ナイジェルはイギリス人だ。しかし“England”という言葉はあまり使いたがらない。“Great Britain”という言いまわしを好むスコットランド出身の(当時)二十三歳である。
私はイギリスに行ったことがないので、イギリスの一般大衆がどんな人達なのか、よく知らない。勉強不足は認めよう。私にとって、旅行中に会ったイギリス人ひとりひとりと、赤毛のアン、そしてシャーロック・ホームズが私のイギリス人観の全てである。
ナイジェルはその“旅行中に出会ったイギリス人”の中のひとりだが、顔を合わせる時間が長かった為、私のイギリス人観も中でも大きな割合を占めている。
私達が最初に会ったのは、西アフリカ、モーリタニアの首都、ヌアクショットでだった。
モーリタニアは国土の大部分がサハラ砂漠で覆われていて、旅行者の目に止まる楽しい見せ物は、砂漠以外にほとんどない。主にフランス方面からやってくる旅行者は、モロッコから南下し、モーリタニアは単なる通過点と見なしてすぐにセネガルやマリへと移動してしまう。
私はそのモーリタニアの首都ヌアクショットに友人をつくり、しばしの間滞在していた。宿の近くの大きな木の下で魚をのせたぶっかけ飯屋の母子と、そこに屯(たむろ)する常連客としゃべるのが楽しくて、毎日遊びに行っていたのだ。御飯をおまけしてもらい、母親のはわ(恐らく私と大差ない年頃)に按摩をし、娘のまみに絵を描いてやる。はわ(ちょっと太めでゲラゲラ笑う、肝っ玉の予備軍)を混ぜた常連客相手に空手ごっこをし(はわは男相手に臆することのない、陽気な性格なのだ)、おしゃべりやら何やらで日が暮れる。
近くに住んでいる韓国の漁師一家とも親しくなり、私の滞在予定は日一日と更新し続けていた。
宿の親父に翌日出発する旨を告げ、大きな木の下の飯屋仲間に今日で最後と挨拶をする。韓国人一家のお宅へお別れに訪ねたつもりが何故か帰る時に「また明日」となり、翌日の約束をして宿に戻る。それが数日続くと私の「お別れ話」は日課となってしまい、いつしか周囲で誰も信用しなくなっていた。
延長延長も最中にあった頃、ナイジェルがヌアクショットにやって来たのだ。
ナイジェルと私は大部屋に二人しかいなかったので(それまでは私ひとりの貸切状態だった)、お互いよい話し相手になった。私のヘタな英語を、ナイジェルは嫌な顔をせずに聞いてくれた。そしてナイジェルは三日程この宿に泊まり、それからセネガル、マリ、ニジェール等々まわる予定だと、いろいろ書き込んだ地図を私に見せながら言った。私は、例によって、明日この町を出てマリに南下するつもりだと言った。「-それじゃ今日限りなの?」私「そう」「つまらないな。あと二泊して欲しいよ」--そんな会話をしたのを覚えている。
結局私はその町を振りきれず、三日後に予定通りチェックアウトしていくナイジェルを見送ったのだった。
ナイジェルに再会したのは、二ヵ月後だった。何とか砂漠の町ヌアクショットを抜けた私は、その後も行く先々で心地よい居場所をみつけ、なかなか移動できずにゆっくりゆっくり南下していた。三つ程、町を経由してブルキナファソの首都ワガドゥグに到着、そこで何日か町を歩き、知り合いもできた頃、偶然ナイジェルが私と同じ宿にやってきたのだ。
驚くべき事に、私が三つの町でのんびり過ごしている間、ナイジェルは予定していたルートを全て通過し、四~五ヶ国をひと巡りしてブルキナファソに戻ってきた(既に一度通過済み)のであった。
頭脳明晰なナイジェルはその二ヶ月の間に、フランス語旅行会話をかなりマスターしていた(私がかじったのは地元のバンバラ語の方なので、フランス語はからきしである)。覚えたてのフランス語で、一生懸命同じ宿のパリジェンヌ二人を口説こうとするその姿に私は、すっかり感心した。
ナイジェルは、ワガドゥクには一泊だけして、翌朝、すぐに隣国ガーナに向かうと言った。私もガーナに行く予定だったので、同行する事にした。しかし、ワガドゥグはようやく楽しみはじめた町だったので、もう一泊しようと提案したのだが、ナイジェルは延泊するのをいやがった。
「もう一泊したところで、同じ事の繰り返しじゃないか」
ナイジェルの言う事も至極尤もだったので、まだワガドゥグに戻って来る事にして(まだ未練たっぷりなのである)、私にしては非常に稀な、予定に沿った慌ただしい出発となった。
