海を渡るシブタ

5年10ヶ月に渡るシブタの足あと~アジア・アフリカ版~

はじめに

2007-03-17 12:57:52 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 私は5年と10ヶ月の間、アジアとアフリカを旅しました。

 通常、それだけ年月をかければ世界一周ができる筈で、もちろん私もそのつもりで出発したのですが、惰性というか無精というか、すぐにそこに住み着いた気になり離れられず、なかなか先に進むことができませんでした。

 旅の間は様々な人たちに助けられ、支えられ、出会いも別れも経験し、出生も死別も幾度となくありました。

 私自身危機に陥り、危くイスラム教徒のいう楽園(天国)の入口まで行きかけましたが、楽園に辿り着くことなく無事に帰って来れたのも、ひとえに今まで会ったたくさんの人たちの祈りというか想いのお陰だと思っております。

 日本に戻ってきた今、次の旅の準備をしている所ですが、まだ日本観光気分が抜けず仕事がはかどりません。旅日記を読み返そうものなら<帰りたい病>の発作が起きる事は明白なので、あえてそれも控えてきました。

 それならば一度、本格的に旅行記を書いてしまえば少しは気がおさまるのではないかと思い、帰国後8ヶ月にして筆をとる次第です。

 だらだら書いていても仕方がないので、思い出深い友人を何人か選んで書く形をとりました。書き終わっても発作が起きないことを祈るばかりです。

(2006年3月記)

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〈1〉二十六 あるしゅうりゅう

2007-02-17 12:58:10 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 中国入国早々、私はとある国境にある小さな村で、国境警備隊と思われる軍服を着た男たちに尋問された。私は午前中に野鳥を射止めた彼らに捕獲され、連れて行かれたあとそこで昼食をご馳走になり、‘没有達来(めいよごうらい=もう来るな)’という言葉とともに、町へいくバスに乗せられた。

 その村へ行くのには何の手間もかからなかった。地元民同然の恰好をした私に切符売り場のおばちゃんは笑顔で切符を売ってくれたため、そこに行くと注意されるなどとは思ってもみなかったのである。実際、そこを訪れるのは、初めてではなかったのだ。

 夕方そこへ到着、昔なじみの旅館の家族と再会し、ゲームを楽しむ客とも談笑し、田舎の澄んだ夜空を眺め、晩はぐっすり眠った。それが最後の晩になるとも思わずに。
   
 翌日の朝一番の散歩がよくなかったらしい。
 
 私が歩いていたのは立ち入り禁止区域だったのだ。
 
 職務質問もそこそこにそのまま車に乗せられ、連れて行かれた先で手荷物チェックと尋問をされた。担当官は二人。
   
 一人は数えで28歳だったので、当時満年齢27歳だったわたしは、(おそらく同年であろう)彼に対して<哥哥(グーグ、お兄さんの意)>と呼ぶように言われた。もう一人は数えで26だったので私を<姐姐(ジェジェ=お姉さん)>と呼び、冗談で他の同僚に紹介する余裕を見せた。

 どうやら私は逮捕されたのではなく、ただ珍しい日本人の訪問者と話をしたかっただけなのだろうと思われるほど、彼らの態度は友好的で親切だった。
   
 昼食後、私が何の気なしに皆の食器を片付けただけで<不要、不要!!>と全員慌てて集まってきて私をなだめたのが、その証拠である。

 結局、私は強制的に町へ戻るバスに乗せられ、村を離れることになった。
 バスが来るまでの間、私と担当官、その他の若い軍人たちは‘交朋友(交友)’を楽しんだ。バスが来たとき、あらかじめ旅館から引き取っていた私の荷物をバスの中に押し込み、笑って手を振って別れた彼らの姿を、私は忘れない。

 国の為に故郷を離れ、厳しい訓練にいそしむ青年たち。彼らの澄んだ瞳に、私のような自由旅行をしている日本人は、一体どう映っていたのだろう。
 
 私は彼らの名前を知らない。
 
 一日だけ私の弟分になった彼、日本にいる私の友人を思い出させるその弟分について私が知っていることといえば、彼が数えで26歳だったということだけだ。

 私は彼らと過ごしたあの楽しい数時間を思い出すたび、私の弟分になったあの担当官を<あるしゅうりゅう=二十六>という名で思い返すことにしている。
   
 二十六の<姐姐>という声が、今も私の耳にはね返る。

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〈2〉ポク ~笑顔の山の民のしたたかさ

2007-01-17 12:58:41 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 ラオス人(以下ラオ人)は陽気な民だ。
 いつも笑っている。
 
 中国商人に横暴な態度(売ってやっているんだぞという意識が丸出し)で接されようが、ファラン(ラオ語で外人の意)が何か怒鳴ろうが、水牛が路上販売の野菜を食い荒らそうが、「フー!」という甲高い喚声とともに、何があっても笑っている素朴な山の民だ。
 
 私はどこの町(村といってもよい)にいっても彼らの笑顔に接し、家を訪ね按摩をし、村ごと仲良くなり、なかなか離れられずに困った。

 そのラオス滞在で女性の涙、失恋につきあったことがある。

 ポク。それが彼女の呼び名(ラオ周辺の国の人々は、普通本名以外の呼び名をもつ)だった。

 ポクは私の外人らしくない身なりに親しみを持ってくれたらしく、私には人一倍親切だった。私も村を按摩してまわったあと、ポクの雑貨屋の店先に座って時間をつぶすのが日課になった。

 「もう飲み水は買うことないよ」と自分の家に常備している飲料水をボトルに入れて無理に持たせてくれるポク。そんなポクに、実は水道水を飲んでいる(これは外人旅行者だけでなく、ラオ人もやっていないとこの時初めて知った)とは口が割けても言えず、「こぷちゅう・えっえっ(ありがとうの意を持つラオ語こぷちゃい・らいらいの方言)」と貰い続けていたのを思い出す。

 ポクはある日、「こい・みーふぇん・ファラン・れお(私には白人の恋人がいる)」と私に言った。写真も見せてくれた。
 
 その相手の男はアメリカ人で名前はジョン(と記憶している)。一年前にこの村を訪れポクと恋仲になり、大きな町へ二人で小旅行に行ったこともあるそうだ。ポクは、今も旅行を続け、アラブ某国にいるジョンとのEメールのやり取りを励みに、今を生きているように見えた。
 
 しかし、いくら雑貨店をまかされているといっても、主に外人が利用するインターネットカフェに毎日通うのは、経済的にも技術的にも楽なことではないだろう。ポクは、私にネットカフェに同伴することを頼み、私は彼女の下書きしたラブレターを代打するようになった。私自身も経済的に技術的に、メールをする習慣があまりなかった上に人の手紙を読むことに後ろめたさを感じてしまい、あまり乗り気ではなかったのだが、ポクは、そんな私であっても、頼る事で何か支えが欲しかったのかもしれない。
 
 ある日、ポクはいつものラブレターに〈結婚〉の文字を入れた。私は焦った。
 
 私にだってポクの気持ちは理解できる。が、私は同じ旅行者として、本国の暮らしが待っている旅行中のジョンの気持も、充分に理解できるつもりだった。しかも、ジョンはポクを置いて、アラブ旅行を楽しんでいるのである。彼がポクの結婚の申し出に同意するとは、とても思えなかったのだ。躊躇する私の手を引っ張り、ポクはネットカフェへ向かった。私は引きずられ、結局そのラブレターを代打するハメになった。
 
 次の日、返信が来た。長い長い文章だった。ポクは英語の長文を読むことに慣れておらず、私もまた、その長文を瞬時に翻訳できるほど、ラオ語は上手くはなかった。ただ、ジョンが誠実に、ポクをなだめるように、〈結婚〉を回避しているのは読みとれた。その誠実さに私は打たれたので、私はポクに「もーぺんにゃん(大丈夫)」「ジョン、こんディー(ジョンはいい奴だ)」を繰り返しながら、その文章を紙に書き写していった。
 
 その晩、ポクの雑貨屋に、ポクの友人でガイドをやっている男が来た。私の書き写したジョンのメールをポクに翻訳して聞かせていく。曰く――

 “僕はまだ学生であり、この旅行が終わったら、本国アメリカでの学生生活が待っている。結婚の事は今は考えられない。その話はもう少し待ってくれないか―”

 私はいちいち他人の手紙の内容など覚えていないのだが、多分そんな風な主旨だったと思う。第三者の私が見ればそれは想像した答えとほとんど変わりなく、もちろん驚くべき事柄など何もない。が、それを聞いていたポクの目は見る見る涙であふれてきた。

 「・・・ジョンにはほかに女の人がいるんだ!」

 思わぬ展開に私はかけるべき言葉がない。

 ポクの友人のガイド男と顔を見合わせたが、彼にもポクに対して何ができるわけでもないだろう。私はその晩はポカンとしながらも、ないているポクの側にいてやること以外できなかった。

 翌日、ポクはまた私に、メールの代打を頼んできた。便箋4枚はあったろうか、小さな文字でびっしり書き詰めてある。これがあのガイド男の代筆であることはすぐにわかった。曰く――

 “あなたには私のほかにも恋人がいた。何故それを言ってくれなかったのか。私はあなたを信じていたのに、あなたはその気持ちを裏切った・・・云々かんぬん”

 単語を変え表現を変え、同じ様な意味の言葉を何度も何度も繰り返す。私は驚き、そして呆れた。これは冗談であろう。まさかここに書いてあること全部、私にタイプさせる訳ではあるまい・・・。ポクとガイド男は笑った。

 「これだけ書けば、ジョンは怒るよな。」
 ・・・私は口がきけなかった。

 そもそもジョンは一言も、ポク以外の女性の事など言ってはいないのだ。

 私にとって、陽気で素朴な山の民であったラオ人の、執念深い面を初めて見せつけられた気分だった。

 この二人は一体、どういうつもりでこんな文章を作ったのだろう?

 ジョンとの仲を終わらせたいのだろうか?

 さすがに会ったこともないジョンが気の毒になったが、断りきれず再びあの長いメールを打たされてしまう自分にも嫌悪感をもってしまった。

 また返事が来た。ジョンは泣いているように見えた。弁明と懇願。長いメールを書き写すのも、それを読んで真剣に策を練るポクとガイド男を見るのも、いい加減に嫌になってきた。ラオ語は英語と同じ語順なので、文末まで読まずに同時通訳をする事ができる。ガイド男がぽんぽんと訳す。それに耳を傾けるポクの涙は、前日ほどには濡れていなかった。

 一区切りつき、いつもの様に店先にポクと一緒に座り、行き交う人々を眺める。買い物帰りのおばちゃんに声をかけ、向かいの店の兄ちゃんと道路越しに挨拶する。隣ではベトナム人の店から夫婦喧嘩の派手な音が聞こえてくる。

 いつもの風景といつもの空気に浸っていると、一旦奥に引っ込んでいたポクが何か持って戻ってきた。手紙の束だ。その中の一通をポクが得意気に見せてくれた。英語だった。

 “・・・元気ですか?以前、君が言っていた学費の足しに少し送ります。足りなかったらいつでも言ってくれ。英語が上達することを祈ってるよ・・・”

 その手紙には百ドル札が同封されていたとポクは私に言った。思い出した。

 ポクは外人がポクの店に来る度に、英語の学校に行くのが夢だと語っていた事を。ラオ人教師のクラスは安いが質が悪く、欧米人の教師がつくと百ドルかかる事をさりげなくつけ足していたのだ。

 私を含めほとんどの客は「ふうん」と聞き入り、その話はいつもそこで終わる。深入りする事はない。だが客のうちの何人かは、こうして覚えていて形にしてくれるのであろう。その手紙の主はポクから見たら父親ほど年の離れたイタリア人で、もちろん特別な関係はないとポクは私の目を見て言った。

 何を思ったのか、ポクは更に紙を広げて、返事のコピーを見せてくれた。

 “――感謝しています。またいつか、きっと私に会いに来てください。私はあなたとの結婚を夢みて、勉強に励みます。”

 私は訊いた。「それ誰に書いたの」
 ポクは答える。「このイタリア人。」
 私「学校には行ったの?」
 ポク「行ってない。」
 私「この結婚いうのは?」

 ポクはにっこり笑った。「こい・ぼーディの(私、よくないね)」

 私は諒解した。

 ポクは世界中の女がやっている事と同じ事をやっていただけなのだ。

 ポクの店に来る女友達も、娼婦だったり、恋人が日本人だったり、皆今を生きるために一生懸命なのだ。そんな彼女たちに「じゃお・ぼーディの(アンタは悪い)」という度胸は、私にはない。

