サテュロスの祭典
窓際のトットちゃんは児童ポルノ
まず、誤解を招かぬよう、お話をしておくのですが、僕は、介護従事者でもあり、二つの難民支援団体のサポーターでもあります。
黒柳徹子さんの事は大変尊敬をしておりますし、彼女の名作『窓際のトットちゃん』と言う作品は、実に素晴らしいと思っております。
また、彼女の人生に大きな影響を与えた、彼女の母校の教育には深く感銘も受けております。
その上で、これからお話する事を、お聞き頂きたいと思います。
僕は、少女ヌードは、ヌードにされた少女が可哀想だから、ポルノ被害者だから、絶対悪であり、虐待だと言うのなら…
いや、大人の思惑で少女を裸にする事が虐待であり、それを描く事、表現する事が児童ポルノだと言うのなら…
窓際のトットちゃんに登場する、黒柳徹子さんが通われた学校の水泳授業は、明らかに児童に対する性的虐待であり、あの学校を描いた窓際のトットちゃんなる小説は、児童ポルノ以外の何者でもないと思います。
少女を裸にして描いた物は、漫画であろうと小説であろうと、所持しただけで処罰せよ…
と、一部過激な児童ポルノ撲滅主張者は仰れているそうですが…
ならば、窓際のトットちゃんなる小説を所持するものも厳罰に処することを僕は勧めます。
少女のヌード写真は、裸にされた少女が可哀想だから絶対許せんと息を巻き、かつてモデルにされた少女が、泣きながら嫌だったと言う証言を、泣きながら話していた方が、同じ口で『窓際のトットちゃん』と言う小説の話を素晴らしいと熱く語ってくれた事があります。
語っただけでなく、その小説の中で感動した箇所を、熱心に読み聞かせてくれた時もあります。
その感動した箇所の一つが、この子供達を素っ裸にして水泳授業をさせる箇所でした。
しかし、僕から言わせれば、その方は非常に矛盾していると思います。
何故なら…
この水泳授業の箇所は、ある日、いきなり予告もなしにプールに入ると子供達に告げる場面から始まりました。
その時、子供達が、水着を用意してない事を告げると、必要ないと先生は言い、その場で素っ裸になって泳ぐよう子供達に告げます。
子供達は驚き戸惑いますが、先生にそう言われたので、そのまま素っ裸になって泳いで、徹子さんはとても楽しかったと書かれていましたが、子供達の中には、最初は恥ずかしがって、泣いて嫌がった子がいる事も描写されていました。
しかし、周りのみんなが言われるままに裸で楽しそうに泳ぐのを見て、勇気を振り絞って一枚ずう服を脱いで裸になるうちに、恥ずかしさが消えてゆき、気づけば、皆と素っ裸で楽しく泳いでいた事が、実に叙情的、感動的に描かれているのです。
あれは、あくまでも、あの学校で開花され、楽しい思い出に満ち溢れた徹子さんの視点で書かれた小説だから、そう言う描き方になるのでしょう。
しかし、それこそ、少女ヌードは絶対悪だと決めつけて取材された方が、同じ論調で、嫌だっただろう、嫌だっただろうと、卒業生一人一人をしつこく取材したならば、嫌だった、あの学校で、裸で泳がされたのが未だに苦い思い出になっていると言う子だっていたかも知れません。
また、あの本の中には、子供を裸で泳がせることに反対して、水着を持たせたが、その水着を着る事をさせずに裸で泳がせる、その事を隠す為に、水着をずぶ濡れにして持ち帰った子供達の描写もあります。
その子達も、親は嫌がっていたが、当人はとても裸で泳ぐのを楽しがり、その事が親にバレたら学校に行かせてくれなくなると言う思いから、そうしたと書かれているが、これも徹子さんの視点でです。
本当は、最後まで、裸で泳ぐのが嫌で嫌でたまらなかった子達もいたかも知れません。
こう話すと…
いや、あの時の卒業生の中に、そんな子はいなかった。実際、徹子さんの同級生は、みんな楽しかったと証言していると言うかも知れません。
しかし、それも、徹子さんの小説が有名になり、素晴らしい教育方針の学校として取り上げられたから、そう証言してるだけと言う事はありえないでしょうか?
