#みんなのブログ#共に泣くことの階段#琴線に触れる#飲みたく無い馬#物語 #116.

2019-10-29 10:52:47 | #物語
#みんなのブログ#共に泣くこと#心の階段#琴線に触れる#飲みたく無い馬 #物語#116.



雨の日。
天も、人も、動物もなぜか今日はみんな泣いている。



😢=😿
泣くときには共に泣くこと。



『カフカ』の研究者は、元『うつ病だった』。
そして、何年も長い間、病院に入院していたと言う。

♿️🏥

他の人がその病んでいる人に

こう言う。

『前向きに生きなさい』~
そう言う本を読みなさいよ。

『ネガティブ』(negative)より『ポジティブ』(positive)にやれば、楽しくなれるよ!

そう言った人は、そうした前向きになれる本を読むようにそのうつ病だった人に勧めたと言います。



しかし、


その言葉は、

自分の心に少しも達しなかった

と、病んでいる人は語った。




#共に泣くこと

それよりも、うつ病だった自分にとって役立ったのは、『カフカ』の中に記されていた『暗さ』だった。


それが、うつ病だった自分の心にスーッと入ってきたのでした。


これは『悲しい人と共に泣きなさい』と言う原則の言葉と関係があります。

そのうつ病だった人にとって真に寄り添ってくれる人は、『カフカ』の本だったのです。

それを自分が自分で読むことに意味があったと言う。





#心の階段

そのうつ病だった人によると、『悲しいことには心の段階がある。』

家籠り。

ご飯も食べたく無い。

自分のドアの向こうにいつも食べ物がお膳に載せてあったとのことです。

いつしか、自分の心が受け止められて、心のベクトルが次の段階を教えてくれるのです。

その人は、ある日心に別の思いが沸いてきた。

少し他のことにも目を向けて見ても、良いかも。

と、感じ初め、そう思えるようになれたのです。

悲しい時には、一番悲しい本を読むと、どんな励ましの言葉より心に染みてくるとその人は言いました。

そして、そうした『心の段階』

(^-^)/実は『心の階段』だと私は思いますけどね。

を経て今があるのです。

その元うつ病だった方は、今では『カフカ』の研究者としてラジオで自ら解説されるほどに成れました。

誰しも『心の階段』と言う段階があるのですね。

それを無視して、周りがヤキモキし過ぎて真逆の励ましを助言しても、言わば『何の役にも』立たないのです。






東日本の震災の時に為された『気付き』のキーワードは、

・『絆』~(英語だとbond)ボンドのこと。
・『共に寄り添う』。
・『分かち合う』。

それは、今の言葉で置き換えると『シェアー』することです。

誰かが私のことを『知っていてくれる』。

それだけでも、その人は自分が

独りぼっちではない、
まだ見放されてはいない

と知ることが出来ているのです。

内面に芽生えた小さな心の成長は、実は大きな力を秘めているのです。








#琴線に触れる

昔、忍者は知っているはずの琴線に触れてしまい、突然、『ガラガラ・ガラガラ』と音がし始めると、『曲者』(くせもの)じゃ、出合え!となるのです。

それは、琴線を見落とし間違えたモノに触れてしまったのです。

琴線の話は、現代のピアノ→チェンバロ→ハープ→琴へと遡ります。

皆さんも聴いたこともおありでしょうか?

