海を渡るシブタ

5年10ヶ月に渡るシブタの足あと~アジア・アフリカ版~

〈8〉リキシャじお ~悲しい別れとなった期待の少女

2006-07-18 12:22:09 | 海を渡るシブタ活字版オリジナル
 その少女の名前はよく覚えていない。
 
 私は会った人にはすぐ名前を尋ねる事にしているのだが、筆記具が手元になくて記録しそびれると、すぐに忘れてしまう質なのだ。それでも何度も顔を合わすうちに自然と覚える人はいるのだが、その少女に限って、今は思い出せない。
 
 じきに思い出すことを期待して、本当に申し訳ないことだが、オリーヤ語で少女の意味をもつ<じお>とここでは呼ぶことにする。

 じおは印度のオリッサ州の町に住む子供だった。初めてじおを見たとき、私はてっきり少年かと思っていた。じおは10歳ぐらいの子供でありながら、リキシャ(自転車で引っぱる人力車。印度の一般的な交通手段)を引いていたのだ。

 ニコニコしながら私と言葉を交わす。短髪にズボン、印度の少女にしては考えられないボーイッシュな恰好に加えて大人でも重労働のリキシャわら(リキシャ引き)だ。私は初めて見るタイプの印度人に、すっかり度肝を抜かれた。俄然、この少女に興味が湧いた。
 
 以来、町で姿を見かけるたびに、私はじおに声をかけるようになった。私が気付かない時でも、じおの方から私に挨拶をしてくれた。突っ込んだ話をしたことはなかったが、じおのクリクリした丸い目とさわやかな笑顔は、会うたびに私に爽快感を残した。

 前にも書いたが、印度、とりわけ貧しいこのオリッサ州は、男尊女卑の徹底した地域である。女と生まれたからには、家の中に閉じこもり、社会と接点を持たず、大事に育てられなければならない。貧しい家でも、仮に働くにしても、それなりの規制はある。男と同じ服装をしてリキシャを引くなど、いくら子供といえども常識ハズレの御法度である筈だ。

 当然、じおの周辺には男友達しかいなく、スカートをはいた同年代の少女達がじおと一緒に居る所など、全くと言っていいほど見たことがなかった。

 この娘は、将来、どんな大人になるのだろう。

 印度の常識を破り、社会の秩序をいい意味で根底から覆すような、強烈な人間になるのだろうか。髪型は、着る物は、仕事は、そして結婚は、どういう基準で選ぶのだろうか。この娘の家族は、そして周りの市民たちは、この娘に対してどんな反応をするのだろうか。

 そしてこの娘が成長して、いつか壁に当たったとき、私は人生の先輩として同じ女性として、何か手助けができるだろうか・・・。

 印度を離れ、アフリカ大陸にいた時でも、私は事あるごとにじおを思い出し、彼女の成長を見るのをとても楽しみにしていた。

 1年9ヶ月後、私は沢山の期待と再会の喜びに身をつつませ、アフリカ大陸から印度のオリッサ州に戻ってきた。「マッサージDiDiあしちろ(マッサージ姐ちゃんが帰ってきた)」皆が驚き喜び、迎えてくれた。
   
 「DiDi、もいら ほいちぇ(姐ちゃん、汚くなったなあ)!!」
 
 飛行機で、というより、印度に着いてからの列車の普通座席で二晩過ごしたお陰で、私はすっかり汗と垢まみれ(隣席の分ももらってると思う)になってしまっていた。
 
 「トゥミ、ぶら ほいちぇ(アンタは老けたよ)!」
 私もやり返す。
 
 こんな具合で数週間かけ、私はその町の知人友人にひと通り顔を見せた。しかし、じおの姿を見ることはなかった。じおは思春期だ。容貌がすっかり変わってしまったとしても、何の不思議もない。私は、その変わり様を期待して帰って来たのだ。

 いつになってもじおに会う機会がなかったので、ある日、私は馴染みの友人に聞いた。

 リキシャじお こんこるちょ(リキシャじおは、何をしているの)?
 「もれぎゃっちぇ(死んだよ)」
 
 私は耳を疑った。
 
 まだ12、3の年頃の少女である。リキシャを引いていたほどのエネルギッシュなじおだ。死ぬなんて、そんなはずがない。何度も何度も質問を繰り返し、ようやくじおがエイズで死んだことがわかった。じおは体を売っていたのだ。私と知り合った頃からずっと。
   
 じおは相手が大金を持つ白人観光客であろうが、小銭をつかんだ食堂の男であろうが、構わず誰とでも寝ていたのだという。おそらく数ドルにしかならない時もあったろう。あの少年のような恰好をした華奢な少女は、町の男たちの慰みものになっていたのだ。
 
 「えた、みったかた(それは嘘だ)」
 私は信じなかった。
 
 「しょっとかた(本当だ)」
 話をしてくれたその友人は言った。
 
 「あまる ぼう できちぇ(俺の母さんが見たんだ)。夜中に泣き叫ぶ声が聞こえたんで、心配して見に行ったんだ。」
 
 その時、じおは白人の住む部屋に、白人と二人でいたという。友人の母は事を理解して、黙ってその場を離れた。「アンタもあの娘を買ったのか」八つ当たりと知りながらも、自然と私の声は詰問調になる。
   
 「そんな事はしない」
 友人は反論する。
 
 「俺は何度もあの娘に言ったんだ。体を売るのはやめろって....」
 
 エイズに感染し、発病したじおは日に日にやせ細り、見るに耐えなかったと友人は言った。「みったかた(嘘だ)」信じたくなかった。印度人は罪悪感を感じず嘘を言うことがよくあるが、人の死に関する嘘など、滅多に耳にすることはない。それでも私には、じおの死など悪い冗談にしか思えなかった。
 
 「みったかた(嘘だ)」
 事実を証明しようにも、印度人は墓をつくらない。息を引きとるとすぐに火葬場に運んでしまう。その日、その場に遭遇しなければ、死はなかったも同じなのだ。
 
 「嘘だ....」
 目がうるんでいるのが自分でもわかる。しかし涙は流れなかった。
 
 私は、まだ完全には信じていないのだ。印度人が嘘をついていることを、心の奥底で期待しているのだ。じおが成長して、印度文化をひっくり返す大人になる夢を、私はまだ捨てきれず、忘れないでいる。あの明るい笑顔が、いつまでも私の脳裏から離れない。

 じお.....
名前を覚えられず、ごめん.......。

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