまま運営されていた訳です。
この一時を見ても女王の戦争責任など初めから有り得ないことが分かります。
郡使の見た倭国
『魏志』には郡使の倭国渡航の時期を示す記録がないので、卑弥呼から台与への一連の政変の中で、果して張政等がいつ頃に倭国を訪問して、そこで彼等が目にした倭の風景が一体どのようなものだったのかは不明です。
確かに本来この時の郡使は女王卑弥呼への返信使であり、伊都国に到着した張政は初め卑弥呼に宛てて檄を作ったとされています。
しかし倭人伝の中で女王の死因や男王の治世について殆ど触れていないところを見ると、恐らく郡使の一行が倭の地を踏んだのは全てが終った後のことで、いつの間にか当の卑弥呼が世を去ってしまっていたため、急遽外交の相手を台与に変更せざるを得なかったものと思われます。
実のところ一国の公使が君命を受けて、その任務のために他国との間を往来するというのは、それが一刻を争うような急使でもない限り、単に両国間の距離を移動するのとは比較にならないほどの時間を費やすものなのです。
いずれにせよ十三歳の少女に王の務めが果たせる筈もなく、卑弥呼と言い台与と言い、当時の日本はまるで有力貴族の力関係で動いていた平安朝廷や、お飾りの公家将軍を迎えていた頃の鎌倉幕府のように、実質的には王不在のまま運営されていた訳です。
この一時を見ても女王の戦争責任など初めから有り得ないことが分かります。
郡使の見た倭国
『魏志』には郡使の倭国渡航の時期を示す記録がないので、卑弥呼から台与への一連の政変の中で、果して張政等がいつ頃に倭国を訪問して、そこで彼等が目にした倭の風景が一体どのようなものだったのかは不明です。
確かに本来この時の郡使は女王卑弥呼への返信使であり、伊都国に到着した張政は初め卑弥呼に宛てて檄を作ったとされています。
しかし倭人伝の中で女王の死因や男王の治世について殆ど触れていないところを見ると、恐らく郡使の一行が倭の地を踏んだのは全てが終った後のことで、いつの間にか当の卑弥呼が世を去ってしまっていたため、急遽外交の相手を台与に変更せざるを得なかったものと思われます。
実のところ一国の公使が君命を受けて、その任務のために他国との間を往来するというのは、それが一刻を争うような急使でもない限り、単に両国間の距離を移動するのとは比較にならないほどの時間を費やすものなのです。
壹與、倭の大夫率善中郎将の掖邪狗等二十人を遣わし、張政の還るを送る。因って臺に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。
台与は、率善中郎将の掖邪狗等二十人を遣わして、張政が帰還するのを送らせた。そして(掖邪狗等は)台(中央官庁)へ至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢いだ。
魏帝からの詔書と黄幢を拝領した台与は、率善中郎将の掖邪狗等に帰国する張政等を送らせると、掖邪狗等二十人をそのまま洛陽へ入朝させて生口と物品を貢いだといいます。
台与から魏帝への献上品の目録を見る限り、その準備には相応の時間を要した筈で、更には女王の使者が張政等に同行して魏まで赴いていることを見ても、恐らく張政等はかなりの期間倭国に滞在し、両国間の関係維持に尽力していたものと思われます。
無論この時の台与の朝貢は、倭人の方から自発的に渡航したと言うよりは、郡使の方から持ち掛けたものだった可能性が高く、新女王が改めて冊封を受けるための段取りでもあったでしょう。
そしてこの一文を最後に『魏志』倭人伝の記事は終っています。
魏倭両国間の国交の真偽
『魏志』倭人伝に記された倭人の記録は、期間にして僅か十年ほどのものですが、その間の魏倭両国の交流については、果してこれが真に国交と呼べるほどのものだったのか、多少の違和感が残るのは否めません。
まず倭国の方を見てみると、魏との国交が開けた時点の君主は女王卑弥呼であり、恐らく彼女は祭事以外の内政は王弟に任せていたと思われるので、外交政策の決定に女王の意志がどの程度反映されていたかは疑問です。
それでも卑弥呼の場合は、景初年間の頃には既に女王自身が成人していたことと、実弟が補佐していたという記述もあるので、まだ王府としての姿を想像し易くなります。
しかしその後継者の台与に至っては、女王自身が何も分からぬ少女である上に、先代の男王の治世に千余人が誅殺されたという記録もあり、台与の在位初期の頃の邪馬台の権力構造については、殆ど想像も付かないというのが現状です。
そしてそれは魏についても同じことが言えて、実質的な魏朝最後の皇帝である明帝は、帯方太守劉夏が倭人を送り届けた翌年の正月に崩じてしまっており、そこから倭人伝最後の記録である新女王台与の朝貢に至るまで、両国の交流の期間を通して魏の君主は何の実権もない小帝曹芳でした。
