世界の異常気象(6)
エルニーニョ現象
50数年前1969年7月、羽田空港からカナデイアン・パシフックで赴任地ペルー・リマに向って旅立った。最初の給油地はアラスカ・アンカレッジ、窓外の索漠とした風景に何やらこれからの海外生活を暗示するかのようで、俄かにホームシックに陥った記憶がある。一時間後一路南下し、カナダのバンクーバー空港に到着、予めテレックスで依頼して置いたバンクーバー支店勤務の後輩に案内して貰って,街のゴルフショップで最高級ゴルフ道具を調達し、勇躍機上の人となったが、運悪く隣に座った男が小生の2倍とおぼしき、エコノミークラスの座席からはみ出さんばかりの大男、テキサス訛りの早口、大声でやたら喋りかけられたが殆ど理解不能、ロッキー山脈を越えてカルガリー空港を飛び立ちメキシコに到着する迄の間、窮屈な格好で食事も断って爆睡した。メキシコ給油後から隣は空席となり、クルーも南米美人揃い、機内放送もスペイン語が中心となり、ラテンアメリカムードが漂って、何となく赴任地への無事到着の安堵と緊張を感じたのを鮮明に覚えている。
リマは年間降雨量ゼロに近いと聞いていたので、機内から市街地が見えると期待していたが、低い海霧の中、突然滑走路にランデイングしたのには肝を冷やした。此の空港は海霧で機長泣かせである事が後でわかった。出迎えてくれた前任者の後輩は横柄な男で鍛えてやるとばかり、うらぶれた安宿に放り込まれ、湿気で湿った様な布団、薄くて硬い牛肉の上に同じ厚さの(スリおろしニンニク)が乗ったステーキが全く喉を通らず、心身ともにボロボロになってしまった。リマは赤道直下とは言え南極から流れて来るペルー海流(フンボルト海流=寒流)のお陰で冬は湿度80%、低温・高湿度、低い霧が立ち込め視界不良、底冷えがして結構寒く、初体験もあって心身共に堪えた。隣国・エクアドルはスペイン語で(赤道)を意味し、ペルーも赤道直下と言っても過言ではなく、昼夜の時間は年間を通じほぼ差がないのに、夏冬の体感温度の差が大きいのには驚いた。
仕事は南米ではブラジルに次ぐ業績を上げ、活気に溢れて居た。ペルーの主要産業は鉱業で会社業務の柱も銅・亜鉛等の日本その他への輸出であったが、同時に漁獲高世界1~2位を争う水産業も盛んで、カタクチイワシを主原料とする魚粉会社を経営していた。魚を乾燥させ砕いて粉状にしたフィッシュミール(魚粕)と呼ばれるもので主に飼料や有機肥料として使用され日本や世界各地に輸出していた。
着任挨拶かたがた工場見学し漁船で漁場にも案内して貰ったが、7~8月は漁獲の最盛期、サバやマグロ、更にはペンギンやオタリアに追われた片口イワシが水面に盛り上がり、それを求めてペリカンや時にはアンデスからコンドルが飛来するような風景は、魚影の濃さを反映し当に壮観であった。
通常、海水は表層と深層に夫々独立した海流が存在し、水塊の温度や塩分濃度など物理的・化学的な性質により、地球上の限られたほんの一部の地域を除き殆ど混ざり合うことがない。ところが、このペルー海流こそ南極の深層からペルー沿岸部で表層に海水(寒流)が湧き上がって来るような流れ,所謂湧昇流(ゆうしょうりゅう)と言われる海流だったのである。寒流は海の底を流れるが、海底の地形は複雑で、火山島等にぶつかると斜面に沿って持ち上げられてくる。此の湧昇流は海の底に沈んでいる栄養物やミネラルなどを一気に光の届く海表面に持ち運んで来る為、食物連鎖の源となるプランクトンや海藻が盛んに生育するようになり、これを求めて小魚が増え、それを追って大型の回遊魚が集まると言う良好な漁場を形成することになる。
しかし毎年クリスマス頃になると、カタクチイワシがピタット姿を消してしまう。赤道付近を東から西へと吹く貿易風は太平洋の東側(ペルー近海)の温かい海水を西側(インドネシア方面)へ運ぶ役割を果たしているが、12月頃になると何らかの理由でこの貿易風が弱まる為、冷水の湧昇が抑えられ海底の栄養物・ミネラルの供給が途絶え、海面水温も高くなる。小魚が姿を消すのは餌になる動・植物プランクトンが激減することによるのである。此の1~2か月地元では漁業が休業となる為、時期的に「神の子=エル・ニーニョ」が我々に与えてくれた休暇だと呼んで居たのである。エルニーニョという言葉が一躍世界的に脚光を浴びたのは、後年気象学者等によりこの海域の水温上昇が異常気象と関連付けられ研究される事になったことによるものである。