 ジョンとよりが戻り、メールに再びアイラブユーを連打するようになった頃、私は、その村をあとにした。

 あれから5年。当時23歳だったポクと、その周辺の人たちはどうなったろう。
発展していくラオ国。成長したポク。
 
 ラオの人たちの笑顔に再び会う日を楽しみに、私も今を生きている。
 その時に備えて、私も、もっと女の処世術を、勉強しておこう。

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〈3〉チャーDiDi ~男尊女卑社会で強く生きる女性

2006-12-17 12:59:10 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 チャーDiDi(ディディ)はチャイ屋の姐ちゃん(didiはベンガル語。舞台のオリッサ州の言葉ではNaniだが、私はベンガル語で通していた)という意味だ。私がチャーDiDiと呼ぶ、その彼女には本名も町での呼び名も別にある。なのに何故、私が彼女のことをチャーDiDiと呼ぶかというと、ほかにチャーDiDiがいないからだ。

 インドでも貧しい部類に入るオリッサ州。

 貧しいということは、昔ながらの風習が今も生きているということで、プジャー(お祈り)の仕方については勿論、日常生活の行い(歯磨きとか食事とか全ての行い)の細部にいたるまで、細かい決まりがびっちりある。それに従わない者は、「ぱごろ」「ぱごり」(共に馬鹿の意)「ばっとまーす(悪者)」呼ばわりされ、村八分にされてしまう。

 女が一人で外出するなど考えられないことである。ちょっとそこまでの買い出しでさえ、弟でも小供でも連れて出る始末である。バザール(市場)では、野菜を買うのも奥さんのサリーを買うのも、専ら男の役目だ。

 女が外で働くなどもってのほか。女房に働かせるなど、その家はよほどの貧乏(低カースト)か、さもなくば旦那が甲斐性なしである。どうしても奥さんが店番をしなければ成らない時もあるが、大抵は旦那の補佐だ。

 そのオリッサ州の小さな町で、チャーDiDiはひとりでチャイ屋を開業して生計を立てている。いや、ひとりではない。チャーDiDiの娘(姪と称する場合もあり、真相は今もって不明)の「シャンティ(ベンガル語で平和、静か、の意)」も子供ながら店をきりもりしている。

 「女性の営業する店」だけあって、ナメてかかる客も多いようだ。代金を払わない、こっそり盗む、卑猥な言葉を投げかける、よからぬ事を企む・・・。そういう輩には、強行に対応する以外にない。ツケは認めない、時には高くふっかける、相手を見て釣り銭をごまかす、店の迷惑になる客には強気で抗議する・・・。
 
 チャイ屋というものはどこも常連客というのがついていて(あまり酒を飲まない印度人は、御猪口の様な小さなグラスに入れるチャイを一日十杯ぐらい飲むのが普通)、大概は常連客同士がグループになり、たまり場のようになっている。チャーDiDiの店の常連グループ(私もその一員)には、幸いチャーDiDiに楯突く客はおらず、店は平和が保たれていた。何か問題点があるとすれば、そう、それはチャーDiDiその人なのだ。
 
 女手ひとつで店をとりしきるだけに、チャーDiDiには噂が多い(当然、正体不明の私についても噂は多いのだが、ここでは省く)。曰く、昔は娼婦だっただの、ビスケットを仕入れている男はチャーDiDiの従兄弟ではなく恋人であっただの、常連客の一人はチャイ代をおまけしてもらう為に、チャーDiDiに言い寄っているだの、気にくわないことがあるとシャンティに折檻するだの(この話だけは本当)・・・噂だけでなく、謎も多いのである。
 
 実際、私も通い始めの頃は、チャーDiDiの口から出る卑猥な冗談に参った。でも毎日顔を合わせていくうちに、彼女の素朴な優しさ、明るさが大好きになり、家へもよく遊びに行った。
 
 彼女は、がめつい割には数字を知らない。
 
 途方もなく大きな金額を突然言い出す反面、月々の支払い計算には疎い。
 
 ボランティアで按摩をしてまわっている私に、チャーDiDiは彼女なりのアドバイス―――誰それは悪い奴だから按摩はするな、誰それは金持ちだから沢山ふんだくれ、等々――をしてくれる。
 
 こんな事もあった。昼食におよばれして、チャーDiDiの家に行った日、おかずはシャンティが作った、ゆで卵のカレーだった。チャーDiDiはゆで卵を一つ掴むとそのままべちゃっと手で握り潰し、ふたつにして片方を私の皿に、もう片方を自分の皿にのせた。うわっ・・・。流石に私も面食らった。が、これが印度の、田舎の、食事スタイルなのだ。よその家にお呼ばれしたときはこんなことはなかったが、ともかくもそう自分に言い聞かせてその卵を(もちろん印度式に手で)食べた。食べ終わると、なんとチャーDiDiは〝もうひとつ〟ゆで卵を鍋から取りだし、再びべちゃっと潰してふたつの皿に分けたのであ。
 
 ――二つあるなら最初からひとつずつくれよっ!
 
 流石にその時は叫びが喉まで出かかってしまった。が、しかしご馳走される立場上、どうにかその叫びを心の中に押しとどめたのであった。
 
 食事が終わり、自分の宿に帰り、夕方になってほかの印度人の友人に訊いてみた。あの「ゆで卵潰し」は、「普通」の印度の食事スタイルなのか。答えは否。その友人も目を点にして、首を傾げていた。

 思うに、あれはチャーDiDiの、彼女なりの愛情表現だったのだろう。
 チャーDiDiは、やはり並の印度人ではなかったのだ。

 その町を再び訪れたのは、一年九ヶ月後、アフリカ横断をした帰りだった。町は少し大きくなり、新しい建物も増えていた。町の子供たちも大きくなり、チャーDiDiのところのシャンティも今や思春期真っ盛り、大分、大人びていた。
 
 結婚した友人もいた。
 亡くなった人もいた。
 
 チャーDiDiは結婚していた。
 
 サリー姿の雰囲気は少し変わり、身につけているアクセサリーも既婚女性のものになっていた。
 
 成長したシャンティに全面的に店を任せている為(それでもよく怒られているが)、チャーDiDiは以前より少しふっくらとしていた。印度女性にとっては、太るイコール裕福であるというプラスイメージがある為、チャーDiDiは美人になったといってよい。
 
 チャーDiDiが結婚した相手は、町中に好印象をもたれている、ベンガリダーダ(ウエスト・ベンガル州出身のおじさんの意)だ。ベンガリダーダの妻子はカルカッタに住んでいるのでは・・・?ダーダは一人でこのオリッサ州の隣町で仕事をしているんだよ・・・お金もたくさん持ってるポイシャわら(金持ちの意)だからさ・・・チャーDiDiにお金をあげて、週末だけチャーDiDiのところに泊まりに来るんだよ・・・相変わらず、町の人の間では噂話が絶えない。

 チャーDiDiが幸せなのかはわからない。
 でも一年九ヶ月前よりは幾分幸せになっている様に思う。

 今、チャーDiDiが持っている夢といえば、シャンティをお金持ちの外人に嫁入りをさせることだ。

 印度では嫁の側が多額の結婚持参金(ダウリーと言う)を払わなければならない
とか、身分違いの結婚は夢のまた夢であるとか、ましてや田舎のチャイ屋の娘にすぎないシャンティ(シャンティは英語どころか、ヒンディー語もベンガル語もまずしゃべろうとしない)と外人をあわせようという破廉恥な考えが、どれほど非現実的なものであるかとか、チャーDiDiは一向に意に介さない。

 彼女も周りの印度人同様今を生きるのに必死で、夢は神様が与えてくれるものであり、夜寝てるときに見るものなのだ。

 今日もかの地で日が暮れる。
 そしてまた明日が始まる。

 かの地で生きる人々にとって、全ては「たくるいちゃ(オリーヤ語で神の意思)」である。

 私がいつかかの地に戻るのも、その時、何が私を待ち受けているのかも、全て〈たくるいちゃ〉である。

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〈4〉らきとしゃもさ ~明るいアフリカのモスリム姉妹

2006-11-11 23:56:15 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 らきとしゃもさは姉妹である。
 ソマリア人の敬虔なモスリム(イスラム教徒)である。

 戦禍を逃れ、近隣国タンザニアの、キリマンジャロのふもとにある小さな町で暮らしている。

 家は地元民相手の食堂権安宿を経営している。

 私はその宿にしばらく世話になっていたので、自然と毎晩食事の支度をしている妹の社もさとしゃべるようになった。

 しゃもさの姉のらきは19才ながら、家の運営をしっかりやる、なかなかのやり手奥様だ。らきの旦那は、らきの外にもサウジアラビアに一人、ケニアのナイロビに一人妻がいて、それぞれ6ヶ月間ずつ移り住む、多忙な商人である。私がそこに住んでいた時期はちょうどらきが当番妻だったので、私も旦那の顔を拝見する事ができた。

 ケニアでもタンザニアでも同じだが、難民として移住するソマリア人は国連から充分なほど手当てを支給される為、本来住んでいる市民より裕福な暮らしをしていることがよくある。

 らきとしゃもさの家は商人としても腕が立ったので、金持ちとまでは言えないまでも、衣食住の心配はないように見えた。

 妹のしゃもさには婚約者がいた。らきの旦那の弟だ。2組の兄弟姉妹で縁組みするのはソマリア人の風習だそうで(本当かどうかは知らないが)、しゃもさは自分の意思とは関係なく決められた未来の夫と、よくデートに行っていた。

 らきとしゃもさもデート以外で外出する時は、必ず黒い衣装に身を包み、目を除いて全てを隠していた。それでも上手に飴玉を口に放り込むらきには、非常に安心したものだ。

 私も黒づくめ衣裳に挑戦した事がある。きちんと着こなしをしたまではいいが眼鏡がはまらず、らきとしゃもさに散々からかわれ、近所中で笑われた。不思議なことに、一目見ただけで招待がバレてしまったのだ。

 この姉妹は変わり身が早い。

 黒衣裳で身を隠すのは家の外でだけ、家の中ではオシャレを楽しんでいる。

 らきはどういう訳か髪(ソマリア人の髪は一般的にほかのアフリカ民族に比べ、縮れ毛が少ない)の一部を金色に染め、タンザニアの特産であるかはわ(珈琲)とハチミツを混ぜて作ったパックを時折顔に塗っていた。

 香水を多用するのはモスリム女性の常識だが(これは男が自分の嫁サンをまちがえない様にする為と聞いた)、それ以上にらきとしゃもさの姉妹は〝見えない所のオシャレ〟に余念がない。私の直毛と日本人特有の平たい顔は姉妹にとって格好のおもちゃで、よくいじられたものだ(化粧嫌いの私は、あまり思い出したくない思い出である)。

 比較的社交的な美人姉妹には来客も多い。
 女友達が集まったとき、彼女達はベールをはぎとる。

 ――こんなん着てられっかぁ!

 カーテンを閉め、ドアに鍵をかけたら怖いものはない。ソマリア歌謡をかけ、らきは先頭切って踊り出した。

 「らどなーあっ、らどな!(ソマリア語で美人の意)」

 どう聞いても演歌調のソマリアの曲に合わせ、らきは激しく体を動かす。照れていた女友達もしゃもさもいつの間にか楽しそうに踊っている。

 「みわこ、くじゃ(スワヒリ語で、来い)!」

 流石アフリカ人だ。腰の振り方はナイロビのディスコで見たのと同じだった。東洋人にはとても真似ができない。

 いつまでもたじたじしているのも芸がないので、私も一緒に踊り出した。

 トントン。

 突然響いた、使用人のじゃまのノックで、すばやく女性達はおしとやかに戻る。ラジカセのスイッチを切り、サッと布を頭に被ってからドアを開ける。

 じゃまだったら大して恐れることもないが、これがらきの旦那だったら大変だ。私はいつもハラハラしていたが、慣れているらきとしゃもさは、いつも堂々としていた。

 しゃもさが夕飯をつくる。いつものメニュー、チャパティだ。印度人よりも手のかかる作り方をするしゃもさの傍に座って、私達はいろいろな話をした。

 しゃもさは今までテレビでしか中国人(アフリカ人から見れば日本人も中国人も同じである)の顔を見たことがなったらしい。何かにつけ、すぐに「まちょ・んどご(小さな目)」を連発し、私にいろいろな質問をぶつけてきた。

 「日本人はみんな目がちっちゃいの?」
 「テレビに写っている中国人は、みんなみわこと同じ顔をしてるよ」
 「もし私が日本に行ったら、一体どうやってみわこの顔を見つけたらいいの?(これは真顔で言われたので、眼鏡をかけているから大丈夫だと答えて安心させた)」

 いつしか質問はアフリカ大陸にない仏教の事に及ぶ。
 
 「豚肉を食べて平気なの?」
 「どうして死んだあと、印度人みたいに死体を燃やしてしまうの?」
 ※注。仏教徒やヒンズー教徒は〝魂の〟生まれ変わりを信じる。イスラム教徒やキリスト教徒は最後の審判がくだる時、〝肉体ごと〟復活する。その大事な肉体を燃やしてしまうのだから、しゃもさ達にはとんでもない異端者だ。