これは、あくまでも僕の憶測に過ぎません。
実際、この時、水泳の授業を受けた当時の生徒一人一人に取材確認をしたわけでもなく、また、今後も、少女ヌード絶対悪を主張される方々のように、嫌だった子探しを見つけ出して、鋭く迫って証言などは求める気もありません。
ただ、たまさか、徹子さんの本はベストセラーとなり、本に登場した学校教育が、素晴らしいと評判を呼んだから、あの時の水泳授業を、楽しかったと証言される方はいらしても、辛かったと証言される方はいない…
そう考えた時…
逆に、僕は思います。
もし、少女ヌード写真が、美術として社会的高い評価を得て国際的な写真賞をそうなめしたとします。モデルとなった少女も、そのモデルとして高い評価と人気を得て、輝かしいモデルスターとなれたなら、あらゆるテレビ番組に引っ張りだことなり、ヌード以外にも数々のモデルや、女優、歌手デビューまではたしたなら…
そして、日本を代表するモデルや女優となり、世界的に高評価を得た少女ヌード写真のモデルを務めた事が話題となる度に、その輝かしい経歴の一つとして、常に称賛の声とともに、とりあげられたなら…
その写真家が、単に少女ヌード撮影家としてでなく、多くのモデル達を育てる育て方だの、後押しだの、モデル達との交わりだのが高評価を呼び、人間的な素晴らしさが讃えられてしまったなら…
本当は、その写真家のヌードモデル、最後まで嫌だった子も、嫌だったなどと名乗り出てはこなかったかも知れません。
いや、その写真家のモデルに一度でもなった事が、将来モデルとして、芸能界として生きてゆく上でステータスになると知ったら、本当は嫌でたまらなかった子も、あの写真家先生は素晴らしい、あの先生のモデルになれて幸せだったと言ったのではなかったかと思います。
それを考える時…
僕は、窓際のトットちゃんの小説を、しかも、裸で子供を泳がせた箇所を、実に素晴らしい事のように読み聞かせた方に、強い矛盾と違和感を感じざるを得ません。
こう話すと、あの学校は、子供達への熱い教育方針、理念からそうしたと言う答えが返ってくるかも知れません。
しかし、熱い理念があるなら、理想があるなら、大人の考えを押し付けるかのように、裸になるのを泣いて嫌がった子供に、裸で泳ぐ事を強要して良いと言う理屈につながります。
それを言うなら、少女ヌード写真の撮影にも、写真家の熱い理念と理想があります。
それは、また、別の機会に話しますが…
一言で言って、ほんの束の間しかない、少女の最も美しい姿、歳を重ねれば、瞬く間に消えてなくなる、少女のその時その一瞬だけの本当に美しい姿を、永遠に残しておきたいと言う芸術家ならではの高い理想と理念があって撮影しています。
しかも、窓際のトットちゃんの学校のように、いきなり前触れもなしに、裸で泳げなどとは言いません。
最初から、親にも当人にも、裸で撮影する事をはっきり告げ、一人のモデルの承認を得る為に、長ければ数ヶ月も話し合った末に、撮影に入ったとも聞きます。
しかも、数ヶ月も話し合い、しっかり本人の了承を得たはずなのに、撮影する段になって、やっぱり裸になるのは嫌だと泣いて嫌がり、撮影中止になった話も、僕は聞いています。
対し、突然、今日の今日、予告なしにプールで泳ぐと告げ、水着を用意してないと驚いて言う子供達に、必要ない、素っ裸になって泳げと言って、素っ裸にして泳がせ、本人も親も驚かせる徹子さんの学校のやり口の方が、はるかに卑劣な性的虐待だと、今の価値観だけで言えばそうなるのではないでしょうか?
少女ヌード写真は、猥褻だと言う評価で嫌うならそれはそれで良いと思います。
しかし、全部の少女達が本当に嫌がっていたか、無理やりであったか、ちゃんと調べもせず、全て裸になる事を強要した虐待だと言うのなら…
僕はこう断言できるかと思います。
徹子さんが通われた学校は、児童虐待の学校であり、その学校を美化して描く窓際のトットちゃんは、児童ポルノ以外の何者でもないと。
これは、あくまでも、少女をヌードにする事、それを描く事が、今の価値観だけに照らし合わせて須く性的虐待とみなしたなら…
と、言う但し書きに基づく、僕の個人的主観であり、感想です。
別に、今の価値観に照らし合わせて、徹子さんの通われた学校と教育方針を捉えて否定する気は全くありません。
この本を、本気で児童ポルノだ…などと思っているわけでもありません。
もし、少女ヌード写真を十把一絡げに虐待扱いせず、美術表現として正当な評価を下す社会にあるなら…
かつて同様、明らかに子供を虐待している写真でない限り、今も美術写真として、書店で普通に手に入れられる状況にあるなら…
徹子さんの通われた学校教育…特に、子供達に素っ裸で泳がせると言う水泳授業は、誰よりも僕が素晴らしいと思っています。
むしろ、幼稚園から中学校までは、体育と保健体育授業は男女合同で、素っ裸になって行わせるべきである。少なくとも、水泳の授業は、校外からも良く見える外に設置されたプールにて、男女混合、全裸で行うべきだと考えてます。
この点については、また別の機会に話を譲りますが…
しかし、前もって全裸で撮影する事をきちんと説明し、当人とも親とも何度も打ち合わせし、了承を得た上で撮影した少女ヌード写真を、あくまでも性的虐待だと言うなら…
前触れなしに、少女をいきなり裸で泳がせた徹子さんの学校の水泳授業、性的虐待以外の何者でもない…と、僕は思わざるを得ないのです。
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