らきとしゃもさは姉妹である。
ソマリア人の敬虔なモスリム(イスラム教徒)である。
戦禍を逃れ、近隣国タンザニアの、キリマンジャロのふもとにある小さな町で暮らしている。
家は地元民相手の食堂権安宿を経営している。
私はその宿にしばらく世話になっていたので、自然と毎晩食事の支度をしている妹の社もさとしゃべるようになった。
しゃもさの姉のらきは19才ながら、家の運営をしっかりやる、なかなかのやり手奥様だ。らきの旦那は、らきの外にもサウジアラビアに一人、ケニアのナイロビに一人妻がいて、それぞれ6ヶ月間ずつ移り住む、多忙な商人である。私がそこに住んでいた時期はちょうどらきが当番妻だったので、私も旦那の顔を拝見する事ができた。
ケニアでもタンザニアでも同じだが、難民として移住するソマリア人は国連から充分なほど手当てを支給される為、本来住んでいる市民より裕福な暮らしをしていることがよくある。
らきとしゃもさの家は商人としても腕が立ったので、金持ちとまでは言えないまでも、衣食住の心配はないように見えた。
妹のしゃもさには婚約者がいた。らきの旦那の弟だ。2組の兄弟姉妹で縁組みするのはソマリア人の風習だそうで(本当かどうかは知らないが)、しゃもさは自分の意思とは関係なく決められた未来の夫と、よくデートに行っていた。
らきとしゃもさもデート以外で外出する時は、必ず黒い衣装に身を包み、目を除いて全てを隠していた。それでも上手に飴玉を口に放り込むらきには、非常に安心したものだ。
私も黒づくめ衣裳に挑戦した事がある。きちんと着こなしをしたまではいいが眼鏡がはまらず、らきとしゃもさに散々からかわれ、近所中で笑われた。不思議なことに、一目見ただけで招待がバレてしまったのだ。
この姉妹は変わり身が早い。
黒衣裳で身を隠すのは家の外でだけ、家の中ではオシャレを楽しんでいる。
らきはどういう訳か髪(ソマリア人の髪は一般的にほかのアフリカ民族に比べ、縮れ毛が少ない)の一部を金色に染め、タンザニアの特産であるかはわ(珈琲)とハチミツを混ぜて作ったパックを時折顔に塗っていた。
香水を多用するのはモスリム女性の常識だが(これは男が自分の嫁サンをまちがえない様にする為と聞いた)、それ以上にらきとしゃもさの姉妹は〝見えない所のオシャレ〟に余念がない。私の直毛と日本人特有の平たい顔は姉妹にとって格好のおもちゃで、よくいじられたものだ(化粧嫌いの私は、あまり思い出したくない思い出である)。
比較的社交的な美人姉妹には来客も多い。
女友達が集まったとき、彼女達はベールをはぎとる。
――こんなん着てられっかぁ!
カーテンを閉め、ドアに鍵をかけたら怖いものはない。ソマリア歌謡をかけ、らきは先頭切って踊り出した。
「らどなーあっ、らどな!(ソマリア語で美人の意)」
どう聞いても演歌調のソマリアの曲に合わせ、らきは激しく体を動かす。照れていた女友達もしゃもさもいつの間にか楽しそうに踊っている。
「みわこ、くじゃ(スワヒリ語で、来い)!」
流石アフリカ人だ。腰の振り方はナイロビのディスコで見たのと同じだった。東洋人にはとても真似ができない。
いつまでもたじたじしているのも芸がないので、私も一緒に踊り出した。
トントン。
突然響いた、使用人のじゃまのノックで、すばやく女性達はおしとやかに戻る。ラジカセのスイッチを切り、サッと布を頭に被ってからドアを開ける。
じゃまだったら大して恐れることもないが、これがらきの旦那だったら大変だ。私はいつもハラハラしていたが、慣れているらきとしゃもさは、いつも堂々としていた。
しゃもさが夕飯をつくる。いつものメニュー、チャパティだ。印度人よりも手のかかる作り方をするしゃもさの傍に座って、私達はいろいろな話をした。
しゃもさは今までテレビでしか中国人(アフリカ人から見れば日本人も中国人も同じである)の顔を見たことがなったらしい。何かにつけ、すぐに「まちょ・んどご(小さな目)」を連発し、私にいろいろな質問をぶつけてきた。
「日本人はみんな目がちっちゃいの?」
「テレビに写っている中国人は、みんなみわこと同じ顔をしてるよ」
「もし私が日本に行ったら、一体どうやってみわこの顔を見つけたらいいの?(これは真顔で言われたので、眼鏡をかけているから大丈夫だと答えて安心させた)」
いつしか質問はアフリカ大陸にない仏教の事に及ぶ。
「豚肉を食べて平気なの?」
「どうして死んだあと、印度人みたいに死体を燃やしてしまうの?」
※注。仏教徒やヒンズー教徒は〝魂の〟生まれ変わりを信じる。イスラム教徒やキリスト教徒は最後の審判がくだる時、〝肉体ごと〟復活する。その大事な肉体を燃やしてしまうのだから、しゃもさ達にはとんでもない異端者だ。
「ブッダって実際に生きていた人間でしょ、そんな生身の人間の言った言葉を、どうして信じてしまうの?」