そして台与の遣使から間もない正始十年(西暦二五〇年)の年明け早々、明帝から後事を託されていた大功臣の司馬懿が、皇族として魏朝の実権を握っていた曹爽一派を排除するクーデターを起こし、朝廷内の反司馬勢力を尽く誅戮してしまったため、これ以降魏は実質的に司馬氏の支配する国となりました。
但し老臣の司馬懿は、乱後に小帝から許された丞相の地位は固辞しており、魏を名実共に司馬氏の国としたのは彼の子や孫達です。
台与から魏帝への献上品の目録を見る限り、その準備には相応の時間を要した筈で、更には女王の使者が張政等に同行して魏まで赴いていることを見ても、恐らく張政等はかなりの期間倭国に滞在し、両国間の関係維持に尽力していたものと思われます。
無論この時の台与の朝貢は、倭人の方から自発的に渡航したと言うよりは、郡使の方から持ち掛けたものだった可能性が高く、新女王が改めて冊封を受けるための段取りでもあったでしょう。
そしてこの一文を最後に『魏志』倭人伝の記事は終っています。
魏倭両国間の国交の真偽
『魏志』倭人伝に記された倭人の記録は、期間にして僅か十年ほどのものですが、その間の魏倭両国の交流については、果してこれが真に国交と呼べるほどのものだったのか、多少の違和感が残るのは否めません。
まず倭国の方を見てみると、魏との国交が開けた時点の君主は女王卑弥呼であり、恐らく彼女は祭事以外の内政は王弟に任せていたと思われるので、外交政策の決定に女王の意志がどの程度反映されていたかは疑問です。
それでも卑弥呼の場合は、景初年間の頃には既に女王自身が成人していたことと、実弟が補佐していたという記述もあるので、まだ王府としての姿を想像し易くなります。
しかしその後継者の台与に至っては、女王自身が何も分からぬ少女である上に、先代の男王の治世に千余人が誅殺されたという記録もあり、台与の在位初期の頃の邪馬台の権力構造については、殆ど想像も付かないというのが現状です。
そしてそれは魏についても同じことが言えて、実質的な魏朝最後の皇帝である明帝は、帯方太守劉夏が倭人を送り届けた翌年の正月に崩じてしまっており、そこから倭人伝最後の記録である新女王台与の朝貢に至るまで、両国の交流の期間を通して魏の君主は何の実権もない小帝曹芳でした。
そして台与の遣使から間もない正始十年(西暦二五〇年)の年明け早々、明帝から後事を託されていた大功臣の司馬懿が、皇族として魏朝の実権を握っていた曹爽一派を排除するクーデターを起こし、朝廷内の反司馬勢力を尽く誅戮してしまったため、これ以降魏は実質的に司馬氏の支配する国となりました。
但し老臣の司馬懿は、乱後に小帝から許された丞相の地位は固辞しており、魏を名実共に司馬氏の国としたのは彼の子や孫達です。
晋への朝貢
次に倭人が漢籍に登場するのは唐代に成立した『晋書』で、晋の泰始二年(西暦二六六年)、前年に即位した晋の武帝に倭人が朝献したという記録があります。
尤も魏帝から司馬炎への禅譲は、魏の咸熙二年(二六五年)の十二月であり、泰始という元号はそれを受けて改元されたものですから、同二年が実質的な晋の武帝こと司馬炎の元年となります。
『晋書』に倭人が出てくるのは二箇所で、四夷伝倭人条に「泰始の初め、遣使して訳を重ねて入貢せり」とあり、武帝紀には「泰始二年、倭人来りて方物を献ず」とあります。
要はどちらも同じ事件を記したものですが、倭人が晋の建国に際して祝賀の使節を遣わしたのでしょう。
そして同書内の新しい倭人関係の記事はこれだけであり、四夷伝倭人条の大半は『魏志』の簡易的な焼増しに過ぎない内容なので、実際にはこの一件を最後に倭人の話題はしばらく漢籍上から消えることになります。
次に倭人が漢籍に登場するのは唐代に成立した『晋書』で、晋の泰始二年(西暦二六六年)、前年に即位した晋の武帝に倭人が朝献したという記録があります。
尤も魏帝から司馬炎への禅譲は、魏の咸熙二年(二六五年)の十二月であり、泰始という元号はそれを受けて改元されたものですから、同二年が実質的な晋の武帝こと司馬炎の元年となります。
『晋書』に倭人が出てくるのは二箇所で、四夷伝倭人条に「泰始の初め、遣使して訳を重ねて入貢せり」とあり、武帝紀には「泰始二年、倭人来りて方物を献ず」とあります。
要はどちらも同じ事件を記したものですが、倭人が晋の建国に際して祝賀の使節を遣わしたのでしょう。
そして同書内の新しい倭人関係の記事はこれだけであり、四夷伝倭人条の大半は『魏志』の簡易的な焼増しに過ぎない内容なので、実際にはこの一件を最後に倭人の話題はしばらく漢籍上から消えることになります。
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