『ダビデ』の竪琴。

その人は、羊飼い、戦士、王、竪琴製作者、作詩家、竪琴曲作曲家、唄歌い手楽団指揮者だったのです。

今で言う『エンターテイメント』を自ら行ったのです。

大英博物館にもその古代の『ダビデの竪琴』は存在していません。

🎸🎹🎻🎺📯🎷🥁

では、どうやってその竪琴を検証するのでしょう。

その本『古典楽器の生い立ち』の著者はアメリカの方です。
その日本語訳本が図書館で探して見つけました。

それは、東京の図書館からの図書館同士の信用制度で取り寄せてです。

アメリカのその著者は古典楽器の検証をどうしたモノかと考えた挙げ句、

歴史的な美術絵画の中から調べて1冊の本にしたのです。

🎨⏳️🎨⏳️🎨⏳️🎨

あの大英博物館にも現物が無いとなるとこれより方法はないのです。

現代のハープは勿論様々なタイプのモノが作られており、

半音階つまりギターや三味線のようなペグ(調音して音階を変える手段となるモノ)があり、

#や♭の曲が弾けます。

処が、ダビデの竪琴には、その半音階となるペグがありません。

弦は羊の腸等を捻って細くしたモノです。

今日のテニスのガットの弦とは、またちょっと違います。


それで、琴の楽器はそのダビデの時代まで進んで改良され続け、弦も1本づつ増えてダビデの時には『十弦の琴』として知られるようになったのです。

しかし、音楽も時代と共に、何処の国もテンポが変わり、曲調も変わります。

そうなると、もっと幅広い音楽の表現の為には多くの弦が必要と成ります。

そうして、冒頭に記した現代までの楽器の変遷があったのです。

さて、なぜ、ここで『ダビデの竪琴』が出てきたのか?





それは、『心の琴線』と繋がりがあります。


当時のダビデの竪琴を聴いた別の王様は、そのダビデの竪琴の琴の音に癒されて心が鎮まったと言われています。

現代では音楽と心や脳の関係が取り上げられており、資格を持った『音楽療法士』が知られております。

ダビデはその点、一早くそのことに感覚的に気がついていたのかも知れませんね。

ダビデは高校の歴史の教科書にも出てきます。

そこは、私たちの日本の国と同じ東洋の地であり同じ東洋人なのですよね。


さて話は『音楽療法士』に戻ります。

この役の人は、かなりメンタルパワーが強く無いと、その立場を燃え尽きて辞めてしまわれる方が多いそうです。

アメリカでも、その養成は盛んらしいですが、多くの方は辞めていきます。

日本で一人、女性の方がそれを為し遂げて帰国されました。

彼女は燃え尽き*(注)にも成らなかったそうです。

*(注)『燃え尽き症候群』は様々な形で心と体に現れます。
最悪は無気力症候群や突然心臓停止だそうです。その他にも他の病気を発症されるとのことです。
その人の限界値と言う領域を越えないように弁えましょう。
頑張り過ぎるとそれはツケが廻ってくるのですね。


うつ病やその他の病気の方に音楽を聞かせることは、中々、一般人のようには『喜怒哀楽』の反応が現れません。一切、反応が無いのです。

そこが、健常者の方が先に燃え尽きてしまう理由なのかもしれません。


しかし、

『心の琴線』は病気の方でも効果があるそうです。

誰とも話さず、誰にも心を許さないのが病気の方の特徴です。

それでも、ある日、

音楽療法士の弾く音に病気の方が口ずさむようになったのです。

その時、病気の方は涙を流し、その曲を小さな声で口ずさんでいたとのことです。

その病気の方は元々、音楽を仕事としていたそうです。

『心の琴線』に触れることは困難でも、可能性はあるのです。

音楽は理屈抜きで、

人の頭の思いと、
心の中の情感に作用します。

多くの学問が『~学』と命名されたのにも拘わらず、
音楽だけは文字が違います。

音楽の文字は『楽』の文字が使われています。

ダビデの竪琴はその可能性を知っており、それ故、人より先に『竪琴』改良と作詩と作曲と編曲と竪琴製作と竪琴楽団を率いる人にまでなったのだと私は思います。

現代のアーティストを遥か越えた人だと思いませんか?

エンターテイメントとsinger-songwriter(シンガーソングライター)を足して割ったような存在の方ですよね?


人は琴線に触れることが出来れば、全ては変われます。

・その人が何をしたいのか?
・何を一番愛しているのか?

それが分かるためには、質問して、黙って耳をひたすら傾けその人の本心を知ることです。

病気の人の心は井戸の中の様に深く、そこに水のような心が隠されています。

そこから水を組み上げるたった1つの手段は『釣瓶』(つるべ)と言う1本のロープと桶です。
それを補助してくれるのは井戸の屋根の下にある滑車です。


避けるべき事柄。

・相手の困る質問をしないこと。
・自分がじれったくなって相手の気持ちを決めつけたり、癇癪を自分が先に起こしてその1本のロープを自分から切ってしまってはいけません。

相手の病気の方はもっともっと深い所に心を入れて自分を守ろうとしてしまいます。

その後の人がそうした理由を知らずに、援助しようとしても、
多分、その理由がわからない限り無理でしょう。

根は深い、深すぎなのです。


その時にも大切なことは、もし、自分ならどうして欲しいか、どのように一人の人として扱って欲しいのか、と言うゴールデンルール(Golden rule)*(1)を守ることでしょう。