ここから私達の二人旅が始まる。
考えてみれば、私は数日にわたってイギリス人と行動を共にした事はなかった。私は、イギリス人がどういう人種なのかを、知らなかったのだ。
ブルキナファソの国境を越え、ガーナ領に一歩足を踏み入れてから、ナイジェルは一変した。
まず、ナイジェルの顔つきが変わった。瞳はきらきらと輝いている。そうであろう、ガーナは西アフリカ周辺の国々と違って、イギリス統治国だったのだ。ナイジェルにとっては、自分の国に帰ってきたも同じなのだ。
そして今まで必死に覚えてきたフランス語を、あっさり捨てた。ガーナの第一言語、チュイ語を話しはじめた訳では勿論ない。英語だ。それもうなづける。イギリス人がイギリスの国に帰ってきた(何でも以前、ガーナでボランティアをしていたらしい)のだから。
バスの中でも、歩きながらでも、ナイジェルは何かを見つけると、すぐに自慢をする。
---道路事情が国境を越えてからよくなっただろう。イギリスは、道路整備には力を入れているんだ。
---見てごらん、本屋が至るところにあるだろう。イギリスが教育に重点を置いていたからなんだ。
---ほら、家具屋だ。ほかの国には、プラスチック製しか見なかったよな。
---パンも、紅茶も、ポリッジ(水や牛乳で溶いた粉もの。よく朝食に食す。私には食べた気がしない)も、今までのとは、違うだろう・・・・。
確かにナイジェルの言う通りだ。私はうなづくしかなかった。かといって英国統治の方が優位だと同意した訳ではない。私は、文化の面でいえばフランス語圏の国の方がすきなのだ。
ナイジェルはひとり夢中になっている。
どんなにイギリス紳士を気どっている秀才でも、やはりまだ尻が青いな・・・幾分(多分?)年長の私は、はしゃぐナイジェルを見てほくそ笑んでしまった。
ナイジェルと私の旅のスタイルは、まったく違っていた。数日間行動を共にしてよくわかった。私は地元チュイ語の挨拶をナイジェルから習っていたのだが、ナイジェルは普段チュイ語を使う事はなかった。
フランス人旅行者と会い情報交換している時、私は頭の中にあるフランス語を使おうと試みたが、既に英語圏にいるナイジェルはフランス語が理解できるにもかかわらず、フランス語を発する事がなかった(これは相手のフランス人が男だったからかもしれないが)。
私は何を買うときも値段交渉を試みる。高ければ買わない。ナイジェルは値引き交渉はするが、別にチップをやる事もあった(チップの習慣のない庶民の市場ででもだ)。
ナイジェルの旅の師匠はガイドブックだ。彼のガイドブックにはあちこちに線が引いてあり、書き込みも多い。ガイドブックが危険だからいくなといえば、そのライン(路地)から先は決して越えない。宿も、ルートも、ガイドブックで紹介してある事例以外は全く冒険する事がなかった。
私はいつもの旅、即ち現地人と親しくなる旅・・をする前に、今回は‘おべろに(チュイ語で外人),を観察するのに数日を費やしてしまった。
これがイギリス人か。長い歴史のなかで他国を統治(侵略)し、奴隷とは常に一線を引き交わらない、誇り高い紳士なのか。
ナイジェルは若い為、感情が表に出やすくよく観察をする事ができた。豊富な知識で精一杯背のびをしているが、感情面はまだコントロールできていないのだ(人の事はいえた義理ではないが)。それがおかしくて、つい正面きってプッと吹き出してしまうことがよくあった。
ナイジェルとの二人旅は一週間と続かず、目的地が分かれたので私達は離れ、それぞれの地へと向かった。一人になった私は自分流の旅を再開し自分流に現地の友人をつくり、少しだけ解放感を味わったのであった。
離れたからこそいえるのだが、ナイジェルは女の子の様にかわいかった。時々見せる、なよなよした仕草を見て、もし私が髭もじゃの大男だったら、きっとナイジェルを襲っただろうと思う程、白い、スベスベの肌をしていた。
当然の事ながら、私達の間には旅友達以上の深いつながりが発生する事はなかったが、かわいい年下のイギリス青年に接して、ちょっぴりオノヨーコの気持ちがわかった様な気がした(ジョンさんヨーコさんごめんなさい)旅だった。
果たしてナイジェルがこれから先、シャーロック・ホームズの様なイギリス人に成長していくのかどうか、実に興味深いところである。