 「ブッダって実際に生きていた人間でしょ、そんな生身の人間の言った言葉を、どうして信じてしまうの?」
 ※注。イスラム教の〈コーラン〉は、預言者マホメットが、アラーの言葉を書き記したものなので、マホメット自身の言葉ではないとされている。

 これらの質問に満足に答えられるだけの知識はその頃の私にはまだなく、好奇心旺盛なしゃもさを納得させることは至難の技だった。冗談をまじえて、「死んだあとはあの世で使うために、眼鏡も杖もみんな一緒に燃やすんだよ」と言ったことがあったが、その時しゃもさは目を丸くして、家中の人間に触れまわっていたのだった。

 キリスト教徒が仏教徒の悪口を言っていたのを思い出す・・・仏教はよくない、そんなものは止めてしまいなさい・・・等々・・・。

 だがイスラム教徒のしゃもさは、仏教について、ただ知りたいだけなのだ。私がしゃもさにイスラムについていろいろ質問した様に、しゃもさも私にいろいろな未知のことを訊きたかったのだ。

 それらに満足に答えられなかった事を、とても申し訳なく思う。

 その町を離れる時がきた。

 最後の日、私は、いつもお世話になった町の人たちに挨拶をしてまわった。ムザかはわ(珈琲屋の母ちゃんの意)、バス会社の兄ちゃん姐ちゃん、飯屋の親子、アボガド売り、民芸品市場の面々に絵描き兄さん達・・・

 最後に残ったのは、やはり宿の家族である。

 私は言った。「にたくじゃ・てな。トゥッタオナナ!(また来るよ。また会おうね!)」

 だがしゃもさは聞かない。

 「むおんごー!(ウソだ!)」

 今にも泣き出しそうなしゃもさを見るのは辛かった。

 「しうぇんで(行かないで)」勝気ならきが続ける。
 
 「宿代、私が払ってあげるから居なさい。」

 旅をしていく上で一番辛いのが、すっかり馴染んだ町を離れるとき、親しい友との別れなのだ。
 
 「なくじゃ・くうぇり(本当に来るから)!ばだい・みやか・もじゃ(一年後に!)」

 何度も約束したが、事情が重なり、一年後に、そして今に至るまで、そこを訪れることができなかった。

 しかし、約束はまだ生きている。

 大分遅刻はしてしまうけれど、しゃもさに「むおんご!」と泣かれることだけは避けられると、信じている。

 トゥッタオナナ・ムング・アギペンダ!(また会おう、神が望むなら!)
 まはっどさにっど!(ソマリア語、ありがとう!)

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〈5〉アルカ ~サハラの地に生きる敬虔なモスリム

2006-10-12 00:00:43 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 アルカは無口だ。
 
 こちらから聞かなければ、何も答えない。込み入った事を聞いても、何も答えない。いつも黙って店先に座り、黙って私を歓待し、背中でモノを語る控え目で芯のあるモスリムボーイだ。

 西アフリカ、ニジェールのとある国境の村。数キロ先は隣国ナイジェリアだが、共にハウサ族である上外国人には国境が閉ざされているので、商人が行き交う以外はいたってのんびりしている。

 サハラ砂漠の民、ツアレグもたまに見かけるが、ハウサ族が主体の平和な村だ。建物もハウサ式、言葉もハウサ語(外にツアレグやジャルマ語、ナイジェリアのヨルバ語やアラビア語などもあるが少数派)のみである。ハウサの人々は中国人と同じで、一度ハウサ語を挨拶だけでも使うと、ハウサ語以外(外国人に通じるフランス語等)は一切しゃべってくれない。ハウサ語の嵐で私は一日知恵熱が出て寝込んだが、おかげで早い段階でハウサ語に慣れる事ができた。

 ここは完全なモスリム社会だ。一日5回の礼拝は集団で行い、町では女性はあまり見かけない。私はこの村で女性の友人は数人しかつくれなかったが、商店街の男性陣とはほぼ顔なじみになれた。彼らの礼拝の時間は空っぽになった店に座り、店番をするのが私の役目になっていた。

 この村に着いて泊まる所を探していた時に、道を訊いたのがアルカだった。以後私は何度もアルカと口をきくことになるのだが、なかなか道を覚えられず、同じ格好をしているモスリム男性の人相の区別ができなかった為に、当初アルカにいつも初対面の挨拶をしていた。「すんなん」ハウサ語で名前を訊く度に「アルカ」と素直に答えてくれるアルカ。その都度気付いて、頭を掻いたものだ。

 アルカは3秒で水を飲む。半リットルはあろう袋詰めの水をだ。西アフリカでは冷えた水をビニール袋で詰めた物(ハウサ語で、るお・せんにー)があちこちで売られているが、それを買う時、必ずアルカは私の為に、もうひとつ買ってくれた。「なーごーで(ありがとう)」お礼を言っても背中で答えるだけのアルカ。コップ3杯分はあろう大量の水をちびちび飲む私をヨソに、アルカは一瞬で飲み干して、ぺしゃんこになった袋を道の向こうに放り投げた。

 路上の物売り姐ちゃんとしゃべっていると、いつの間にかアルカが姐ちゃんから食べ物を買っていて、私に〝食え〟と促す。「俺はもう食ったから」といってまた背中を向け店番をする。売り上げの増えた物売り姐ちゃんが「食いなよ」と場所をあけた。

 こんな事が日常となり、数日が経った。

 何かお返しをしよう。

 私は自分の部屋でカバンをあさり、ヨソの国々から集めてきた物の中からアルカへのプレゼントになるものを選んだ。飾りもの。アクセサリー。腕輪。私の持っているものは大抵が女性用で、男性のアルカが喜びそうなものはない。もし彼が結婚していれば奥さんにあげられるのに・・・。そこまで考えたとき、アルカが結婚しているかどうか、全く知らない自分に気付いた。

 アルカに奥さんや子供はいるのだろうか。

 結局、外に目ぼしいものがなかったので、飾りものをアルカにプレゼントした。
アルカは軽くお礼を言うとモスリム服のポケットにしまい、また店番をはじめた。

 奥さんがいるか訊いてみたが、アルカはどっちともとれる言い方をするし、商店街の親父連中も好き勝手な事を言うので(おそらく私の語学力不足であろう)、アルカが既婚かどうかにこだわるのはやめた。

 ただ、いつもの無口な親切に対して、何かアルカが喜ぶようなお返しをしたかった。

 そのアルカが一度、笑みを浮かべた。私の冗談につきあって笑うのは幾度か見たが、アルカが自身の胸のうちを語り、嬉しそうな顔を見せたのはその時が初めてだった。

 「俺のヒーローはな・・・」アルカは語る。

 「・・・リビアのカダフィと、イラクのサダムフセインと、オサマ・ビン・ラデンだ」大事な宝物を打ちあける子供の様に、アルカの目は純粋だった。
 
 私はその手の話を聞くのは初めてではない。
 
 この3人のヒーロー(?)が、世界中のモスリムに人気があるのは知っていた。理由はもちろん、〈アメリカ〉に盾つくからである。この3人のヒーローが正しいかどうかは、ここでは意味がない。モスリムの人々が口では鬼畜米兵(・・)(米英といいたいところだが、イギリスよりはアメリカの方が憎悪の的になっているように思う)を叫びながらも、コカコーラとディカプリオ(映画「タイタニック」は世界中どこでも人気だ)にどっぷり漬かっているのも事実なのだ。
 
 ただ私は、滅多に自己主張をしないアルカが瞳をかがやかせて言ったその様子が、いつまでも忘れられなかった。

 アルカの大事なもの・・・それは、イスラム教徒の持つ、モスリム魂だ。

 モスリムの価値観が全てのこの世界で、自由にふるまい、覚えたてのモスリム用語を披露する、日本女性の私は、周りから見れば、さぞや特異な存在であろう。

 今はアルカ達の目に友好的に映っても、いつ私の化けの皮――日本人の、仏教徒の常識――が剥がれるかわからない。私はただの訪問者であって、この地に永住すれば、きっと彼らの価値観を、ことごとく壊していってしまうだろう。

 毎夕、アルカとアルカの仲間達に囲まれて店主の奥さんが作った料理を一緒に食べながら、私は、家にこもりひたすら料理を作る、その奥さんの生活に思いを馳せずにはいられなかった。

 最後の日、私達は明るく別れた。
 
 アルカが目元をサッとなでた様な気がしたが、私には特別な言葉をかけるだけの機転がきかなかった。アルカがくれた住所はアルカの両親の住むさらに小さな村で、そこに郵便屋が配達する可能性は、皆無に近い。
 
 「せーわたらーな」・・・ハウサ語で、厳密には「一ヵ月後に会おう」という意味だが「いつかまた会おう」という意味にもなる。

 「せーわたらーな、インシャーラー!」私はそういってバスの中から手を振った。アルカの姿が視界から消えていった。

 そう、いつか必ず、私はこの村に帰ってくる。もっともっとイスラムについて勉強し、ハウサについて勉強し、彼らの価値観を壊さないままいろいろな技術を披露し、あるかの、この村の人たちの親切に報いたいと思っている。

 ――インシャーラー・・・。
 ・・・アラーのお導きのままに・・・。

 [余録]
 この村を出発して以後、私はサヘルの大地を抜けるのに十七日間を費やし、その間寝食を含めほとんどの時をトラックでの移動で過ごした。結果脳性マラリアにかかり、スーダンの首都カルツームでぐったりしているところを警察の手によって病院に運ばれ、一命をとりとめたのだった。賄賂をとり損ねたお巡りさん達が運んでくれたのは無料のチャリティー病院で、治療には一切料金がかからなかった。これこそみなさんのおかげ、イスラム教でいうところの〝まあしゃーらー(アラーのおかげ)〟という外はない。私が数日間だけだが「ラマダン(丁度、日中の断食をする月だった)」につきあったのは勿論である。

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〈6〉じょし ~一少数民族として生きる一人の女性

2006-09-12 00:05:12 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル

 バングラデシュは小さな国だ。大国印度に隠れ、あまり目立たない。目立たないから旅行者も少なく、よって非常に珍しがられる。

 道を歩こうものならワッと見物人が押しよせ、百メートル歩くのに2時間かかる事もよくある(あちらこちらで捕まる為)。

 日本への出稼ぎ帰りも多く(中国人の様にカネの為一心不乱に働くのでなく、十年以上かけてゆっくり貯めたカネを持って、故郷で起業する人が多い)、親日が多い。当然の如く、日本帰りは日本語がうまい。日本人がバングラデシュを旅すると、あちこちで地元の人に歓待され、この国のファンになってしまう。

 そんな〝ベンガル人の国〟バングラ・デスに、日本人と同じ黄色い肌で平たい顔つきの少数民族がいる。チャクマだ。

 もとは隣国ビルマのアラカン半島から来たという説のある、仏教徒の民だ。チャクマの人々はこのイスラム教徒の、ベンガル人の狭間で、いろいろな差別を受けながら暮らしている。ランガマティという山の町で知り合ったお坊さんの縁がもとで、首都ダッカでも、私はチャクマの仏教寺院にしばらくの間泊まっていた。

 この寺院の門番には娘が二人いて、共に寺院に住んでいた。

 じょし・きしゃ・ちゃくま、それが長女の名前だった。後でわかったのだが、全てのチャクマの人々は、名字が〝チャクマ〟になっている。名字でカーストがわかる印度と同じ様に。

 妹の名前は、たぱし。真ん中の弟は、大学に通っていて、寺院には住んでいなかった。もう一人、寺院の守衛さんの娘、、みんぎが加わって三人娘はいつも行動を共にしていた。

 私は、この三人娘とすぐに仲良くなった。


(一番左がじょし)

 特に私より五才年下のじょしは、以前韓国料理レストラン(ダッカの高級地には、そんなものが幾つかある)に勤めていたとかで、私と話をする事が楽しい様だった。

 じょしは、ともかく私の行動にびっくりしていた。私が何をしたかというと・・・
 ―自分達チャクマと同じ顔をしているのにベンガル人を怖がらない。
 ―用があれば、用がなくても、バンバン外に出る。
 ―少々の距離なら歩く。時間がないときはバスに乗る。リキシャやオートリキシャ(日本人がタクシーを使う感覚だろうか)を使うなど、まずない。
 ―ベンガル人を相手によくしゃべる。ベンガル語が下手クソでも気にしない。
 ―大声で笑う。
 ―当時の女性国家元首、チェカジノの物真似をする(もともと眼鏡をかけた私は、頭から布をかぶり細い目をより細めると、地元の人に爆笑される。似ているという事だろう)。
 ―印度の映画俳優、サルマン・カンの大ファンである、等々・・・。

 じょしにとって、私との共通点はサルマン・カンのファンである、この一点だけだ。あとの事項は全て正反対である。じょしは、決して寺院の表を歩かない。

 年頃のチャクマ娘は一歩外に出るとベンガル人に襲われる。悪い奴らはチャクマの娘、異教徒の女には何をしてもいいと思っている。

 人の集まる所に行くのは自殺行為だ。じょしは毎日料理をしているのに、お寺のすぐ横にあるバザール(市場)まで大根一本買いに行く事はなかった。ここでは、買い物は父親の役目なのだ。