これは、認知症サポーターの勉強会でも違う観点で教えて貰いました。

自分が心の琴線をみつければ、その人は心を開いてくれて、信頼と尊敬をその人に対しても見せてくれます。

その変化はきっと『鳥肌モノ』の原則*(2)とその力の反応結果と感じられることでしょう。


*(1)(2)このゴールデンルールと言う言葉は外国でも法律の分野でも当てはめられています。
例えば、法律の由来を調べると『疑わしきは罰せず』(証拠不十分なのにあなたは犯人だと決めつけたりせず、相手の不利益にならないように人権保護の観点で物事を見ること)。
人間関係でも当てはめられるのは、相手の心の動機を不必要に悪く疑わないことです。




#飲みたく無い馬

人だけが頑な(かたくな)に反対し、こちらの親切を撥ね付けるだけなのではありません。

『馬を引いて行って、さあ、水を沢山飲め!』

と言ってもムダです。

馬子ならばそれを良く知っていると思います。

馬はその時には水を飲みたく無かったのです。

人はこう言います。

『せっかく、親切に水を飲ませようとしてやったのに。ンもぉー。』(ムカムカ、イライラ、プンプン)

しかし、
それは、
本当の親切ではありません。

自分の『親切』を相手に押し付けているだけのこと。

むしろ、今で言う『苛め・虐め』として、はたの目には見えるかも知れませんよね。

健常者もいつかは同じ病気の人となるかも知れません。


その時にも、体や頭の働きは弱くなっても、人には人間の心があるのです。

小さい子供でも、それがあります。

小さなレディース・ジェントルマンなのです。1人の人間なのです。


病気の方も同じです。

心の中ではいつも『自分のことを優しく扱って欲しい』と思うっているものなのです。

動物でも、同じです。

『さぁ、ご飯だよ!おいで!』

と言いながら、

いざ猫や犬が喜んで来たら、
頭を痛く叩いたりしたら、
それは『詐欺』みたいなもので、
もう2度と騙されません。

呼んでももう2度と来なくなり、
或いは突然、家出するやも知れません。

人間不信の心を抱えて野山や町村をさ迷い放浪の旅をするのです。

これは、心と体に傷を受けて家出してしまった非行少年や少女の過程と似ています。

それは、自分を守るための行動だと言われています。

そうして更に犯罪に巻き込まれることになるのです。
未成年者は自活できず、経験不足の為に悪い人を見抜けなくてそうなるのです。



今は、日本でも外国でも『介護』に疲れた方々が施設で信じられないことをされているようで、
監視カメラのビデオから判定されるようになりました。

最近は、施設だけでなく歩道や町の道々にも監視カメラが取り付けられるようになりました。

中には『監視社会は嫌だ!』と誤解していますが、『犯罪をしない・させない・やらないならば』、その監視カメラはあちこちから無くなりますよね。

どちらが先に実現出来る社会だと思いますか?

社会を構成しているのは一人一人の人たちです。

つまり、全員が気を付けなければいけない社会になってしまったのです。



外国からのSNSのブログでも『老人施設での複数者による虐め』のそれを見ました。

それは、事件として報道されたようです。


もし、自分の家族がそうされていると知ったなら、あなたはそれをどう思いますか?

発覚したら、全ては裁判となる時代です。

猫や犬でも保護されます。

自分の飼っていた小鳥を虐めていた主人が、その小鳥の死を他者が不審に思い、遂に事件が発覚!

ストッキングを被せられた小鳥は飼い主に突かれて抵抗も出来ず亡くなったそうです。

現代では、調べれば分かる科学の力があるのです。

言い逃れをしたとしても、今の時代では出来ません。



ましてや人間の病気の方は尚更です。

健常者であっても、他者に言葉と行いで『苛め』や『虐め』を受けたら、科学的に解明されて法的に処罰されることになるでしょう。

何があっても、どんな時にも、命あるものは全て大切にされるべきなのです。



『力の支配』より『愛と愛情』の力。

人は怖れさせて従わせようと簡単に思い付きます。

この世界も同じです。

どんな聡明で愛に富んだ人が世に現れても過去から今日まで長い歴史の中で何人ぐらいいると思いますか?