ペルーの漁獲量は1970年がピークで年間1250万トン、中国、日本を抑えて世界第一位であった。年表を調べると此の頃貿易風が何時もより強く吹き、ペルー沿岸は小規模のラ・ニーニャ現象(エルニーニョの反対の現象)で水温が低く、魚類の生育環境が良好な時期だったと推測される。
同じ頃南米はカストロやチェ・ゲバラによるキューバ革命の影響を受け左傾化を強めて行った時期に重なる。ペルーも周辺国の影響を受け不穏な空気が漂い始めていたが、反米左派色を強めたペルー軍事政権は業績好調の魚粉会社に目を付け漁業資源保護を名目に突然国有化を宣言したのである。売買以外の仕事は全て自分の担当だったので、この事後処理業務にキリキリ舞いさせられた。代金は50年近い長期国債による支払い(と記憶しているが)、恐らくインフレで紙屑になると睨んで二束三文の値段で市場で売却したが、これが大正解の大仕事だった。不幸中の幸いと言うべきか、1972~73年突然貿易風が弱まり、長期に亙る大きなエルニーニョ現象が発生し水温が大幅に上昇した為、ペルー沿岸から片口イワシが姿を消し、漁獲高は1970年の5分の1に激減してしまったのである。
此の(エル・ニーニョ)や(ラ・ニーニャ)の様な地方の気象現象が多くの研究の結果、世界の気候変動・異常気象に大きくかかわっている事が判明し俄かに脚光を浴びることになった。東から西に吹く貿易風が強くなれば、東側(ペルー側)の暖水が西側(インドネシア方面)に吹き寄せられ、南極の寒流がペルー側に沸き上がって来るので、この地域の海水温が低くなる、これがラ・ニーニャ現象である。一方貿易風が弱まると暖水がペルー側に止まり海面水温が高くなる、これがエル・ニーニョ現象である。では何故貿易風が強まり或いは弱まるのか、地球温暖化の影響との説もあるが今のところ正確な事は分かっていない。貿易風は周期的に強まったり弱まったりしており,これは南方振動と呼ばれ,気象学における難問の一つとなっている.
世界の異常気象(7) 偏西風の蛇行…へ
エルニーニョ現象
50数年前1969年7月、羽田空港からカナデイアン・パシフックで赴任地ペルー・リマに向って旅立った。最初の給油地はアラスカ・アンカレッジ、窓外の索漠とした風景に何やらこれからの海外生活を暗示するかのようで、俄かにホームシックに陥った記憶がある。一時間後一路南下し、カナダのバンクーバー空港に到着、予めテレックスで依頼して置いたバンクーバー支店勤務の後輩に案内して貰って,街のゴルフショップで最高級ゴルフ道具を調達し、勇躍機上の人となったが、運悪く隣に座った男が小生の2倍とおぼしき、エコノミークラスの座席からはみ出さんばかりの大男、テキサス訛りの早口、大声でやたら喋りかけられたが殆ど理解不能、ロッキー山脈を越えてカルガリー空港を飛び立ちメキシコに到着する迄の間、窮屈な格好で食事も断って爆睡した。メキシコ給油後から隣は空席となり、クルーも南米美人揃い、機内放送もスペイン語が中心となり、ラテンアメリカムードが漂って、何となく赴任地への無事到着の安堵と緊張を感じたのを鮮明に覚えている。
リマは年間降雨量ゼロに近いと聞いていたので、機内から市街地が見えると期待していたが、低い海霧の中、突然滑走路にランデイングしたのには肝を冷やした。此の空港は海霧で機長泣かせである事が後でわかった。出迎えてくれた前任者の後輩は横柄な男で鍛えてやるとばかり、うらぶれた安宿に放り込まれ、湿気で湿った様な布団、薄くて硬い牛肉の上に同じ厚さの(スリおろしニンニク)が乗ったステーキが全く喉を通らず、心身ともにボロボロになってしまった。リマは赤道直下とは言え南極から流れて来るペルー海流(フンボルト海流=寒流)のお陰で冬は湿度80%、低温・高湿度、低い霧が立ち込め視界不良、底冷えがして結構寒く、初体験もあって心身共に堪えた。隣国・エクアドルはスペイン語で(赤道)を意味し、ペルーも赤道直下と言っても過言ではなく、昼夜の時間は年間を通じほぼ差がないのに、夏冬の体感温度の差が大きいのには驚いた。