 それならば護身術を覚えればよいではないか。私は寺院の屋上で(三人娘は誰からも覗かれる心配のないこの場所が好きで、日没前決まって屋上に登っていた)、まず体操ごっこを試みた。じょし、たぱし、みんぎは腕立て伏せも腹筋運動も、空手ごっこも経験がなかった。

 「あみ・こるてぱりな(できないよ)」腹筋で上体を起こせなかったじょしは、護身用のホイッスルをぶら下げて遊ぶ私に、親しげなほほえみを見せた。

 チャクマの童謡を聴いたことがある。

 チャクマ語はベンガル語が東北訛りになった様な素朴な発音で、私にはよくわからなかったが、ベンガル語に訳してもらった歌詞を聞いて目が点になった。

 ♪・・・ある日道を歩いていると、向こうから素敵な男の人がやって来た。
  ――[略]――声をかけたいけれども・・・
  恥ずかしくって声をかけられない、
  ああ、かけられない・・・♪

 そんな内容だった。
 こんな可愛らしい歌詞が現実にまかり通るチャクマ社会。
 そのチャクマ社会に転がり込み、彼らの敵である(内戦はしていないものの、チャクマの人たちは政府に対してよくデモ活動をしている)ベンガル人に「ボンドゥー(友達)」呼ばわりされる私は、さぞかし異様に映ったろう。

 バングラデシュに対し愛国心を持たないチャクマの人々は、常に外国移住の機会を狙っている。それなのにこの日本人は何の不自由もない(と彼らは思っている)日本から、はるばるバングラデシュにやって来たのだ(正確には、隣国からの通り道なのだが)。そして、ベンガル陣と交流しているのだ。

 じょし一家は、そんな私を胡散臭く思う事もなく、いつも温かく迎えてくれた。そして食事に招待したがった。

 「今日は、誰の家で晩御飯を食べるの?」
 「せんぱら(世話になっていた坊さんの家族が住んでいる所)?じゃあ、いつ、うちで御飯を食べてくれるの?」
 「今日、私の弟(あまる・ちょっとばい)がうちに泊まるのよ。是非会って。」

 ベンガル料理と違って、チャクマ料理は、強烈に塩辛い。どこの家庭でいただいても、塩味が強すぎて素材の味がしない程だ。それでも、彼らの気持ちがうれしくておいしくて、私はいつもおかわりを断れなかった。きっとバングラデシュ滞在中は血圧が上がっていただろう。余談だがチャクマの家庭で日中食事をした私は、日没時には道端でベンガル人の仲間達と共にファトル(日没後の断食明けの軽食)を摂るのが日課だった。おかげでラマダン期間というのに、私はすっかり太ってしまった。

 これほど親切にしてくれるチャクマの人たち。この人たちに、一体、私は何ができるだろう。按摩とおしゃべり以外、私がじょし一家に何が残せるだろう。

 いろいろ考えても時間が過ぎるだけで、結局大した事は何もできないまま、私はダッカを、バングラデシュを離れてしまった。

 それから二年近く経ったであろうか、西アフリカにいた私は、一通のEメールを受け取った。

 差出人の名字はチャクマだが、名前には覚えはない。が、内容を見て驚いた。

 差出人はじょしの、弟の、同級生からだったのだ。しかし文面は、女子の弟の手に依って書かれていた。 

 ―友人のメールから挨拶します。姉のじょしをはじめみんな元気です。みわこはいかがお過ごしですか・・・。

 このことを伝える為に、じょしはあらゆる手段を試みたに違いない。日本人みわこと連絡をとりたいが住所もわからない、Eメールというものが何なのかもわからない、ただ大学に通っている弟からEメールとやらができる友人がいるという話を聞き、すかさず棚にしまった私のメモを取り出し、伝言を頼んだのだろう(これはあくまで私の憶測であるが)。

 涙が出そうになった。
 こんな私でも、じょしにとっては希望だったのだ。イチ日本人旅行者にすぎない私と連絡をとることが、外の世界に触れる事のないチャクマのイチ女性ができる、唯一の自己主張だったのだ。ホイッスルと腕立て伏せを武器に(?)国境を越える私に、じょしは何か夢を見ていたのかもしれない。

 じょしに会いたくて、いてもたってもいられなかった。

 それからさらに三年が経とうとしている。 

 じょしの弟、パリトンとは、今でも時折、「JuJu・・・」というチャクマの挨拶から始まる簡単なメールのやり取りを続けている。伝言はいつも頼んでいるが、じょしとは、直接コンタクトをとっていない。じょしと直接通じあうためには、そう、やはり会いに行くしかない。

 次に会ったとき、もしかしたら、じょしは結婚しているかもしれない。もう、俳優サルマン・カンの取り合いをすることもないかもしれない。それでもいいや。

 今度会うときはみっちりと、悪い奴を倒す技を教えてあげよう。

 チャクマの女の子が、堂々と市場に買い物に行ける様に。

 一人でネット屋(インターネット・カフェ)に行き、私と直接やり取りができる様に。


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〈7〉ピンキィ ~前世は「ぼうに(姉妹)」の「あまる・くくる」

2006-08-12 00:09:37 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 私は昔、中国で狗(いぬ)を食った。

 それが体に染みついて臭いを発するのであろう、犬にはすこぶる人気がない。

 野良犬天国のタイでは、毎日が戦いだった。犬どもは私を見ると、まるで親の敵でも見つけたように、五十メートル先にいてもこちら目がけて走ってくる。ボランティア按摩の行き帰りに、集団で襲いかかってくる野良犬を相手に棒キレや石コロで応戦したのが逆効果となり、戦いはそこを通る度に続いた。

 その私の運命が印度で一変した。

 年月が経ち、体臭が抜けたのだろうか、沢山の犬たちに囲まれ尻尾を振られ愛される〝人生の華〟を経験したのだ。

 印度の犬の中でも特別私に懐いていたのがメス犬のピンキィだった。

 ピンキィは齢十歳。高齢である。彼女には印度人の飼い主がいて、お手(さらーむ、又はシェイクハンドという)やお座り、ジャンプなどの数々の芸が仕込まれている、珍しい野良犬だ。野良犬というのは、本来の飼い主〝ちょいら親父〟は別の犬を飼っているのでピンキィを追い出し、路上生活犬にしたからなのだ。ピンキィは地元オリーヤ語のほかにベンガル語、英語その他あらゆる言葉を理解する。

 私が人間相手に手の按摩(お手?)をするのを同類と思ったのか、ピンキィに按摩を施して以来、ピンキィは私の行く処、どこへでも付いて来る様になった。

 私が出先で按摩をする。ピンキィが芸を見せる。私はお茶をもらい、ピンキィはビスケットやサモサ(印度の軽食)をもらう。この繰り返しで、私とピンキィが連れ立って歩いているのは、その界隈では忽ち知れ渡ってしまった。

 以前は「DiDi!」「ナニー(オリーヤ語でお姐さん)!」「マッサージ!」と声がかかっていたのが、今では「ピンキィ!」と彼女の名前で呼びとめられる有様だ。

 ピンキィは印度人の習性を、かなり持っていた。
 ―、人におねだりをするのが上手い。
 ―、異性と同性をはっきり区別する。
 ―、弱きものに対しては強く、強気には弱い。
 ―、一度ウケると、何度でも同じ芸を披露する。しつこいという言葉を知らない。
 
 日本人にもこれらの習性はもちろんあるが、ピンキィと印度人にはその傾向が強いのだ。
 
 それで、ピンキィと一緒にいるうちに、印度人のもうひとつの顔も次第に見える様になってきた。

 印度人にとって牛や猿は神様の使いであり、とても神聖なものだ。どんな悪さをしても、罰する事ができない。

 牛は、自分が崇められているのを知っているので、常に堂々としている。ダンボールの切れ端でも食べ得る強靭な胃袋を持つというのに、貧乏なリキシャわらでもその日の貴重な売り上げから一ルピーを使い牛の為にビスケットを差し出す。牛は狭い路上の中央に座り込み、通りを塞ごうが気にかけない。通行人に自慢の大きな角で攻撃することも日常茶飯事だ。大通りや住宅地で牛同士が喧嘩を始めれば、見物人が押し寄せちょっとした見物になる。B級映画を鑑賞するよりよっぽど迫力があって面白いのだ。

 一方、猿は物語ラーマヤーナの登場人物ハヌマンとして、大変親しまれている。自分でもそれがわかっているのか、付け上がり方も甚だしい。普段はヒンズー寺院近辺に棲んでいるが、住宅地を荒らしまわり、食べ物を盗っていき、人を襲う事もある。あまりのひどさに人間が手を挙げようにも、逆襲されるおそれがあるので(狂犬病というリスクがある)手出しできない。私が滞在していた時分は生後四ヶ月の赤ん坊を連れ去ってしまった事件もあったくらいだ。おそらく食べられてしまったのだろう。それでも印度社会では、猿を撲滅する事ができないのだ。

 犬は一番立場が弱い。バイクもリキシャも犬には目もくれず走り回る。何か気に入らない事柄があれば、犬に八つ当たりをする。石を投げる。蹴る。それも躊躇なく腹を蹴る。牛には食べ物を渡しながら撫でさする事もあるが、皮膚病をもつ汚い犬には決して手を触れる事はない。犬を室内で飼うという習慣も、当然ない。人を詰(なじ)る際には〝くった(ヒンドゥー語!〟〝くくる(オリーヤ語)!〟と犬呼ばわりをする(ほかに喧嘩用語があるとすれば、〝ちょろ・パキスタン(パキスタンへ行っちまえ)〟である)。

 印度の路上生活犬は、すべて負け犬だ。

 しかし、何故か印度人は犬に対して英語で話しかける。英国統治時代の影響なのだろうか、或いはコンプレックスの裏返しなのだろうか。チャイ屋の少女、シャンティ(前出、チャーDiDiの項参照)でさえ、誰にも使うことのない英語をピンキィには用いる。

 「SitDown」「Eat」「Jump」小声で短く、しかし確かにシャンティは英語を発する。そして、芸をさせた後、棒で叩いてピンキィを追い出す。
 
 犬に対して「かわいい」「かわいい」と愛情を持ってピンキィを撫でるのは、外人旅行者(主に日本人)だけだ。

 ピンキィを優しく撫でる旅行者を私は心強く思い、印度人たちはその様子を眉をしかめて見ていた。

 ピンキィは私の後ろに付いて回っていたが、同時に赤ちゃんも宿していた。十歳の老齢というのに、そして黒い体毛に白いものが混じっているというのに、まだまだ若い者には負けていないのだ。身重の体でジャンプをしたり走り回ったりしていたピンキィは、ある時期からぱったりと姿を消した。

 ピンキィがみつかったのは姿を消して三週間程経ってからだ。遠くにいる黒い塊を発見した私は、声を限りに叫んだ。

 「ピンキィーッ!」

 こちらに反応して、スピードを上げて走り寄ってきたピンキィを抱きしめる。

 「ウオオオン」
 「ワオオオン」

 ピンキィは雄叫びをして応える。大きかった腹部はへこみ、お乳が垂れ下がっていた。

 ピンキィは五匹の仔犬を産んでいたのだ。聞いたところによると、人間も犬も含め誰も近寄らない掘っ立て小屋の軒下、外敵や雨水さえ入ってこない静かな場所で、ピンキィはひっそり出産したと言う。さらに驚いた事に、産んでからしばらくの間は、誰もその仔犬たちを拝見する事ができなかった。ピンキィが隠していたのだ。

 私が「トゥマルばっちゃ・こたいあせ(アンタの子供はどこ?のベンガル語)?」「ぴら、くおれあち(同、オリーヤ語)?」と幾度問いかけても澄まして答えなかったぴんきぃ。ある日、飼い主のちょいら親父が「Where is POPPIS?」と訊いたところ初めて「ワン!」とひと吠えして、ちょいらを出産場所の掘立小屋へと案内したという。

 ちょいらに嫉妬をしたのはいう間でもないが、英語を解し、なおかつ危険な人間からは遠ざかり無事に出産を済ませたピンキィの賢さに、私は、ただただ感服した。

 そのピンキィともお別れする日がきた。

 この町を離れるのだ。出発の日、私は一日かけて町を巡り、友人に挨拶して世話になった礼を言い、私亡き(?)後のピンキィをよろしく頼むとお願いしてまわった。その少し前にひと月程留守にしていた時があったのだが、その間、ピンキィはいつものコースをひたすら歩き回り、「ピンキィ、トゥマケ・こじちぇ(ピンキィはアンタを探していたよ)」との報告を顔馴染みのあちこちからうけていた。

