サスケの日曜日

小さな発見を楽しみに!

鮎皿

2011-06-21 21:26:35 | 東日本大震災

 17日から災害支援ボランティアに参加して参りました。
 今回は東松島でのお手伝いです。
 初日は、唯一個人受付をしている所(それだけ物資が不足している)へ野菜などの食糧や日用品の物資を届けるために、牡鹿半島の侍浜まで足を伸ばしました。
 三陸道路から東松島市街に入り、国道45号線の道沿いは大方片付いていますが、一歩海側に入るとまだ手つかずの所が多く街道沿いとは景色が一変します。
 石巻へ入ると地盤沈下のため、特に蛇田、渡波辺りは川の水面が異常に高く見えます。
 隧道を抜け渡波に入って行くと、建物のほとんどは消えてなくなり、気仙沼と同じく灰色の景色が続きます。
復旧作業の順番があるのか、ここはまだほとんど手が付けられていません。
 石巻を通過し牡鹿半島へ入っていくと、左手に広がる海岸線は内海で被害が少なかったのか美しい景色が見えていますが、反対側は小さな集落が幾つも幾つも無くなっていました。
 物資を届け牡鹿半島から戻る途中、3階建て女子高校の前に差し掛かると、グラウンドには瓦礫が建物の高さに届くほどうず高く積まれ、校舎が飲み込まれてしまいそうな景色に胸の詰まる思いがしました。
 
 東松島市は、綺麗に区画整理され、市街地にはおしゃれな家が立ち並ぶ仙台のベッドタウンの様です。
 震災の日、海岸線から約5キロの所まで津波が押し寄せ、水は何時までも引かず、高台に避難した人が町に戻ったのは一週間近く過ぎた後だったと運び出し作業にうかがった寿司屋の主人が話してくれました。
 11日の前にも大きな地震が有ったものの津波が来なかったので、今回も住民の誰もが津波の心配をしなかったようです。遠くで警報と避難指示の放送が聞こえ、ふと海岸方向に目をやると黒い波が見え、、「早く逃げろ!」と言う警察官の叫び声に店の扉を開け放ちたまま慌てて逃げ出したそうです。津波は、店のカウンターの高さにまで達したと言うことですが、戻ってみると大きな営業用冷蔵庫も金庫も流されたものか盗られたものか無くなっていたそうです。
 一見すると建物には何も変化が無いように見えますが土台も柱もゆがんでしまい、修復するには莫大な費用が掛るとのこと、先立つものもなく止む無く大広間のあった棟を取り壊し店舗のみに縮小し営業を再開することにした、親子三代続いた店を守ろうとする主の苦渋の選択がありました。
 女性陣の最初の作業は、器を半分に分けて行くこと。半分は店に残すそうです。そして残りの半分は…どうなるのでしょう。 鮎の塩焼きを乗せる美しい「鮎皿」も主の言い付け通り二つの箱に納めました。地震が無かったらちょうど今頃からこの皿の出番だったことでしょう。「一日も早くまた使われますように」と念じずにはおれません。 客室の要らなくなった箱膳やテーブル、家具などが次々に運び出され建物の中はガランとして何とも言えない寂しさが伝わってきます。
 「再開したら必ず食べに来ますから」 
 お店が一日も早く再開されることを祈りつつ店を後にしました。