それはたったの20人だと言われた著書がありました。

そうした愛のある人さえも殺害し亡きものにしようとするのです。

それは映画の中の話なのではなくて、現実に生じる事件としてです。

それ以外の著名な人々の支配は、『非愛』の支配の世界です。

『力』と『腕力』『暴力』『野蛮』の支配です。

精神的な『脅し』『威嚇』も同じ支配です。

最近は『ネグレクト』や『DV』『虐めと苛めの社会的構造』のことが明らかにされてきました。

私の育った頃は、ただ『我慢』が『当たり前』でした。



しかし、この地球の世界の支配の形態はその醜い特性だからです。

『死の旅商人』はそれを『売り物』にしています。



それを正すことが出来る人は何処かにいますか?

『権利の為の闘争』は『血で血を洗った歴史』の上に成り立っています。

それは、本でもニュースでも知りうるでしょう!

かつての日本でもそうでしたよ。

今までの人類の総数はWHOによれば、200億人。

その中で、『自分の人生は今まで本当に幸せだった!』思える人が果たして何人いるのでしょう。

人間には自己統治能力など無いのに、人は病んでいても前を向いて、これからも生きていくしか無いと言われています。


処が、そうして抑圧されて来たならば、人はいつかその憤懣や心の反対は、噴き出した火山のように現れてきます。


そこには、人間関係の両者の問題が歴史の根底にはあります。


誰かが一人正しくて、相手が100%間違いと言える事案が何処かに本当に有るのでしょうか?

それを証明できるか、出来ないかでも違いが生じます。

もし、片方だけが100%正しいとされるなら、それはその人が『神様』に他なりません。
そんなことは無いでしょう!
そのような方を私は今まで見たこともありません。


昔は大声を張り上げて相手を脅して100%自分の正しさを主張したのです。

自分が悪くても、ゴネ得で勝利を得た過去の時代があったのです。

今日でもその残存思考の形跡が有ります。

例えば、交通事故や殺人行為でも、

『何かに当たったことは分かったが、まさか人間を引いたとは思わなかった。』『抵抗した時に手が当たったことは認めるが人を殺したことは認識していない。』

と言うのです。

一番の『証明』は良心の呵責です。

それが日一日とその人の内側から、その人を問い正して『不正』を縦に書いてはならないことをあなたに伝えるのです。

あなたは、それに耐えられるのでしょうか?

何十年と逃亡生活をしたある人は、ある日警察署に自ら出頭して来たとき、顔の表情は別人になり、『疲れた』と述べたとのことです。

嘘を突いて生きていくこと。

それは、普通の人には出来ません。



それよりもっと優れた方法は、

自分がして欲しいと思う方法で

相手のことを考えることです。

『思い遣り』とか、『感情移入』、『我が身を相手に置き換えてみる』と言うことです。

何か問題がある、と自分が思えるときには、その相手の人は『悩み』を抱えているのです。

それ故、必至にあなたに訴えて『伝えよう』としておられるのです。

そう考えれば、相手のことを『もっと』知ってあげようと思えます。

その為には、

先ほどのことをもう一度、思い出して頂きたいと思います。

・その人は何が一番したいと思っているのか?

と相手を思うことです。

・自分だったらそれを喜ぶかと、相手の気持ちを考えてあげて、優しく訊いてみることです。

そうした愛と愛情が相手に伝われば一番の早道です。

その互いの良い関係があれば、一番スムーズにことが運びます。

逆に、自分の方から先に、ヤキモキ、イライラしたら、

全ての大切なことが見えてこなくなり、

大切なことを見落とした時に、

取り返しのつかない大変なことが生じます。

私は、他者のそれで最愛の母を病院で亡くす嵌めに入りました。


世界も同じです。

たった1人の不従順な人の愚かさから、

この歴史は逆の方向へと

いつの時代も始まるのです。

『イライラ、ヤキモキ、ムカムカ』から大切な全てが見えなくなってしまう罠が、私たちの全ての人にはあるのです。





©️Shanxi's blog.#116. 29 October 2019.

My work's Data/
#みんなのブログ#共に泣くこと#心の階段#琴線に触れる#飲みたく無い馬 #物語 #116.🐻🐰🐱🐸🐌全ては我らの森の仲間たち。