 ピンキィとの別れは辛かった。

 相手が人間なら記念品も渡せるし、手紙だって書ける。しかしピンキィにはそれができない。首輪を編んで、ピンキィの首に巻きつけたが、私がいなくなれば、すぐに大人も含む悪ガキ共に外されてしまうだろう。

 日本に連れて行きたいが、唐辛子とマサラ(インド料理の基本となる調味料)で育ったピンキィには、醤油味でできた日本の食べ物が受け付けられるか定かではない。加えて気候の違いや環境の違い、生涯の大移動などで、高齢のピンキィに大きなストレスを与えたくはなかった。

 町を出るずっと前から、ピンキィには「むう、ぽれいび(近々出るよ)」と伝えていたが、オリーヤ語ではピンキィに通じていなかったようだ。列車の出発時間が近づいたのでリキシャに乗り(歩きだと情が残って列車に乗りそびれるのが必至の為)、道中では友人知人に手を振りながら駅まで向かったが、後でそのリキシャをピンキィが必死で追いかけていたと聞いて、胸がいっぱいになった。

 それから二年以上の時が流れた。始めのうちはその町の友人への手紙に「ピンキィは元気か?」と訊けるだけの余裕があったが、今はとてもできない。犬にとって、二年という時間がとてつもなく長い歳月を意味する事を考えると、恐ろしくて答えを聞く事ができないのだ。万一、ピンキィに何か起こったとしても、私の友人達はわざわざそれを私に教えようとはしないだろう。私がこの目で確かめない限り、今のピンキィについての情報を得る手段は、何もない。

 早く印度に帰らなければ、早くピンキィに会いに行かなければと、焦る毎日が続いている。 

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〈8〉リキシャじお ~悲しい別れとなった期待の少女

2006-07-18 12:22:09 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 その少女の名前はよく覚えていない。
 
 私は会った人にはすぐ名前を尋ねる事にしているのだが、筆記具が手元になくて記録しそびれると、すぐに忘れてしまう質なのだ。それでも何度も顔を合わすうちに自然と覚える人はいるのだが、その少女に限って、今は思い出せない。
 
 じきに思い出すことを期待して、本当に申し訳ないことだが、オリーヤ語で少女の意味をもつ<じお>とここでは呼ぶことにする。

 じおは印度のオリッサ州の町に住む子供だった。初めてじおを見たとき、私はてっきり少年かと思っていた。じおは10歳ぐらいの子供でありながら、リキシャ(自転車で引っぱる人力車。印度の一般的な交通手段)を引いていたのだ。

 ニコニコしながら私と言葉を交わす。短髪にズボン、印度の少女にしては考えられないボーイッシュな恰好に加えて大人でも重労働のリキシャわら(リキシャ引き)だ。私は初めて見るタイプの印度人に、すっかり度肝を抜かれた。俄然、この少女に興味が湧いた。
 
 以来、町で姿を見かけるたびに、私はじおに声をかけるようになった。私が気付かない時でも、じおの方から私に挨拶をしてくれた。突っ込んだ話をしたことはなかったが、じおのクリクリした丸い目とさわやかな笑顔は、会うたびに私に爽快感を残した。

 前にも書いたが、印度、とりわけ貧しいこのオリッサ州は、男尊女卑の徹底した地域である。女と生まれたからには、家の中に閉じこもり、社会と接点を持たず、大事に育てられなければならない。貧しい家でも、仮に働くにしても、それなりの規制はある。男と同じ服装をしてリキシャを引くなど、いくら子供といえども常識ハズレの御法度である筈だ。

 当然、じおの周辺には男友達しかいなく、スカートをはいた同年代の少女達がじおと一緒に居る所など、全くと言っていいほど見たことがなかった。

 この娘は、将来、どんな大人になるのだろう。

 印度の常識を破り、社会の秩序をいい意味で根底から覆すような、強烈な人間になるのだろうか。髪型は、着る物は、仕事は、そして結婚は、どういう基準で選ぶのだろうか。この娘の家族は、そして周りの市民たちは、この娘に対してどんな反応をするのだろうか。

 そしてこの娘が成長して、いつか壁に当たったとき、私は人生の先輩として同じ女性として、何か手助けができるだろうか・・・。

 印度を離れ、アフリカ大陸にいた時でも、私は事あるごとにじおを思い出し、彼女の成長を見るのをとても楽しみにしていた。

 1年9ヶ月後、私は沢山の期待と再会の喜びに身をつつませ、アフリカ大陸から印度のオリッサ州に戻ってきた。「マッサージDiDiあしちろ(マッサージ姐ちゃんが帰ってきた)」皆が驚き喜び、迎えてくれた。
   
 「DiDi、もいら ほいちぇ(姐ちゃん、汚くなったなあ)!!」
 
 飛行機で、というより、印度に着いてからの列車の普通座席で二晩過ごしたお陰で、私はすっかり汗と垢まみれ(隣席の分ももらってると思う)になってしまっていた。
 
 「トゥミ、ぶら ほいちぇ(アンタは老けたよ)!」
 私もやり返す。
 
 こんな具合で数週間かけ、私はその町の知人友人にひと通り顔を見せた。しかし、じおの姿を見ることはなかった。じおは思春期だ。容貌がすっかり変わってしまったとしても、何の不思議もない。私は、その変わり様を期待して帰って来たのだ。

 いつになってもじおに会う機会がなかったので、ある日、私は馴染みの友人に聞いた。

 リキシャじお こんこるちょ(リキシャじおは、何をしているの)?
 「もれぎゃっちぇ(死んだよ)」
 
 私は耳を疑った。
 
 まだ12、3の年頃の少女である。リキシャを引いていたほどのエネルギッシュなじおだ。死ぬなんて、そんなはずがない。何度も何度も質問を繰り返し、ようやくじおがエイズで死んだことがわかった。じおは体を売っていたのだ。私と知り合った頃からずっと。
   
 じおは相手が大金を持つ白人観光客であろうが、小銭をつかんだ食堂の男であろうが、構わず誰とでも寝ていたのだという。おそらく数ドルにしかならない時もあったろう。あの少年のような恰好をした華奢な少女は、町の男たちの慰みものになっていたのだ。
 
 「えた、みったかた(それは嘘だ)」
 私は信じなかった。
 
 「しょっとかた(本当だ)」
 話をしてくれたその友人は言った。
 
 「あまる ぼう できちぇ(俺の母さんが見たんだ)。夜中に泣き叫ぶ声が聞こえたんで、心配して見に行ったんだ。」
 
 その時、じおは白人の住む部屋に、白人と二人でいたという。友人の母は事を理解して、黙ってその場を離れた。「アンタもあの娘を買ったのか」八つ当たりと知りながらも、自然と私の声は詰問調になる。
   
 「そんな事はしない」
 友人は反論する。
 
 「俺は何度もあの娘に言ったんだ。体を売るのはやめろって....」
 
 エイズに感染し、発病したじおは日に日にやせ細り、見るに耐えなかったと友人は言った。「みったかた(嘘だ)」信じたくなかった。印度人は罪悪感を感じず嘘を言うことがよくあるが、人の死に関する嘘など、滅多に耳にすることはない。それでも私には、じおの死など悪い冗談にしか思えなかった。
 
 「みったかた(嘘だ)」
 事実を証明しようにも、印度人は墓をつくらない。息を引きとるとすぐに火葬場に運んでしまう。その日、その場に遭遇しなければ、死はなかったも同じなのだ。
 
 「嘘だ....」
 目がうるんでいるのが自分でもわかる。しかし涙は流れなかった。
 
 私は、まだ完全には信じていないのだ。印度人が嘘をついていることを、心の奥底で期待しているのだ。じおが成長して、印度文化をひっくり返す大人になる夢を、私はまだ捨てきれず、忘れないでいる。あの明るい笑顔が、いつまでも私の脳裏から離れない。

 じお.....
名前を覚えられず、ごめん.......。

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〈9)エルス ~みるみる大人になった あばしゃ・せートゥ(エチオピア・ガール)

2006-06-18 12:25:44 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 エチオピア....強烈な国だ。
 
 周囲の東アフリカ諸国と明らかに違う。
 イスラム教国にはさまれた、キリスト教の国である。
 
 水を使って処理するのが主流のアフリカ諸国で唯一、トイレで紙を使う。
 
 トイレに鍵をかけない。「そう・あっれ(人がいるよ!」と叫ばなければ、戸を開けられてしまう。昔の中国に似ているが、エチオピアは男女共用トイレが多いため、余計始末が悪い。
 
 不潔である。この国に来ると最初の一ヶ月は、<こんにちゃ(南京虫)>の洗礼を受ける(でも一ヶ月たてば慣れて抗体ができる)。
 
 不潔であるくせに何故か八頭身の美男美女が多い。人口の半分は20歳以下である。
 
 教育がいき届いていない。

 ともかくうるさい。騒がしい。アジアでは現地人となれる私もアフリカでは異邦人のルックスから逃れられない。小人の国に来たガリバーの話、香港映画で見た見世物にされた白人の話(ちなみにコレは名作)を私は何度も思い出す。

 遠慮をしらない。シャワーを浴びている時でも平気で戸を蹴飛ばす。寝て居る所を合鍵をつかって入ってくる。それで驚かせて笑う。私の身につけている物(頭に巻いた布や手提げ袋)を猿の如く奪って放り投げる。抗議すると「アンチ・ドゥルエ(アンタはズルイ)!!」とやり返される。書き出したらキリがない。
 
 もちろんこれは、私が安宿(連れ込み宿)に泊まっていて、特にお行儀の悪いお姐さんたちを相手にしていたせいもあるだろう(実際、町の女の子たちはとても控えめで優しかった)。しかし、「もう二度と来るかあっ!」と毎夜誓っていた私が、2ヵ月後には近所中に見送られて「んでげな・いめたる(また来るよ)」と固い約束をして涙ながらに別れることになろうとは、思ってもいなかった。
 
 そして本当に次も訪れ、今や私はこの国が忘れられない大好きな国のひとつになっている。

 エルサレム。通称えるす。後にジョリーと改名するが、私はえるすと呼び続けている。

 彼女は典型的な<あばしゃ・せートゥ(エチオピアガール)」だ。エチオピア人の持つ善さ、悪さを全て持っている。エチオピアを語るとき、私はえるすを抜きにしては語れない。えるすは私といた2ヶ月の間に、みるみるイイ奴になっていった(というより、私が彼女のよさに気付いていった)。

 初めてえるすの働くブンナベット(レストラン兼バー兼連れ込み宿)に足を踏み入れた時から、えるすは、一番騒がしかった。

 「何で外人がそんな汚い恰好してるのよ!」
 
 「そのズタ袋!サンダル!むんとの(何なの)!(注:私は泥棒よけに泥棒が欲しがらないズタ袋に荷物をいれていた。加えて教養ある大人は、サンダルなど履かないものなので、えるすの言い分も尤もではある)」
 
 「うわっ!マッサージしてる!ばたんトゥルの(非常によいの意)!」
 「みわこ、むにえさらしの(何してるの)?」
 「みわこ、いえっと・てーじ・あれし(何処にいくの)?」
 「みわこ、ねい(来て)!むさ・いんにぶら(お昼一緒に食べよう)!!」
 
 雲雀もスズメもえるすのキンキン声には敵わない。レストランに来る客には、誰彼構わず抱きつく。断りもいれずに同席して勝手に食う(エチオピアの主食、インジェラは皆で一皿をわけて食べる形式なので、ウエイトレスが常連客に同席して一緒に食べるのはそんなに珍しいことではないと思われるが、よその店では見たことがない)。

 しかも私を引きずり出して、半ば強引に食わせる(もちろん代金は客持ちだ)。私のする按摩や折り紙、似顔絵書きやその他いろいろな日本の技を、客に披露したくてたまらないのだ。
 
 これらえるすの、いや、私に関わった全ての連中の、私にとっては迷惑極まりない一連の行為が実は善意からできていて、外国人との接し方を知らない彼らなりの精一杯の歓迎の表れだったとわかったのは、私が爆発したあとだった。

 もう出よう。
 さすがの私も堪忍袋の緒が切れた。
 朝早くから荷物の整理を始める。よし、出発準備完了だ。

 この町さえ、この宿さえ出れば今までの苦節の数週間は過去に変わる。もう二度と来るものか。

 私の旅装束を見たスタッフの一人が、びっくりして皆に知らせに走った。

 ----みわこが怒っている。

 彼らは本当に驚いたようだ。ブンナベットの一人ひとり(常連客含む)が、私の顔色を窺っている様子がひしひしと伝わってくる。

 「みわこ、ねい(おいで)!ブンナたったお(珈琲飲もうや)」
 「みわこ、ねい!くるすびぃ(朝ごはん食べなよ)」
 
 スタッフも常連客も、気をきかせて御馳走してくれる。
 
 「みわこ、あってーじ(行かないで)」
 「みわこ、あってーじ(行かないで)」
 
 言われるままに飲み食いしてしまい、非常に出ずらくなる。別れるタイミングがつかめない。バスを待つという口実でずっと座っていたが、出るに出られず、何台もバスをやり過ごしてしまう。
 