※注。イスラム教の〈コーラン〉は、預言者マホメットが、アラーの言葉を書き記したものなので、マホメット自身の言葉ではないとされている。
これらの質問に満足に答えられるだけの知識はその頃の私にはまだなく、好奇心旺盛なしゃもさを納得させることは至難の技だった。冗談をまじえて、「死んだあとはあの世で使うために、眼鏡も杖もみんな一緒に燃やすんだよ」と言ったことがあったが、その時しゃもさは目を丸くして、家中の人間に触れまわっていたのだった。
キリスト教徒が仏教徒の悪口を言っていたのを思い出す・・・仏教はよくない、そんなものは止めてしまいなさい・・・等々・・・。
だがイスラム教徒のしゃもさは、仏教について、ただ知りたいだけなのだ。私がしゃもさにイスラムについていろいろ質問した様に、しゃもさも私にいろいろな未知のことを訊きたかったのだ。
それらに満足に答えられなかった事を、とても申し訳なく思う。
その町を離れる時がきた。
最後の日、私は、いつもお世話になった町の人たちに挨拶をしてまわった。ムザかはわ(珈琲屋の母ちゃんの意)、バス会社の兄ちゃん姐ちゃん、飯屋の親子、アボガド売り、民芸品市場の面々に絵描き兄さん達・・・
最後に残ったのは、やはり宿の家族である。
私は言った。「にたくじゃ・てな。トゥッタオナナ!(また来るよ。また会おうね!)」
だがしゃもさは聞かない。
「むおんごー!(ウソだ!)」
今にも泣き出しそうなしゃもさを見るのは辛かった。
「しうぇんで(行かないで)」勝気ならきが続ける。
「宿代、私が払ってあげるから居なさい。」
旅をしていく上で一番辛いのが、すっかり馴染んだ町を離れるとき、親しい友との別れなのだ。
「なくじゃ・くうぇり(本当に来るから)!ばだい・みやか・もじゃ(一年後に!)」
何度も約束したが、事情が重なり、一年後に、そして今に至るまで、そこを訪れることができなかった。
しかし、約束はまだ生きている。
大分遅刻はしてしまうけれど、しゃもさに「むおんご!」と泣かれることだけは避けられると、信じている。
トゥッタオナナ・ムング・アギペンダ!(また会おう、神が望むなら!)
まはっどさにっど!(ソマリア語、ありがとう!)
ソマリア人の敬虔なモスリム(イスラム教徒)である。
戦禍を逃れ、近隣国タンザニアの、キリマンジャロのふもとにある小さな町で暮らしている。
家は地元民相手の食堂権安宿を経営している。
私はその宿にしばらく世話になっていたので、自然と毎晩食事の支度をしている妹の社もさとしゃべるようになった。
しゃもさの姉のらきは19才ながら、家の運営をしっかりやる、なかなかのやり手奥様だ。らきの旦那は、らきの外にもサウジアラビアに一人、ケニアのナイロビに一人妻がいて、それぞれ6ヶ月間ずつ移り住む、多忙な商人である。私がそこに住んでいた時期はちょうどらきが当番妻だったので、私も旦那の顔を拝見する事ができた。
ケニアでもタンザニアでも同じだが、難民として移住するソマリア人は国連から充分なほど手当てを支給される為、本来住んでいる市民より裕福な暮らしをしていることがよくある。
らきとしゃもさの家は商人としても腕が立ったので、金持ちとまでは言えないまでも、衣食住の心配はないように見えた。
妹のしゃもさには婚約者がいた。らきの旦那の弟だ。2組の兄弟姉妹で縁組みするのはソマリア人の風習だそうで(本当かどうかは知らないが)、しゃもさは自分の意思とは関係なく決められた未来の夫と、よくデートに行っていた。
らきとしゃもさもデート以外で外出する時は、必ず黒い衣装に身を包み、目を除いて全てを隠していた。それでも上手に飴玉を口に放り込むらきには、非常に安心したものだ。
私も黒づくめ衣裳に挑戦した事がある。きちんと着こなしをしたまではいいが眼鏡がはまらず、らきとしゃもさに散々からかわれ、近所中で笑われた。不思議なことに、一目見ただけで招待がバレてしまったのだ。
この姉妹は変わり身が早い。
黒衣裳で身を隠すのは家の外でだけ、家の中ではオシャレを楽しんでいる。
らきはどういう訳か髪(ソマリア人の髪は一般的にほかのアフリカ民族に比べ、縮れ毛が少ない)の一部を金色に染め、タンザニアの特産であるかはわ(珈琲)とハチミツを混ぜて作ったパックを時折顔に塗っていた。
香水を多用するのはモスリム女性の常識だが(これは男が自分の嫁サンをまちがえない様にする為と聞いた)、それ以上にらきとしゃもさの姉妹は〝見えない所のオシャレ〟に余念がない。私の直毛と日本人特有の平たい顔は姉妹にとって格好のおもちゃで、よくいじられたものだ(化粧嫌いの私は、あまり思い出したくない思い出である)。
比較的社交的な美人姉妹には来客も多い。
女友達が集まったとき、彼女達はベールをはぎとる。
――こんなん着てられっかぁ!
