サテュロスの祭典
一瞬の煌めき
前回の続きとなりますが…
徹子さんの通われた学校は、高い理念に基づく教育方針から、子供達を前触れなしにいきなり素っ裸にして泳がせた話をしましたが…
それを言うなら、少女ヌードを撮影する写真家にも、美術写真家としての高い理念の元に撮影したのだと話しました。
では、その理念とは何であるか…
一言で言うなら、一瞬の煌めきを永遠に残すと言う理念です。
こう話すと、だったら別に裸でなくても良いではないか…
服を着ている少女を撮れば良いではないか…
裸を撮りたいなら、大人の裸でも良いではないか…
そう思われる方も少なくないでしょう。
別に、そう言う考えを僕は否定しません。
また、僕からすれば、そう思われるのなら、どうぞ、その方はそう言う写真を撮って下さいと返すでしょう。
或いは、そう言う写真を好んでみれば良いだけの話です。
しかし、その理屈で言うなら、徹子さんの学校とて同じです。水着を着せての水泳授業で、教育理念を遂行すれば良いだけの話です。
ただし…
ヌードモデルとなる少女には、嫌がる選択権がありましたが、徹子さんの学校に通われた子供達には、それこそそんな選択権はなかったと思われます。
また、後になって本当は嫌だったとヌードモデルをされた少女には言えましたが、あの学校の生徒達には、それを公で言う事はできなかったと思います。
あの学校は、確か私立であり、別にそこに通わせなければならないと言う決まりはありませんが、あの時代の小学生に、あの学校が良い、この学校が良いと言う選択権はたぶんなかったでしょう。
それこそ、親が決めた学校をに行くしかない。いや、そもそも、あの時代、学校に行かせてもらえるだけ、ありがたく思えの時代でもあった気がします。
学校に行く事さえできない子供が少なくありませんでしたから…
しかし、先に述べたように、少なくとも少女ヌード写真のモデルをするしないは、多くの場合、モデルとなる子供達と長く交渉をして決めたと聞きます。交渉に何ヶ月もかかる事もあれば、納得したはずの当人が、土壇場で泣いて嫌がり、中止となったケースも聞きます。
『少女アリス』のモデルで有名なサマンサさんは、十四歳の時、同じ写真家のモデルを務める際、ヌードには絶対ならないと言う約束で承諾したと言う話も聞きます。
選択権の有無の話はこのくらいにして…
では、何故、敢えて少女のヌードなのか…
それが、その子の一番美しい時の、一番美しい姿だからです。
少女は、幼ければ幼い程、何も身につけてない姿、生まれたままの姿が最も美しい。
しかも、それは、容姿風貌に左右されない。
どんな顔をしていても、どんな体型をしていても、幼なければ幼い程、ただ、裸になるだけで美しい。
極端に言えば、最も美しく、愛らしく、愛しいのは、生まれたての赤ん坊ではないでしょうか?
赤ん坊は、どんな服を着せられるより、裸で手足を元気よく動かし、ケラケラ笑ってるのが一番美しく、可愛く、愛しい。
理由としては、少女の裸体には、混じり気の無い清らかさ、無垢さ、純粋な輝きがあるからだと思います。
その子が、実際そう言う子であるかどうかは余り関係ありません。
少女と言うと、恥ずかしがり屋で、素直で、純真可憐な存在を想像しがちだが、実際は違う。
少女ほど、ずる賢くわがままで、自分の可愛らしさを熟知して大人を翻弄し、泣いたりぐずったり拗ねたりして、何でも自分の言う事に従わせたがる、世にも邪悪な一面もあります。
だから、少女は女神や天使ではなく、妖精や小悪魔に擬えられたりもします。
しかし、そんな内面など関係なく、裸になれば、皆、無垢な天使に変化する。
まるで、近世ヨーロッパの神話や聖書を描いた絵画に登場するような、女神や天使や妖精に変身します。
実に神秘で神聖な輝きを、裸になった少女だけが持っているのです。
しかし、その美は期間限定に過ぎません。
少女が、容姿風貌体型にかかわらず、裸になれば無条件で美しくあれるのは、僕の中では十二歳か十三歳まで…
よくて、十五歳までかと思います。
十五歳を限りに、歳を重ねる毎に、生まれたままの姿で美しくいられる者は、それこそ、容姿風貌体型に左右されてしまい、限られた者となってしまう。
更にある年齢を過ぎれば、特定の人を除いて、裸でいる事が羞悪でしかなくなり、老婆に至っては、どんなに容姿に優れていても、服を脱げば一発で醜くなってしまう。
裸になるだけで、裸でいる事が、限りなく美しくいられるのは、人生八十年と仮定して、その中の十二年~十五年だけだと僕は思います。
これは、価値観の相違としか言えませんが、少女を裸にするのは可哀想どころが、容姿風貌に関係なく、裸を誇って見せられるのは、十二年~十五年と言う短い期間を生きる少女だけの持ちうる特権だと、僕は思います。
この限られた時間しか与えられていない、少女の最も美しい姿を、たかだか十二年~十五年と言う短い期間で終わらせず、永遠に残しておこう…
一瞬の煌めきを、一瞬で終わりにせず、永遠に残そう…
これが、十二歳以下、十五歳以下の少女に絞って、ヌード写真を撮影したい、して欲しいと言う僕の理念でく。
ヌードを撮られた少女達が可哀想?
とんでもない。
無理やりモデルにされた方は、なるほど、無理やり徹子さんの通われた学校で、いきなり裸で泳がされた子供達と同じくらい可哀想だと思います。
しかし、自分の意思も尊重され、納得理解して撮影された少女達は、むしろ羨ましいとさえ思います。
僕にも妹や娘がいたなら、本人が嫌がらなければ、あの素晴らしい写真家達に、ヌード写真を美しく撮って欲しかったと思います。
或いは、僕自身に撮影技術があれば、僕自身の手で、妹や娘達の、最も美しい時代の、最も美しい姿を撮影したいと思います。
むしろ、裸にする事される事事態が、加害者被害者と言う見做され方をし、短い間にしか残せないヌード写真を残すチャンスを全く失ってしまった、今の少女達の方が、僕に合わせれば、表現の自由を奪われた可哀想な子達に思われます。
同時に…
僕が、ここはもう、はっきり言う。時代と周囲に追い詰められるようにして、捨ててしまった少女のヌード写真を、全て集め直したい。更には、あの時手に入れる事ができなかった少女のヌード写真も一つ残らず手に入れたい。
その理由は、こんな時代だからこそ、あの時あの瞬間、最も美しい姿を残された、少女達の写真を大切に保管し、後世に残したいのです。
とは言え…
少女のヌードは、全て性的虐待、ポルノ被害だとゴリ押しされ、そうでないと言う方を、変質者、犯罪者、病人扱いされる方々と僕は違います。
そう言う方々に対して、いや、あれは少女の最も美しい姿を永遠に残したいと言う、少女愛に基づく撮影なのだと言う理念を、そう思わない事が遅れてると野次る気もなければ、僕の考えをゴリ押しし、此処で大いに遣り合う気もさらさらありません。
あくまでも、これは僕一個人の主観として、こう思う。こう言う理念のもとに、かつて世に出た全ての少女ヌード写真を手に入れ残したい、また、新たに時代が変わり、世の価値観が変わった時、新たな少女ヌード写真を世に出して欲しい、僕自身の手でも世に出したいと望んでいると話しておこうかと思います。
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