 そのうち、私の爆発を引き起こした娼婦(質の悪いイタズラをされたのだが、もちろんそれだけが爆発の原因ではない)を、えるすが連れてきた。
 
 「みわこ、ばたんいきるた(本当にごめんね)」
 
 えるすはどんな説得をしたのだろう。その娼婦さんは目いっぱいの愛情表現(頬にチュッチュッの嵐)をしながら私に謝ってくる。女性からそんなことをされても喜ぶ訳はないのだが。どう対応したらよいか硬直しながら考えているところで、じっとこっちを見ていたえるすと目が合った。えるすは私の目を離さず言った。
 
 「あってーじ(行かないで)。」

 .....出れる訳がない。最終のバスも見送ってしまい、そのまま一日がおわる。誰かが私の一旦まとめた荷物を、また部屋に戻してくれた。
 
 「よかったね。」
 
 ブンナベットの面々も、裏の食堂のお兄さん夫婦も、向かいのチョーブンナ(塩珈琲)屋のおばちゃん一家も、隣の雑貨屋さん親子も、みんなみんな喜んでくれた。

それからしばらく経った頃であろうか、私の呼び名が微妙に変わった。
「みわこいぇ」

 ....いぇ?腹痛で店を休んだえるすを見舞いに行って以来、えるすは私をこう呼ぶ。声色まで変わった。いつしかブンナベット中に広まり、皆が私を「みわこいぇ」と呼ぶようになった。
 
 私は(賢そうな人を選んで)訊いた。
 
 「いぇ~、むんとの(いぇ~って、何さ)?」
 ......‘いぇ’とは、ごく親しい人だけにつける言葉だそうだ。
 
 「さん」「ちゃん」とは格が違う、親愛にあふれた呼称だそうだ。
 
 このブンナベットに来て一ヶ月、ようやく私は、皆に心から受け入れられる人間になったのだった。

 えるすは少し変わった。キンキン声は相変わらずだが、<何をすればみわこは怒るのか><何をすればみわこは喜ぶのか>を学んだようだった。はじめは先頭切って仕掛けていたイタズラも、今では他のイタズラ坊主に食ってかかり、私を守るようになっていた。
 
 えるすの大袈裟なまでの客への対応も、著しい集客効果があったのだ。このブンナベットは、確かにヨソのブンナベットより繁盛していた。みなえるすの功績である。
 
 えるすは昼間の食事タイムのみの出勤で、娼婦ではないと知ったのも、仲直りをした後だった。えるすはいつもふざけているようで、実は仕事ができるのだ。

 18歳のえるすには、3歳の娘がいた。えるすの現在の旦那さんは娘の父親ではないので、娘は隣町の実家に預けていた。家へ遊びに行くと、えるすの母親も妹も旦那さんも娘っこも、みんな私を「みわこ」と呼んだ(いぇ、はまだ付かないが)。私はえるすのアパートに行ってはアパートの子供たちと遊び、抱き上げ、大家さんの家族にマッサージをし、ときには健康相談にのったりした。

 こうしてこの町は、私のたくさんある故郷のうちのひとつになった。

 当然離れるのもつらく、前述した通りの見送りつきで、涙ながらのお別れとなった。

 それから一年後、私はエチオピアに戻って来た。美味しいブンナ(珈琲)、インジェラ、喧しい歌謡曲、うるさい市民.....私にはどれをとっても心地よく(?)、懐かしい。

 えるすの、沢山の‘がでにゃ(友達)’のいるこの町に到着する。

 バスから降りて少しあるいただけで、ブンナベットの門番が数十メートル向こうから私を見つけ、叫んだ。「みわこー!」

 なっふぇかねし(懐かしい)!!
 えにゃ かたま(私の町)!!

 すぐに駆け寄り、抱き合って再会を喜んだ。

 ブンナベットの女主人は、少し先に更に大きいブンナベットを建てていた。裏の食堂兄さんのところも、大きくなっている。隣の店も、向かいの人も、みんなみんな達者でいる。

 えるすは.....?

 「赤ちゃんが生まれたよ。ふれってんにゃ りじねし(二人目も女の子だよ)」
 「......!!」

 二児の母になったえるすは、優しい笑みを浮かべていた。赤ん坊にお乳を与えていたえるすは、一年ぶりに突然訪れた私を心から歓迎してくれた。二人で料理をした。任されてブンナ(珈琲)を入れた。エチオピア珈琲は生豆を炒るところから始まるのだが、一人で入れられるようになったのも皆の手ほどきのお陰である。

 すっかり母性が備わったえるすの口ぶりは、もう子供のそれではなかった。落ち着いた大人の話し方になっていた(出産疲れもあっただろうが)。ブンナを飲み終わると、えるすは私に赤ん坊の命名を頼んできた。正式名はもう用意してあるから、学校などでの呼び名に、日本の名前が欲しいという。

 名前を複数持つのはここの習慣であるし、アフリカ諸国は1ヶ国で百ヶ国語を持つ多言語社会である。日本語で名前を付けても、さして浮いたりしないだろうと思い、快く引き受けた。

  ---みゆき。

 一晩考えてそう決めた。

 えるすの旦那さんの名前はミッキーだから、語呂も合う。私の大好きな歌手、中島みゆきさんから貰ったのだが、もちろん悲しい歌をつくってほしくて付けたのではない。中島みゆきさんのような素敵な女性に育ってほしいのだ(この国では、かなり難しいことだろう)。

 えるすは満足そうに、
 「みーい、ゆぅきぃ」
 「みーい、ゆぅきぃ」と彼女流の発音で繰り返した。

 この赤ちゃんの名付け親になった以上、私は、これから幾度もえるすを訪れることになるだろう。えるすとその家族をはじめ、アパートの住人たち、ブンナベットの仲間たちとその近所で働く面々.....。一度は縁を切ろうとしたこの町から、私は最早、抜け出せない。

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〈10〉ナイジェル ~精一杯の背のびをする将来のイギリス紳士

2006-05-18 12:49:02 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 ナイジェルはイギリス人だ。しかし“England”という言葉はあまり使いたがらない。“Great Britain”という言いまわしを好むスコットランド出身の(当時)二十三歳である。
 
 私はイギリスに行ったことがないので、イギリスの一般大衆がどんな人達なのか、よく知らない。勉強不足は認めよう。私にとって、旅行中に会ったイギリス人ひとりひとりと、赤毛のアン、そしてシャーロック・ホームズが私のイギリス人観の全てである。
 
 ナイジェルはその“旅行中に出会ったイギリス人”の中のひとりだが、顔を合わせる時間が長かった為、私のイギリス人観も中でも大きな割合を占めている。

 私達が最初に会ったのは、西アフリカ、モーリタニアの首都、ヌアクショットでだった。
 
 モーリタニアは国土の大部分がサハラ砂漠で覆われていて、旅行者の目に止まる楽しい見せ物は、砂漠以外にほとんどない。主にフランス方面からやってくる旅行者は、モロッコから南下し、モーリタニアは単なる通過点と見なしてすぐにセネガルやマリへと移動してしまう。

 私はそのモーリタニアの首都ヌアクショットに友人をつくり、しばしの間滞在していた。宿の近くの大きな木の下で魚をのせたぶっかけ飯屋の母子と、そこに屯(たむろ)する常連客としゃべるのが楽しくて、毎日遊びに行っていたのだ。御飯をおまけしてもらい、母親のはわ(恐らく私と大差ない年頃)に按摩をし、娘のまみに絵を描いてやる。はわ(ちょっと太めでゲラゲラ笑う、肝っ玉の予備軍)を混ぜた常連客相手に空手ごっこをし(はわは男相手に臆することのない、陽気な性格なのだ)、おしゃべりやら何やらで日が暮れる。
 
 近くに住んでいる韓国の漁師一家とも親しくなり、私の滞在予定は日一日と更新し続けていた。
 
 宿の親父に翌日出発する旨を告げ、大きな木の下の飯屋仲間に今日で最後と挨拶をする。韓国人一家のお宅へお別れに訪ねたつもりが何故か帰る時に「また明日」となり、翌日の約束をして宿に戻る。それが数日続くと私の「お別れ話」は日課となってしまい、いつしか周囲で誰も信用しなくなっていた。
 
 延長延長も最中にあった頃、ナイジェルがヌアクショットにやって来たのだ。
 
 ナイジェルと私は大部屋に二人しかいなかったので(それまでは私ひとりの貸切状態だった)、お互いよい話し相手になった。私のヘタな英語を、ナイジェルは嫌な顔をせずに聞いてくれた。そしてナイジェルは三日程この宿に泊まり、それからセネガル、マリ、ニジェール等々まわる予定だと、いろいろ書き込んだ地図を私に見せながら言った。私は、例によって、明日この町を出てマリに南下するつもりだと言った。「-それじゃ今日限りなの?」私「そう」「つまらないな。あと二泊して欲しいよ」--そんな会話をしたのを覚えている。
 
 結局私はその町を振りきれず、三日後に予定通りチェックアウトしていくナイジェルを見送ったのだった。

 ナイジェルに再会したのは、二ヵ月後だった。何とか砂漠の町ヌアクショットを抜けた私は、その後も行く先々で心地よい居場所をみつけ、なかなか移動できずにゆっくりゆっくり南下していた。三つ程、町を経由してブルキナファソの首都ワガドゥグに到着、そこで何日か町を歩き、知り合いもできた頃、偶然ナイジェルが私と同じ宿にやってきたのだ。
 
 驚くべき事に、私が三つの町でのんびり過ごしている間、ナイジェルは予定していたルートを全て通過し、四~五ヶ国をひと巡りしてブルキナファソに戻ってきた(既に一度通過済み)のであった。
 
 頭脳明晰なナイジェルはその二ヶ月の間に、フランス語旅行会話をかなりマスターしていた(私がかじったのは地元のバンバラ語の方なので、フランス語はからきしである)。覚えたてのフランス語で、一生懸命同じ宿のパリジェンヌ二人を口説こうとするその姿に私は、すっかり感心した。
 
 ナイジェルは、ワガドゥクには一泊だけして、翌朝、すぐに隣国ガーナに向かうと言った。私もガーナに行く予定だったので、同行する事にした。しかし、ワガドゥグはようやく楽しみはじめた町だったので、もう一泊しようと提案したのだが、ナイジェルは延泊するのをいやがった。
 
 「もう一泊したところで、同じ事の繰り返しじゃないか」
 
 ナイジェルの言う事も至極尤もだったので、まだワガドゥグに戻って来る事にして(まだ未練たっぷりなのである)、私にしては非常に稀な、予定に沿った慌ただしい出発となった。

 ここから私達の二人旅が始まる。

 考えてみれば、私は数日にわたってイギリス人と行動を共にした事はなかった。私は、イギリス人がどういう人種なのかを、知らなかったのだ。
 
 ブルキナファソの国境を越え、ガーナ領に一歩足を踏み入れてから、ナイジェルは一変した。
 
 まず、ナイジェルの顔つきが変わった。瞳はきらきらと輝いている。そうであろう、ガーナは西アフリカ周辺の国々と違って、イギリス統治国だったのだ。ナイジェルにとっては、自分の国に帰ってきたも同じなのだ。
 
 そして今まで必死に覚えてきたフランス語を、あっさり捨てた。ガーナの第一言語、チュイ語を話しはじめた訳では勿論ない。英語だ。それもうなづける。イギリス人がイギリスの国に帰ってきた(何でも以前、ガーナでボランティアをしていたらしい)のだから。
 
 バスの中でも、歩きながらでも、ナイジェルは何かを見つけると、すぐに自慢をする。
 
 ---道路事情が国境を越えてからよくなっただろう。イギリスは、道路整備には力を入れているんだ。
 
 ---見てごらん、本屋が至るところにあるだろう。イギリスが教育に重点を置いていたからなんだ。
 
 ---ほら、家具屋だ。ほかの国には、プラスチック製しか見なかったよな。
 
 ---パンも、紅茶も、ポリッジ(水や牛乳で溶いた粉もの。よく朝食に食す。私には食べた気がしない)も、今までのとは、違うだろう・・・・。
 
 確かにナイジェルの言う通りだ。私はうなづくしかなかった。かといって英国統治の方が優位だと同意した訳ではない。私は、文化の面でいえばフランス語圏の国の方がすきなのだ。
 
 ナイジェルはひとり夢中になっている。
 
 どんなにイギリス紳士を気どっている秀才でも、やはりまだ尻が青いな・・・幾分(多分?)年長の私は、はしゃぐナイジェルを見てほくそ笑んでしまった。
 
 ナイジェルと私の旅のスタイルは、まったく違っていた。数日間行動を共にしてよくわかった。私は地元チュイ語の挨拶をナイジェルから習っていたのだが、ナイジェルは普段チュイ語を使う事はなかった。
 