仕事は南米ではブラジルに次ぐ業績を上げ、活気に溢れて居た。ペルーの主要産業は鉱業で会社業務の柱も銅・亜鉛等の日本その他への輸出であったが、同時に漁獲高世界1~2位を争う水産業も盛んで、カタクチイワシを主原料とする魚粉会社を経営していた。魚を乾燥させ砕いて粉状にしたフィッシュミール(魚粕)と呼ばれるもので主に飼料や有機肥料として使用され日本や世界各地に輸出していた。
着任挨拶かたがた工場見学し漁船で漁場にも案内して貰ったが、7~8月は漁獲の最盛期、サバやマグロ、更にはペンギンやオタリアに追われた片口イワシが水面に盛り上がり、それを求めてペリカンや時にはアンデスからコンドルが飛来するような風景は、魚影の濃さを反映し当に壮観であった。
通常、海水は表層と深層に夫々独立した海流が存在し、水塊の温度や塩分濃度など物理的・化学的な性質により、地球上の限られたほんの一部の地域を除き殆ど混ざり合うことがない。ところが、このペルー海流こそ南極の深層からペルー沿岸部で表層に海水(寒流)が湧き上がって来るような流れ,所謂湧昇流(ゆうしょうりゅう)と言われる海流だったのである。寒流は海の底を流れるが、海底の地形は複雑で、火山島等にぶつかると斜面に沿って持ち上げられてくる。此の湧昇流は海の底に沈んでいる栄養物やミネラルなどを一気に光の届く海表面に持ち運んで来る為、食物連鎖の源となるプランクトンや海藻が盛んに生育するようになり、これを求めて小魚が増え、それを追って大型の回遊魚が集まると言う良好な漁場を形成することになる。
しかし毎年クリスマス頃になると、カタクチイワシがピタット姿を消してしまう。赤道付近を東から西へと吹く貿易風は太平洋の東側(ペルー近海)の温かい海水を西側(インドネシア方面)へ運ぶ役割を果たしているが、12月頃になると何らかの理由でこの貿易風が弱まる為、冷水の湧昇が抑えられ海底の栄養物・ミネラルの供給が途絶え、海面水温も高くなる。小魚が姿を消すのは餌になる動・植物プランクトンが激減することによるのである。此の1~2か月地元では漁業が休業となる為、時期的に「神の子=エル・ニーニョ」が我々に与えてくれた休暇だと呼んで居たのである。エルニーニョという言葉が一躍世界的に脚光を浴びたのは、後年気象学者等によりこの海域の水温上昇が異常気象と関連付けられ研究される事になったことによるものである。
ペルーの漁獲量は1970年がピークで年間1250万トン、中国、日本を抑えて世界第一位であった。年表を調べると此の頃貿易風が何時もより強く吹き、ペルー沿岸は小規模のラ・ニーニャ現象(エルニーニョの反対の現象)で水温が低く、魚類の生育環境が良好な時期だったと推測される。
同じ頃南米はカストロやチェ・ゲバラによるキューバ革命の影響を受け左傾化を強めて行った時期に重なる。ペルーも周辺国の影響を受け不穏な空気が漂い始めていたが、反米左派色を強めたペルー軍事政権は業績好調の魚粉会社に目を付け漁業資源保護を名目に突然国有化を宣言したのである。売買以外の仕事は全て自分の担当だったので、この事後処理業務にキリキリ舞いさせられた。代金は50年近い長期国債による支払い(と記憶しているが)、恐らくインフレで紙屑になると睨んで二束三文の値段で市場で売却したが、これが大正解の大仕事だった。不幸中の幸いと言うべきか、1972~73年突然貿易風が弱まり、長期に亙る大きなエルニーニョ現象が発生し水温が大幅に上昇した為、ペルー沿岸から片口イワシが姿を消し、漁獲高は1970年の5分の1に激減してしまったのである。
此の(エル・ニーニョ)や(ラ・ニーニャ)の様な地方の気象現象が多くの研究の結果、世界の気候変動・異常気象に大きくかかわっている事が判明し俄かに脚光を浴びることになった。東から西に吹く貿易風が強くなれば、東側(ペルー側)の暖水が西側(インドネシア方面)に吹き寄せられ、南極の寒流がペルー側に沸き上がって来るので、この地域の海水温が低くなる、これがラ・ニーニャ現象である。一方貿易風が弱まると暖水がペルー側に止まり海面水温が高くなる、これがエル・ニーニョ現象である。では何故貿易風が強まり或いは弱まるのか、地球温暖化の影響との説もあるが今のところ正確な事は分かっていない。貿易風は周期的に強まったり弱まったりしており,これは南方振動と呼ばれ,気象学における難問の一つとなっている.
世界の異常気象(7) 偏西風の蛇行…へ