気づいたら蝉の声がもうしない。
「そろそろ蝉があちこちでひっくり返る季節が近づいて来ましたね」なんて書こうとしていたのに、季節は容赦なく過ぎて行ってしまう。いつもいつも。
「そろそろ蝉があちこちでひっくり返る季節が近づいて来ましたね」なんて書こうとしていたのに、季節は容赦なく過ぎて行ってしまう。いつもいつも。
蝉についてはいろいろ思うところのある不思議な生き物のひとつ。
そして空蝉というのは本来の実在が飛び去ってしまった抜け殻な訳だけれど、その抜け殻が何故か多様な表現の場で題材にされる。季節になると画像も出回る。
空蝉を見て人は何を思うのでしょう。この抜け殻の何に心を囚われるのか。
それは、今は無き《そこにあった存在》を肌に感じるからでは、と思うのです。
土に暮らしたこれまでも、飛び去った本体の残り香も、そこにはあるから。
やっぱり不思議。過去と未来が、『今』この空蝉というものに同時に在る。
蝉の抜け殻がただそこにある、それだけなのに。
そのかつてと、新たに飛び立った生命の力の名残を漂わせた、物言わぬ静かな縁取り。
そこで何故だか浮かんでくるのが、
やっぱり不思議。過去と未来が、『今』この空蝉というものに同時に在る。
蝉の抜け殻がただそこにある、それだけなのに。
そのかつてと、新たに飛び立った生命の力の名残を漂わせた、物言わぬ静かな縁取り。
そこで何故だか浮かんでくるのが、
黒田三郎さんの「紙風船」。
「紙風船」
落ちて来たら
今度は
「紙風船」
落ちて来たら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
もっともっと高く
何度でも
打ち上げよう
美しい
願いごとのように
とても静かに心に響いてくるものが、空蝉の美と重なるのです。
静かの中に全てが集約されているような。
自分の中の騒めきも、大切なものも、
ぽーんと静かに昇っていくような。