 フランス人旅行者と会い情報交換している時、私は頭の中にあるフランス語を使おうと試みたが、既に英語圏にいるナイジェルはフランス語が理解できるにもかかわらず、フランス語を発する事がなかった(これは相手のフランス人が男だったからかもしれないが)。
 
 私は何を買うときも値段交渉を試みる。高ければ買わない。ナイジェルは値引き交渉はするが、別にチップをやる事もあった(チップの習慣のない庶民の市場ででもだ)。
 
 ナイジェルの旅の師匠はガイドブックだ。彼のガイドブックにはあちこちに線が引いてあり、書き込みも多い。ガイドブックが危険だからいくなといえば、そのライン(路地)から先は決して越えない。宿も、ルートも、ガイドブックで紹介してある事例以外は全く冒険する事がなかった。

 私はいつもの旅、即ち現地人と親しくなる旅・・をする前に、今回は‘おべろに(チュイ語で外人),を観察するのに数日を費やしてしまった。

 これがイギリス人か。長い歴史のなかで他国を統治(侵略)し、奴隷とは常に一線を引き交わらない、誇り高い紳士なのか。
 
 ナイジェルは若い為、感情が表に出やすくよく観察をする事ができた。豊富な知識で精一杯背のびをしているが、感情面はまだコントロールできていないのだ(人の事はいえた義理ではないが)。それがおかしくて、つい正面きってプッと吹き出してしまうことがよくあった。

 ナイジェルとの二人旅は一週間と続かず、目的地が分かれたので私達は離れ、それぞれの地へと向かった。一人になった私は自分流の旅を再開し自分流に現地の友人をつくり、少しだけ解放感を味わったのであった。

 離れたからこそいえるのだが、ナイジェルは女の子の様にかわいかった。時々見せる、なよなよした仕草を見て、もし私が髭もじゃの大男だったら、きっとナイジェルを襲っただろうと思う程、白い、スベスベの肌をしていた。

 当然の事ながら、私達の間には旅友達以上の深いつながりが発生する事はなかったが、かわいい年下のイギリス青年に接して、ちょっぴりオノヨーコの気持ちがわかった様な気がした(ジョンさんヨーコさんごめんなさい)旅だった。

 果たしてナイジェルがこれから先、シャーロック・ホームズの様なイギリス人に成長していくのかどうか、実に興味深いところである。

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〈11〉レッドワン ~厳しい異境の地に生きる印僑モスリム

2006-03-21 23:16:47 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 アフリカ人には全般的に奴隷根性が備わっている。

 これが日本人の私には理解できない。

 彼らの体の中の細胞には、何世代にもわたって受け継がれてきた奴隷としての記憶が今でもしっかり根づいている。白人には敵わない。黒人にはごつい体格の大男がうじゃうじゃいるので、体力勝負だけだったら、歴史的にあんなにもやられる事はなかったであろう。
 
 白人に憧れる。写真屋はでき得る限り、黒い肌を白い肌に近づけて現像をする。仲間うちでもより黒い奴はからかわれる。
 
 少しお金に余裕が出来ると、縮れ毛を伸ばすことに専念する。金髪に染める輩も多い。
 
 旧宗主国の言葉(英語や仏語など)は、その国の公用語として使われる。百以上ある多言語社会を統一するには、これが一番、けんかにならない方法だ。
 
 そんなアフリカ人の妬みの矛先は、インド人やレバノン人などの、白人でない余所者だ。東南アジアで華僑が妬まれるように、勤勉で成功している余所者は、地元民から恨みもかいやすい。
 
 暴動があると、真っ先に襲撃される。コートジボワールで、暴動により店の一切合財を奪われ、数ヶ月経っても立ち直れないレバノン人に会った事もあった。
 
 私がナイジェリア北部で会った印度人(実際にはパキスタン出身)は、主に外国人と印度人(商売人だけでなく、出稼ぎ労働者もいる)相手の印度料理レストランをやっていた。
 
 レッドワン。それが、そのレストランのオーナーの名前だった。
 
 印度に延べ一年以上滞在していた私は、懐かしくて毎日のように遊びに行った。忘れかけていたヒンドゥー語(文字は別だが、発音はパキスタンのウルドゥー語とほぼ同じ)と覚えたてのハウサ語に苦心する私に、レッドワンはいつも(地元ハウサ式でない)印度のチャイ(ミルクティー)を入れてくれた。売り物ではないので、私は一度も支払いをした事がなかった。
 
 正直印度でベンガル語を使っていた私には、彼の話すウルドゥー語は非常に難解で、レッドワンの方にしても、私の言葉は方言だらけで、ほとんど理解できなかっただろう。
 
 しかし、私達には話題には尽きなかった。印度映画の話、印度料理の数々、そして異国に生活する者の経験談・・・。レッドワンには、印度の上流階級人にありがちな、ツンと澄ました雰囲気はなかった。周辺のハウサ人とも気さくに接する、温和な性格を持っていた。
 
 そして一度、暴動の時に暴徒に切りつけられたという腕の傷跡を見せてくれた。
 
 「今でも怖いよ」
 そう、ハウサ人のともに話しているのを聞いた事がある。
 
 レッドワンには奥さんと小学生の男の子もいるのだ。家族の安全を考えたら、ナイジェリアは決して住みやすい国ではないだろう。
 
 ある日、役人がレッドワンの店に来た。
 
 レッドワンと話をしていたが、店内にいる私に気がついて、こっちにやってきた。パスポートの提示を求められる。役人は私の想像どおり、難しい顔をして私のパスポートに難癖をつけ始めた。私は平静を装ってはいたが、はらわたは熱く煮えくり返っていた。
 
 結局、役人はケチをつけるだけつけると、賄賂の要求をする事もなく、店を出ていった。無事で済んだのは、レッドワンのお陰かもしれない。レッドワンは終始にこやかに、誠意をもって、こうるさい役人に対応していたのだ。
 
 そもそも役人がレッドワンの店に来たのも、恐らくたいした用事ではあるまい。私のみたところ、こうやって役人が来るのは日常的な事のようだった。そしてレッドワンの対応の様子は、完全に慣れていたそれだった。
 
 暴動や内戦、地元民の妬みに役人の嫌がらせ・・・ レッドワンは様々な圧力の中で、このナイジェリアを生き抜いてきたのだ。レッドワンは、一家でアメリカに移住する計画があると言った。いつになるかわからないが、準備をすすめているという。そういえば彼の小さな男の子は、母親(細見の控え目な笑顔を見せるパキスタン美人だった)との会話に母国語のウルドゥー語ではなく、英語をつかっていた。上流階級にはよく見られる傾向だが、これも異国で暮らすための、レッドワン夫妻の知恵なのだろう。

 出発する前日、レッドワンの店に挨拶に行った。最後くらい路上の屋台でなく、レッドワンの印度料理で散財しようと思ったが、またご馳走されてしまい、とうとう一度も支払う事ができなかった。

 新しく雇ったネパール人(バラモン特有の整った顔立ちをしている)のシェフと共に新作メニューを練るレッドワンに、モロッコで買った料理雑誌(フランスからの流れ物なので、質は非常に良い)を今までのお礼に渡した。これしか喜びそうな物がなかったからだが、正解だったようだ。

 私はいつかこの町に戻って来ると言った。

 レッドワンとしては、できることなら、すぐにでも移住したいと思っているだろう。私が戻ってきても、もう会う事もないかもしれない。

 しかしたとえ会えなくても、私は、ナイジェリアであった思い出深いパキスタン人として、地元の人にも親しまれるレッドワン一家の三人を忘れる事はないだろう。

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〈12〉梅花(メイファ) ~隣国ラオスで商売するたくましい中国人たち

2006-03-20 23:17:46 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 私は中国大陸には何度か行っている。
 
 私は中国に一歩入れば中国人だ。多少発音は悪くても(日本時の話す北京語は、えてして南方訛りに近い)、普通語(北京語)も満足に話せない田舎者として扱われる。切符を買うときも(ひと昔前まで外国人料金制度があった)、市場で買物をする時も、中国の衣類に身を包み、人民らしい風貌の私を誰ひとり日本人としては見ない。初めての町で、道を訊かれる事も良くあった。
 
 そんな私は、東南アジアでもアフリカ大陸でも中国人(大陸人、台湾人、華僑)には親切を受け、非常にお世話になった。今でも、もらった恩の数々は忘れていない。
 
 梅花は、ラオスで商売している中国人のひとりだった。私はラオスでは、ラオ人社会とともに中国人社会にも出入りをしていたので、市場では一緒に座り込んで物を売る中国人の手伝いをした事が何度かある。梅花は、中でも一番の仲良しだった。彼女とともにゴザを敷いて座っていると、中国人の目から見たラオスというのが実によく観察できたのだった。
 
 一般に、ラオスで中国人に「今何時?」と訊くと、「北京では3時、ラオス時間では2時だよ」という答えが返ってくる。最初は梅花だけかと思ったが、たまり場の中国飯店の壁時間(これは後に地元の警察により現地時間に直された)をはじめ、全ての中国人の腕時計が北京時間で合わされていた。中国人は、ラオスに来ても中国の時間で生活しているのだ。
 
 梅花のラオ人に対する物の売りつけ方は、それはひどい。梅花に限った事ではないが、彼女のは、よりひどい。商品の陳列などには構わない。古くなって汚れた商品があっても、売れるまでは新しくて綺麗な商品は出さない。見るだけ、値段をきくだけの輩には、わざと高い値をつけて追い出す。「きくだけきいて、買わないのは邪魔だ」と言いたて蹴散らす事もある。
 
 祭りの出店となると、怒鳴りつけながら売りつけている感じだ。客を客とも思わないのは中国大陸でも同じだが、ラオ人を相手にしていると、いっそう拍車がかかっているようだ。
 
 中国語で四はスー、十はシュー(舌巻音だが湖南省出身の梅花の発音はやや違う)というが、ラオ語では四はシー、十はシップである。梅花はラオ語で十の発音がうまくできない為、一万(10千、シッパンという言い方をよくする)というところを、よく中国風に”しゅーぱん”と言っていた。これがラオ人には”四千”といっている様に聞こえる。
 
 「四千キップ(ラオスの貨幣単位)だって、安~い!」呑気なラオ人が嬌声をあげる。「四千(しーぱん)じゃなくて十千(しゅーぱん)やあ!」
 
 両手を広げてみせて喚く梅花。見ている私には”快玩笑(冗談)”以外の何ものでもないが、梅花は真剣に、ラオ人に腹を立てていたのだった。
 
 梅花達中国人商売人は、護照(パスポート)を持ってラオスに入国するのではない。大部分の商人は、入国証のような紙切れ(七日間の滞在許可がある)にスタンプをもらい、その後は延長を繰り返しながらラオスと故郷を行き来している。
 
 ほとんど湖南省の出身者か泰族(泰族の言葉とラオ語では、口語はほぼ同じだ)である為、彼ら同士の結束は固い。ラオスの華僑とも多少のつきあいはあるようだが、大陸人同士の結びつきの方がより強いように私には見えた。
 
 梅花は私にはとても親切にしてくれた。笑みをたやさず、色々なおしゃべりをした。梅花は中国に残っている家族をとても大切にしている、人のよいおばさんだった。
 
 しかし、ラオ人に対しては温かくはなかった。
 
 ラオスで会った、ある日本人旅行者にこれらの話をした。その男性は言った。
 「中国人は、ラオスを、独立した国とは思ってないんだよ」
 
 なるほど。その通りだ。国と思ってないからこそ、中国に一部のように思っているからこそ、パスポートはいらないのだ、中国の時間で暮らせているのだ。中国人にとって、ラオスの国民は山の蛮族に過ぎないのだ。
 
 中国の性根が悪いのではなく(これには諸説あるだろうが)、単に価値観の違いなのである。私は梅花が好きだ。中国飯店に出入りしている中国人も、そこの老板(主人)一家も、名前を呼びあい、按摩をし、彼らの晩餐にもつきあう仲である。
 
 そして私はラオ人のことも大好きだ。素朴で呑気な山の民。彼らの友好的な態度に私はすっかり浮かれて、村々を歩きまわり、家に入って按摩をし、ラオスの焼酎、ラオラオ(アルコール分が八十パーセントあるという)に酔い、歌って踊って毎日を過ごしていた。
 
 しかし、中国人がラオ人を蔑み、ラオ人が中国人を嫌う。これは、私がどうしたって、解決できるものではない。日本人観光客の間に入る事さえ滅多にない私なのだ。どうして異国間の仲介に入る事ができるだろう。
 
 ただの一観光客、いち按摩師でもいいか。もう一度、ラオスに帰ろう。
 
 そして、ラオ人社会に、中国人社会に入って、懐かしい旧友に再会する事が、私のラオスに帰る目的である。

 国籍など関係なく、ラオスには、たくさんの友達と、笑顔が待っているのだ・・・。

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〈13〉かおり姐 ~留守中に見事な変身を遂げた素敵な日本の女性