カーテンを閉め、ドアに鍵をかけたら怖いものはない。ソマリア歌謡をかけ、らきは先頭切って踊り出した。
「らどなーあっ、らどな!(ソマリア語で美人の意)」
どう聞いても演歌調のソマリアの曲に合わせ、らきは激しく体を動かす。照れていた女友達もしゃもさもいつの間にか楽しそうに踊っている。
「みわこ、くじゃ(スワヒリ語で、来い)!」
流石アフリカ人だ。腰の振り方はナイロビのディスコで見たのと同じだった。東洋人にはとても真似ができない。
いつまでもたじたじしているのも芸がないので、私も一緒に踊り出した。
トントン。
突然響いた、使用人のじゃまのノックで、すばやく女性達はおしとやかに戻る。ラジカセのスイッチを切り、サッと布を頭に被ってからドアを開ける。
じゃまだったら大して恐れることもないが、これがらきの旦那だったら大変だ。私はいつもハラハラしていたが、慣れているらきとしゃもさは、いつも堂々としていた。
しゃもさが夕飯をつくる。いつものメニュー、チャパティだ。印度人よりも手のかかる作り方をするしゃもさの傍に座って、私達はいろいろな話をした。
しゃもさは今までテレビでしか中国人(アフリカ人から見れば日本人も中国人も同じである)の顔を見たことがなったらしい。何かにつけ、すぐに「まちょ・んどご(小さな目)」を連発し、私にいろいろな質問をぶつけてきた。
「日本人はみんな目がちっちゃいの?」
「テレビに写っている中国人は、みんなみわこと同じ顔をしてるよ」
「もし私が日本に行ったら、一体どうやってみわこの顔を見つけたらいいの?(これは真顔で言われたので、眼鏡をかけているから大丈夫だと答えて安心させた)」
いつしか質問はアフリカ大陸にない仏教の事に及ぶ。
「豚肉を食べて平気なの?」
「どうして死んだあと、印度人みたいに死体を燃やしてしまうの?」
※注。仏教徒やヒンズー教徒は〝魂の〟生まれ変わりを信じる。イスラム教徒やキリスト教徒は最後の審判がくだる時、〝肉体ごと〟復活する。その大事な肉体を燃やしてしまうのだから、しゃもさ達にはとんでもない異端者だ。
「ブッダって実際に生きていた人間でしょ、そんな生身の人間の言った言葉を、どうして信じてしまうの?」
※注。イスラム教の〈コーラン〉は、預言者マホメットが、アラーの言葉を書き記したものなので、マホメット自身の言葉ではないとされている。
これらの質問に満足に答えられるだけの知識はその頃の私にはまだなく、好奇心旺盛なしゃもさを納得させることは至難の技だった。冗談をまじえて、「死んだあとはあの世で使うために、眼鏡も杖もみんな一緒に燃やすんだよ」と言ったことがあったが、その時しゃもさは目を丸くして、家中の人間に触れまわっていたのだった。
キリスト教徒が仏教徒の悪口を言っていたのを思い出す・・・仏教はよくない、そんなものは止めてしまいなさい・・・等々・・・。
だがイスラム教徒のしゃもさは、仏教について、ただ知りたいだけなのだ。私がしゃもさにイスラムについていろいろ質問した様に、しゃもさも私にいろいろな未知のことを訊きたかったのだ。
それらに満足に答えられなかった事を、とても申し訳なく思う。
その町を離れる時がきた。
最後の日、私は、いつもお世話になった町の人たちに挨拶をしてまわった。ムザかはわ(珈琲屋の母ちゃんの意)、バス会社の兄ちゃん姐ちゃん、飯屋の親子、アボガド売り、民芸品市場の面々に絵描き兄さん達・・・
最後に残ったのは、やはり宿の家族である。
私は言った。「にたくじゃ・てな。トゥッタオナナ!(また来るよ。また会おうね!)」
だがしゃもさは聞かない。
「むおんごー!(ウソだ!)」
今にも泣き出しそうなしゃもさを見るのは辛かった。
「しうぇんで(行かないで)」勝気ならきが続ける。
「宿代、私が払ってあげるから居なさい。」
旅をしていく上で一番辛いのが、すっかり馴染んだ町を離れるとき、親しい友との別れなのだ。
「なくじゃ・くうぇり(本当に来るから)!ばだい・みやか・もじゃ(一年後に!)」
何度も約束したが、事情が重なり、一年後に、そして今に至るまで、そこを訪れることができなかった。
しかし、約束はまだ生きている。
大分遅刻はしてしまうけれど、しゃもさに「むおんご!」と泣かれることだけは避けられると、信じている。
トゥッタオナナ・ムング・アギペンダ!(また会おう、神が望むなら!)
まはっどさにっど!(ソマリア語、ありがとう!)