2006-03-19 23:20:17 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 先日、かおり姐に会った。

 かおり姐は旅行中に出会った友人ではない。この旅行記にはそぐわないかもしれないが、旅行前からの古い友人で、今も変らぬ交友を続けている。

 そして、旅行中に非常にお世話になった人でもあるのだ。かおり姐は六年以上も、私の荷物を預かってくれていたのである。
 
 七年前、私達は同じ職場の仲間だった。五歳年上のかおり姐は私にとって人生の先輩であり、よき相談相手でも会った。私達は他の仲間たちと共に昼食を食べ、時には仕事のあとに揃って外食に出かける事もあった。かおり姐は常に先頭に立ち、皆のまとめ役になっていた。

 当時は仲間のほとんどが独身で二十代、年長のかおり姐も独身で、生涯結婚することはないと公言していた。そのキャリアウーマンぶりが、私にはとても魅力的に見えた。

 私が仕事を辞め、旅行の準備をしていた頃、かおり姐が荷物の保管を申し出てくれたのだ。部屋を空けてしまった私にはとても有難く、かおり姐の気持ちに感謝し、あまえてしまった。たくさんの人の気持ちを受けて、私は、旅に出発した。
 
 旅行に出て一年半後、私は一時帰国をした。十日間の短期滞在中に、かおり姐と会う機会を作った。

 かおり姐は結婚していた。
 幸せそうな笑みを浮かべ、この一年半の間に起こった事を報告してくれた。

 私が旅に出た直後に夫となる人と知り合い、相思相愛の仲になり、すぐに結婚を決意したという。彼の方もかおり姐の意志をとても尊重してくれ、大きな問題もなくすんなり家庭にはいれたという。

 私はかおり姐の変わりように目をみはった。以前の仕事師ぶりは微塵もなく、家庭を守る主婦の姿がそこにはあった。一生、独身を貫くのではなかったのか。仕事に生きるのではなかったのか。会う前に抱いていた疑問はかおり姐の誇りに満ちた笑顔をみていたら、自然に消しとんでしまった。なんだかこっちまで結婚してしまった様な、幸せな気分になってしまった。
 
 その時、かおり姐は、赤ちゃんができたかもしれないと秘密めいた口調でいった。
 --まだわからへんけどね。心配するといけないから誰にも言うてへんねん。
 
 刺激になっては困ると思い、按摩をするのはやめてひたすら話す事に没頭していた。
 
 私は、次の帰国後に会うのを楽しみ、再度、日本を発った。

 私は旅行中はあまり連絡をとらない。Eメールや手紙を書いたりはするが、電気事情や郵便事情がよくなかったらそれまでだ。それに加え、私の旅行中の時間の流れと日本で生活する人達の時間の流れは、決定的に違う。現地の生活をする私と日本の家庭を守るかおり姐の間には、連絡をとる手段が、全くといっていいいほどなかった。
 
 私はかおり姐のお腹にいた小さな粒がどうなったかのさえもわからず、期待と心配をおりまぜて、数年経ってから帰国した。
 
 帰国して、大阪に戻ってすぐ、かおり姐と再会した。
 
 かおり姐のお腹にいた小さな粒は、四才の元気な女の子になっていた。よく笑い、よくしゃべり、大きな声を出しながら家中を走り回る。なんとその女の子には妹までできていた。初めて見る私に人みしりをして、離れたところからじっとこちらを窺っている。

 かおり姐は、以前にも増して、立派な主婦となり、お母さんになっていた。

 幾度か会ううちに人みしりの激しかった下の女の子も私に懐くようになり、「シブちゃん、シブちゃん」と呼ばれながら一緒に公園を走り回るようになった。子供の相手をするのに慣れていない私には重労働であったが、かおり姐はでんとして上手に遊び相手をしていた。

 私が日本にいなかった五年十ヶ月の間、ほとんどの旧友たちは生活を変えていた。結婚した友人、出産した友人、離婚した友人、それら全部を済ませてしまった友人、孫ができた年上の友人もいる。音信不通になったしまった友人も少なからずいた。

 その中でもかおり姐は、見事なまでに変身した友人のひとりだ。私の出国時にもっとも心配してくれた仲間のひとりであるかおり姐。そんなかおり姐の幸せな顔をみるのは、とてもうれしいものだ。
 
 以前は同じ職場の仲間だったかおり姐。現在は私と両極端の位置にいるかおり姐。

 私がかおり姐の人生をとても敬意をもってみている様に、かおり姐の方も私の行動を意味ある事とみていると、私は、思っている。

 私たちの交友は、すでに親子二代にわたって続こうとしているのだ。

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〈14〉スイートと南さん ~カレン難民に、知と希望を与えつづける夫妻

2006-03-18 23:21:08 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 スイートは、もともとカレン難民だ。

 ビルマ(ミャンマーよりこの国名の方が親しまれている)からの独立を宣言しているカレン族は、半世紀もの長い間、ビルマ政府と戦争を続けている。

 戦禍を逃れて隣国タイに逃げ込むカレン族も多い。外交上手なタイの国内には、数多くのカレン族難民キャンプがある。

 スイートは以前難民キャンプで生活していた。キャンプ内で教育を受け、カレン語だけでなくビルマ語、タイ語、そして英語を覚えた。その後タイ国籍を取得し、今はタイ側の国境の町に移り、難民のためのNGO(アメリカ出資)で働いている。

 その頃、私はカレン難民のための無料診療所に通って、入院患者さんに按摩をしていた。そしてボランティア仲間の紹介で、スイートと知りあった。

 スイートの語学力は確かだった。カレン訛りはあるものの、ビルマ語やタイ語も流暢に話す。英語にいたっては他のキャンプ出身の学生達より格段にうまい。それで、彼女は訪れる外人ボランティアにとってよい通訳となり、結果白人の友達を沢山持っていた。

 しかし、スイートは主に欧州の人が多いボランティアの中でも、特に日本人が好きなようだった。難民キャンプや診療所に来るボランティアや見学者の中で、日本人を含むアジア人の割合は、とても少ない。それなのに、日本人に好意をもつスイートを不思議に思う私に、スイートは理由を教えてくれた。スイートには、日本人の恋人がいたのだった。

 名前を南さんといった。

 スイートに紹介されて初めて対面した時、彼はアメリカの大学で民主主義について研究している学生だった。明るく快発で、事あるごとに大きな声で笑う感性豊かなスイートと対照的に、南さんは寡黙で感情の起伏が少なく、優れた頭脳を用いて、常に落ち着いた口調でモノを語る、知性あふれる学者といった風情だった。私には、当初、こんなにも性格の違う二人が、どうして仲良くやっていけるのか不思議でならなかった。

 しかし、南さんは、初めに抱いた印象とは違う人物であったようだ。一見冷静に見える彼も、話し始めると饒舌になった。豊富な知識と洞察の中に、情熱とユーモアが混ざる。いかにも可笑しそうに、かん高い声でゲラゲラ笑う事もある。南さんがしていた託児所のボランティアへ見学に行くと、小さな子供相手に身ぶりも大袈裟になり、子供達にとても人気があった。

 数十キロに及ぶ大量の蔵書をアメリカから持ち寄り研究に耽る傍ら、スイートに自慢の料理を振る舞ってやり、家事をこなし、スイートを大事にあつかう。遊びに訪れた私の目を気にせず、二人ではしゃぐ姿に、私の方が目のやり場に困った事もあった。

 当時の南さんは研究とスイートのために年に数回タイを訪れ、あとはアメリカで勉学を重ねていたようだ。

 診療所での按摩のボランティアを終え、旅を再会してからも私はスイートとメール通信を続けていた。

 そして、タイを離れて一年以上経った頃、スイートと南さんが結婚をしたという知らせのメールを受け取った。早速、私は祝いのカードを送った。しかし、二人が結婚をして、どういう生活を始めたのか、私は訊いていなかった。実際に二人に再会する直前まで、深く考えていなかったのだ。

 スイートと南さんのいるその国境の町に、私が帰ってきたとき、既に四年の歳月が過ぎていた。懐かしい友人達は皆、成長していた。年若く結婚してしまうカレンの人達は、私より大分年下であるにもかかわらず、すでに家庭をつくり、子供をもうけていた。
 
 その町も大きくなっていた。沢山のボランティアが国の内外から押しよせて来ている為、彼らのためのゲストハウス(安宿)や洋食レストランが増えていた。その収入のおかげで町はうるおい、道路も整備され、新しい建物が増えていた。四年前は町中を歩き回っていた私が道に迷ったぐらい、町は変っていたのだ。
 
 未明にバスが到着し、迷って三時間ほど歩いて探してようやく昔の常宿に辿り着いたが、宿はお洒落なレストランになっていた。オーナーは変っていなかったので中に入れてもらい、仮眠をとっていた私のところに、スイートがスクーターに乗って迎えにやって来た。四年ぶりの再会・・・!私は夢うつつでスイートの手を握って、目をこすりながら再会を喜んだ。常宿がなくなってしまったのでスイートのところにやっかいになる事にした私は、スイートの家に着いて仰天した。
 
 スイートと南さんは、以前の家から引越しをして、大きな家に住んでいた。二人は、ただ新婚生活を楽しんでいた訳ではなかった。アメリカでの研究を終え、タイに拠点を移した南さんは、スイートと暮らす家に、十数人のカレンの若者を一緒に住まわせ、彼らに教育を施していたのだった。
 
 その教育は、難民に英語を教える白人ボランティアのレベルではない。本格的な英語の試験を受けさせ、国際社会で通用できる程のハイレベルな英語教育だったのだ。
 
 さらに南さんは、あらゆる交渉のテクニックから民主主義とは何かについて、さらには日常生活の取り引き(難民キャンプで生まれ育ったカレンの若者達は、簡単な支払いや銀行の活用術、交友術や処世術などに明るくない)まで教えこもうとしているのだった。
 
 南さんは、ビルマ政府との戦いに嘆き悲しみ、それを訴えては国連の援助を当てにするカレンの人々の暮らしを、根底から変えようとしているのだ。
 
 カレン族の問題は、カレン族自らの手で解決しなければならない。

 そのためにはカレンの人たちに知識を植え付け、やればできるという自信をつけさせる事が大切なのだ。長老の意見を最優先し、奥手で謙虚を美徳とするカレンの社会に生きる若者達に、自信をつけされるのは生易しい事ではない。南さんとスイートの力では、及ばないほど道は遠いのかもしれない。

 カレン難民の為のNGOは数多くあるが、その出資者である白人達は、かわいそうにという慈悲の念だけで、本気でカレン社会を立ち直らせようとは思っていない。現状維持で満足しているのだから、誰も南さんに手を貸そうとする人がいないのだ。
 
 南さんの、カレン社会に対する言葉は厳しい。南さんによると、カレン族の大半を占めるキリスト教も、カレンの女性達の得意とする手織りの布も、はてはカレン文字にいたるまで、全ては白人の宣教師によってもたらされたものだそうだ。<布教>の一念だけでカレンの言葉を覚え、文字を発明し、聖書を訳したその白人宣教師の行いは確かに尊敬に値する。一世紀近くも愛読されているカレン語訳の聖書は、しかし未だに、誤字、誤訳が直されず、そのままになっているという。
 
 ほとんどのカレン族の人達は、誰しも身内をビルマ軍の襲撃によって殺されている。スイートももちろんその一人だし、私も、地雷で足を失った人たちを日常的に見ている。家を一度ならず焼きうちにされる事も珍しくない。どこのカレン人をつかまえても、皆、ビルマ軍とビルマ政府に対する憎しみの言葉を吐く。子供達は難民キャンプでそれを歴史として教わり、英語ができるようになると、それを外人に訴える事に懸命になる。難民を受け入れている西洋諸国(日本も含む)に、既に移住しているカレン人も大勢いる。
 
 「このままでは先に進めません」南さんは熱っぽく語る。

 「悲観して、訴えて、助けを求めるだけでは、何の解決にもならないんです。彼らが自分達で情勢をつかみ、交渉して、自分達の運命を切り拓いていかなければいけないんです」

 私財を投じ、どこからの協力もなく、独力で奮闘している南さん。情熱にあふれた南さんは、私の見たことのなかったもうひとつの南さんの顔であった。スイートは、その南さんの妻として、またカレンの若者の師範として、「だらむ(カレン語で先生)」と呼ばれる存在となっている。

 南さんのしていることは、<男の夢>だと私は思った。南さんの<男の夢>を背負ったカレンの若者達が、将来、カレン社会をどう変えていくのか、長老や国連やスーチー女史に頼らず、どんな未来を切り拓いていくのか、私は按摩以外、役に立つことはないかもしれないが、これからも、ずっと見守っていこうと思っている。

 南さんを。
 スイートを。
 カレン社会を。

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